Neetel Inside 文芸新都
表紙

トゥモロー@メール
五章「闇が訪れてくるまでに」

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 いくら頑張ったところで、病院の窓から見える風景は変わらない。
 僕がそう気付いたのは、何も最近のことじゃない。身体を悪くして入院してからもう三年が経とうとしている。入院して三日目くらいにはその事実に気付いていた。
 こういう話を聞いたことがある。病室に二人の男がいて、ベッドはカーテンで隔たれている。片方の男は窓から外を見れるが、片方は見られない。だから見られる男はその風景をもう一人の男に伝え続けた。男はそれを喜んだけど、やはり自分の目で見てみたかった。窓を見れる男がある夜、病状が悪化した。もう一人の男はナースコールを押そうとして考えた。この男が死ねば、自分が窓から外の風景を見られるかもしれない。命よりも自分の欲を優先した男が、ナースコールを追うことはなかった。もう一人の男は間もなく死んだ。カーテンがなくなり、彼は念願の窓の外の風景を見られることになった。男は窓を見て愕然とした。打ちっぱなしのコンクリートが見えるだけであった。
 知らずに楽しんでいたほうが良いことがある。知らないほうが幸せだったこともある。
 こんなことになるなら、窓なんかないほうが良かったんだ。
「この間、変なメールが届いたんだ。明日生まれ変われたらどうなりたいかって。面白かったから、返信した」
「それで、なんて返したの?」
 姉ちゃんは、花瓶の花の水切りをしていた。
「生きたい。生きて外をまた走り回りたいって送ろうとしたら、最初の『生きたい』だけで送っちゃった」
「相変わらず抜けてるわね、圭太は」
 姉ちゃんはクスッと笑う。僕もつられて笑う。
「手術の日程決まったら、教えてくれるって。成功すれば、退院できるんだよ、圭太」
「もうその話は何回も聞いたよ。その手術を出来る人が少なくて、なかなか日にちが合わないんでしょ?」
「うん、そうなの……」
 伏し目がちになりながら、姉ちゃんは時計を見てハッと立ち上がる。
「あっ、もうこんな時間! ごめんね圭太、姉ちゃん仕事に戻らなくちゃいけないから、またね」
「うん、ありがとう、由紀姉ちゃん」
 僕はベッドから身体を少しだけ起こして、病室を出て行く姉ちゃんを見送った。
 姉ちゃんは最近社会人ってものになったらしくて、以前のように頻繁に見舞いに来ることはなくなった。社会人というのは忙しいんだって医者の先生が言っていたから、僕は少しだけ寂しくなった。
 病室でひとりきりというのは、思った以上に孤独だ。
 僕と同じくらいの歳の患者さんはいるんだろうけど、なかなか会わせてはもらえない。医者の先生や看護師さんが健診に来る度に色々話をしてくれるけど、いつまでもいてくれるわけじゃない。先生たちも社会人なんだから、仕方のない事だと割りきった。
 それにつけても、時間は余る。
 姉ちゃんの持ってきてくれた本を読んでも、ゲームをしても、気が晴れない。
 まだ外で走り回れていた頃はドッジボールとかサッカーをしていたから、その頃の記憶を刻みつけられたまま、こうしてほとんど動けない三年間を過ごしてきた。
 足を悪くしているわけじゃないから病院内なら保護者付きで歩けるけど、どうしてなのか、外に出ることは許されない。他の人は車椅子なんかで庭を散歩しているみたいだけど、僕は許されなかった。場合によっては病室からも出ることも許されなかった。
 だから時間が余れば、こうして窓から外の風景を眺めることしか出来ない。
 窓からは隣のビルの屋上が見えた。殺風景なところで、雨ざらしのコンクリートと貯水タンクくらいしか見えない。たまに用務員さんみたいな人が掃除に来るけど、それだけだ。
 だけど僕はこうして、窓の外を眺めることが多かった。
 どうしてかというと、隣のビルで、由紀姉ちゃんが働いてるからだ。
 お見舞いに来れない時は昼時になると屋上に来て、僕に向かって手を振ってくれる。そして同じ時間にごはんを食べるのだ。
 声が届かないので、食べ終わると姉ちゃんは手を振りながら去っていく。
