二章「スウィート・ビターに祝福を」


 明日生まれ変われるとしたら、どうなりたいか。
 何をどうしたい、誰とこうしたい、みたいなものは、ない。
 俺が下した答えはひとつ。
 “全てを、やり直したい”。


「――それでは、新郎新婦の入場です!」

 司会者の言葉を合図に、会場からは溢れんばかりの拍手が惜しみなく送られる。その対象はもちろん、バージン・ロードをゆっくりと進んで行く新郎新婦。喜びのあまりに、涙を流して喜んでいる女性の両親。少し照れくさそうな顔をしながら、少しずつ新しい人生への道のりを歩む二人。止むことのない拍手。天にも昇る気持ち。感激、至福の一時が、彼らの心を埋め尽くす。
 新郎新婦が席につくと、次は媒酌人のスピーチが始まった。分からない人にはあまり分からない二人の馴れ初めを、時折ジョークも交えながら重ねていく。
 来賓祝辞、乾杯と、式はどんどん進んで行き、そして――――
「続きましては皆さんお待ちかね、ウェディングケーキの――――」
 そこまで聞いて、俺は喜びの止まない会場を後にした。
 結婚式場の外扉に背中を預け、俺は煙草に火をつける。
 空は六月にもかかわらず晴れ渡っている。まばらに浮かぶ雲に向かって、鼻腔にためた煙をふぅーっと吐き出す。温くなった空気の中に紫煙は溶けていって、そのまま空に昇って行った。タバコを持った右手を、だらん、と下げる。
 扉にタバコをぐりぐりと押し付ける。
 これは、式の度に行う皮肉を込めた慣習だ。
 くずかごに吸殻を放り投げて、小雨の中をつかつかと歩き出す。
「仕事、戻るか」
 俺は無造作の髪をぽりぽりと掻いて、いつもの道へ。
 これでいい。俺はただ、自分の仕事をきちんとこなせていけばいい。
 たとえ、何も分からなくても。

