Neetel Inside ニートノベル
表紙

週末のロストマン
第九話「ハイブリッド・レインボウ」

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「お前、真性の馬鹿野郎だな」
 開口一番の言葉がこれだ。沙原は吐き捨てるように言ってから、鳴海の頭をおもいっきり一発殴りつけ、傍の丸椅子にどっかりと座り込んだ。
 ベッドの上で悶絶する彼を尻目に、沙原は周囲を見回す。
 部屋にはベッドが四つ、それぞれに区切り用のカーテンが取り付けられ、自分達以外の三つは閉じられている状態だ。中から話し声が聞こえるあたり、他にも見舞客が来ているらしい。沙原は彼らの真似をするようにレールを滑らせてカーテンで仕切りを作った。
 鳴海の左腕からはチューブが一本取り付けられ、すぐ傍のスタンドには点滴がぶら下がっている。ぽつり、ぽつりと一定のリズムで落ちていく水滴を見ていると、ただの栄養液だと鳴海が目に涙を浮かべながら言った。
「ただの過労にしては随分なことになってるじゃないか」
「まあ、ここ最近ちょっと頑張り過ぎてさ」
 乾いた笑みでお茶を濁そうとする鳴海に見舞い品の林檎を投げつけ、沙原は溜息とともにもう持ってきた一つ林檎を齧る。
「お前はいつも極端なんだよ。バンドだっつって自信満々になったり、上手くいかなくてやる気無くしたり、かと思えば今回は頑張り過ぎて過労で入院と来た。全く呆れるよ」
 林檎をもう一口、二口。本当はお前が食べたかっただけなのではと言いたくなる気持ちを抑えて、鳴海も林檎を一口齧った。程よく酸味の効いた冷たい蜜が口いっぱいに広がる。ここ数日疲労感で何も喉を通らなかったが、果物くらいならどうにか食べられるまでに回復したようだった。これなら退院もそう遠くはないかもしれない。
「でも、お前が来てくれるとは思わなかったよ」
「まあ、これでもそこそこ一緒の時間は過ごしてたからな。感謝しろよ?」
「ああ、感謝してるよ」
 素直に礼を言う鳴海を見て、沙原は微笑んだ。
「その様子だと、とりあえず吹っ切れたんだな」
「吹っ切れた? 俺が?」沙原は頷く。
「ふらふらしてる時のお前、ひどい顔してからな。ようやく一歩踏み出せたって顔してるよ。どうだ、その道でお前は、なんとかやっていけそうなのか?」
 モッシュピット、という言葉を口にしようと思って、その言葉は喉で留まって霧散する。本当に言えないんだな、と改めて思いながら、鳴海は違う言葉でどう説明しようか少し悩んだ。
「……やっていけると思う。今度こそ」
 悩んだ末に、単純な答えだけ述べることを選択した。彼が求めている言葉は、覚悟を決めたかどうかに対する返事だけだと思ったからだ。
 鳴海の言葉を聞いて沙原は「なら良かった」と言い、席を立つ。
「もう行くのか?」
「生憎とお前に割いてる時間が無いものでね。これから練習だよ」
 カーテンを戻し、壁に立てかけられたギグバッグとボードケースを背負う。
「俺は、いつかお前はスゲー奴になると思ってたよ、鳴海」
「その言葉、そのままそっくりお前に返すよ、沙原」
 沙原と目が合って照れ臭そうに目を逸らし、そして彼は行ってしまった。
 残された齧りかけの林檎を見て、鳴海は呆れたように笑った。
 鳴海は左に目を向ける。丁度ベッドから上体を起こすと見える位置に窓があるのだ。鳴海は暇な時は大抵ここから外の景色を眺めて過ごしていた。
 窓の先には街の景色が広がっている。その中に、先日の公園もあった。住宅街の奥にぽつりと存在する、柵で区切られただけの小さな公園だ。
 あの場所でついこの間自分がブッキングに興じていたなんて、夢みたいだった。
 終盤のことを鳴海はほとんど憶えていない。律花に攻撃を譲ったところでぷっつりと意識が途絶えてしまったのだ。だから、鳴海が白星を上げたことを知ったのは目が覚めてから大分後のことだった。
 病院まで運んでくれたジョニーから、大体の話は聞かされた。
 律花が帽子を脱いだこと。
 彼女のギターから音が出たこと。
 そして、鳴海の能力にある欠陥のこと。
 全てを和音に変えて受け入れる。マイナスの感情を使うプレイヤーの中で唯一プラスに振り切った鳴海に用意されたユニークスキルは、しかし全てを打ち消しているわけではなかった。
 相手の力が強ければ強いほど、それを上回るように力を消費しなくてはいけない。鳴海の行っていたことは音を足すことで相手の音を完全調和させていることであり、一度だけでも相当なリターンがある筈だとジョニーは考察していた。おまけに顕現をしていない状態でのダメージだ。過労で数日に渡って眠り続けるには十分なダメージを受けていたに違いないと彼は言った。
 もちろん、当事者である鳴海自身そのことをしっかりと理解していた。理解した上で、あの場では完全調和をするべきだと思ったのだ。やろうと思えば音撃の軽減も可能ではあった。
 だがそれでは意味が無かったのだ。
 奏汰と律花の為には、あの音を綺麗にする必要があった。
 だから鳴海は、完全調和ハイリスクハイリターンを選択した。
 あれ以来、律花の姿も、奏汰の姿も見ていない。彼女は、あれから上手くやっただろうか。上手くやれているといいな、と思う。
 鳴海は窓から視線を戻すと、右手に無造作に放置されたポータブルプレイヤーを手にし、イヤホンを耳に付けると、再生ボタンを押した。すぐ傍にはグリーンの装丁の分厚いボックスタイプのケース。表紙にはリッケンバッカーを持ったライダースーツの女性。
 久しぶりに見たくなって、買い直したのだ。家に帰ればもちろんあの頃の六枚のDVDケースは見つかるだろう。
 でも、新しく買っておきたかった。
 やり直すのではなく、新しく始めたかったからなのかもしれない。
 久しぶりに聞いたけれど、やっぱりエンディングの曲のギターリフは、最高だと思った。

