Neetel Inside ニートノベル
表紙

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 部屋の隅で新しいベースの感触を確かめていた。張りたての弦の指に引っかかる感触が心地よくて、アンプを通して響く低音が、腹の底に響いて安心する。でもそれだけだった。
 何年も一緒にやってきた相棒とは違う。メーカーが同じでも、機材として同じでも、時間が経つことでその音は変化していく。この楽器はまだ、人を知らない楽器だった。
 やがて弾くことに飽きてベースをベッドに転がすと、テーブルに突っ伏する。傍のパソコンにはモッシュピットについて自分なりに理解しようとした形跡が未だに残っている。新しい世界に一歩踏み込むことにドキドキしていた昨日までの自分はもう居ない。拒否され、日常に戻されてしまった後に残ったのは、空虚さだけだった。
 コツさえ掴めば、宇宙にまで行けるんじゃなかったのかよ。
 振り切れば場外まで飛んでくんじゃ無かったのかよ。
 そんなもの、やっぱりあるわけ無かったのだ。
 不貞腐れながら、鳴海は時計を眺める。金曜日の午後四時半。もうすぐアレが始まる。
 白部律花の顔を思い出す。気持ち悪いくらいの静寂の中でノイズと共に飛び跳ねていた彼女の姿を。幕のような音の壁を削り、笑顔で砕きながら突き進んでいく横顔を。勝利を手にして掲げた二本の指を。
 あの光景を見ることが出来ない。それで、この先は何が待っているというのか。また逆戻りか? ブルーのリッケンで殴られることも、黄色いヴェスパで駆け抜けることも無く……。
 自分の眉を撫でる。
 夢を夢と認識して、現実に向かわなくてはならないのだろうか。バンドで大成することも、あの世界で必要とされることもなく、大学に真面目に通って、就職をして、仕事先で良い相手を見つけて結婚して、子供を育てて……。
 結局、自分にはそれしか無いのかもしれない。
 時計を見る。十五分前。そろそろ律花はブッキングの準備をしているだろうか。また今日も元気一杯にSGを振り回すのだろう。
 なら俺はどうする。鳴海は自分の掌を眺めながら思う。そして、あの時聞いた四弦の音を、感触を思い出して、壁際の折れ曲がったギグバッグを見つめる。

「――――」

 気がついたら走り出していた。何も持たず、何も思考せず、ただただ沈みかけの日に向かって真っ直ぐに。五時まで五分前を切っている。
 どこでもいいから入れてくれ。鳴海は両拳を強く握り締めて地面を強く蹴る。

Q【諦めきれる?】

A【出来るわけねぇだろ!】

 あんなめちゃくちゃ強引な方法で繋がりを絶たれて、納得できるわけがない。
 腕時計の時刻が一分前を示す。肺が痛い。息が詰まる。足が痛い。
 それでも走るのを辞めない。街の何処にそれが発生するかなんて分からない、だが、もし近くでモッシュピットが発生するのなら、そこに俺を入れろと強く願う。オーディエンスだらけでも構わない。めちゃくちゃ強い奴とブッキングになっても構わない。

――俺に力をくれ。

――戦う為の力をくれ。

 鳴海の中で渦巻いていた諦めを塗り潰すようにして感情が噴き出す。
 折角見つけた世界から離れられるワケがない。小さい頃に願った世界とは少し違うけれど、確かに望んだ世界だ。リッケンバッカーに殴ってもらえる世界に自分はやってきたのだ。

――背中を追えないなら、相手役だっていい。

――殴ってもらえないなら、殴る方でもいい。

――ヴェスパが無いなら、俺自身で走ってやる。

 あの日見た帽子の下の顔を忘れて、日常に戻ることなんて出来るわけがないんだ。あの顔を何度も見たいから、純粋な喜びに満ちた瞳を、もう一度――

「だから……連れてけよっ!」

 そして鳴海は思い切り跳んだ。

 住居傍の丘の下にある公園目掛けて。二十段近くある階段の頂点から、思い切り鳴海は足を踏み出した。
 奥の公園に立つ時計が、かたん、と音を立てた。長針が十二を示す。短針が五を指し示す。