 二時間かそこら金池町をうろついて、俺は仕事場に戻った。店の裏口から中に入ると、あっという間に甘酸っぱい柑橘類のような香りが嗅覚を刺激する。普段あまり感じない香りだ。このフレーバーは、ビターレモン?
「お。リューマ君、おかえり」
「店長。レモン系の新作でも作ってるんですか?」
「ん、よくわかったね、さすがリューマ君。……そうだ、リューマ君にも味見してもらおうかな」
 そういって店長が差し出したのは、所々欠けている――恐らく何人かに味見してもらったんだろう――ほのかなレモン色のゼリーを乗せた、レアチーズケーキのようだった。チーズケーキといえばマーマレードが主流だけど、レモンを、しかもゼリーを乗せるとは、さすが店長、考え方が違う。
 俺は味見用のスプーンで取り、一口咀嚼する。
「さて、どうかな?」
 どこか試すような笑顔で、店長が訊ねる。
「確かに組み合わせの斬新さはありますけど、味においては『新作!』と言って出すほどの真新しさはありませんね。うまくは言えませんが、見た目に反してほのかに口で解けるような甘さがあればいけると思います」
「ひい、毎度毎度辛口だねこりゃ」
 店長がぴしゃりと自分の額を叩く。そこまで批判したつもりはないんだけどな。あくまで自分の率直な意見を述べただけで、辛口だとは微塵にも思っていない。口が悪いのは昔からだけど。
「んじゃ、その辛口コメントに似合うだけの新作スイーツを作ってもらおうかな」
 今度は意地の悪そうな笑顔に切り替えて、店長が言う。
 ああ、またか。
「天才パティシエ、小泉竜馬君にね」
 そら来た。
「勘弁してください。俺、そういうのじゃないんで」
「何を言うかね! あの、かつて日本一とも言われた天才一流パティシエ小泉正一の息子であるリューマ君なら、こんなことはお茶の子さいさいだろう!」
「そういう固定観念を持たれても困ります」
「釣れないねー」
 キシキシキシ、と店長は笑いながら、調理場のほうへと戻っていった。
 俺は休憩室のソファにどかりと座って、いつもよりも重いため息を吐く。
 俺が店長と呼んだ人――――藤堂さんは言わずもがな、ここ「菓子屋グラッチェ」の店長。そして、俺はグラッチェの一従業員、小泉竜馬。趣味、というか唯一出来ることは確かにお菓子作りだけども、お菓子はそこまで好きじゃない。
 それじゃあなぜ、俺がここに勤めているか。
 理由は簡単。無職になったときに、気まぐれにやって来たお菓子屋に素性を語ったらスカウトされた。それだけのこと。元々は、地元にいる母親の誕生日にケーキでも贈ろうと思って、グラッチェへと向かったはずだった。ところが、配送の準備までしてくれる心優しいグラッチェがあったばかりに、俺は親の名前を知られて、同時に親が天才的なパティシエであることも従業員にバレて、今に至る。
 スカウトと言っても、さすがにお菓子を作れるかどうかだけはテストされた。
 その時はお菓子なんか作るのは初めてだったんだけど、料理なら手馴れていたからお菓子の本を見ながら「それ通り」に作っていったら、「これはすごい」「本当にお菓子を作ったことがないのか?」などと言われた。本の順序どおりに作ったから美味しくなるのは当たり前だと思ったんだが、そんな理屈はここの従業員には伝わらなかった。
『今日から君も、菓子屋グラッチェの一員だ!』
 結論から言えば、最初から入れる気満々だったんだと思う。
 もし下手糞であっても、「君にはあのパティシエの血が流れているから大丈夫だ」とか言うつもりだったんだろう。なら、そっちのほうが良かったかもしれない。
 しかし俺は、うまいことお菓子を作ってしまった。それがいけなかった。
 結果、俺はこうして店に来るたびに新作はないかと詰問のごとく訊ねられるようになり、そのたびに日夜アイディアを捻り出すことに思索を回さなければならなかった。無職だから良かったものの、これが例えば――――
「…………ああ、くそっ」
 忘れよう。そう思ったはずだ。
 こうしてはいられない。不本意だけれども、新たなスイーツを考えなければいけない。そうでもしなければお菓子を作る以外に何も取り柄のない俺なんかすぐに産業廃棄物と化してしまう。俺はロッカーの中から作業着を取り出して、更衣室の扉を開ける。
「ようリューマ。久しぶりだな」
 入った途端話しかけてきたのは、先輩である神谷さんだった。
「どうもです」
「なんだなんだ、暗いぞお前! もうちょっと元気出せよ!」
「ああ、すみません、元々こんな感じで」
 先輩に背中をバンバンと叩かれる。学生時代野球部だったとか何とかで、神谷さんは力が強い。だからこうして背中を叩かれるだけでも息が止まりそうなくらい苦しかった。
「あ、そうだ。俺もちょっと新しいの作ってみたから、後で試食頼むぜー」
「はい、分かりました」
 そう応対すると、終始あっけらかんとした笑顔を浮かべたまま、先輩は更衣室から出て行った。これが、菓子屋グラッチェの日常だ。店に来るたびに人のよい先輩に絡まれて、そしてそのたびに新作新作と聞き慣れた言葉が鼓膜に刺さる。確かにお菓子屋にとっては新作を絶えず考えることは必須なのかもしれないけど、ここまで圧をかけて言われると息苦しくなる。背中の痛みとは、別の苦しさ。
 手早く作業着に着替えると、全身鏡で自分の作業着姿を凝視する。
 つんつんとした黒髪に、三白眼。自分で見ていて怖くなるくらいに愛想のない顔だ。笑顔なんて浮かべた日には、世界に終わりが訪れそうな気がする。だから俺は滅多に笑うことなんてないし、笑おうとしない。
 それに今、笑うだけの余裕はない。その理由は、すぐ近くに潜んでいる。
 鏡から目を離して、更衣室を出る。それとほぼ同時に、休憩室そばに置いてある電話のベルが鳴った。俺以外には誰もいないから、とりあえず受話器を取る。後で店長に内容を伝えればいいか。
「はい、こちら菓子屋グラッチェです」
『こんにちは、お世話になります成宮です』
 胸の奥に、何かの破片が突き刺さる。
「……ああ、はい、どうも」
『明日の披露宴のウェディングケーキの件、本当にご迷惑をおかけしました。おかげさまで、明日は良い式になりそうです!』
「そうですか。それはおめでとうございます」
「で、それでなんですが……、ケーキを作った方とお会いできませんでしょうか? 一度、直接会って御礼を申し上げたくて」
「ありがとうございます。申し訳ございませんが、それは本人のプライバシーもあるかと思いますので、ご遠慮させていただきます」
『あ、そうなんですね……。すみません、ありがとうございました!』
「はい、それでは」
 俺は返事を待たずに受話器を置いた。
 受話器の隣に置いてある、ケーキの予約帳をめくる。
 何ヶ月か前の、予約。