   ・

 午後五時。辺りはすっかり暗くなっている。蛍光灯の白い灯りに照らされながら、雪彦はとある一室の前で立ち止まる。
 面会謝絶のプレートは、外れていた。
 病室のドアを開けると、目の前にベッドが見えた。起き上がって、部屋の奥の窓から外を眺めているらしい氷芽野の後ろ姿を見て、雪彦は自分の心臓が高鳴るのを聞いた。
 しばらくその姿をじっと見つめたまま、動くことができなかった。
 引き戸の取手を強く握り締める手が汗ばむ。足が竦む。
 個室にはベッドが一つだけ、手前にはプリペイド式のテレビや荷物をしまう為の棚があって、そのすぐ傍には機材が揃えられていた。きっとつい最近まで使われていたものだろう。氷芽野の長い黒髪にはすっぽりとネットが被せられており、巻かれた包帯がいかに彼女が紙一重で死を免れたのかを物語っていた。
 ふと、彼女の頭が揺れた。その動作を見て、一瞬「帰ろう」と思い扉を閉めよう取手に力が込められた。

――その手を止めさせたのは、脳裏に浮かぶ鳴海の姿だった。

 彼だったら、どうしただろう。
 勝ちの薄い戦いの中で、それでも立ち向かってみせた彼だったなら……。
「……雪彦君?」
 その声に、雪彦はびくりと身を震わせた。
 ゆっくりと顔を上げると、氷芽野と目が合って、雪彦は思わず顔を伏せてしまう。
 彼女は何も言わず、雪彦をじっと見つめていた。怒っているのか、恨んでいるのか、悲しんでいるのか、彼女の表情からは読み取れない。ただ、とても穏やかな顔に思えた。
「中に入って、少し寒い」
「あ、ああ、うん……」
 言われるがままに雪彦は一歩足を踏み入れ、扉を閉めた。心臓が強く高鳴る。息が苦しい。手と足が震える。言おうと思って何度も反芻したはずの言葉は、全部真っ白に吹き飛んで、何一つ残っていない。
 雪彦は部屋に入って、改めて彼女の顔を見た。頬に大きな絆創膏、鼻の付け根と額には浅黒いアザがまだくっきりと残っている。ストライプの入ったブルーの寝間着の隙間から、首元や腕にも似たような手当がされてあるのが見えた。
「意外と、死ねないもんだね」
 ぽつり、と氷芽野の言った言葉を雪彦は黙って聞いていた。死ななくて良かった、と浮かんだ言葉は、しかし声になる前に霧散した。
「私ね、死んだら楽になるかなって思ったの。でも逆だった。痛いし、家族には泣かれるし、むしろいじめられていた頃よりも罪悪感がすごかった。悪いのは全部私なのに、皆謝ってくるの。ごめんね、気付かなくてごめんね……って」
 氷芽野は語る。ただ、その表情に色は変わらず感じられなかった。
 沈黙が続いた。何も音が聞こえない。窓の外から差し込む月光に照らされた彼女の肌は、とても白くて、儚く見えた。
「私ね、やっぱり雪彦君に避けられたのが一番辛かった」
 拳がぎゅっと握られ、爪が肉に食い込む。
「多分こればっかりは、この先も思い出しちゃうよ。だって、君だけはってやっぱり思っていたから。勿論あの状況で私の味方をしたらどうなったか分からないし、それで傷つく君の姿も見たくない。けどね、心のどこかで少しだけ、想像してたんだ。雪彦君がヒーローみたいに助けてくれる、そんな光景を」
 ほんと、ばかだよね。
 彼女のその声は、涙で濡れていた。坦々と語り続けていた氷芽野の声に熱を感じた時、雪彦は、反射的に動いていた。
 抱き締めた彼女の身体は、とても小さかった。
 拒絶は、無かった。ただ、許されたという実感も無かった。彼女はされるがまま、雪彦のしたいようにされている状態で、彼もそれがちゃんと分かっていた。
「今ここで言葉にしたって、多分信じてもらえないと思う。でも、言わせて欲しい」
 ここに辿り着くまでに考えてきた言葉はもう消えた。雪彦は思いつく限りの言葉に想いを載せて、ようやく口を開いた。
「ずっと俺を恨んでくれていいから、もう死ぬなんて選択はしないで欲しいんだ。俺が今度こそ守るから。君の為に駆け付けてみせるから。だから、今度こそ俺に君を助けさせて欲しいんだ」
 自分は鳴海のように音で察することなんてできない。彼のように唯一の力を持っているわけでもない。でも、あの時、自分の目の前に顕現されたギターを持って、彼が歪んだ音をクリアに変えていく姿を見て、せめて彼に頼る必要のない音を出してみせようと思った。
「雪彦君は、勝手だよ」
 くすり、と氷芽野が笑うのを雪彦は聞いた。
「私達、弱いね」
 彼女は一生自分を許さないだろう。雪彦はそれを理解していた。これはそう簡単に片付けられる問題では決してないのだから。
「強くなるよ」
「言葉で言ったってどうしようもないよ」
 僕は頷く。
 だから、音で示すよ。言葉にしなくても、聞いただけで伝わるように。
「私ね、転校を勧められてるの」
「……行くの?」
 腕の中で彼女は首を振った。
「守ってくれるんでしょう? 強くなってくれるんでしょう?」
 その言葉に、雪彦は頷いた。
 頭の中で、ギターの音が響く。シングルコイルの歯切れの良い音だった。
 
 
 病院を出て、雪彦は携帯を取り出すと、電話を掛ける。発信先にはこの時間に返事をすると伝えてあるから、多分今なら通じるだろう。
 スリーコールの後、声が聞こえた。
『もしもし?』
「この間のレーベルの話、受けます」
 顕現が出来なくてもモッシュピットに飛び込んだ彼のように。
 戦うことを、雪彦は選んだ。
 