 瞬間、鳴海の脳裏でベースの音がした。
 腹の底に響くような、低音だった。

   ・

 キャップ帽を深く被り、デニムのホットパンツから伸びる黒い足を大きく開きながら、ムーンマーガレットこと律花は標的をじっと見つめていた。手にした赤いSGは街灯に照らされて血のように光る。月が出るまでは、まだ少し時間があるようだった。
「今日は月から登場しないんだね」
「いつもはそうするんだけどね、今日は気分じゃないんだ。すぐにでもこの空間に飛び込みたくて仕方が無かったから」
 目の前のサングラスの女性は煙草を咥えたままにやりと笑みを浮かべた。
 肩から提げられた真っ白いショルダーキーボードを見ながら、律花は初めて見る楽器に強い警戒心を覚える。今まで幾つもの楽器とやってきたが、鍵盤の類は自分と酷く相性が悪いのを理解しているからだ。
 律花は音を開放する事が極端に苦手だ。
 どう鳴らしても不協和音しか出ないから音の壁も張れないし、音を射出することも出来ない。その反動か物理での攻撃が極端に強く、本来なら打ち破ることが難儀な音の壁を物理的に破壊する事を可能にしている。
「最近活躍しているムーンマーガレットさんだけど、随分と音を使った攻撃は苦手らしいから、いけるかもなーって思ったのよねぇ」
 吸い殻を地面に落とし、彼女はハイヒールの爪先で捻り潰す。
「動きにくいモン履いてるのね」
「アタシの獲物が獲物だからねぇ……。動く必要ないのよ」
 鍵盤に手を置く。三つほど抑えると、鋭いシンセサウンドが放たれる。
 その音と同時に、律花は駆けた。
 一直線に彼女の目の前まで距離を詰めるとSGを振り落とす。先手必勝、一撃必殺。苦手な相手だからこそ手の内を見せられる前に自分のペースに引き込んでしまわないと。
 だが振り上げられたギターを見て、彼女は不敵に微笑んだ。
「アタシさぁ、早い音楽はあんま好きじゃないのよねぇ」
 右手を鍵盤の上に滑らせると、いくつかの鍵盤を思い切り押してみせる。
 気が付くと、律花は空中にいた。弾き飛ばされたと理解するまでに若干掛かった。思考が回復すると空中ですぐに反転、バランスを整えて地面に着地し、すぐさま彼女の方に目を向ける。