 その瞬間がいつも寂しかったから窓の外を見るのをやめようと思ったけど、見ないのはもっと寂しかった。
 それ以外の時間にビルの屋上を見ても、変わり映えはしない。
 時間が過ぎていくのを待つことしか出来なかった。
 友達と遊んだりしていると時間の流れが早く感じて、もう少しだけでも一日が長ければいいのに、と思っていたけど、今の僕は相反する思いを抱いている。
 時計の針を見てると狂いそうだった。処刑方法の一つに「罪人の身体に水滴を落とし続ける」というものがあるらしいけど、同じことを繰り返すのをひたすら経験するというのは、想像以上に苦痛なものだ。
 ベッドのそばのテーブルに置きっぱなしになった雑誌を手に取る。
『就職氷河期! 新卒の首切り! 史上最大級の不景気か』
『またも空き巣被害 金池町で多発中』
『特集:今このお菓子屋がブーム! ~甘味処「グラッチェ」~』
 良いニュースも、悪いニュースもあるけど、目につくのはやっぱり悪いニュースばかりだ。就職氷河期? 新卒? どういう意味なのかは分からないけど、不景気が悪いことなのは知っている。空き巣は言うまでもない、犯罪だ。しばらくこの病院から出ていないので、空き巣が多発しているなんて実感はない。よっぽど悪い人なことに違いはないだろうけど。グラッチェというお店は知っている。時々由紀姉ちゃんがケーキを買ってきてくれる。なごみロールというロールケーキが、とても美味しいのだ。
 最近は日すがら、こうやって雑誌を使って暇をつぶしている。漫画を読むより時間を長く使えて、ゲームをするよりも世の中のことをよく知ることが出来る。携帯があればそれで暇つぶしになるかもしれないけど、働き手が姉ちゃんだけなので僕はまだ持っていない。姉ちゃんは買ってくれるとは言っていた。でも僕は入院費の事を考えて断った。こうして雑誌と向き合うだけでも、楽しいと思えるものだ。
 そんな時、あるひとつの記事に目がとまった。
『奇跡の作品!? ある大学生の描いた作品、未公開ながら専門家に好評 本人には連絡つかず』
「未公開だった、奇跡の作品……」
 胸が高鳴った。要するに、無名の大学生の描いた作品が、専門家によって高く評価されたということだ。
 それくらいのことなら、津々浦々で起きているかもしれない。しかしこの場合は少し状況が違っていた。
「本人には連絡が取れず、作者不詳で展覧会に飾られることに……!?」
 なんと、描いた本人はとうの昔に大学を辞めていて、連絡先が分からず連絡を取ろうにも取れないとの事だった。
 そんなことが実際に起こりうるのかと、僕は幾ばくか興奮した。少し胸が苦しくなったので、ゆっくりと深呼吸した。
 最近運動をしなくなってからというものの、絵を描くということに興味が湧き始めていた。
 足が動かない人でも、手が不自由な人でも、果てには目が見えない人だって、絵を描くことは出来る。どれだけ言葉が話せなくても、色彩感覚が常人より狂っていても、その絵が評価される可能性はある。これからどれくらいの間病院にいるのかも分からないから、動く必要のない趣味を持ちたいとは思っていた。
「絵を描く、かあ……」
 ベッドの傍らには姉ちゃんの買ってきたものを置いてあって、その中には色鉛筆とスケッチブックも入っていた。
 僕はおもむろにその二つを取り出して、布団の上に置く。
 どうせ時間があるのだから、絵を描いてみよう。そう決意した。
 しかし、どうも分からない。
「一体、どんな絵を描けばいいんだろう?」
 絵を描く人――画家なんかは、どういった気持ちで絵を描いているんだろう。まさか、適当にカンバスへ絵の具を塗りたくっているわけではないだろう。喜びとか、美しさとか、悲惨さとか、人が描く絵には何かしらのテーマがあるはずだ。ならば、僕は一体どんな絵を描けばいいのだろう。
 まったくもって分からない。僕はもう一度雑誌を開いて、その名前の無い画家の描いた絵を眺めた。
「何を描いていいか分からないから、とりあえずこれを写してみよう」
 何をするにも、まずは真似事から始めたほうがいいという話を聞いたことがある。
 僕は色鉛筆の中から良さげな色を手にすると、スケッチブックに走らせた。
 不思議と時間は、あっという間に過ぎていった。

     