    ・
 
 鳴海は今、とても気が気でなかった。
「何よ」
「別に、なんでもないよ」
「ならいいけど……」
 怪訝な顔を浮かべた彼女は、やがて顔を伏せると手にしたナイフで林檎を剥き始める。
 白部律花が横で林檎を剥いている。まさかそんな光景に出会えるとは思っていなかった。彼女は橙色のジャケットに朱色のマフラー。紅色のスカート、足先は黒のタイツとファー付きのブーツを身に付けている。随分と女性らしい服装で、今彼女がどちらなのか、少し鳴海は判断しかねていた。
「……どっちだろうって顔してる」
「え、バレた?」
「嘘よ、でもカマかけてみて正解だった。やっぱりそこについて考えてたのね」
 呆れたように溜息をつくと、彼女は彼の横のテーブルに置いた紙皿にうさぎの形に向いた林檎を並べていく。沙原はやってくれなかったやつだ、と鳴海はぼんやりと思った。
「もうやめたの」
「やめたって……まさかプレイヤーを?」
「やめるわけないでしょう、分けるのをやめたの」
「分けるのって、ムーンマーガレットと白部律花をってこと?」
「くどい」突き付けられたナイフに鳴海は両手を上げる。
「どのみち限界だったしね、一人二役なんてさ。それにもうすぐ卒業もするし、今更優等生の皮被る必要も無いかなって、そう思ってさ。周囲に気味悪がられるの覚悟でスパッと切り替えた」
「そこでスパッと切り替えられる辺りが、律花らしいよ」
「そう? 本当はそれで高校生活台無しにしちゃっても良いとまで思っていたんだけどね……」
 がっくりと肩を落とす律花に鳴海は怪訝な顔をする。
「ねえ、男子って皆ああなの?」
「ああって?」
「カミングアウトしてから、やけに罵倒されたがる男子が増えた」
 堪え切れず鳴海は吹き出した。
「え、何そんなレベルでカミングアウトしたの?」
「違うのよ、別にそういうつもりじゃなかったの。でも、これまで苛立ちつつも抑えてた部分がなんか我慢できなくて、仕事の遅い男子にカッとなっちゃって……つい」
「くたばれって?」
「くたばれって……」
 やってしまったとしょげる律花を見て鳴海は腹を抱えて笑った。笑いすぎて呼吸ができない。涙が出てくる。
「そんなに笑わないでよ、ばか」
 恥ずかしそうに顔を逸らす律花にごめんごめん、と鳴海は呼吸を整え涙を拭いながら言って、それからいいんじゃない、と続けた。律花は顔を上げる。
「俺は少なくとも、そっちのほうが好き」
「人の気も知らないで」
「学校生活は問題ないの?」
「別に。裏でとやかく言われてるだろうけど、今更そんなこと気にすることもないし。それに、ちょっとだけ、一緒に遊べる子が出来たから……」
「それは良かった」
 友達、と言えないのは照れ臭いからだろう。彼女は今知らなかった感覚にきっとびっくりしているだけで、そのうち慣れてもっと開放的になるだろう。
「ねえ、古都原君は」
「鳴海でいいよ」
「……鳴海は、これからロストマンとして、何をするの?」
 何をするのか、か。鳴海は剥いてもらった林檎を口にしながら、彼女のことを思い出す。たった一人、孤独な空間に鎮座する王様、晴原遥の姿を。
「俺さ、約束事が一つ出来たんだ」
「約束?」
「いつか挑むって約束をしたプレイヤーがいてさ、その為に、もっと強くなろうと思う。それにもう一度あの場所に行く方法も知らなくちゃいけない」
「あの場所って?」
「プライベート・キングダム」
 また、プライベート・キングダムか。律花は弦子のことを思い出す。彼女もまた、モッシュピットの奥にある空間に何かを求めていた。
「ねえ、鳴海はさ、これからもどんどん強くなるつもりなのよね?」
 鳴海は不思議そうに首を傾げる。
「なら、ブッキングもオーディエンスともやれる環境に移動するの?」
「実は、その辺りもこの間ジョニーと話してきたよ」
「どんな話?」
 林檎の最後の一切れを飲み込んて、鳴海は言った。
「レーベルを立てようと思うんだ」

     


     



