Neetel Inside ニートノベル
表紙

見開き   最大化      



――金曜日、午後七時。
 街の一角にある廃ビルの中で、二人は対峙していた。
 一方は新進気鋭の新人、白のカットソーに青の薄めのカーディガンを羽織り、ジーパンとスニーカーを身につけた青年で、顕現した楽器はサンバーストのジャズベース。
 もう一方は缶バッジのついたキャップを被り、白いシャツに黒の七分袖、デニム生地のホットパンツに黒タイツ、ワインレッドのハイカットスニーカー。手には靴の色に似たチェリーレッドのギブソンSG。
 取り壊されることすら忘れられた廃ビルの中に観衆はこぞって集まり、向かい合う二人の動向を見つめている。埃と砂利と、割れた蛍光灯の破片で塗れたその一室は、今改めて部屋としての意味を手にしていた。
 本来とは用途の全く違う理由で、だが。
 一つ、少女の姿に変化があった。これまで目深に被っていたキャップの鍔が、横に向けられているのだ。隠し続けてられてきた彼女の顔を見て、相対する青年、ロストマンは笑った。
「恥ずかしがり屋だと思ってた」
「冗談はよして」少女、ムーンマーガレットは眉根を寄せて不機嫌そうに彼を睨む。
「もう隠す必要がなくなっただけよ、それに今更隠したってなんにもならないじゃない」
「……もういいの?」
 尋ねられて、マーガレットは笑みを浮かべる。
「好き放題やってやるって決めたの。だから、偽るのはやめよ」
 彼女はギターを構える。ロストマンはベースを手に、直立不動のまま彼女をじっと見つめていた。
「……【悪いわね獲物全部貰っちゃって。何も出来なくて物足りないでしょう? だよね? そこで固まってるだけじゃつまんないに決まってるよね?】」
 ロストマンは一瞬きょとんとした後、彼女の言動に思わず吹き出してしまう。してやったりと笑うマーガレットに対し、彼もまたベースを身構え、そして言った。
「満足させてくれるんだろう?」
 マーガレットは不敵な笑みのままギターを順手に持ち変え、ちらりと彼を見てから、六弦をおもいっきり掻き鳴らした。
 オーバードライブの歪んだギターサウンドが鳴り響く。
 それが合図だった。
 音撃を飛ばすマーガレットに対し、ロストマンは飛び交う音撃を潜り抜けて彼女目掛けて滑りこむように距離を縮めていく。避け切れないものはベースで弾き、打ち消し、マーガレットの懐に潜り込むと、上体をひねり、横薙ぎの一閃を彼女の脇腹目掛けて振る。
 ガツ、と鈍い音がして、ロストマンは目を見開いた。綺麗に入ると思った一撃を彼女はギターで防いだのだ。そのまま彼女は右足を軸に彼の頭部におもいきり左足を捩じ込んだ。
 綺麗に入った一撃に吹き飛ぶロストマンを彼女は逃さない。再びギターネックを握り締めると跳躍、転がる彼に追い付き、ギターを振りかぶる。容赦の無い一撃。彼女の得意分野は打撃。音撃は攻撃の幅を広げるエッセンスに過ぎない。
 ロストマンは咄嗟にベースを両手で掲げ、ギロチンのように振り下ろされる赤い閃光をどうにか受け止める。その強烈な衝撃に、手がビリビリと痺れるのを感じた。
 ぶつかり合った二つの楽器の隙間から、マーガレットが嬉しそうに目を輝かせているのをロストマンは見た。その後ろには、窓越しに差し込む月光が見える。相変わらず彼女は月に愛されているらしい。
 さすがはムーンマーガレット、と彼もまた口許に笑みを浮かべた。
「【なんでアンタの武器、壊れてないの?】」
 マーガレットの言葉に、ロストマンは溜息をつくと、呆れ顔で言った。
「当たり前だろ、この楽器は殴るためにできてるんだから」
 あの日からずっと追いかけた彼女の姿が、そこにある。
 迷いながら辿り着いた週末のこの光景を、ロストマンは噛み締め、味わっていた。

