Neetel Inside 文芸新都
表紙

トゥモロー@メール
六月十日

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 かり、と軽快な音を立てながら、とり天はみるみるうちに私の胃袋へ吸い込まれていった。
「ごちそーさま」
 つまようじで歯の間をこそぎながら私は店を出る。空が眩しい。ヒキコモリの私にとっては恨めしいほどの晴天模様だ。まあヒキコモリと言ってもこうやってネットサーフィンの合間合間で外出するので、どちらかというとニートよりのヒキコモリというのが正しい。現実味を帯びた言い方をすれば働いているカレシのヒモであり、私の見立てが正しければ今は専業主婦の見習いをしているはず。というかそうでないとなだらかに死ぬ。ヒキコモリという字からヒモという字を抜くとキコリになるけど、残念ながら私の名前は妃子だ。
 ニートと言っても、働いていないというわけじゃあ、ない。
 私は今、漫画を描いている。アパートの一室でがりがり原稿用紙に向かいつつ、気晴らしに飯食いに外に出ているということだ。これは漫画家という職業を目指す立派な就職活動だ。そう言ったら色んな人に怒られた。間違ったことを言っているつもりはない。努力のベクトルが違うだけで、私もまた輝かしい未来の為に努力しているのだ。
 と、いうのが大義名分。
 まあ、なんというか、単刀直入に言うと何をすればいいのか分からない。
 大学生時代は就活をしていた。なんとか一社から内定をもらって無事卒業までこぎつけたけど、一年ほど働いてみて、ああ、私は働くということに対して何の喜びも持ってないんだなということが分かって、辞職した。それからは趣味だった漫画を描き続けてみたけど、何も変わらない。パソコンに映る画面が小難しい文書から小難しい絵に変わっただけだ。働くのが楽しくない、というわけではなかったのが分かった。ある意味で毎日に絶望していたんだ。
 会社員になって、社会貢献に精を出したというわけではない。
 ニートになって、絵が格段に上手くなったわけでもない。
 少なくとも、根幹にある私自身は、どこも変わってなどいなかった。
 積み重ねられるのは、無為に過ごしていく日々と、自分の年齢。
 この自堕落な生活を一生続けていく(続けられるとも限らない)と考えただけで、寒気が止まらなかった。
 だからといって、何をすればいいのか、私には分からない。
 いつか私にも、こんな小難しいことが分かる日が来るのだろうか。
 そんなことを思い浮かべて、私は金池の街を闊歩していた。
 そういえばさっき、街の中心部の方で小さな人だかりみたいなものが出来ていたなあ。あれは一体、何だったんだろう。
 警察でも来てはいないかと、私は人だかりの出来ているビルを見つけ、野次馬精神たっぷりに近づいていく。人だかりはなくなっているどころか、さっきよりも多くなっている。誰か有名な人が来ているのだろうか。それだったらサインの一つでももらえるかな。
 楽観的に考えていた私の頭に。
 その情報は突然飛び込んできた。
「屋上に、人がいる!」
 背後に立っている人が、そう叫んだ。
 どこの屋上に誰が立っているのか。私は目が覚めた思いになって、空を見上げた。
 角砂糖に蟻が群ぐように人がひしめいている、ビルの上の方。
 屋上に――――人が立っている。今にも飛び降りそうな状態で、屋上の柵にもたれかかっている。それを見上げる人々はどうしようどうしようと慌てふためき騒いでいる。
 嫌な予感が、脳裏をよぎった。
「飛び降り自殺――――!」
 その人の足がビルから離れると同時に、私は反射的に駆け出した。
 走りながら考えた。私は何で走っているのか? 決まっている。あそこから飛び降りている人を救うためだ。待て、そんなことが私に出来るのか? いや、助けなきゃいけないんだ。助けなければならないんだ。だって――
「命をそま「命を粗末にするなあぁーっ!!」
 途端、私の小さな叫びは、後ろから聞こえてきた大きな主張に上書きされた。
 肩をすくめる私の横を、古びたジャケットを着た男が走り抜けていく。ヒキコモリの私と違って男の足はするすると人込みの中を縫っていった。どうしてこんな人込みの中を容易に走って行けるのか。余程、何かを追ったりはたまた何かから逃げるのに慣れているに違いない。
 いつの間にか私は足を止めて、目の前の光景だけに意識を向け始めた。
 交通事故に遭った時感じるというスローモーな世界と言うのは、こういうのを言うんだろうか。視界が揺らいで、モノクロトーキーのように世界がコマ送りになる。飛び降りて、頭から地面に垂直落下していく人の姿。よろけて地面に倒れそうになる私。ドーナツ型の人込みに投下される人体。私に肩をぶつけて、警官姿の、誰かもわからない男がまた一人、人込みの中へ。
 直後、肉塊を思い切り壁にぶつけたのに近い、鈍い音が金池の町に響いた。
 どよめきが起こる。緊張と叫びと悲鳴とで満たされていた野次馬が、一斉に思い思いの言葉を連ね始める。私の見えないところで、何かが起こったみたいだ。あの音は何だったんだ。何が――いや、誰が何に、ぶつかった音なんだ。
 貧弱な腕で、人込みを掻き分けていくと、少し開けた場所に出た。アスファルトの地面が、十人十色の靴で縁どられている。
 私は目を見開いて、立ち尽くした。
 私の横を駆け抜けていった男が、咳き込みながら、女の人を抱きかかえていた。


