Neetel Inside ニートノベル
表紙

週末のロストマン
第九話「ハイブリッド・レインボウ」

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「お前、真性の馬鹿野郎だな」
 開口一番の言葉がこれだ。沙原は吐き捨てるように言ってから、鳴海の頭をおもいっきり一発殴りつけ、傍の丸椅子にどっかりと座り込んだ。
 ベッドの上で悶絶する彼を尻目に、沙原は周囲を見回す。
 部屋にはベッドが四つ、それぞれに区切り用のカーテンが取り付けられ、自分達以外の三つは閉じられている状態だ。中から話し声が聞こえるあたり、他にも見舞客が来ているらしい。沙原は彼らの真似をするようにレールを滑らせてカーテンで仕切りを作った。
 鳴海の左腕からはチューブが一本取り付けられ、すぐ傍のスタンドには点滴がぶら下がっている。ぽつり、ぽつりと一定のリズムで落ちていく水滴を見ていると、ただの栄養液だと鳴海が目に涙を浮かべながら言った。
「ただの過労にしては随分なことになってるじゃないか」
「まあ、ここ最近ちょっと頑張り過ぎてさ」
 乾いた笑みでお茶を濁そうとする鳴海に見舞い品の林檎を投げつけ、沙原は溜息とともにもう持ってきた一つ林檎を齧る。
「お前はいつも極端なんだよ。バンドだっつって自信満々になったり、上手くいかなくてやる気無くしたり、かと思えば今回は頑張り過ぎて過労で入院と来た。全く呆れるよ」
 林檎をもう一口、二口。本当はお前が食べたかっただけなのではと言いたくなる気持ちを抑えて、鳴海も林檎を一口齧った。程よく酸味の効いた冷たい蜜が口いっぱいに広がる。ここ数日疲労感で何も喉を通らなかったが、果物くらいならどうにか食べられるまでに回復したようだった。これなら退院もそう遠くはないかもしれない。
「でも、お前が来てくれるとは思わなかったよ」
「まあ、これでもそこそこ一緒の時間は過ごしてたからな。感謝しろよ?」
「ああ、感謝してるよ」
 素直に礼を言う鳴海を見て、沙原は微笑んだ。
「その様子だと、とりあえず吹っ切れたんだな」
「吹っ切れた? 俺が?」沙原は頷く。
「ふらふらしてる時のお前、ひどい顔してからな。ようやく一歩踏み出せたって顔してるよ。どうだ、その道でお前は、なんとかやっていけそうなのか?」
 モッシュピット、という言葉を口にしようと思って、その言葉は喉で留まって霧散する。本当に言えないんだな、と改めて思いながら、鳴海は違う言葉でどう説明しようか少し悩んだ。
「……やっていけると思う。今度こそ」
 悩んだ末に、単純な答えだけ述べることを選択した。彼が求めている言葉は、覚悟を決めたかどうかに対する返事だけだと思ったからだ。
 鳴海の言葉を聞いて沙原は「なら良かった」と言い、席を立つ。
「もう行くのか?」
「生憎とお前に割いてる時間が無いものでね。これから練習だよ」