――眼前に音の弾丸。

 既の所でそれをギターで弾き飛ばすと、後方に飛び跳ね、距離を取って身を屈めて遠くに立ち臨む標的を見据える。
 音符の形をした弾丸が彼女の周りをぐるりと回っている。一、ニ、三……恐らく二桁くらいある。恐らく彼女は遠距離型。ショルキーで作った和音を使って戦うタイプ。
 モッシュピットの中で和音は武器になる。綺麗な音色であればあるほどそれは鋭く力強い弾丸と化し、標的に与えるダメージも大きくなる。
 音の壁も同様だ。より強い精神状態と響きの良い和音を使えば、より頑強なバリアとなる。
 ただ律花の攻撃はそれすらも破壊することが出来る。和音が使えない故に攻撃特化した彼女の攻撃は、一撃必殺に値する。
 だからこそ初手は決めておきたかったのだ。
「音を弾き返せるのは分かるけど、数に対応できるのかしら?」
 彼女は笑う。煙草をもう一本出して吸い始めると、再び和音を鳴らした。
 衛星のように周囲を回っていた音符が動きを止めると、律花目掛けて真っ直ぐに跳んでいく。音の軌跡を残しながら。
 律花は飛び交う音符目掛けて飛び込んだ。
 眼前に迫る音符を弾き飛ばすと、右足を地面に接触させて自身のスピードを若干ずらし、次にやって来る音符を当たらないギリギリの距離で躱した。そして上体を仰向けに倒して地面を滑っていく。赤いハイカットスニーカーの底が悲鳴を上げるが、構わない。降り注ぐ弾丸の下を切り込むようにして進むと上体を捻り、右手に持ったギターで地面を強く殴りつける。
 弾丸を全て避けられて唖然とする女性の目の前に律花が迫る。身体を回転させながら飛び込んでくる彼女を見て咄嗟に鍵盤を叩き、音の壁を作ると共に彼女は二つ音符を生み出した。
 構わない、何もかもぶっ壊して進む。
 律花は回転の勢いをそのままにギターを壁に突き立てる。ぶち壊した後にその二つが飛んでくるのだろう? ならそれも強引にねじ伏せてやるさと歯を見せて笑ってみせた。
 ただ、その先の予測を、律花は誤っていた。
 破片となって砕け散る音の壁の中で先に待っていた音符が射出される。
 だが律花に向けてではない。
 射出した本人に向かってだ。
 彼女の両肩に打ち込まれると、女性は後方に大きく跳んでいく。壁を破ったばかりの律花は勝手に吹き飛んでいく彼女を見て目を丸くする。
 彼女は吹き飛ばされながら鍵盤を押し込む。鋭いシンセサウンドが鳴り響いて、背後に音の壁が生まれると強引に女性を受け止める。ミシリと痛々しい音が聞こえたが、彼女は構わず二本足で立ち、余裕そうに煙草を吸ってみせた。
「ほんと、怪我しないって良いわよね。こういうことしても平気なんだから」
 そう言って微笑む彼女を見て、律花もまた、獰猛な笑みを浮かべた。
「貴方名前はなんていうのよ」
「名乗らない子に名乗るのもねぇ……ムーンマーガレットさん?」
「知ってんのに自己紹介なんて面倒よ。さっさと教えて」
 吸い殻を再び捨てると、ショルキーの女性はハイヒールの先でそれを踏み潰し、サングラスを直す。
「アートライン」
「何よ、いい名前じゃない」
 そう言うと律花は深く腰を落とした。
「……なんかカッコよくてムカツク」