     ▽▽▽▽▽▽


「あー……こりゃ、二本か三本は逝ったかな」
 茹だるように暑かったのが嘘みたいだ。唐紅のお天道はじりじりと照りつけているというのに、身体はひどく冷めている。アースに電流が流れていくように、俺の体温も前進から噴き出たあぶら汗に混じって解けだしていった。
 肋骨は何本か折れただろう。微かに走る痛みがそれを告げていた。恐らくはそれだけじゃない。踏んばった足も筋を痛めているだろうし、最悪折れている。腕もどちらかポキリと逝ったかもしれない。ああ、右だ。右が折れてやがる。参ったな、これじゃこれからどうしたもんか。しかも優子を人込みのそばに置いてきてしまった。誰かに連れ去られてないだろうか。心配だ。人間、大怪我を負う事故に遭った時、痛みとかそういうことよりもまず目先の心配をするらしいが、本当だな。痛みなんてどうでもよくなってきた。
「どうして……」
「ん?」俺が身を挺して間一髪で助けた女性が、静かに呻いた。
「どうして助けたの……私を……」
「そりゃあ、飛び降りている人がいたら、助けるのが人の道だろ」
 もっとも、あるアメコミヒーローはそれで非難されることになったけれども。
「どうして……私が死なないと……助からないのに」
「そうか。自分の命を賭してでも守りたいものがあるんだな、アンタには。俺にもそういうものがあったなあ」
 おっと訂正。今もある。
「私が死ねば……弟は助かるのに……! どうして、どうして助けたの!」
 俺の腕を振りほどき、スーツ姿の女性は激昂気味に叫んだ。
「私が死ぬ! そうすれば保険が下りる! 弟の入院代、手術費が払える! 弟の病気は治る! それで全てが上手くいくの! だからそのためなら自分の命なんかいくらでも差し出すのに、どうして邪魔をするの!」
「そんな、俺が人非人みたいな言いぐさは止してくれよ」
 俺は起き上がって服についた汚れを払……えない。身体がいうことを聞かない。あー。どうも肉体は痛みで支配され始めたみたいだ。意識はいやにはっきりしてるって言うのに、視界は微睡がかって暗くなる。少々無理がたたったみたいだ。神経を擂り潰す痛みに押し切られる。
 俺は身じろぎ一つできないまま、ゆっくりと世界から隔離されていった。
「命を賭して、守りたいものを守る、か」
 誰かがそう呟くのを聞きながら。