 カーテンを戻し、壁に立てかけられたギグバッグとボードケースを背負う。
「俺は、いつかお前はスゲー奴になると思ってたよ、鳴海」
「その言葉、そのままそっくりお前に返すよ、沙原」
 沙原と目が合って照れ臭そうに目を逸らし、そして彼は行ってしまった。
 残された齧りかけの林檎を見て、鳴海は呆れたように笑った。
 鳴海は左に目を向ける。丁度ベッドから上体を起こすと見える位置に窓があるのだ。鳴海は暇な時は大抵ここから外の景色を眺めて過ごしていた。
 窓の先には街の景色が広がっている。その中に、先日の公園もあった。住宅街の奥にぽつりと存在する、柵で区切られただけの小さな公園だ。
 あの場所でついこの間自分がブッキングに興じていたなんて、夢みたいだった。
 終盤のことを鳴海はほとんど憶えていない。律花に攻撃を譲ったところでぷっつりと意識が途絶えてしまったのだ。だから、鳴海が白星を上げたことを知ったのは目が覚めてから大分後のことだった。
 病院まで運んでくれたジョニーから、大体の話は聞かされた。
 律花が帽子を脱いだこと。
 彼女のギターから音が出たこと。
 そして、鳴海の能力にある欠陥のこと。
 全てを和音に変えて受け入れる。マイナスの感情を使うプレイヤーの中で唯一プラスに振り切った鳴海に用意されたユニークスキルは、しかし全てを打ち消しているわけではなかった。
 相手の力が強ければ強いほど、それを上回るように力を消費しなくてはいけない。鳴海の行っていたことは音を足すことで相手の音を完全調和させていることであり、一度だけでも相当なリターンがある筈だとジョニーは考察していた。おまけに顕現をしていない状態でのダメージだ。過労で数日に渡って眠り続けるには十分なダメージを受けていたに違いないと彼は言った。
 もちろん、当事者である鳴海自身そのことをしっかりと理解していた。理解した上で、あの場では完全調和をするべきだと思ったのだ。やろうと思えば音撃の軽減も可能ではあった。
 だがそれでは意味が無かったのだ。
 奏汰と律花の為には、あの音を綺麗にする必要があった。
 だから鳴海は、完全調和ハイリスクハイリターンを選択した。
 あれ以来、律花の姿も、奏汰の姿も見ていない。彼女は、あれから上手くやっただろうか。上手くやれているといいな、と思う。
 鳴海は窓から視線を戻すと、右手に無造作に放置されたポータブルプレイヤーを手にし、イヤホンを耳に付けると、再生ボタンを押した。すぐ傍にはグリーンの装丁の分厚いボックスタイプのケース。表紙にはリッケンバッカーを持ったライダースーツの女性。
 久しぶりに見たくなって、買い直したのだ。家に帰ればもちろんあの頃の六枚のDVDケースは見つかるだろう。
 でも、新しく買っておきたかった。
 やり直すのではなく、新しく始めたかったからなのかもしれない。
 久しぶりに聞いたけれど、やっぱりエンディングの曲のギターリフは、最高だと思った。

