Neetel Inside 文芸新都
表紙

見開き   最大化      

 ……………………
 ……………………………………


 一人、金池の町を歩いている。
 昨日の大雨とは打って変わって、雲一つない晴天が覗き見える。今年は夏が少し早番のようで、気温は八月中旬並みに高い。陽炎もちらほら見える。
 駅周辺は企業の本社や支社が多く、高層ビルが群れを成して立ち並んでいる。昼前の時間帯は外回りの営業マンがそこかしこを走っていて、やっぱり日本人は働きすぎなんじゃないか、みたいなグローバルなぼやきも浮かんでくる。さて、本日のお仕事が十七時から二十二時の五時間である俺は、彼らに比べて勝ち組と言えるだろうか、それとも。
 答えは、俺には分からない。
 だが、社会は俺を負け組だとみなした。
 煙草に火をつける。昨日の雨で開けたばかりのマルボロスイートがお釈迦になってしまったので、今朝わざわざ買いに走った。やっぱりこの煙草を吸わないとすっきりしない。この甘ったるい、煙草を。枕が違うとなかなか寝付けない人がいるように、俺は煙草が違うとどうも落ち着かないのだ。
 紫煙は風を受けてたなびき、空に昇る。
 由紀は結局会社をクビになった。朝起きて連絡してみたが、電源が入っていないのか、返事はない。
 昨日家まで送った時、由紀の取り繕った笑顔が妙に不自然だったのが気がかりだった。由紀のあんな顔は、今まで見たこともなかった。由紀とは保育園から親ぐるみでの腐れ縁だが、ああいった表情は今の今まで、一度も。
 気になって部屋まで訪ねたが、出かけていて留守だった。ますます胸が騒ぐ。
 ひょっとしたら町にいるかもしれない。町をうろついていれば、もしかしたら出くわすかもしれない。可能性は否定できない。
 だから俺は、こうして何の目的もなく、金池を歩いている。


     【六月十日】


「おや、いらっしゃい」
 しばらく出歩いてみたがまったく遭遇する気配がないので、いったん区切りをつけるために俺は行きつけのカフェに入った。平日の昼間なので客は少ない。俺を含めて四人くらい、と言ったところか。カウンターに座っている客は誰もいなかったので、俺はカウンターの左端を陣取った。
「さーて、今日のご注文は?」
「カフェラテの、クリームマシマシキャラメルカラメで」
 カフェテリア『次郎』の注文方法は相変わらず独特だ。いつも同じものしか飲まないので、割と饒舌で言えるようにはなったが。
「マスター、なんか今日機嫌が良くないか?」
「ん? そうかい? まあ、ちょっとね」
 やられたらやり返してやる、というセリフで有名になった俳優に非常に似ているマスター。今日はいつもより上機嫌だ。機嫌が良いのに越したことはないが、こういう時は鬼のようにトッピングするから地味に困る。
「はい、お待ちどうさん! サービスでヘーゼルナッツもマシマシしといたよ」
 言ったそばから差し出されたのが、白き地層が堆く積みあがったカフェラテである。目視で三十センチはある。これ、どうやったらカフェラテ本体にアタックできるんだよ。まあ、スプーンでクリームをもそもそ食べるしかないのだが。
「気をつけてくれよ、油断するとバランス崩して倒れるから」
「じゃあこんなに盛るなよ!」
 弄ぶようにマスターは笑う。駄目だ、こんなんじゃ踊らされる一方だ。
「話は変わるが、君こそ今日はいつもより目が死んでいる気がするね。いつもは濁った魚の目をしているが、今日は死んだ魚の目だ」
 言いようはかなり酷いが、マスターはかなり核心を突いてくる。
「あー……、まあ、色々な」
「なるほどね。深くは立ち入らないけど、早めに解決しておいたほうがいいよ。そうでなければ、手遅れになるかもしれないからね」
 洗ったカップを磨きながら、諭すように言う。
「手遅れって、具体的にどんな?」
「さあね、それは私には分からないよ。君なら良く分かるだろう? 彼女が今どういう気持ちで、どうしようとしているのかを」
「ちょっと待て、なんでマスターが由紀のこと――――」
「おや、あれは何かな」
 マスターが窓の外を見やったので、俺は後ろを振り向く。見ると、カフェから程遠くないビルの下に、人だかりができている。
 誰か、有名人でも来ているのか?
 少しだけ気になったので、マスターに断り、俺はカフェから外に出た。
 民衆は誰もが、空を見上げていた。
 そして、俺も彼らと同じように、空を仰ぐ――――――――





 それは、茹だるように暑い、六月のことだった。






 一章「隣に居るということ」


       

表紙
Tweet

Neetsha