――金曜日、午後七時。
 街の一角にある廃ビルの中で、二人は対峙していた。
 一方は新進気鋭の新人、白のカットソーに青の薄めのカーディガンを羽織り、ジーパンとスニーカーを身につけた青年で、顕現した楽器はサンバーストのジャズベース。
 もう一方は缶バッジのついたキャップを被り、白いシャツに黒の七分袖、デニム生地のホットパンツに黒タイツ、ワインレッドのハイカットスニーカー。手には靴の色に似たチェリーレッドのギブソンSG。
 取り壊されることすら忘れられた廃ビルの中に観衆はこぞって集まり、向かい合う二人の動向を見つめている。埃と砂利と、割れた蛍光灯の破片で塗れたその一室は、今改めて部屋としての意味を手にしていた。
 本来とは用途の全く違う理由で、だが。
 一つ、少女の姿に変化があった。これまで目深に被っていたキャップの鍔が、横に向けられているのだ。隠し続けてられてきた彼女の顔を見て、相対する青年、ロストマンは笑った。
「恥ずかしがり屋だと思ってた」
「冗談はよして」少女、ムーンマーガレットは眉根を寄せて不機嫌そうに彼を睨む。
「もう隠す必要がなくなっただけよ、それに今更隠したってなんにもならないじゃない」
「……もういいの?」
 尋ねられて、マーガレットは笑みを浮かべる。
「好き放題やってやるって決めたの。だから、偽るのはやめよ」
 彼女はギターを構える。ロストマンはベースを手に、直立不動のまま彼女をじっと見つめていた。
「……【悪いわね獲物全部貰っちゃって。何も出来なくて物足りないでしょう? だよね? そこで固まってるだけじゃつまんないに決まってるよね?】」
 ロストマンは一瞬きょとんとした後、彼女の言動に思わず吹き出してしまう。してやったりと笑うマーガレットに対し、彼もまたベースを身構え、そして言った。
「満足させてくれるんだろう?」
 マーガレットは不敵な笑みのままギターを順手に持ち変え、ちらりと彼を見てから、六弦をおもいっきり掻き鳴らした。
 オーバードライブの歪んだギターサウンドが鳴り響く。
 それが合図だった。
 音撃を飛ばすマーガレットに対し、ロストマンは飛び交う音撃を潜り抜けて彼女目掛けて滑りこむように距離を縮めていく。避け切れないものはベースで弾き、打ち消し、マーガレットの懐に潜り込むと、上体をひねり、横薙ぎの一閃を彼女の脇腹目掛けて振る。
 ガツ、と鈍い音がして、ロストマンは目を見開いた。綺麗に入ると思った一撃を彼女はギターで防いだのだ。そのまま彼女は右足を軸に彼の頭部におもいきり左足を捩じ込んだ。
 綺麗に入った一撃に吹き飛ぶロストマンを彼女は逃さない。再びギターネックを握り締めると跳躍、転がる彼に追い付き、ギターを振りかぶる。容赦の無い一撃。彼女の得意分野は打撃。音撃は攻撃の幅を広げるエッセンスに過ぎない。
 ロストマンは咄嗟にベースを両手で掲げ、ギロチンのように振り下ろされる赤い閃光をどうにか受け止める。その強烈な衝撃に、手がビリビリと痺れるのを感じた。
 ぶつかり合った二つの楽器の隙間から、マーガレットが嬉しそうに目を輝かせているのをロストマンは見た。その後ろには、窓越しに差し込む月光が見える。相変わらず彼女は月に愛されているらしい。
 さすがはムーンマーガレット、と彼もまた口許に笑みを浮かべた。
「【なんでアンタの武器、壊れてないの?】」
 マーガレットの言葉に、ロストマンは溜息をつくと、呆れ顔で言った。
「当たり前だろ、この楽器は殴るためにできてるんだから」
 あの日からずっと追いかけた彼女の姿が、そこにある。
 迷いながら辿り着いた週末のこの光景を、ロストマンは噛み締め、味わっていた。