 それからは毎日のように絵を描くようになった。
 姉ちゃんには申し訳ないと思ったけどごはんもすぐに食べるようにして、できるだけ全ての時間を、絵を描くことに費やした。朝は早くに起きてすぐに鉛筆を手にとった。夜は眠気が運ばれてくるまでひたすらスケッチブックに描き込んだ。一時期は食事も摂らずに描いていたけど、そのことで少し先生に咎められて反省した。でも気付いたら箸を茶碗の上に置いて、スケッチブックに向かってしまうことが多々あった。
 絵はひどい出来だった。ろくに練習などしてこなかったので、模写なんて到底出来なかった。何日もかけて、得体のしれない物体が並ぶ紙を次々と生み出していった。姉ちゃんはよく描けていると言ってくれたけど、それがお世辞であるということは自分自身が一番良く分かっていたので、度々反発するようになった。
 姉ちゃんは、僕がへこんだりしないように優しい言葉をかけることが多かった。幼いころはそうでもなかった気がするのだけど、ある日を境にそうなった。今は、どこか遠くへ行ってしまったという一番上の姉ちゃんに変わって僕の面倒を見ているから、自責の念があるんだと考えていた。
 そういう考えが、僕は嫌いだった。
 由紀姉ちゃんの、唯一嫌いな点だった。
 甘やかしすぎるのだ。残された家族だからといって、僕に対して甘すぎる。友達と喧嘩をして僕が明らかに悪かった時でも、姉ちゃんが僕を叱責することはなかった。何かと理由をつけて僕に非がないことを教えられてきたけど、僕はそれが欺瞞だと気付くまでに成長してしまった。長く入院して色んな雑誌を読んだおかげで、そこらの中学生より知識や教養があるとは思っていた。姉ちゃんはそれに気付いていないのだ。
 だから僕が下手くそな絵を描いても、上手い上手いとお世辞を吐く。
 今日だって、そうだ。
 見舞いに来てくれた時、僕は相変わらず模写を続けていた。
 絵の出来は、変わり映えしなかった。
 それでも姉ちゃんは、こう言ったのだ。
「段々、上手くなってるね。この調子だよ」
 僕はその言葉を聞いた瞬間、全身の血液が頭に集まってくるような、奇妙な感覚を覚えた。
 途端、僕は無意識に姉ちゃんに向かって色鉛筆を投げつけ、大声で叫んだ。
 なんでそんな言葉をかけるんだ。上手くなってないのは自分で分かってるんだ。嘘なんてつかなくていいんだ。嘘をつく姉ちゃんは嫌いだ。帰ってくれ。顔も見たくない。もう見舞いにも来なくていい。僕のことは放っておいてくれ。
 それ以外にもたくさんの罵声を浴びせた気がする。
 消し去りたかった記憶のようで、詳しくは覚えていない。
 駆けつけた看護師に宥められても、僕は言葉を吐くのを辞めなかったという。
 由紀姉ちゃんは何度も、ごめんねごめんねと謝りながら、病室を出て行った。
 そして今になって、それを思い返して、僕は少しばつの悪い気分になって、窓の外を眺めた。
 ぱっと見では、何を描いたのか分からないスケッチブックが視界の隅に落ちている。これ以上あの絵の模写を続けるのは難しいと僕は思った。もう絵を描くことには慣れてきたから、模写じゃなくて、違う何かを描こう。
 そう考えていた時、病室に医者の先生がやって来て、こう言った。
「気分が晴れないなら、屋上で絵を描いたら、どうだい?」

 結果から言うと、先生の提案は大成功だった。
 僕はこの日から、時間は限定されながらも車椅子に乗って一人で屋上に行くことを許された。僕の病室が屋上のすぐ近くだから、行き来が一人でも出来たからというのもある。
 まず、それだけでも筆舌に尽くしがたい物があった。狭い病室から外の空間に出ることが出来たというだけでも沈んでいた心が晴れ晴れしたし、何と言ってもしばらく目の当たりにしていなかった大空が、一番の喜びだった。
 ところどころに雲を散りばめながら、青い空が頭上に広がっている。病院の屋上は隣のビルよりも少しだけ高く、この街でも有数の高層建造物だったので、街を一望することも出来た。さすがに夜間は屋上には出られなかったけど、もしもこれたなら最高の夜景が見られるだろうなと思っていた。
 だけど、見られなくても十分だった。
 こうして青空の下で過ごしているだけで、たまらなく幸せだったからだ。
 同時に、僕の描きたいものは決まった。
「青空と、この街の風景を描こう」
 金池町は近年、地方都市化というものが進んで、どんどんビルが立ったり田んぼがなくなっているらしい。そんな街の風景を忘れてしまわないように、大好きなこの街の風景を失くさないように、このスケッチブックに閉じ込めてしまおう。
 僕は固く決心し、心躍る気分で色鉛筆を手に取った。
 その日初めて描き上げた絵は、今まで描いてきたどの絵よりも。
 ずっとずっと強く、僕の心に焼き付けられた。