   ・

 かっこ良く着地したはいいが、着地した先に待ち受けていたのは、オーディエンス達で、鳴海は危険に丸腰で飛び込んだような形になっていた。周囲を黒い人型に囲まれ、逃げ場も無い。おまけにあの音が聞こえているにも関わらず自分には戦う為の楽器が無い。池田の言っていた通りなら持っていて良いはずなのに。
 じりじりと近寄るオーディエンスに対して身構えながら、鳴海はどうにか逃げ出す方法を考えていた。あの階段の頂点から着地出来るということは、恐らく身体能力はそれなりに上がっている。ただ楽器を用いない攻撃がオーディエンスに聞くのかという不安があった。触れられれば精神が崩壊すると言われたのに生身で触れる勇気は、正直な所無い。試すにはリスクが大きすぎる。
 折角再びモッシュピットに入ったというのにここでゲームオーバーになるのだろうか。全くこの世界は古都原鳴海という存在にどうしてもピリオドを打ちたいらしい。絶望的な状況に放り込んで現実を思い知らせたいらしい。
 ただ、そんな事で諦めるつもりは鳴海には毛頭なかった。
 ピリオドを打ちたいならやってみせろ。だが今までみたいに中途半端にではなく、確実にだ。この鳴海という人間が全てを諦め、立ち上がる術すらなくなるくらいに圧倒的にやってみせろ。
 でなきゃ、俺は何度でも立ち上がってやる。
 どんな立場になってもいい。白部律花を追ってやるさ。
 鳴海はオーディエンスを強く睨みつける。
「来るなら来いよ!」
 叫んでみるが、黒い人型は未だに動く気配が無い。
 訝しげに眺めているうちに、ふと鳴海は思う。石膏で取ったみたいに堅い人型の顔を眺めながら、前に突出された手を見ながら、ふと感じたのだ。
「……寂しい、のか?」
 直感的なものだった。だが鳴海の言葉にオーディエンスはどよめいた。そして一歩、二歩と後退していく。鳴海はしかし立ち止まったまま周囲を囲む黒を眺め続ける。
 あの時もそうだった。ベースを守るようにしていた時も、彼らは鳴海に向かって羨むような手を伸ばしていた。その後に現れた律花にも同様にだ。
――人のネガティブな感情に惹かれるらしいです。
 鳴海は構えを解くと、周囲を見渡してから、両手を広げた。
「悪い、あんたらを消してやれる力を俺は持ってないんだ」
 彼らは消されたがっている。力を持っている人間に、同時に迷い込んでくるマイナスの感情に惹かれて、共感を覚え、近寄ってくる。鳴海はなんとなく彼らの行動理念を把握した気がした。
 だから楽器を持った自分に羨むような手を伸ばしたのだとしたら、プレイヤーと勘違いして消してもらえると思ったのだとすれば……。律花の言った「大漁」という言葉も理解出来た気がした。あれは鳴海に助けを求めて集まったのだ。
 理解して、同時に悔しくなった。きっと彼らには鳴海自身の中の音に反応しているのだろう。だがその本人が楽器の顕現の仕方に悩んでいる。どうすれば現れるのかも分からない。
「ごめん、出来れば俺が、消してやれたらいんだけどさ」
 俯く鳴海に対して、オーディエンスは揺れる。対象の動向に理解が出来ないのだ。何故消してくれないのか、何故オーディエンスに音を披露してくれないのか。
――それだけでオーディエンスは沸くのに。

「今日はなんだい、随分と大所帯じゃないか」

 どこかで見た光景だった。
 でも少しだけ違う。聞こえてきた声は男性の低く掠れたハスキーボイスで、登場も月からではなく、遥か先の路上からだった。ファーの付いたモスグリーンのモッズコートに白いシャツとジーンズ、ブーツを履いた金髪の男。片手にはスティックを二本持っていて、空いた手はコートのポケットに突っ込んで不敵に笑みを浮かべている。
 オーディエンス達は一斉にそちらを向いた。うち半数は変わらず鳴海の方を向いていたが、彼らもやがて彼に敵意が無いことを知るとモッズコートの男の方を向いた。
 男はブーツの踵を鳴らしながら歩み寄ると、手の中でスティックを回し、うちの一本を頭上高く放り投げる。
 同時に右足を上げると、思い切り地面目掛けて踏み込んだ。

――ズドン、と深く響くような衝撃音がオーディエンスと鳴海の群衆を駆け抜け、次の瞬間にオーディエンスの大半が吹き飛んだ。

 宙に高く舞い上がったオーディエンスに目を向けると、頭上に投げたスティックをポケットに突っ込んでいた手で取って振り下ろす。硝子が割れたみたいな音と共に宙に浮いたオーディエンスが次々と切り裂かれて消えていく。
「いつもならこれくらいでほぼ消せるんだが、今日は本腰を入れるべきか」
 金色に染め抜かれた髪を掻きながら彼はそう呟き、両手を大きく広げた。
 広げると同時に、数々の機材が現れていく。スネア、バスドラム、シンバル、ハイハット、フロアタム……。
「ドラム……?」
 黄色く染め抜かれたドラムセットに、鳴海は戸惑った。確かにギターだけでは無いと聞いたが、ドラムまでもがここでは武器になるのか……。だが他の楽器に比べたら圧倒的に行動が制限されてしまうのでは無いか。
――圧倒的に不利だ。
 そんな鳴海の思いも、次の瞬間には消え去った。
 フィルからエイトビートが始まる。バスドラムを叩く毎に衝撃がオーディエンスを吹き飛ばし、シンバルを叩く度に音の刃がオーディエンスを切り裂き、スネアの音でオーディエンスが殴られるようにのけぞり、タムを叩くとオーディエンスが重力に負けるように押しつぶされていく。
 圧倒的な光景だった。リズムパターンを叩き込むだけで大勢いた筈のオーディエンスが次々に消し飛ばされていく。その光景を圧倒されながら見ていると、不意にドラムセットの向こうからモッズコートの彼がこちらに向かってウインクするのが見えた。
 その意図を理解して、鳴海は小さく頷いた。大丈夫、という返答を込めて。
 それは良かった。とでも言うかのように彼はフィルを入れ、シンバルを強く叩いた。