   ・

 最後に病室を訪れた人物の姿に、鳴海は思わず言葉を失った。
 スーツに身を固め、花束を手にやってきたその男性は、鳴海に向かって一礼すると、白部惣治です、と表情を崩さず言った。白部の名前に動揺しながらも鳴海は彼に礼を返す。惣治は無言のまま椅子に座り、彼に花束を渡した。小さなバスケットに束ねられたカラフルなものだった。
「はじめまして、古都原君と言ったね、姓を聞いて分かったと思うが、律花の父です」
「いえ、あの、どうも……はじめまして」
「君には随分と娘がお世話になったと聞いて、一度挨拶にと思っていたんだ。少し時間が出来たので寄ってみたのだが、身体の方は大丈夫かい?」
「数日中には退院する予定です。ちょっとした過労だったので、特に問題はありません」
 そうか、と彼は腕組みをするとじっと鳴海を観察するような鋭い目で上から下までじっと眺め始める。その間どうしていればいいか分からず、鳴海は緊張の面持ちで惣治の姿を見ていた。目元が律花に少し似ているかもしれない。あとは姿勢の良さも。多分顔は母似なのだろう、と彼は思った。どちらかというと奏汰のほうが父親に似ている気がする。
「……以前の出来事と合わせて、随分と娘に対して世話を焼いてくれたそうだね。先日の君の楽器の一件は、特に申し訳なかった。同じものを探させたのだが、問題はなかっただろうか?」
「ああ、大丈夫です。問題ありません。ほぼ同じものをありがとうございます」
 その用意してくれたものが先日、あなたの兄によって真っ二つの粉々になりました、とは流石に冗談でも言えなかった。
「聞けば奏汰とも少し面識があると聞いたよ。今回の娘の家での件でもかなり相談に乗ってくれていた、と」
「相談、ですか。確かに……」
「無事娘も帰ってきたよ、改めて色々と今後について話もした。私の知らないうちに、あの子もあの子なりに色々なことを考えるようになっていたことを知ったよ。奏汰も含めて」
「律……律花さんとは仲直りできましたか?」
「仲直り、という言い方が正しいかは分からないな。結局私とあの子の考えは一致しなかったからね。奏汰とも」
「そうですか……」
 立ち上がり、惣治は窓際に立って外を眺める。日暮れの夕焼け空が、街に影を落とす。帰路につく人々の中に、家族連れの姿が見えた。買い物袋を手に、父が娘を肩車し、息子と母が手を繋いで会話に花を咲かせているようだった。
「古都原君、私は、二人を大事にしてきたつもりだ。それは今も変わらない」
 その光景を眺める惣治の目は、温かさがあるように鳴海は感じた。
「こう見えてなんだが、私は若い頃は随分ヤンチャしてね。今の職に就くのにも大分苦労をしたよ。別の道を選ぶことも出来なかった。とにかく自分が潜り込めるところを必死で探した。地力というものは本当に大切なのだと思い知った時期だったんだ」
 惣治の言葉に、鳴海は黙って彼を見つめていた。
 彼は続ける。
「妻と出会って、子供が生まれた時、私はこの子達には選択できる余裕を持たせたいと思った。私のようになってほしくはなかった。ただ、どこかで少しづつその想いは屈折して、以前の自分の姿を否定することを第一にしていたように思う」