   ・

 午後五時。辺りはすっかり暗くなっている。蛍光灯の白い灯りに照らされながら、雪彦はとある一室の前で立ち止まる。
 面会謝絶のプレートは、外れていた。
 病室のドアを開けると、目の前にベッドが見えた。起き上がって、部屋の奥の窓から外を眺めているらしい氷芽野の後ろ姿を見て、雪彦は自分の心臓が高鳴るのを聞いた。
 しばらくその姿をじっと見つめたまま、動くことができなかった。
 引き戸の取手を強く握り締める手が汗ばむ。足が竦む。
 個室にはベッドが一つだけ、手前にはプリペイド式のテレビや荷物をしまう為の棚があって、そのすぐ傍には機材が揃えられていた。きっとつい最近まで使われていたものだろう。氷芽野の長い黒髪にはすっぽりとネットが被せられており、巻かれた包帯がいかに彼女が紙一重で死を免れたのかを物語っていた。
 ふと、彼女の頭が揺れた。その動作を見て、一瞬「帰ろう」と思い扉を閉めよう取手に力が込められた。

――その手を止めさせたのは、脳裏に浮かぶ鳴海の姿だった。

 彼だったら、どうしただろう。
 勝ちの薄い戦いの中で、それでも立ち向かってみせた彼だったなら……。
「……雪彦君?」
 その声に、雪彦はびくりと身を震わせた。
 ゆっくりと顔を上げると、氷芽野と目が合って、雪彦は思わず顔を伏せてしまう。
 彼女は何も言わず、雪彦をじっと見つめていた。怒っているのか、恨んでいるのか、悲しんでいるのか、彼女の表情からは読み取れない。ただ、とても穏やかな顔に思えた。
「中に入って、少し寒い」
「あ、ああ、うん……」
 言われるがままに雪彦は一歩足を踏み入れ、扉を閉めた。心臓が強く高鳴る。息が苦しい。手と足が震える。言おうと思って何度も反芻したはずの言葉は、全部真っ白に吹き飛んで、何一つ残っていない。
 雪彦は部屋に入って、改めて彼女の顔を見た。頬に大きな絆創膏、鼻の付け根と額には浅黒いアザがまだくっきりと残っている。ストライプの入ったブルーの寝間着の隙間から、首元や腕にも似たような手当がされてあるのが見えた。
「意外と、死ねないもんだね」
 ぽつり、と氷芽野の言った言葉を雪彦は黙って聞いていた。死ななくて良かった、と浮かんだ言葉は、しかし声になる前に霧散した。
「私ね、死んだら楽になるかなって思ったの。でも逆だった。痛いし、家族には泣かれるし、むしろいじめられていた頃よりも罪悪感がすごかった。悪いのは全部私なのに、皆謝ってくるの。ごめんね、気付かなくてごめんね……って」
 氷芽野は語る。ただ、その表情に色は変わらず感じられなかった。
 沈黙が続いた。何も音が聞こえない。窓の外から差し込む月光に照らされた彼女の肌は、とても白くて、儚く見えた。
「私ね、やっぱり雪彦君に避けられたのが一番辛かった」
 拳がぎゅっと握られ、爪が肉に食い込む。
「多分こればっかりは、この先も思い出しちゃうよ。だって、君だけはってやっぱり思っていたから。勿論あの状況で私の味方をしたらどうなったか分からないし、それで傷つく君の姿も見たくない。けどね、心のどこかで少しだけ、想像してたんだ。雪彦君がヒーローみたいに助けてくれる、そんな光景を」
 ほんと、ばかだよね。
 彼女のその声は、涙で濡れていた。坦々と語り続けていた氷芽野の声に熱を感じた時、雪彦は、反射的に動いていた。
 抱き締めた彼女の身体は、とても小さかった。
 拒絶は、無かった。ただ、許されたという実感も無かった。彼女はされるがまま、雪彦のしたいようにされている状態で、彼もそれがちゃんと分かっていた。
「今ここで言葉にしたって、多分信じてもらえないと思う。でも、言わせて欲しい」
 ここに辿り着くまでに考えてきた言葉はもう消えた。雪彦は思いつく限りの言葉に想いを載せて、ようやく口を開いた。
「ずっと俺を恨んでくれていいから、もう死ぬなんて選択はしないで欲しいんだ。俺が今度こそ守るから。君の為に駆け付けてみせるから。だから、今度こそ俺に君を助けさせて欲しいんだ」
 自分は鳴海のように音で察することなんてできない。彼のように唯一の力を持っているわけでもない。でも、あの時、自分の目の前に顕現されたギターを持って、彼が歪んだ音をクリアに変えていく姿を見て、せめて彼に頼る必要のない音を出してみせようと思った。
「雪彦君は、勝手だよ」
 くすり、と氷芽野が笑うのを雪彦は聞いた。
「私達、弱いね」
 彼女は一生自分を許さないだろう。雪彦はそれを理解していた。これはそう簡単に片付けられる問題では決してないのだから。
「強くなるよ」
「言葉で言ったってどうしようもないよ」
 僕は頷く。
 だから、音で示すよ。言葉にしなくても、聞いただけで伝わるように。
「私ね、転校を勧められてるの」
「……行くの?」
 腕の中で彼女は首を振った。
「守ってくれるんでしょう? 強くなってくれるんでしょう?」
 その言葉に、雪彦は頷いた。
 頭の中で、ギターの音が響く。シングルコイルの歯切れの良い音だった。
 
 
 病院を出て、雪彦は携帯を取り出すと、電話を掛ける。発信先にはこの時間に返事をすると伝えてあるから、多分今なら通じるだろう。
 スリーコールの後、声が聞こえた。
『もしもし?』
「この間のレーベルの話、受けます」
 顕現が出来なくてもモッシュピットに飛び込んだ彼のように。
 戦うことを、雪彦は選んだ。
 