「成宮様 ウェディングケーキ」

 成宮由美子。
 明日、好きだった幼馴染が結婚する。
 その話を耳にしたのは少し前に、高校時代の旧友と居酒屋で偶然出くわした時。
 俺は演劇サークルの飲み会幹事で、次の日は朝から集中講義が入っていたため酒は控えめに飲み、それなりにほろ酔い気分で飲み会を楽しんでいた。そんな時、居酒屋の店員としてせわしなく働いている中に、旧友、瀬戸綾香を見つけたのだった。
「あれ? お前もしかして……高校の時の、瀬戸か?」
「え、ってまさか……小泉君!? あのクラスで一番目立たない眼鏡系男子の小泉君!?」
 再開の第一声から、掘られたくない過去を掘り返されたけれども。
 瀬戸綾香と言えばクラスでもトップを争うおしゃべり好きで、初対面だろうが誰だろうが構わず馴れ馴れしく話しかけてくるので、最初の頃は少し鬱陶しく感じるが、徐々に彼女のペースに憑りつかれて行き、果てにはその饒舌っぷりに心地よささえ感じるという。
「いやー、それにしても小泉君は随分とイメチェンしたね! うん、ベリーグッド! あ、過去の君を否定するわけじゃないからね? めんごめんご」
 ちなみに俺は、そんな瀬戸に最後まで憑りつかれることがなかった生徒である。
 朱色のエプロンをつけた瀬戸は、店長らしき人物に向かって「少し時間くださーい!」と言ったかと思うと、返事も待たずに俺の席の傍まで歩み寄ってきた。
「まさか瀬戸がこんな近くの居酒屋で働いてるとはな。近くに住んでるのか?」
「金池町三角荘の二〇七号室で只今猛勉強中でございます小泉少佐」
「勉強? ってことは、どこかに就職するか、それとも資格でも取ろうってのか」
「うんにゃ、ちょいと専門学校に入ろうと思っててね」
「へー……、まあ、頑張れよ」
「応援の言葉、しかと受け取りいたしました小泉大佐」
 十数秒の間に二階級特進した俺は、瀬戸の大げさなリアクションに首を傾げながら、軽めのチューハイを流し込む。
「あ、そうそう。小泉君は由美子が結婚するって言う話聞いてる?」
 瀬戸が思い出したように、問いかけたセリフ。彼女からすれば、単なる確認作業とかそういう類であって、俺の心中を見通しての発言ではなかっただろう。
 だがその一文は、俺の中にある何かを大きく揺さぶった。
 突然、その報せを聞かされたせいだったかもしれない。
 だが、今となってはじっくり聞かされても神経を擂り潰されるような、嫌な感覚があった。それと言うのも、俺は前日、たまたま高校の時の卒業アルバムを開いて、懐かしい思い出に耽っていたのだ。
 机上スタンドに照らされるのは、入学早々の教育合宿、体育大会、修学旅行、そしてクラスごとの生徒の写真……一ページ一ページを吟味して開いていく内に、自分の中でくすぶっていたある想いが再び蘇った。
 それは、文化祭のページを眺めている時。
『ステージ発表、最優秀賞獲得! 三年二組』
 そんな縁取り文字がされた写真には、二人の役者が机に座って談義をしている場面が映し出されていた。俺たちがちょうど三年前に演じた劇の一場面だ。当時の俺は演劇に興味を持ち始めたころで、文化祭でやりたいことの集計に軽い気持ちで演劇を入れたら、なんとそれが採用されてしまった。その後演劇に興味のある人と集計で演劇と書いた人とで集まり、劇の詳細を考えることになった。その時にどうしても人員が足りなくなり、結果脚本と役者を兼任することになった生徒が二人いた。
 俺が成宮由美子と本格的に話し始めたのは、それが初めてだった。
 高校三年生の秋にして、初である。
 俺たちはそれなりに成績が良かったため、放課後行われる補習を受ける代わりに劇の脚本を書いたり、演者がどのようにアクションするのかなどを二人で考えた。成宮は文芸部に所属していて脚本にかけては他の追随を許さなかった。かくいう俺は帰宅部だったが演劇についての知識なら他の追随を許さない……程ではなかったが、まあ人に対して教えられる程度の自信はあった。
 そんな二人が組んだというだけあって、演劇の練習はたった一週間しか確保できなかったにかかわらず、本番はミスゼロのパーフェクト、結果は最優秀賞と大成功を収めた。写真の場面はそんな俺と成宮が、確か……トウェインについて語っている場面だったと思う。
 俺と成宮は文化祭が終わってからも、定期的に話すようになった。
 受験間近で、俺が勉強のためにしばしば図書館を利用するようになった頃。
 人目につかない集中できる場所を探しているところ、俺は隅の方に座っている成宮を見つけた。彼女は分厚いハードカバーを手にページをめくりながら、愛おしそうに読み進めていた。他の席があまり空いてないという理由をつけて、俺は彼女と対になるように座った。
 成宮はすぐ俺の存在に気付いて、椅子を引くと同時に話しかけてきた。
「あれれ、小泉君じゃない。珍しいね、図書館に来るなんて」
「別に、受験勉強のためだよ」
 この時まだ、俺の中に自覚症状はなかった。ただ肩の狭い学校生活の中で、成宮と言う少しは気軽に話せる友人と少しは静かな図書館。この相乗効果に期待して近くの席に座ったんだと思う。
 だが今思えば、俺はあの時から成宮に淡い恋心を抱いていた。
 その時の俺はまだ、自分の気持ちに気付けていなかった。
「そっかー、もうそんなシーズンだもんね。受験勉強お疲れサマです」
「成宮は勉強しなくていいのか? 成績は良かろうと、勉強してるふりはしていないと教師がうるさいだろう」
 俺が言うと、成宮は首を振る。
「ううん、私実は大学には進学しないで、家業を継ごうと思ってるんだ」
「家業? 実家で何か、自営業でもしてるのか?」
「そそ。お父さんとお母さんが二人でカフェやってるの。最初はそこのウエイターやって、行く行くは店長を務めるんだー」
 机に肘をつき、嬉しそうに語る成宮。
 そんな成宮を見ているだけで、俺は口元が緩む気がした。
「へー、そうなのか。でも、もし継げなかったらどうするんだ?」
「そこまではまだ決めてないかな。もし、なんて状況は考えてないし」
 俺は頷くことしかできなかった。俺としては夢は明確であった方がいいと思っていたので、残念ながら同意は出来なかった。
 でも、成宮の笑顔を見ていると、どうでもよくなってしまっていた。
 