     ○

 その日も僕は絵を描くために、屋上へやって来ていた。
 今日はなんだか調子が良くて、いつもよりも大分速く描き上げることが出来た。相変わらずお世辞にも上手いとは言えないけど、描いているだけで楽しくなれたからそれで良かった。
 一人で絵を描くという行為はひどく孤独なものに思えるかもしれないけど、僕にとって絵とは自分の世界を、見聞を広めてくれる世の中との媒体のようなものだった。
 ある絵の中にはアドバルーンが描かれている。街を歩く人はそれを見ているかもしれない。
 ある絵の中には鳥の群れが描かれている。もしかしたら誰かがそれに餌付けをしたかもしれない。
 街の中にある確かな変化は、僕のスケッチブックの中に息づいていた。それだけでも、嬉しくてたまらなかった。
 鼻歌を歌いたくなる思いになりながら、僕は病室に戻ることにした。
 自分の病室がある廊下に差し掛かるかというところで、僕は病室の前に誰かがいるのに気付いた。
 医者の先生と、由紀姉ちゃんが話し込んでいるようだった。
 あの日以来、由紀姉ちゃんはめっきりお見舞いには来なくなった。僕は少し寂しい気分になったけど、その分姉ちゃんは仕事に専念できるんだと自分を説き伏せていた。
 久しぶりに姉ちゃんが、お見舞いに来てくれたんだ。
 あの日のことをずっと謝りたいと思っていた僕は、先生と姉ちゃんが話し終わるのを見計らった。
 そして、言葉が出なくなった。

「どうしても駄目ですか……先生」
「そうだねえ……。いくら由紀さんの頼みとあっても、これ以上はさすがに……」
 医者の先生は、悩ましげに俯いていた。
「以前から言っていたことだけど、弟さんの病気を治すには莫大な治療費が要るんだ。しかもその先生は前払いしか受け付けていなくてね……。日本で治せる人はその人位のものだから、これ以上入院費さえ払うことが出来なければ、弟さんが治る見込みは限りなくゼロに近いんだよ。だから、半ば強制的に退院してもらうことにもなりかねない」
「お金があれば……大丈夫なんですか……?」
「それは私が保証しよう。私も昔難病を患って、その先生に助けていただいたからね」
「分かりました。何とかして、お金は工面します。なので、よろしくお願いします」

 話の全ては聞き取れなかったけど、余計な知識と教養がある所為で理解できた。
 僕の治療にも入院費にも、とんでもない額の費用がかかり、姉ちゃんはたった一人でそれを工面してきた。
 だけどそれにも限界が来て、治療費を払えなければ僕は強制的に退院させられるということだった。
 それがどういうことなのか、嫌でも分かった。
 話を盗み聞きしていたのを悟られないように、僕は精一杯笑顔を取り繕って、病室に戻った。由紀姉ちゃんはもう帰った後だった。僕は先生にお願いして、しばらく病室に一人で絵を描きたいと言った。
 窓の外から見える空は、一転、曇り模様になっていた。
 僕は泣いた。
 いろんな理由の混ざった涙を、流した。

     