    ・
 
 鳴海は今、とても気が気でなかった。
「何よ」
「別に、なんでもないよ」
「ならいいけど……」
 怪訝な顔を浮かべた彼女は、やがて顔を伏せると手にしたナイフで林檎を剥き始める。
 白部律花が横で林檎を剥いている。まさかそんな光景に出会えるとは思っていなかった。彼女は橙色のジャケットに朱色のマフラー。紅色のスカート、足先は黒のタイツとファー付きのブーツを身に付けている。随分と女性らしい服装で、今彼女がどちらなのか、少し鳴海は判断しかねていた。
「……どっちだろうって顔してる」
「え、バレた?」
「嘘よ、でもカマかけてみて正解だった。やっぱりそこについて考えてたのね」
 呆れたように溜息をつくと、彼女は彼の横のテーブルに置いた紙皿にうさぎの形に向いた林檎を並べていく。沙原はやってくれなかったやつだ、と鳴海はぼんやりと思った。
「もうやめたの」
「やめたって……まさかプレイヤーを?」
「やめるわけないでしょう、分けるのをやめたの」
「分けるのって、ムーンマーガレットと白部律花をってこと?」
「くどい」突き付けられたナイフに鳴海は両手を上げる。
「どのみち限界だったしね、一人二役なんてさ。それにもうすぐ卒業もするし、今更優等生の皮被る必要も無いかなって、そう思ってさ。周囲に気味悪がられるの覚悟でスパッと切り替えた」
「そこでスパッと切り替えられる辺りが、律花らしいよ」
「そう? 本当はそれで高校生活台無しにしちゃっても良いとまで思っていたんだけどね……」
 がっくりと肩を落とす律花に鳴海は怪訝な顔をする。
「ねえ、男子って皆ああなの?」
「ああって?」
「カミングアウトしてから、やけに罵倒されたがる男子が増えた」
 堪え切れず鳴海は吹き出した。
「え、何そんなレベルでカミングアウトしたの?」
「違うのよ、別にそういうつもりじゃなかったの。でも、これまで苛立ちつつも抑えてた部分がなんか我慢できなくて、仕事の遅い男子にカッとなっちゃって……つい」
「くたばれって?」
「くたばれって……」
 やってしまったとしょげる律花を見て鳴海は腹を抱えて笑った。笑いすぎて呼吸ができない。涙が出てくる。
「そんなに笑わないでよ、ばか」
 恥ずかしそうに顔を逸らす律花にごめんごめん、と鳴海は呼吸を整え涙を拭いながら言って、それからいいんじゃない、と続けた。律花は顔を上げる。
「俺は少なくとも、そっちのほうが好き」
「人の気も知らないで」
「学校生活は問題ないの?」
「別に。裏でとやかく言われてるだろうけど、今更そんなこと気にすることもないし。それに、ちょっとだけ、一緒に遊べる子が出来たから……」
「それは良かった」
 友達、と言えないのは照れ臭いからだろう。彼女は今知らなかった感覚にきっとびっくりしているだけで、そのうち慣れてもっと開放的になるだろう。
「ねえ、古都原君は」
「鳴海でいいよ」
「……鳴海は、これからロストマンとして、何をするの?」
 何をするのか、か。鳴海は剥いてもらった林檎を口にしながら、彼女のことを思い出す。たった一人、孤独な空間に鎮座する王様、晴原遥の姿を。
「俺さ、約束事が一つ出来たんだ」
「約束?」
「いつか挑むって約束をしたプレイヤーがいてさ、その為に、もっと強くなろうと思う。それにもう一度あの場所に行く方法も知らなくちゃいけない」
「あの場所って?」
「プライベート・キングダム」
 また、プライベート・キングダムか。律花は弦子のことを思い出す。彼女もまた、モッシュピットの奥にある空間に何かを求めていた。
「ねえ、鳴海はさ、これからもどんどん強くなるつもりなのよね?」
 鳴海は不思議そうに首を傾げる。
「なら、ブッキングもオーディエンスともやれる環境に移動するの?」
「実は、その辺りもこの間ジョニーと話してきたよ」
「どんな話?」
 林檎の最後の一切れを飲み込んて、鳴海は言った。
「レーベルを立てようと思うんだ」

       

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