 成宮はそこまで目立つ方ではなかったが、確かに容姿は整っている。一度も染めたことはないというピアノブラックの長髪に、化粧がほぼない素顔そのままの姿。身長はそれなりに高かったが、それでも俺とは十センチ以上離れていた。
 高校三年間は文芸部の活動に捧げたらしく、彼女の恋愛関係に関しての情報はあの瀬戸でさえも掴んでいなかった。
 だが彼女の素振りから見るに、当時は彼氏なんていなかったんだと思う。
 俺みたいな、性根が腐りきったような人間にもフレンドリーに接する辺り、性格は全くもって問題ない。俺から言わせれば、今でも成宮を越えるポテンシャルを持つ女性はいない。卒業アルバムの、一番に結婚しそうな人ランキングにも見事ランクインしていた。
 そのランキングを目の当たりにした時の希望を込めた心境を思い出すと、今では少しくぐもった息が込み上げる。
 卒業の直前まで俺と成宮は図書館で会話を交わした。彼女の影響で小説も読むようになり、俺の演劇に対する熱はさらに上がっていた。劇作家について語らうこともしばしばあり、その度に閉館時間ぎりぎりまで語り合って、よく図書館の司書には迷惑をかけていた。
 そして、名残惜しむ間もなく、俺たちは卒業の日を迎えた。
 俺たちは最後に、お互い気に入っていた本を交換した。
 彼女が渡したのは、海外のよく知らない小説家のハードカバー。
 俺が渡したのは、知る人ぞ知る『アルジャーノンに花束を』。
 今思えば、なかなかシュールな選択だったと思う。
 それでも彼女は、笑って受け取ってくれた。そしてまたいつか再開した日に、交換して感想を言い合おうと約束したのだ。
「少しの間だけど、とても楽しかったよ。ありがとう」
「こっちこそありがとう。成宮さんのおかげで、小説もたくさん読むようになったからな。少しだけ、世界が広がった気がする」
「そうそう。小泉君たら好きな小説のことになると熱く語りだすからね。制服のボタン掛け違えてることにも気づかないで」
「仕方ないだろ……好きなんだから」
「あはは、やっぱり面白い、小泉君。いつまでもそのままでいてね」
 それきり、俺と成宮が会うことはなかった。
 本音を言うことは、できなかった。
 俺は大学に入って直ぐに演劇部に入部し、そして彼女がレストランを継ぐという話でレストランではなくパティシエに興味を持って、なんとなくふらっと菓子屋『グラッチェ』でバイトを始めた。その時だけは、自分のことが見えていなかった。