   ・

 アートラインは攻めあぐねていた。鍵盤から幾つもの旋律を奏でた。音の弾丸で攻撃し、壁で防ぎ、危なければ弾丸を自分に当てて回避する。
 物理での攻撃しか手段の無いムーンマーガレットに対して自分は有利に立っている。
 立っている筈なのに、未だに彼女に一撃を入れることができない。最初に音の壁で弾き返して以来、一撃も与えられていないのだ。
 何本も射出された音の弾丸を直撃ギリギリの距離で避けながら彼女は向かってきて、それをアートラインは自分を攻撃することで回避する。その繰り返し。怪我は無いと言ってもダメージは疲労として確実に彼女の中に蓄積されていく。それは自分の攻撃であっても変わりはない。
 まるで針の穴を通り抜けるようにくぐり抜けては諦めずに攻撃を繰り返す。こちらだって一撃も喰らってはいないのに、何故こちらが劣勢のような状況になっているのだろうか。
「いい加減に……しろ……!」
 鍵盤をところ構わず叩きまくる。強引な和音を幾つも打ち鳴らし、敵意にまみれた旋律を鳴らす。音符が歪む。音が曇る。苛立ちによって音が濁っていく。
 律花は目を光らせると、地面を強く蹴った。ここを逃すべきではない。直感的にそう感じ取った。今までだってそうだ。相手の音がこうなった時は攻めるべきなのだ。ムーンマーガレットとしてやってきた経験からはじき出された決断を律花は迷わず選んだ。
 歪んだ音は一振りで容易く崩れ落ちていく。熱したナイフでバターを切り落とすみたいに柔らかで、手応えすらなかった。
 アートラインはこのまま耐えるべきだった。堅実さを選ぶべきだった。自分がまるで疲労感を蓄積して、劣勢を強いられているように感じてしまっているが、ダメージで言えば律花の方が圧倒的にあった。怪我をしない代わりに疲労が蓄積されているとすれば、これまでの律花の際どい回避や無茶な姿勢は、アートラインの「音による自傷行為」と同じように自分を傷つけているのと同じようなものだった。
 律花は身体全体を駆け巡る疲労感に苦しみながら、しかし笑みを絶やさない。我慢比べなら負けない。いつだって自分は表情を作って、外見を取り繕うことで過ごしてきたのだから、辛い時に辛いと思わせないことに関しては自信があった。
 最後の一つを切り崩すと、律花はネックを両手で握り締め、彼女の顔面目掛けて振り切った。
 会心の一撃が入って、アートラインは吹き飛んでいく。肩から提げていたショルキーが掠れていく。戦意喪失。その一撃が彼女の心を折ったのだ。
 着地すると同時に律花はギターで身体を支えながら、倒れたままのアートラインを見据えた。
「私の、勝ち」
 彼女は聞いていただろうか。いや、それはどうだって良い。大事なのは勝った事なのだから。これだけの力量を持った彼女なら、ムーンマーガレットの名前を広める良い材料になってくれるはずだ。
 動かない彼女を横目に、律花は振り返る。
 振り返って、首を振り、額に手を当てた。疲労でどうかしている。
 つい一週間前にいた青年の姿を、律花は思い浮かべてしまっていた。
 かっこいいと言って、バッジを帽子に付けてくれたあの古都原鳴海の事を。
 彼はもう居ない。他でもない律花自身が排除したのだ。
「ばかじゃないの……」
 自分に向けて吐き捨てるように漏らすと、ギターを消して大きく伸びをした。久しぶりに苦しい戦いだった。自分の有利を疑わない奴だったら負けていたかもしれない。