「以前の、ですか」
「あの頃の自分のような生活を繰り返してはならない。口調も、成績も、完璧であるべきだ、とね。その結果、必死に食らいついていた奏汰は心が折れ、彼の代わりを務めようと思った律花もまた、疲れきってしまった」
 鳴海は、あの日の二人を思い出す。妹をモッシュピットから無理やりでも救い出そうとした奏汰と、家族の為に完璧を求めた律花。そして、子供たちの為に厳しくあろうとした父の姿を。
「奥さんは、何も言わなかったんですか?」
「いや、妻は妻なりに私達の関係を思って動いていたようだ。誰の側にも付いてはいけない、とね」
「誰の側にも……?」
「私達の擦れた関係を見ながら、三人にそれぞれ違う言葉をかけて、接していたそうだ。それが正解かどうかは分からないが、彼女も、家族の関係を護りたかったのだろう」
 多分、四人とも目指した先は同じだったのだろう。ただ、そこに至る道筋が違っていて、上手く絡み合うことのないものだっただけで。
 律花の音が見せてくれた、四人でテーブルを囲み、談笑する光景。
 あれをまっすぐに伝えることが出来たなら、こじれることも無かったのかもしれない、と鳴海は彼の話を聞きながら思っていた。
「話をしてみて、どうでしたか?」
「全く合わなかったよ、むしろ最後は喧嘩のようなものだった」
 肩を竦める惣治の姿に、随分手を焼いたんだろう、と鳴海は苦笑で返す。
「あそこまで芯の強い子に育っているとは思わなかった」
「僕は強い方の彼女しか見たことがないから、そちらが普通に感じるんですけどね」
 鳴海の言葉に、惣治は黙って窓の外を見ている。鳴海は少し居辛さを感じる。
「……私はこれからも、変わるつもりはない」
 呟くように言ったその言葉に、鳴海は顔を上げる。
「この先も、私なりにあの子達を見ていくつもりだ。以前よりもぶつかることが多くなるかもしれないが、それならそれでいい。私を説き伏せられるような道を選ぶなら、私は何も言わない」
「お父さん……」
「古都原君は、この先どうするつもりなんだ?」
「僕ですか?」惣治は頷く。「将来の展望はあるかい?」
「僕は、目下探している最中です。一度、決めた道から背を背けてしまいましたから……。でも、律花さんと出会って、改めて一歩踏み出そうと思ったんです。どれだけ迷ってもいいから、手探りで進んでみようと思っています」
 鳴海はそう言って惣治を見ると、苦笑しながら頬を掻く。
「実のところ、救われたのは僕の方なんですよ」
「……そうか、見つかることを祈っているよ」
「はい」鳴海は頷く。
「今後とも、律花のこと、よろしく頼むよ」
 そう言って、惣治は鳴海の返事も聞かずに病室を出ていった。鳴海はベッドからその背中を見送ったが、彼の大きな背中を見ながら、ふとそういえば家に帰ったのはいつだろうと思った。年末もまともに顔を出していなかった気がする。
 久しぶりに、父と母の顔を見たいと思った。

