Neetel Inside 文芸新都
表紙

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 成宮はそこまで目立つ方ではなかったが、確かに容姿は整っている。一度も染めたことはないというピアノブラックの長髪に、化粧がほぼない素顔そのままの姿。身長はそれなりに高かったが、それでも俺とは十センチ以上離れていた。
 高校三年間は文芸部の活動に捧げたらしく、彼女の恋愛関係に関しての情報はあの瀬戸でさえも掴んでいなかった。
 だが彼女の素振りから見るに、当時は彼氏なんていなかったんだと思う。
 俺みたいな、性根が腐りきったような人間にもフレンドリーに接する辺り、性格は全くもって問題ない。俺から言わせれば、今でも成宮を越えるポテンシャルを持つ女性はいない。卒業アルバムの、一番に結婚しそうな人ランキングにも見事ランクインしていた。
 そのランキングを目の当たりにした時の希望を込めた心境を思い出すと、今では少しくぐもった息が込み上げる。
 卒業の直前まで俺と成宮は図書館で会話を交わした。彼女の影響で小説も読むようになり、俺の演劇に対する熱はさらに上がっていた。劇作家について語らうこともしばしばあり、その度に閉館時間ぎりぎりまで語り合って、よく図書館の司書には迷惑をかけていた。
 そして、名残惜しむ間もなく、俺たちは卒業の日を迎えた。
 俺たちは最後に、お互い気に入っていた本を交換した。
 彼女が渡したのは、海外のよく知らない小説家のハードカバー。
 俺が渡したのは、知る人ぞ知る『アルジャーノンに花束を』。
 今思えば、なかなかシュールな選択だったと思う。
 それでも彼女は、笑って受け取ってくれた。そしてまたいつか再開した日に、交換して感想を言い合おうと約束したのだ。
「少しの間だけど、とても楽しかったよ。ありがとう」
「こっちこそありがとう。成宮さんのおかげで、小説もたくさん読むようになったからな。少しだけ、世界が広がった気がする」
「そうそう。小泉君たら好きな小説のことになると熱く語りだすからね。制服のボタン掛け違えてることにも気づかないで」
「仕方ないだろ……好きなんだから」
「あはは、やっぱり面白い、小泉君。いつまでもそのままでいてね」
 それきり、俺と成宮が会うことはなかった。
 本音を言うことは、できなかった。
 俺は大学に入って直ぐに演劇部に入部し、そして彼女がレストランを継ぐという話でレストランではなくパティシエに興味を持って、なんとなくふらっと菓子屋『グラッチェ』でバイトを始めた。その時だけは、自分のことが見えていなかった。

 当時からもう、二年半が経とうとしている。

 再び、成宮に会いたいという気持ちが強くなった矢先、こうして俺は瀬戸から衝撃の事実を聞かされた。長くなったが、瀬戸が喋った直後、俺の頭の中にはこう言った過去の出来事が走馬灯のように流れて行った。
 俺は酔いで一瞬理解に苦しみながらも、鮮明に残る言葉を反芻した。
 成宮が結婚する。
 あの成宮が。
 誰とも付き合っていなかったという、あの成宮が。
「まさか、アルバム通り加奈子ちんが最初に結婚することになるなんてねー。」
「……相手とかは、一体誰なんだ? 全くそういう話は聞いてなかったが」
「なんかカフェのウエイターやってたら、バイトで入ってきた新人がいたんだって。その新人が近くの大学の文芸部員らしくて、すぐに意気投合したみたい。付き合うまでに時間はほとんど要さず、交際二年目にしてなんと結婚まで行き着くのでした! はい、拍手喝采」
 余りに情報量が多かったので大部分は割愛したが、流石は情報通の瀬戸、まるでその現場を監視していたかのごとく詳細まで話した。その緻密さたるや、披露宴での馴れ初めスライドで使えそうなほどだ。
「あの成宮が真っ先に結婚するなんて、意外っちゃ意外だな」
 焼酎の入ったグラスを傾ける。
「そうかなー? 気が合う人がいれば、すぐに結婚しちゃいそうだったけどね、加奈子ちん」
 俺はあくまで平静を装っていた。
 酔いがなければ恐らく動揺を隠せていなかっただろう。そりゃそうだ。先日存在を思い出して、再び思いが蘇り、貰った小説を読み返したりして、心が若干浮き足立っていたところに、結婚の報道が舞い込んだのだ。これで驚きを隠せずにいたら、そいつはきっとまともな人間じゃない。
 かと言って、俺がまともな人間だと言う保証があるわけではない。
「いやあ、あの加奈子ちんの嬉しそうな顔ったらなかったねー」
 瀬戸は言う。
「ホント純粋にプロポーズ喜んでたからね。お金も何も関係なく、ただ好きな人と一緒になりたいって言う気持ち。それを素晴らしいとは思わないかな小泉君」
 俺はしばらく虚ろな顔で固まっていたが、やがて口を開いた。
「そうだな。とても喜ばしいことだ」
「多分もうすぐ小泉君にも招待状来ると思うよー。クラスのみんなが集まるんだから、小泉君も絶対に来ること、いいね? 釘刺しとかないと忘れそうだから」
「ああ、もちろん」
 俺はそう答えることしかできなかった。
 その後に話した世間話はほとんど耳から耳へ筒抜けに流れて行ってしまった。
 十分ほどで瀬戸が去ってからも、俺はグラスを持ったまま、茫然自失と項垂れていた。酒も喉を通らない。こんな感情は初めてだった。喜びでもない、悲しみでもない、ただ、片思いを送っていた人が結婚していくシーンを想像した時、名状しがたい気持ちが俺の中で立ち込めていった。
 それは飲み会が終わってからも続いた。
 俺はその時初めて二次会を断り、真っ直ぐに家へと帰った。
 七畳の部屋に寝転ぶと、切れかけで明滅している蛍光灯がぼんやりと見える。それが瞼の裏で赤い残像になっても、布団の上で仰向けに転がって、枕にした手が痺れても、沈黙と一緒に眺めた。そうでもしていなければ、言葉を思い返して、胃の中身を全てぶちまけてしまいそうだった。俺は余計な考え事をすることもなく、薄い虚無感に包まれながら、睡魔がやってくるのを待った。
 そうして経つこと、数日。
 成宮の事を思い出しても、何の感情も湧き上がってこなくなった。
 過去の思い出に決別したわけではなく、純粋にどうでもよくなってしまった。長年耕した畑が台風ですべて吹き飛ばされた時の心境によく似ていた。作り上げた砂の城を踏みつぶされたような気分になった。
 吹き飛ばされたどこかに、成宮への想いはまだ眠ってはいるだろうか。
 それを掘り起こす気も起きなかった。

       

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