     ○

 ある日の夜、一人で考えた。
 僕がこれ以上治療を受けられなくなると、病気が悪化して、死に至る。今はそうなってしまわないように、毎日の注射とか点滴で、それを先延ばしにしているんだと思う。三年間続いてきたことだ。これが治療だと思ったことはなかった。治療というのはあくまで病気を治す行為だ。僕に施されているこれは、あくまで「延命作業」に過ぎない。
 僕はこれからも、その延命作業をいつまでも、続けていくのだろうか。
 そう考えると、ゆきねえちゃんにお世辞を言われた時と同じような、不快な気分になった。
 自然論みたいな、そんな論文を雑誌で読んだことがある。
 人が病気にかかって死んでいくのもまた自然の摂理の一つであり、食物連鎖を構成する上ではそれを阻害することを許されない、と書いていた。動物だって傷を癒やす術は持っているだろうけど、病気を治す手段は持ち合わせていないだろう。例外はいるかもしれないけど、多くの生き物はきっとそうだ。
 恐らくそれは自然の中で生きる掟であり、病気が蔓延するということはすなわち朱の絶滅を意味するんだと思う。
 そして、人間という生き物はそれに真っ向から逆らう、唯一の生き物。
 このままだと死んでしまうかもしれない。
 そこで死を受け入れていこうとするのは、動物の本能。
 そこで死を迎え入れず延命していくのは、人間の本能。
 僕が陥っている状況は、まさに後者のそれだ。
 僕はそれをひどく嫌った。死を受け入れないというのは、逆説的に生きているということを否定しているような気がして、嫌な気持ちになった。死はどんな生き物にも平等に与えられるのだから、平等に受け入れるべきだ。人間だけがそれに抗おうとするのは、どこかおかしい。
 だからといって、病気の人がみんな死を受け入れろとは言わない。
 現実問題、僕も死という現実を目の当たりにしてからというものの、震えが止まらない。最近、点滴や注射の回数が減ってきたのも、今まで禁じられていた屋上に出してくれるようになったのも、何か理由があっての行為のように思えてきた。少し前まではそれも「病状が良くなってきたからかもしれない」と明るく考えられていただろうけど、今はその反対としか思うことしかできなくなっていた。
 約束を破って、僕はこっそり、夜の屋上へ行く。
 黒の絵の具で塗りつぶしたように暗い。さっきまで雨が降っていたようで、空気がとても湿って、澄んでいた。空の星が見えない代わりに眼下では色とりどりの明かりが輝いている。
 少し遠くに見える赤い光の群れは、屋台横丁のものかもしれない。 
 何の気なしに車椅子をこぎ、屋上の端までやってきた。そこで、一つの考えがよぎる。
 ――このまま飛び降りて死んでしまえば、僕も由紀姉ちゃんも救われるかもしれない。
 姉ちゃんは恐らく、働いて得た給料を僕の入院費につぎ込んでいるのだろう。それならば僕が死んでしまえば、悲しむかもしれないけど姉ちゃんの負担は軽くなる。姉ちゃんはひどく塞ぎこむかもしれないけど、それで少しでも変化が訪れるのなら、延命作業みたいな変わり映えしない、それこそ窓から見える風景よりこうして屋上から見える風景のような、変化のある方がいいかもしれない。
「僕が死ぬことで、何か変化が生まれるほうがいいんだ」
 空を見上げて呟いた、その時だった。