   ・

 月日は流れて、春。
 冷たい冬の季節を乗り越えて、心地良い暖かな風が桜の木を揺らす。花びらの舞い散る並木道の途中で、鳴海はベンチに座って新入生たちの姿を、煙草を燻らせながらぼんやりと眺めていた。制服の時期を終え、皆思い思いの服装に身を包む。若さで彩られた彼らの歩みは、これからの新生活への期待で満ち満ちているように見えた。
「よう、留年バカ」
 すっかり擦れた顔をして煙草を吸う鳴海の横に沙原はどっかりと座り込むと、彼の咥えていた煙草を奪い取ってちびた煙草を吸い始める。愉快そうに鳴海を見つめる彼を、鳴海は目を細めてじっと見つめる。
 沙原は彼のそんな視線を見て笑うと、深く吸った煙を吐き出す。立ち上る白煙を嫌がるようにオリエンテーションへ向かう新入生達はベンチから少し離れてしまう。
「そう死んだ顔してんなよ、新学期だろ? 就活も一年繰り上げになったんだ。学生生活を楽しめよ、古都原後輩」
 モチベーションの低下から繰り返した自主休講と、昨年末の過労による入院が引き金となって、鳴海は今年見事に留年をした。あと一つ単位を取ればギリギリで上がれるという状態で、そのあと一つを見事に落としたのだ。
 沙原は死ぬほど笑った。
 律花は呆れて額に手をあてた。
 雪彦はバカじゃねえの、と吐き捨てた。
 優しくしてくれたのは、ジョニーと池田さんくらいのものだった。
「そういうお前はどうなんだよ、沙原センパイ」
「俺か? 俺はこの先も変わらずバイト生活だよ。やっとノルマを相殺できるようになったしな」
「黒字、出たのか?」
「プラマイゼロだよ。まあ、お陰で企画に呼ばれるようにもなったし、音源も作れることになった。まだスタートラインですら無いけど、進歩はしてる」
「そいつは良かった」鳴海はもう一本煙草を取り出して火を付ける。
 もしかすると、彼の活動の中に自分がいた未来もあったのだろうか、とふと想像し、ないな、と自分の考えを一蹴した。
 どんな選択をしたとして、俺には飛び込めなかった世界だ。ここが沙原と俺の違いだ。鳴海は煙を吐いた。
「なあ、鳴海。お前、いい顔するようになったよな」
「この死んだ顔が?」
「そう言うなって、去年なんてゾンビみたいだったからな。こっちのほうが幾分マシさ」
「ゾンビよりはマシか」そう言って鳴海は呆れたように笑った。
「断然マシだな」沙原も笑う。
 二人は煙草を吸いながら、しばらく黙って新入生達の姿を見ていた。各々の手の中にある嵩張ったチラシを見て、今年も紙の無駄遣いをしているのか、と思ったが、大学生活なんてそういうものだろう、と鳴海は思う。
 この中にも、沙原のように音楽を志す奴や、何か他の目的を持ってやってきた生徒がいるのだろう。挫折し、諦める奴も勿論いるだろう。鳴海は一度諦めた側の人間なのだから。
「なあ、沙原、頑張れよ」
「どうした、突然?」
「俺も頑張るからさ」
 鳴海の言葉にしばらく訝しげな表情を浮かべていた沙原だったが、やがて肩を竦めると、言われなくても、と答えた。
「お前もな、鳴海」
「ああ、少し時間はかかりそうだけど、頑張る」
「お前は迷子ヤローロストマンだからな」沙原は煙草を灰皿に擦り付ける。
「そう、俺は迷子ヤローロストマンだから」鳴海も煙草を灰皿に擦り付けて、火を消した。
「じゃあ行くわ、元気でな」
「また暇があったら飲もう」
「ばーか、留年生と飲むほど暇なんかねーよ」
 沙原はからかうように言って、手を振りながら、新入生の群れに混ざるようにして消えていった。彼の背中を見送って、鳴海は三本目の煙草を取り出して、しばらく火を点けようかどうか迷った。
「鳴海」
 声がして、鳴海は煙草をポケットにしまうと、声が聞こえたほうに視線を向けた。
 一人の少女が、むすっとしてそこに立っていた。
 パープルの長袖ロングソーに、白生地に黒い水玉模様の入ったスカート、下は黒のニーハイソックスとブーツを履いていた。その少し大人びた服装の彼女の姿に、鳴海は思わず見惚れてしまう。
「……何よ」
「いや、普段制服かいつものしか見てなかったから」
「私だって普段はちゃんとした服着てるわよ。でもそんな、じっと見るほどのこと? 変だったりする?」
 服装を自分で確認し始める彼女に、鳴海は言おうか言うまいか迷い、やがて腹をくくる。
「いや、その……似合ってるな、と思ってさ」
 鳴海の言葉を聞いて、少女は目を見開き、そして頬を赤らめると、ばかじゃないの、と顔を伏せながら言った。
「入学おめでとう、律花」
「……よろしく、センパイ」
 律花は手を組み、恥ずかしがりながらも、小声でそう鳴海に言ったのだった。