 当時からもう、二年半が経とうとしている。

 再び、成宮に会いたいという気持ちが強くなった矢先、こうして俺は瀬戸から衝撃の事実を聞かされた。長くなったが、瀬戸が喋った直後、俺の頭の中にはこう言った過去の出来事が走馬灯のように流れて行った。
 俺は酔いで一瞬理解に苦しみながらも、鮮明に残る言葉を反芻した。
 成宮が結婚する。
 あの成宮が。
 誰とも付き合っていなかったという、あの成宮が。
「まさか、アルバム通り加奈子ちんが最初に結婚することになるなんてねー。」
「……相手とかは、一体誰なんだ? 全くそういう話は聞いてなかったが」
「なんかカフェのウエイターやってたら、バイトで入ってきた新人がいたんだって。その新人が近くの大学の文芸部員らしくて、すぐに意気投合したみたい。付き合うまでに時間はほとんど要さず、交際二年目にしてなんと結婚まで行き着くのでした! はい、拍手喝采」
 余りに情報量が多かったので大部分は割愛したが、流石は情報通の瀬戸、まるでその現場を監視していたかのごとく詳細まで話した。その緻密さたるや、披露宴での馴れ初めスライドで使えそうなほどだ。
「あの成宮が真っ先に結婚するなんて、意外っちゃ意外だな」
 焼酎の入ったグラスを傾ける。
「そうかなー? 気が合う人がいれば、すぐに結婚しちゃいそうだったけどね、加奈子ちん」
 俺はあくまで平静を装っていた。
 酔いがなければ恐らく動揺を隠せていなかっただろう。そりゃそうだ。先日存在を思い出して、再び思いが蘇り、貰った小説を読み返したりして、心が若干浮き足立っていたところに、結婚の報道が舞い込んだのだ。これで驚きを隠せずにいたら、そいつはきっとまともな人間じゃない。
 かと言って、俺がまともな人間だと言う保証があるわけではない。
「いやあ、あの加奈子ちんの嬉しそうな顔ったらなかったねー」
 瀬戸は言う。
「ホント純粋にプロポーズ喜んでたからね。お金も何も関係なく、ただ好きな人と一緒になりたいって言う気持ち。それを素晴らしいとは思わないかな小泉君」
 俺はしばらく虚ろな顔で固まっていたが、やがて口を開いた。
「そうだな。とても喜ばしいことだ」
「多分もうすぐ小泉君にも招待状来ると思うよー。クラスのみんなが集まるんだから、小泉君も絶対に来ること、いいね? 釘刺しとかないと忘れそうだから」
「ああ、もちろん」
 俺はそう答えることしかできなかった。
 その後に話した世間話はほとんど耳から耳へ筒抜けに流れて行ってしまった。
 十分ほどで瀬戸が去ってからも、俺はグラスを持ったまま、茫然自失と項垂れていた。酒も喉を通らない。こんな感情は初めてだった。喜びでもない、悲しみでもない、ただ、片思いを送っていた人が結婚していくシーンを想像した時、名状しがたい気持ちが俺の中で立ち込めていった。
 それは飲み会が終わってからも続いた。
 俺はその時初めて二次会を断り、真っ直ぐに家へと帰った。
 七畳の部屋に寝転ぶと、切れかけで明滅している蛍光灯がぼんやりと見える。それが瞼の裏で赤い残像になっても、布団の上で仰向けに転がって、枕にした手が痺れても、沈黙と一緒に眺めた。そうでもしていなければ、言葉を思い返して、胃の中身を全てぶちまけてしまいそうだった。俺は余計な考え事をすることもなく、薄い虚無感に包まれながら、睡魔がやってくるのを待った。