「貴方の考え方が間違っていると、大口で否定するつもりはありません」

 突然聞こえたその声。
 僕は慌てて周りを見渡してみたけど、闇に包まれているせいでその声の主を見つけることは出来なかった。
「もう夜になりますが、ハロ! また雨が降りそうなので、屋内に戻ったほうが良いですよ。このまま外にいてベンチに座り込んでいたり、女の子を連れて走ったりすると、間違いなく風邪を引きます」
「一体、誰ですか? なんで、こんなところにいるんですか? 僕に何か用でも?」
「積もる質問はあるでしょう。でもお答えはできません。貴方が解決すべき問題はそんなことではないからです」
 その、どこかひょうひょうとした声の主は、饒舌に言った。
「貴方はその命を絶つことで延命というメビウスの輪を解き、日常に変化を持たせると言いましたね。しかしそれで本当に変化が生まれるでしょうか。生まれたとしても、それは良い変化でしょうか、悪い変化でしょうか」
「両方……じゃないのかな。僕が死ぬのは悪い変化だろうけど、姉ちゃんの負担が減るのは良い変化だ」
「確かに貴方視点ではそうです。ではそれをあなたのお姉さん、由紀さんの視点で考えるとどうでしょうか。由紀さんは貴方の治療を続けてもらうために今日まで働いてきました。生きがいのようなものです。しかし貴方が死んでしまえば治療費を払う必要はなくなる。そこで、やったーもう治療費を払わなくていいんだ自由だー、という気持ちになるでしょうか? いいえ、なれるわけがありません」
 僕は二の句が告げなかった。
 なぜこの人が姉ちゃんの名前を知っているかなんて、尋ねる気にもなれなかった。
「貴方は生きなくてはならないのです。おこがましいようですが、貴方が死んだところで良い変化は起こりません。それは誰にとってもそうです。死とは悲しいものです。良い変化を生む場合もありますが、多くが悲しみ、憎悪、絶望……悪い変化を生んでしまいます」
 声の主――――少し声の高い男は、咳払いして続ける。
「しかしそれでも、この世には死を選ぶ人がいます。多くの場合は他人のことを顧みず、己の欲求のままに死んでいます。死して周りに迷惑をかけようがかけまいが構わないという人々ですね。悲しいことですが、かなりの数を占めています。
 そして――それとは正反対の人々もいます」
「正反対の、人々?」
「ええ」男はふふっと笑いながら。「他人の事ばかりを考えて、自分のことはなおざりになっている人々です。貴方のお姉さんのように無償の愛を提供する、現代では非常に稀有な存在。そんな人々は往々にして愛すべき人を助けるために――――守るために、死を選択します。僕はそれをとても尊く、美しい行為だと思います」
 確かに、由紀姉ちゃんは僕をいつも助けてくれていた。
 だけど。
「それが何か、関係しているんですか?」
「さあ。僕は貴方の道標とはなりますが、答えは提供しません。オードブルを差し出すことは出来ても、メインディッシュを提供するだなんておこがましいことは出来ません。答えを見つけ出すのは、貴方自身です。それでは」
 男は一回だけ、靴の底か何かで足元を打ち鳴らして。
「貴方に素敵な明日が訪れるよう、願っております」
 それきり、声は聞こえなくなった。
 しばらく狐につままれたように唖然としていたが、暗闇に慣れた目で辺りを見渡しても、僕以外には誰もいなかった。
 小さな雨粒が、ひとつ、鼻の頭を打った。
「……幻聴?」
 俄には信じられなかった。幻聴なんて、今まで経験したことも、話に聞いたこともない。だけど、状況的にそう思わざるを得ない。僕は納得がいかなかったけど、雨が降りそうだった、あと先生に見つかるのも嫌だったので、病室に戻ることにした。
 ぎい、と音を立てながら車椅子をこぐ。
 幻聴かどうかはわからないけど、つまり彼はこう言いたかったのだろう。
 由紀姉ちゃんは僕のために尽くしてくれている。
 だからその姉ちゃんを悲しませないためにも、僕は生き続けなければならない。
 考えてみれば、当たり前のことだ。どうして今まで、こんな簡単なことを考えつかなかったんだろう。いや、内心分かっていた。分からないふりをしていた。あの妙なメールに対して、『生きたい』と返信したことを思い出した。
 僕は、生きたい。
 生きて、僕を今まで助けてくれた由紀姉ちゃんに、恩返しをしたい。
 僕は改めて、そう決意した。
 雨の降りしきる、暑い暑い夜のことだった。


     