   ・

 金曜、午後七時。
 モッシュピットは突如として現れ、波長の合う人物を呑み込む。
 その日も、鬱屈の溜まった一人の男性が呑み込まれ、現実離れしたその空間に戸惑っていた。
 景色の中から滲むように現れる黒い物体。それは人の形を成して、迷い込んだ人間を無作為に襲っていく。ギターフィードバックが静寂に押し入るようにして聞こえ始める。

――この空間は普通じゃない。

 男は取り落とした鞄も放置して駆け出す。アレに触れられたらヤバい。そう本能が訴えかけてくるのだ。
 だが黒い人型は群れを成し、男の逃げ場を次々を塞いで追い詰めていく。何もない空間から突如として現れ、増え、男を捕らえようと襲い掛かってくる。
 やがて男は逃げ場を失い、迫り来る黒い人型に怯え、目を固くつぶる。

――もう、終わりだ。


「なにこれ、すっごい大量じゃん」
 女の高く伸びるような声がして、男は目を開いた。
 目の前には、帽子を被った少女が一人、男を背に立っていた。手にはチェリーレッドのギブソンSGを握り、目の前の黒い影を見て不敵に笑みを浮かべている。
「雪彦、周辺は?」
 もう一人がすぐ傍の電柱に降りる。ストラトタイプのギターを手にした若い少年だ。
「他は駆除した。今池田さんが見てまわってるけど、多分あとはこいつらだけだと思う」
「了解、りつ……じゃなくてムーンマーガレット、いける?」
「もう律花でも良いって言ってるのに」
「いや、ほらそこは折角名前があるんだからさ」
「まあいいわ、それよりオーディエンスよ。全部貰っちゃっていいのよね?」
「ああ、俺は人のほうに行く」
 そう言って男の目の前に一人の男性が降り立つ。
「大丈夫ですか?」
 ベースを手にした青年は、にっこりと笑って手を差し伸べる。
「あの、君たちは……?」
「俺達は、ここで人助けをやっている者です。もう大丈夫、安心してください」
 青年の言葉と共に、劈くようなギターサウンドがして、男は驚いて先程の少女の方を見た。SGギターを楽しげに引き倒す彼女から溢れ出す音は、強く歪んでいるが、しかし抜けの良い綺麗な音だった。
「安心しなよ、すぐにアンタらのこと、満足させてあげるからさァ!」
 閃光、爆散、彼女を中心とした音の壁が広がっていく。黒い人型――オーディエンスと呼ばれたそれが彼女の音によって跡形も無く消し飛んでいった。
 後に残ったのは、静寂と、三人の楽器を手にした者達だけだった。
「君たちは……一体?」
「ここはモッシュピット。ネガティブな力が生み出した空間です。そして、俺達はプレイヤー。この空間で唯一あの黒い人型を倒せる人間です」
 オーディエンス?
 プレイヤー?
 訳が分からなかった。
 だが、彼らのお陰で助かったことは確かだった。
「君、名前は……?」
「俺は、ことはーー」
「そっちじゃないでしょ、鳴海」
 からかうように笑う少女に遮られ、鳴海と呼ばれた青年は頭を掻きながら言いたくないなあと声を漏らすが、やがて顔を上げると、男に向かって改めて手を差し伸べる。
「俺はこの【ハイブリッド・レインボウ】というグループで活動しているプレイヤーで、名前は……」
 彼はそこで区切ると、照れ臭そうに笑いながら一呼吸入れて、名前を口にした。

――週末のロストマン、と。



第一部   了

       

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