 そうして経つこと、数日。
 成宮の事を思い出しても、何の感情も湧き上がってこなくなった。
 過去の思い出に決別したわけではなく、純粋にどうでもよくなってしまった。長年耕した畑が台風ですべて吹き飛ばされた時の心境によく似ていた。作り上げた砂の城を踏みつぶされたような気分になった。
 吹き飛ばされたどこかに、成宮への想いはまだ眠ってはいるだろうか。
 それを掘り起こす気も起きなかった。
「それじゃ、お疲れ様でしたー」
 バイトを終えて、夏の身支度を始めた商店街を、傘を差しながら歩く。今日は大雨だ。突然の雨だったからか、傘を持っている人は少ない。鞄を傘代わりに走る人、公園のベンチに座り込む人、外套で身を隠すように歩く人。行き交う人々の顔は笑顔で溢れている。そんな風に言うと小説風だが、実際笑顔を浮かべている人なんてほとんどいない。特に俺みたいな、一人きりの人間なんかは、ひたすら無表情を決め込み、降り続く雨に不快に眉間に皺を寄せている。
 だがカップルや夫婦なんかは、ほとんどが笑顔を浮かべている。
 俺はその光景を見る都度、心の隅にできた小さな穴に風が吹きすさぶような気がした。肋骨が軋む音がした。六月だというのに、寒気がする。
 俺は今まで、成宮以外の女性に好意を抱くことはなかった。
 正しく言うと、抱こうと思わなかった。彼女以外の選択肢が見えなかったから。
 それが奪われた今、俺の中からは、恋愛感情と言うもの自体が、ばっさりと断ち離されてしまった。あまつさえ人とのかかわりを持つのも少し億劫で、良く接してくれる知人やサークルの先輩にさえ、冷たい態度をとってしまいそうだった。態度に出ないようどうにか取り繕うと考え出して、少しだけ、自分が怖くなった。
 夜空に向かって煙を吐く。
 気晴らしにと吸い始めた煙草だったが、今では一日に一箱潰すなんてことも起こるようになった。パティシエとしては当然喜ばしい事ではないが、これ以外にストレスを解消する方法がなく、作業着に匂いを付けることはしなかったのでさして影響はなかった。
 立ち上る煙に時折目をやりながら、聞こえないよう小さくため息を吐く。
 居酒屋の出来事から数日後、俺宛に結婚式の通知が届いた。
 挙式に向かうつもりはない。成宮が関係のない人と同義になった以上、わざわざ重い腰を上げて式場に出向く理由もない。同窓会にもほとんど顔を見せていない俺に出席する義理があるかもわからない。
 だが出ないと心で決めた以上、俺が成宮の結婚を祝うことは、ない。
 このままでいい。このまま成宮の事も全て忘れて、新しい生き方が出来ればいい。
 いつか好きな人を見つけて、付き合って、結婚して、なんて幻想は抱かない。
 俺は、俺のままでいい。
 演劇部でそれなりに楽しみ、グラッチェでお菓子を作り、いずれは劇団に入ったりパティシエになれたりすればいい。
 いつだって大事なのは、自分自身の幸せをつかむことだけだ。かつて好きだったとはいえ、成宮が他人と結婚するとなればそれはもう他人になってしまったも同然で、想い人でも何でもない、どうでもいい存在。
「そんなことに気を取られる前に、自分の幸せを考えろ」
 短くなった煙草を持ち、勢いよく煙を吐き出した。
 黒く光る空っぽの空が、俺を押し殺す。