   ・

 最後に病室を訪れた人物の姿に、鳴海は思わず言葉を失った。
 スーツに身を固め、花束を手にやってきたその男性は、鳴海に向かって一礼すると、白部惣治です、と表情を崩さず言った。白部の名前に動揺しながらも鳴海は彼に礼を返す。惣治は無言のまま椅子に座り、彼に花束を渡した。小さなバスケットに束ねられたカラフルなものだった。
「はじめまして、古都原君と言ったね、姓を聞いて分かったと思うが、律花の父です」
「いえ、あの、どうも……はじめまして」
「君には随分と娘がお世話になったと聞いて、一度挨拶にと思っていたんだ。少し時間が出来たので寄ってみたのだが、身体の方は大丈夫かい?」
「数日中には退院する予定です。ちょっとした過労だったので、特に問題はありません」
 そうか、と彼は腕組みをするとじっと鳴海を観察するような鋭い目で上から下までじっと眺め始める。その間どうしていればいいか分からず、鳴海は緊張の面持ちで惣治の姿を見ていた。目元が律花に少し似ているかもしれない。あとは姿勢の良さも。多分顔は母似なのだろう、と彼は思った。どちらかというと奏汰のほうが父親に似ている気がする。
「……以前の出来事と合わせて、随分と娘に対して世話を焼いてくれたそうだね。先日の君の楽器の一件は、特に申し訳なかった。同じものを探させたのだが、問題はなかっただろうか?」
「ああ、大丈夫です。問題ありません。ほぼ同じものをありがとうございます」
 その用意してくれたものが先日、あなたの兄によって真っ二つの粉々になりました、とは流石に冗談でも言えなかった。
「聞けば奏汰とも少し面識があると聞いたよ。今回の娘の家での件でもかなり相談に乗ってくれていた、と」
「相談、ですか。確かに……」
「無事娘も帰ってきたよ、改めて色々と今後について話もした。私の知らないうちに、あの子もあの子なりに色々なことを考えるようになっていたことを知ったよ。奏汰も含めて」
「律……律花さんとは仲直りできましたか?」
「仲直り、という言い方が正しいかは分からないな。結局私とあの子の考えは一致しなかったからね。奏汰とも」
「そうですか……」
 立ち上がり、惣治は窓際に立って外を眺める。日暮れの夕焼け空が、街に影を落とす。帰路につく人々の中に、家族連れの姿が見えた。買い物袋を手に、父が娘を肩車し、息子と母が手を繋いで会話に花を咲かせているようだった。
「古都原君、私は、二人を大事にしてきたつもりだ。それは今も変わらない」
 その光景を眺める惣治の目は、温かさがあるように鳴海は感じた。
「こう見えてなんだが、私は若い頃は随分ヤンチャしてね。今の職に就くのにも大分苦労をしたよ。別の道を選ぶことも出来なかった。とにかく自分が潜り込めるところを必死で探した。地力というものは本当に大切なのだと思い知った時期だったんだ」
 惣治の言葉に、鳴海は黙って彼を見つめていた。
 彼は続ける。
「妻と出会って、子供が生まれた時、私はこの子達には選択できる余裕を持たせたいと思った。私のようになってほしくはなかった。ただ、どこかで少しづつその想いは屈折して、以前の自分の姿を否定することを第一にしていたように思う」
「以前の、ですか」
「あの頃の自分のような生活を繰り返してはならない。口調も、成績も、完璧であるべきだ、とね。その結果、必死に食らいついていた奏汰は心が折れ、彼の代わりを務めようと思った律花もまた、疲れきってしまった」
 鳴海は、あの日の二人を思い出す。妹をモッシュピットから無理やりでも救い出そうとした奏汰と、家族の為に完璧を求めた律花。そして、子供たちの為に厳しくあろうとした父の姿を。
「奥さんは、何も言わなかったんですか?」
「いや、妻は妻なりに私達の関係を思って動いていたようだ。誰の側にも付いてはいけない、とね」
「誰の側にも……?」
「私達の擦れた関係を見ながら、三人にそれぞれ違う言葉をかけて、接していたそうだ。それが正解かどうかは分からないが、彼女も、家族の関係を護りたかったのだろう」
 多分、四人とも目指した先は同じだったのだろう。ただ、そこに至る道筋が違っていて、上手く絡み合うことのないものだっただけで。
 律花の音が見せてくれた、四人でテーブルを囲み、談笑する光景。
 あれをまっすぐに伝えることが出来たなら、こじれることも無かったのかもしれない、と鳴海は彼の話を聞きながら思っていた。
「話をしてみて、どうでしたか?」
「全く合わなかったよ、むしろ最後は喧嘩のようなものだった」
 肩を竦める惣治の姿に、随分手を焼いたんだろう、と鳴海は苦笑で返す。
「あそこまで芯の強い子に育っているとは思わなかった」
「僕は強い方の彼女しか見たことがないから、そちらが普通に感じるんですけどね」
 鳴海の言葉に、惣治は黙って窓の外を見ている。鳴海は少し居辛さを感じる。
「……私はこれからも、変わるつもりはない」
 呟くように言ったその言葉に、鳴海は顔を上げる。
「この先も、私なりにあの子達を見ていくつもりだ。以前よりもぶつかることが多くなるかもしれないが、それならそれでいい。私を説き伏せられるような道を選ぶなら、私は何も言わない」
「お父さん……」
「古都原君は、この先どうするつもりなんだ?」
「僕ですか?」惣治は頷く。「将来の展望はあるかい?」
「僕は、目下探している最中です。一度、決めた道から背を背けてしまいましたから……。でも、律花さんと出会って、改めて一歩踏み出そうと思ったんです。どれだけ迷ってもいいから、手探りで進んでみようと思っています」
 鳴海はそう言って惣治を見ると、苦笑しながら頬を掻く。
「実のところ、救われたのは僕の方なんですよ」
「……そうか、見つかることを祈っているよ」
「はい」鳴海は頷く。
「今後とも、律花のこと、よろしく頼むよ」
 そう言って、惣治は鳴海の返事も聞かずに病室を出ていった。鳴海はベッドからその背中を見送ったが、彼の大きな背中を見ながら、ふとそういえば家に帰ったのはいつだろうと思った。年末もまともに顔を出していなかった気がする。
 久しぶりに、父と母の顔を見たいと思った。