 ゆっくりと昼過ぎに起きて、僕は寝ぼけ眼を擦りながら屋上に向かっていた。
 不思議と、気分は晴れやかだった。
 昨夜の一件で心のどこかに居座っていた黒い影が消えてしまったような、そんな感覚だった。
 今日なら、今までにないくらい良い出来の絵を描けるかもしれない。
 そう考えた僕は、居ても立ってもいられなくなって、昼ごはんを早々に済ませてスケッチブックと色鉛筆携え、屋上へのエレベーターに乗り込んだ。
 もしこれから由紀姉ちゃんがお見舞いに来たら、きちんと謝って、話を聞いたことも言ってしまおう。
 そして二人でこれからのことについてしっかりと話し合った上で、闘病生活を続けていこう。
 今日は仕事が終わってから来ると聞いていたので、僕はそれまで屋上で絵を描いていることにした。
 昨日、何となく今まで描いた絵を見返していたけど、どの絵もどこか暗く陰鬱なものがあった。やはり、何を考えていてもどこかネガティブなところがあったんだろう。知らず知らずのうちに黒を多用している節があった。
 こうして、過去の自分を客観的に見られているだけでも、僕は変化できている気がする。
 後ろを振り返るということはあまり好きなことじゃないけど、今ばかりは大事なことだと思えた。
 明日の僕を、変えていくためにも。
 そんなことを考えながら、僕は屋上の扉を開けた。
 いつも通りの風が吹いている。いつも通りのコンクリートの床、いつも通りの鉄柵が見える。初めて見た時は新鮮だった風景も、今では見慣れたものになってしまった。でも、空は違う。晴れだったり、曇りだったり、雨だったり。鳥が飛んでいたり、ひこうき雲が走っていたり、空は毎日、その姿を変える。僕はそれを心待ちにしていた。
 だけど今日は、いつも通りではない風景が、そこにはあった。
「あれ? 誰かが立っ、てる……!?」
 見た瞬間、背筋を怖気が走った。
 病院の屋上からほど近い、隣のビルの屋上。
 そこに、スーツ姿の誰かが立っている。風に、その長い髪を揺らしながら。
 状況が尋常でないことは、すぐに分かった。
 その立っている場所が、屋上を囲む鉄柵の外側、だったからだ。
 どうしてそんなところに立っているのか。その理由は、考えるまでもなかった。
(飛び降り自殺――――!)
 全身から汗が吹き出し、心臓が早鐘を打った。
 僕はあわてて屋上の端まで車椅子を走らせ、鉄柵越しに、飛び降りようとしているその人を見た。
 そして、引きとめるために口元まで上らせていた言葉を、口に出せずに、目を見開いた。
 見覚えがあった。今まさにビルから飛び降りて、自殺しようとしている人に。
 いや――見覚えがある、なんてレベルでは、なかった。
「由紀姉……ちゃん?」
 由紀姉ちゃんが、屋上に立っていた。
 鉄柵を越え、今にも飛び降りそうな状態で、柵に寄りかかっていた。
「由紀姉ちゃん!!」
 僕は出来うる限りの大声で叫んだ。
 しかし、姉ちゃんはこちらを振り向くことなく、呆然と足元だけを見ていた。
 口元が少し笑っているような気もした。
「姉ちゃん!!」
 いくら呼びかけても、
 近くまで走り寄っても、
 姉ちゃんは足元の――――数十メートル先の地面だけを、見ていた。
 そして――――

 姉ちゃんの身体がゆっくりと傾き、ビルの屋上から真っ逆さまに落下した。

「姉ちゃあああああああああん!!!!」



     【六月十日】


     ■

 屋上からの風景は壮観だった。車も人も、小さな蟻のように見えた。みな、汗水流して、弊社のために、お客様のために働いている。四〇余年の時間を、誰かのために潰している。辞めたい死にたいと、何度も考えながら。
 その中でも私は、生きる価値をなくした、どうしようもない元働き蟻だ。
 職を失った。新入社員の中でも失敗の多かった私は目くじらを立てられ、大量首切りの餌食になった。
 弟が生きていくための、お金のあては尽きてしまった。智志に心配は掛けたくなかった。出来るなら自分の手で、圭太を救ってあげたかった。だけど仕事を首になってしまっては、どうしようもない。私は一人、咽び泣いた。
 そんな時見つけたのは、箪笥の奥に仕舞われた生命保険の用紙だった。
 私の名前が、書かれていた。
 天にも昇る気持ちになった。私が死ねば、それが自殺であろうと圭太に保険金が支払われるのだ。
 なんでこんな制度に今まで気が付かなかったんだろう。
 そうすれば、圭太をここまで苦しめることはなかったのに。
 圭太があんなに怒るまで、ストレスを溜めさせなくて済んだかもしれないのに。
 私は馬鹿だ。大馬鹿だ。弟に多大な迷惑をかけてしまった。
 今際の際、弟が病院の屋上から、私のことを呼んでいた。
 ありがとう。最期の時まで駆けつけてくれて。嬉しいよ。
 圭太、圭太。私の大好きな、圭太。
 もう、大丈夫だよ。
 今、自由にしてあげるからね。
 私はひとつ深呼吸すると、全身の力を抜いて、前に倒れこんだ。
 風が優しく私を包んでいって、私の身体はすうっと、人だかりの中に飛び込むようにして落ちて行く――――。


     ▽

「そうして、全ての時は交わるのです」

       

表紙

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Neetsha