「果たしてそれが、貴方の本音でしょうか?」

 俺は歩みを止める。
 自分以外の話し声が聞こえると同時に、隣に誰かが連れ立って歩いているような錯覚を覚えた。……いや、これは、錯覚みたいな、ぼんやりとしたものじゃない。
 吸いかけの煙草を指にはさんだまま、立ちすくむ。
「ハロ! 確かに自分の幸せと言うものは大事です。自分が幸せでなければ他人に幸せを振りまくことは出来ませんからね。人生を楽しむうえで幸せと言う条件は必須なものかもしれませんね。まあ、中には苦難苦境を生きがいとしている人もいるでしょうが、大多数は楽しみイコール幸せでしょう」
 今、俺の顔を鏡で見たら、気が抜けて呆けた表情をしているに違いない。それくらい顔に力が入らない。煙草をくわえていたら、きっと地面に落としていただろう。
「さて、これは貴方の話です」
 視界の端にわずかに映る、黒い外套を着た男が喋る。
「貴方の話を鑑みる限り、貴方は日々を退屈に生きていたところを、成宮さんのスパイスを受け、生きるリズムを取り戻したように思えます。誤解を承知で申し上げますが、それまで貴方は生きていく先、明日に大した希望を持っていませんでした。しかし彼女に出会ってからは人が変わったように快活に過ごし、明日を楽しみに布団に潜りこんでいたようです。これが彼女の影響と言わないならば、何の所為だと決めつけるのでしょう?」
 ああ、確かにそうだ。
 良くも悪くも、俺の生き方は、成宮の行動だけで一変した。
「彼女の起こすアクションは、貴方の視点のみで言えば大きな転機だと考えていいです。人生の長さから見れば、それはとても一瞬のことかもしれません。ですが、人生と言うのはどれくらいの長さか分かったものではありません。
 僕の好きな映画、『バック・トゥ・ザ・フューチャー』のタイトルでも語られている通り、我々生物は後ろ向きで未来に進んで行きます。今まで歩いてきた道しか見えません。いつ道が途切れるかなんて分かりません。そもそも道を歩いているのかも定かではありません。
 ですが暗闇に閉ざされたその道は、誰かの手助けによって明るく確かなものに変わると言えます。貴方で言えば、それが彼女なのです」
 そんなこと言われなくても分かってる。
 成宮こそが俺の生きる支えであり、彼女の言葉は俺の糧となった。
 少なくとも今の俺は、彼女によって作られている。
「それが分かっているのならば、あとは受け入れてしまうだけです。貴方は聡い人だ。きっかけさえ見つけてしまえば、すぐに変われてしまうでしょう」
 その男は、女と間違いそうな少し高めの声で、小さく笑った。
「思索に耽る夜は、人を変えてしまいます。無為に千の夜を越えるよりも、悩み苦しんだ一夜の方がずっとずっと大きな意味を持つことがあります。あなたにも、そのような夜が訪れることを、願って――――」

 背中を誰かに押されたような感覚がして、我に返る。
 最後、男はまだ何かを言っていたような気もしたが、ふとした瞬間、男の気配は消えていた。辺りを見渡してみたが、隣はおろか、三六〇度どの方向を見ても人の姿は見当たらない。
 その時、か細い鳴き声に気が行って足元を見下ろすと、真っ白な毛の猫が、俺を仰いで鎮座していた。
 屈み込んで、猫と顔を合わせる。
「……お前が、俺に幻覚でも見せていたのか?」
 猫はにゃあ、と答える。俺は人知れず笑みを浮かべて、立ち上がる。
「帰って、新しいケーキでも考えることにするか」
 雨降りの温い空気の中、俺は帰路に着く。
 頭の中では、父親が昔現役のパティシエだった頃、俺によく言い聞かせていた言葉が繰り返し流れていた。
『パティシエってのは、他人の幸せを祝福するのが仕事だ。それはパティシエに限ったことじゃない。男ってのはな、大切な人の幸せを一番に喜ぶべきなんだよ。たとえそれが、自分と関係のないことでもな』
 幼心に刻み付けられた、その言葉は。
 時折声に出させながら、俺の心の奥底にある何かを揺さぶった。
 からりと晴れた、明くる日。
 俺は、押入れから引っ張り出した不格好なスーツを着て、駅前の喫煙所で煙草を吹かしていた。
 式の開始が少し遅めなので、昼前に準備してのんびり町に来てもまだ時間に余裕がある。喫煙所には俺と同じようにスーツを纏った、しかしその手には通勤かばんを提げたサラリーマンが群れている。外回りの最中なのだろうか。会社員ってのも大変だな。
 俺も就職活動をして、職に就いて、何年も経てばああなってしまうんだろうか。
 立ち昇る煙は、ゆらゆらと風に揺れる。
 気分は乗らなかった。昨晩は何かが見せた幻覚の所為で幾分前向き志向になっていたが、一つ夜を越えると、いくら理由をつけても腑に落ちなかった。
 自分が現実を直視できていないこと。
 封筒の山に紛れていた招待状を見つけてしまったこと。
 探せば理由なんていくつでも出てくる。結局、最終的に俺の足を引きとめているのは根底にあるつまらない矜持で、成宮が結婚するという事態そのものを受け入れられていない自分自身だった。
 どうにかしなければいけないことは分かってる。
 父は言っていた。大切な人の幸せを喜ぶことが大事だと。そのためには自身の犠牲も厭わないと。理屈は分かる。当然のことだ。大切な人には幸せになってほしい。でもその邪魔をしているのが、成宮への積年の想いと頑ななプライドだった。
 灰皿に、ぐりぐりと煙草を押し付ける。
 今、俺が成宮の幸せのためにやらなければいけないこと。
 後悔しないよう、せねばならないこと。
 それは一体何なのか。
「それが分かったら、苦労しないんだよなぁ」
 簡単に分かるならここまで苦しみはしない。
 腕時計を見ても、式の開始時間まではしばらくあった。