   ・

 月日は流れて、春。
 冷たい冬の季節を乗り越えて、心地良い暖かな風が桜の木を揺らす。花びらの舞い散る並木道の途中で、鳴海はベンチに座って新入生たちの姿を、煙草を燻らせながらぼんやりと眺めていた。制服の時期を終え、皆思い思いの服装に身を包む。若さで彩られた彼らの歩みは、これからの新生活への期待で満ち満ちているように見えた。
「よう、留年バカ」
 すっかり擦れた顔をして煙草を吸う鳴海の横に沙原はどっかりと座り込むと、彼の咥えていた煙草を奪い取ってちびた煙草を吸い始める。愉快そうに鳴海を見つめる彼を、鳴海は目を細めてじっと見つめる。
 沙原は彼のそんな視線を見て笑うと、深く吸った煙を吐き出す。立ち上る白煙を嫌がるようにオリエンテーションへ向かう新入生達はベンチから少し離れてしまう。
「そう死んだ顔してんなよ、新学期だろ? 就活も一年繰り上げになったんだ。学生生活を楽しめよ、古都原後輩」
 モチベーションの低下から繰り返した自主休講と、昨年末の過労による入院が引き金となって、鳴海は今年見事に留年をした。あと一つ単位を取ればギリギリで上がれるという状態で、そのあと一つを見事に落としたのだ。
 沙原は死ぬほど笑った。
 律花は呆れて額に手をあてた。
 雪彦はバカじゃねえの、と吐き捨てた。
 優しくしてくれたのは、ジョニーと池田さんくらいのものだった。
「そういうお前はどうなんだよ、沙原センパイ」
「俺か? 俺はこの先も変わらずバイト生活だよ。やっとノルマを相殺できるようになったしな」
「黒字、出たのか?」
「プラマイゼロだよ。まあ、お陰で企画に呼ばれるようにもなったし、音源も作れることになった。まだスタートラインですら無いけど、進歩はしてる」
「そいつは良かった」鳴海はもう一本煙草を取り出して火を付ける。
 もしかすると、彼の活動の中に自分がいた未来もあったのだろうか、とふと想像し、ないな、と自分の考えを一蹴した。
 どんな選択をしたとして、俺には飛び込めなかった世界だ。ここが沙原と俺の違いだ。鳴海は煙を吐いた。
「なあ、鳴海。お前、いい顔するようになったよな」
「この死んだ顔が?」
「そう言うなって、去年なんてゾンビみたいだったからな。こっちのほうが幾分マシさ」
「ゾンビよりはマシか」そう言って鳴海は呆れたように笑った。
「断然マシだな」沙原も笑う。
 二人は煙草を吸いながら、しばらく黙って新入生達の姿を見ていた。各々の手の中にある嵩張ったチラシを見て、今年も紙の無駄遣いをしているのか、と思ったが、大学生活なんてそういうものだろう、と鳴海は思う。
 この中にも、沙原のように音楽を志す奴や、何か他の目的を持ってやってきた生徒がいるのだろう。挫折し、諦める奴も勿論いるだろう。鳴海は一度諦めた側の人間なのだから。
「なあ、沙原、頑張れよ」
「どうした、突然?」
「俺も頑張るからさ」
 鳴海の言葉にしばらく訝しげな表情を浮かべていた沙原だったが、やがて肩を竦めると、言われなくても、と答えた。
「お前もな、鳴海」
「ああ、少し時間はかかりそうだけど、頑張る」
「お前は迷子ヤローロストマンだからな」沙原は煙草を灰皿に擦り付ける。
「そう、俺は迷子ヤローロストマンだから」鳴海も煙草を灰皿に擦り付けて、火を消した。
「じゃあ行くわ、元気でな」
「また暇があったら飲もう」
「ばーか、留年生と飲むほど暇なんかねーよ」
 沙原はからかうように言って、手を振りながら、新入生の群れに混ざるようにして消えていった。彼の背中を見送って、鳴海は三本目の煙草を取り出して、しばらく火を点けようかどうか迷った。
「鳴海」
 声がして、鳴海は煙草をポケットにしまうと、声が聞こえたほうに視線を向けた。
 一人の少女が、むすっとしてそこに立っていた。
 パープルの長袖ロングソーに、白生地に黒い水玉模様の入ったスカート、下は黒のニーハイソックスとブーツを履いていた。その少し大人びた服装の彼女の姿に、鳴海は思わず見惚れてしまう。
「……何よ」
「いや、普段制服かいつものしか見てなかったから」
「私だって普段はちゃんとした服着てるわよ。でもそんな、じっと見るほどのこと? 変だったりする?」
 服装を自分で確認し始める彼女に、鳴海は言おうか言うまいか迷い、やがて腹をくくる。
「いや、その……似合ってるな、と思ってさ」
 鳴海の言葉を聞いて、少女は目を見開き、そして頬を赤らめると、ばかじゃないの、と顔を伏せながら言った。
「入学おめでとう、律花」
「……よろしく、センパイ」
 律花は手を組み、恥ずかしがりながらも、小声でそう鳴海に言ったのだった。