「……あんたの考え、俺は正しいと思う反面、間違っているとも思う」
 意識を失った男と、その傍らにへたり込んでいる女性。初めは何が起こっているのか理解が追い付かなかったが、追いかけていたヒロトが女性を受け止めてその衝撃で地面を転げていったのを見て、全てを察した。
「おう、俺だ。金池一丁目中央通り××記念病院近くで怪我人が発生した。至急、救急の要請を頼む」
 携帯で同僚に連絡しながら、俺が直接一一九に掛けた方が早かったかなんてことを考えていた。ヒロトはまあ、大丈夫だろう。このくらいで死にはしない。
「話しの腰を折って悪いな」
 俺は俯く女性の傍らに屈んだ。
「弟さんを、命をかけてでも守りたい。分かる、分かるぜ。その気持ちは痛いほど分かる。その考えは間違っちゃいない。だけどな、警察官と言う立場としても、一人の人間としても、それを行動に移すという考えだけは肯定できない」
「どうして? 大切な人のために命を落とすことの、どこが」
「自分が死んだ後の、その人の事を考えたことがあるか?」
 涙をぼろぼろこぼしていた女性の口が、ぴたっと閉じる。
「命を賭けて守りたいものがあったとしても、その最後……命だけは絶対に捨てちゃいけない。論理的に言ってみようか。愛しているから命を賭けるのが正しいとすれば、命を賭けないから愛していないというのは正しいとなる。ん、ちょっと分かりにくくなったかな」
 まあ、なんだ。俺は頭を掻きながら言った。
「言ってただろ。そこにぶっ倒れてるバカが、『命を粗末にするな』って」
 慣れないことをするもんじゃないな。
 俺は救急車のサイレンを聞きながら徐に立ち上がった。
「しかしまあ、なんだ。なかなか分かったもんじゃないよな。大切なものに命を捧げてはいけないとあっちゃあ、俺もどうしたもんか悩んだもんだ」
 声をかけるでもなく、かといって独り言なわけでもなく、俺はやけに早く駆けつけた救急車を見て思った。
 ああ、ここ病院の真ん前じゃないか。
 下手こいた、と時代遅れな芸人を思い出しながら、俺は雑踏に紛れていった。
 俺にはまだ、しなければならないことがある。
「大切なものをどうするかなんて……そんなの、決まっている」
 すれ違った誰かが、そう言った気がした。

「答えはひとつだ。父さんに昔、教えられた」
 タキシードに身を包んだ俺は人込みの中では妙に浮いた存在だったが、それでも構わず、俺は仰向けに倒れた男と、涙に顔を歪める女の人を見下ろしながら言った。
「大切なもの――大切な人に対して、出来ること。それは、大切な人の幸福を“喜ぶ”ことだ。そのためなら、ある程度の犠牲を払ってもいいと俺は思う。だけど、死んで消えてしまったらだめだ。喜ぶことが出来ないから」
「でも、命を捨てないと、その幸福だって、ないのよ」
 女の人は涙を拭いながら、俺の言葉に反証を挙げた。
「私が死ぬことで初めて救われるの。だから命を捧げることの、何がいけないの」
「分からない。俺はあんたのことを知らない」
「だったら、余計な口出しをしないで。私のことなんて、何も知らないくせに」
 俺は胸ポケットに入れたマルボロスイートを取り出しながら。
「確かに、今出会ったばかりの俺が何か偉そうなことを語る資格はないかもしれないな。悪いな。だけどなんというか、見過ごせなかったんだ、これが。急ぎの用事があるからさっさと行っちまおうとも思ったけど」
 紫煙はゆるやかにたなびきながら、空へ、空へ。
「俺は今から、大切な人の幸福を祝いに行く。それが俺の、大切な人に出来る唯一のことだからだ。あんたにもそんな人が――そんな風に思ってくれる人が、いるだろう」
 あ、俺今すごくクサいこと言おうとしているな。
 少し笑いそうになりながらも、俺は言葉を紡いだ。
「あんたが大切に思う人がいるように、あんたを大切に思う人だっている。見知らぬ俺が言うのもナンセンスだけどな。おっと、時間だ」
 式の時間が迫っている。のんびりしている場合じゃない。
 俺は俺で、面白そうな事を思いついてしまったんだ。
「じゃあな。そんな人がいるといいな」
 駆けつけた救急隊員と入れ違いになりながら、俺は野次馬から足を外す。
「由紀! お前何してんだ!」
 ひときわ大きな声が聞こえたのは、俺が人込みを抜けたくらいだっただろうか。
 太陽は相変わらず輝いていた。