     【六月十日】


 手持無沙汰になり、一度落ち着こうとも思ったので、最寄りのカフェに立ち寄った。他の客もほとんどいない。ずいぶんと散らかったテーブルがある以外は、読書を嗜んでいたり、パソコンを持ち込んでいる客客がいるばかりで、ここなら少しは落ち着けそうだと、俺は奥の方の一人がけテーブルに腰を下ろした。
「いらっしゃいませ。ご注文はどうなさいますか?」
 若いウエイターが訊く。そうだな……。
「本日のコーヒーってのを、いただいてもいいかな?」
「かしこまりました。少々お待ちくださいませ」
 軽い受け答えを済ませ、店の外にあるという喫煙スペースのテラスに出る。席にコーヒーを持って来たら声をかけてくれるシステムらしい。なんならテラスでそのまま飲んでもいいとのことだ。こんな店があったなんて、知らなかった。
 テラスには先客がいた。彼と少し距離を取って、俺は柵にもたれかかった。
 こうして、いつもとは違う場所で煙草を吹かすだけでも、その味は微妙に変わってくる気がする。精神的な要素が作用しているのだとか、テレビで言っていたのを覚えている。
 その味は、不思議と、いつもより甘い。
「ここは、とてもいい店ですね」
 不意に話しかけてきたのは、隣に居た初老ほどの男性だった。
「まるで時間が止まっているような錯覚がします。ゆっくりと時間が過ぎていくのをコーヒーを飲みながら、煙草なども嗜みつつ、ぼんやりと待つ。休日の昼間と言うのは時間を遅くする、魔法でもかけられているのでしょうね」
「…………はあ」
 曖昧な返事を返すと、男性はこちらに視線を向けてほほ笑んだ。
「ですが、あなたはどこか、急いでいるような、もしくは急かされているような。何か、後ろめたいことか、苦しいことなど、お持ちではありませんか?」
「……いや、別に、何でもないです」
「最近の若い人はよく、別に、なんて言葉を使います。その言葉を使うときは、大体がなにか重いものを抱えているときなんだと私は思います」
 何なんだ、この人は。新手のカウンセラーか?
「悩みを持たない人など、この世のどこにもいません。もし存在するならば、その人は悩みに気付けていないだけです」
 怪訝に眉根を寄せる俺を意に介さず、彼はゆっくりと語る。
 その時だった。
 俺は店の窓ガラスに映る人だかりを見つけた。
 何事かと振り返ってみると、目視できる範囲にあるビルの下に、野次馬が集まっている。ここからでは何が起こっているのかは良く分からなかったが、柵から身を乗り出して、無意識に空を見上げてみる。
 そうすると、呆気なく答えが見つかった。
「……でも、あなたはとても運がいいです。ご安心ください。あなたの持っている何かはここを訪れたことで、解決策が見つかるでしょう。それはしばらく先のことかもしれませんし――――もしかしたら、今、この瞬間かもしれません」

 誰かがいる。
 野次馬の群がるビルの屋上に誰かが立っている。



  
 二章「スウィート・ビターに祝福を」
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