   ・

 金曜、午後七時。
 モッシュピットは突如として現れ、波長の合う人物を呑み込む。
 その日も、鬱屈の溜まった一人の男性が呑み込まれ、現実離れしたその空間に戸惑っていた。
 景色の中から滲むように現れる黒い物体。それは人の形を成して、迷い込んだ人間を無作為に襲っていく。ギターフィードバックが静寂に押し入るようにして聞こえ始める。

――この空間は普通じゃない。

 男は取り落とした鞄も放置して駆け出す。アレに触れられたらヤバい。そう本能が訴えかけてくるのだ。
 だが黒い人型は群れを成し、男の逃げ場を次々を塞いで追い詰めていく。何もない空間から突如として現れ、増え、男を捕らえようと襲い掛かってくる。
 やがて男は逃げ場を失い、迫り来る黒い人型に怯え、目を固くつぶる。

――もう、終わりだ。


「なにこれ、すっごい大量じゃん」
 女の高く伸びるような声がして、男は目を開いた。
 目の前には、帽子を被った少女が一人、男を背に立っていた。手にはチェリーレッドのギブソンSGを握り、目の前の黒い影を見て不敵に笑みを浮かべている。
「雪彦、周辺は?」
 もう一人がすぐ傍の電柱に降りる。ストラトタイプのギターを手にした若い少年だ。
「他は駆除した。今池田さんが見てまわってるけど、多分あとはこいつらだけだと思う」
「了解、りつ……じゃなくてムーンマーガレット、いける?」
「もう律花でも良いって言ってるのに」
「いや、ほらそこは折角名前があるんだからさ」
「まあいいわ、それよりオーディエンスよ。全部貰っちゃっていいのよね?」
「ああ、俺は人のほうに行く」
 そう言って男の目の前に一人の男性が降り立つ。
「大丈夫ですか?」
 ベースを手にした青年は、にっこりと笑って手を差し伸べる。
「あの、君たちは……?」
「俺達は、ここで人助けをやっている者です。もう大丈夫、安心してください」
 青年の言葉と共に、劈くようなギターサウンドがして、男は驚いて先程の少女の方を見た。SGギターを楽しげに引き倒す彼女から溢れ出す音は、強く歪んでいるが、しかし抜けの良い綺麗な音だった。
「安心しなよ、すぐにアンタらのこと、満足させてあげるからさァ!」
 閃光、爆散、彼女を中心とした音の壁が広がっていく。黒い人型――オーディエンスと呼ばれたそれが彼女の音によって跡形も無く消し飛んでいった。
 後に残ったのは、静寂と、三人の楽器を手にした者達だけだった。
「君たちは……一体?」
「ここはモッシュピット。ネガティブな力が生み出した空間です。そして、俺達はプレイヤー。この空間で唯一あの黒い人型を倒せる人間です」
 オーディエンス?
 プレイヤー?
 訳が分からなかった。
 だが、彼らのお陰で助かったことは確かだった。
「君、名前は……?」
「俺は、ことはーー」
「そっちじゃないでしょ、鳴海」
 からかうように笑う少女に遮られ、鳴海と呼ばれた青年は頭を掻きながら言いたくないなあと声を漏らすが、やがて顔を上げると、男に向かって改めて手を差し伸べる。
「俺はこの【ハイブリッド・レインボウ】というグループで活動しているプレイヤーで、名前は……」
 彼はそこで区切ると、照れ臭そうに笑いながら一呼吸入れて、名前を口にした。

――週末のロストマン、と。



第一部   了

       

表紙
Tweet

Neetsha