 定義で言えば、名前の知らない通りすがりの人は他人。
 いつも同じ場所で見かける、それでも名前を知らない人は知人。
 名前を知っていて、いつも一緒にいるべき存在は、隣人。
 では、一体俺の隣人とは、誰だったのだろうか。

「――――由紀!」

 人の海を掻き分けていって、行きついた先で、ようやく大事を起こしているのが由紀だと分かった。隣では見知らぬ男が汚れた服と共に寝転がっていた。すぐに救急隊員に担架で運ばれていったけど、彼が助けてくれたんだろうか。
「お前何してんだ、ビルの屋上から飛び降りるなんて」
「智志……」
 気丈な由紀の顔は、涙と鼻水でぐちゃぐちゃになっていた。
 それでも俺は、必死の思いで由紀を抱き寄せた。
「何がそこまでお前を追い詰めたんだよ。まあお前のことだから、最近あまり話を聞かない弟に何かあって、そのために自殺しようとしてたとかそんなことだろうけどよ。何がどうだとか詳しいことは分かんねえけど」
「ど、どうしてそこまで」
「だいたい分かんだよ、お前がとりそうな行動は」
 腕の中で、由紀の身体が震える。
 ああ、やっと分かってきた。俺の生きていく意味と、理由。
「もっと、頼れよ。俺を。そりゃ、しがないコンビニの店員とかクソみたいなことしかやってねーけどよ。お前のこと誰よりも知ってるのは俺だ。俺のこと、誰よりも知ってるのもお前だ。先ず俺を頼らねーでどうするんだ。こう見えても俺、生活はケチだから貯金はあるんだぞ」
「……何それ、バッカみたい」
「馬鹿でもなんでも構うもんか。俺はもう、決めたぞ」
 由紀が、俺の服の裾を強く握った。
「俺は、お前を守って、生きていく。お前と一緒に今を歩いて、明日を夢見て、生きていく。俺が決めたことだ。嫌だなんて言ったって連れて行くからな」
 あ、俺今すごくクサいこと言っているな。
 周囲の視線がいささか気になったが、次の瞬間、そんなのはどうでもよくなった。
「……ホント、バカで強情なんだから、マリオは」
 由紀は、瞳をにじませながらも、能天気な笑顔を浮かべた。
 そうだ。実に短絡的だけど、これでいい。
 このまま一人で生きたところで、というか、どんな生き方をしたところで、何十年かすれば俺は老人になって、朽ち果てる。だったらその時寂寞に包まれないように、変わっていくしかない。
 “隣人”と一緒に、生きていけばいい。
 周りから、ささやかな拍手が聞こえたような気がした。
 がんばれと、声をかけられたような気もした。
 ああ、こうやって由紀を抱き寄せているだけでも幸せだな、なんて童貞みたいな考えを巡らせながらも、俺を引っ掴む由紀のささやかな胸の感触を押し付けられて、調子に乗っているのもやっぱり童貞だなーと思った。
 それは、暑い六月十日のことだった。





 六月十日:時の記念日
 東京天文台(現 国立天文台)と生活改善同盟会が1920年に制定。日本書紀の天智天皇10年4月25日(グレゴリオ暦6月10日)の項に、「漏刻を新しき台に置く。始めて候時を打つ。鐘鼓を動す。」とあることから。

       

表紙

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Neetsha