――ぱち、ぱち、ぱち……。

 頼りない拍手が聞こえて、律花はそちらに目を向けた。
 青いジャケットにベージュのチノパンを履いた青年が、にこにこと笑みを浮かべて立っている。律花はうんざりした顔をしてみせる。
「お疲れ様、ムーンマーガレットちゃん」
「ちゃん付けはやめて」
「そんなぶすっとした顔しないでよ、かわいい顔が台無しだよ」
 青年は律花を覗きこむようにして見る。たった一歩でここまでやってきたことに一瞬驚いたが、律花は気を取り直してその顔を両手で拒否する。
「また観戦? アンタだって暇じゃないんでしょ?」
「まあね、でも君を見たかったから、即効で終わらせてきた」
 さらりととんでもないことを言ってくる彼に、律花は苛立ちを覚える。さりげなく自分の強さをアピールしているつもりなのかもしれないが、律花からすれば「ムーンマーガレットより圧倒的な早さで決着を付けられる」という単なる自慢、挑発にしか聞こえなかった。
「アンタ本当に性格悪いわね」
「そう? これでも顔も人も良いって事で通ってるんだけどなぁ」
「自分で言ってるだけでしょ? くたばれよ」
「おお、怖い怖い」
 キャップ帽の端から見える鋭い目つきを見て、青年は戯けてみせる。
「何度言っても入らないからね。【レーベル】になんて」
「俺としては是非入って欲しいんだけどなあ……。何が嫌なのさ」
 不思議そうに青年は首を傾げる。分かっているくせに、本当に性格が悪い。律花は再びギターを出現させると彼の目の前に突きつけた。
「アンタを倒して、最強になる為に決まってるでしょう?」
 突き付けられたギターを見て、青年は嬉そうに微笑んだ。
「そういう強気な所、本当に好きだよ」

 一年前の抗争。プレイヤーが減少した最悪の週末で、伝説になった男がいた。

 全ての強力なプレイヤーを打ち倒し、打ち倒し、打ち倒し、唯一楽器を顕現したままその場に立っていた男。

 【ラストホリディ】

   ・

 スティックを弄びながら男は鳴海を観察していた。
「楽器が、出ないねぇ……」
「観察して分かるものなんですか?」
 鳴海から離れると、彼は微笑む。
「いいや、分かるわけないでしょ」
「じゃあなんで見てたんですか!」
「いや、立ち向かう術も無く飛び込んでくるとか面白いなって思ってさ」
「まさか出せないとは思わなかったんですよ……」
 そういって鳴海は頭を掻いた。音だって聴こえている。なのに出せない。何が出るのかも分かっているし、想像だってできている。なのに一向にその楽器が自分の前に現れない。
「なんとも不思議な状況だ」
 腕組みをして考える彼を鳴海は見る。飄々とした彼の姿を見ていると、先程ドラムを武器にオーディエンスを蹴散らしていた人物にはどうしても思えなかった。
「それにしても、すごいですね」
「何が?」彼は首を傾げる。
「ドラムを武器にする人もいるんですね」
 そう言うとああ、と彼は笑みを浮かべた。
「でも動いたりできないから、ブッキングは大変なんじゃないですか?」
 いや、と彼は言った。
「俺はオーディエンス専門のプレイヤーなんだ」
「オーディエンス、専門……?」
 彼は頷くと、スティックを軽快に回してみせた。

「ジョニー・ストロボって名前でオーディエンスだけと戦ってるプレイヤーなんだ、俺」

       

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Neetsha