ガス・ガールの話/東京ニトロ

「私は環状7号線で生まれた気体生命体なの。」
STAR GUITARが流れる中で彼女はそう言った。

毎週金曜日の夜。ぼくは週5日分のしがらみを、渋谷TOMBというクラブの強烈な光と音楽で洗い流す。
ぼくの勤め先は大崎にある大手物流ロジスティクス企業で、普段は朝早く出て終電で帰るような生活をしていた。
ただ巨大なオフィスだったので、毎週金曜の夜だけは、定時になると取引先との接待や部署内の飲み会に出て行く社員に混じって、いそいそと退社することができた。

その金曜日の夜。TOMBの2階のバーのテーブルに座り、ビールを飲みながら、階下で踊る大勢の若い人たちを眺める。
5枚ある巨大スクリーンと、その前後から放出されるレーザービーム。ダンスフロアの床板1枚1枚が、SamsungとかLGとか、あるいはPHILIPSとか、とにかく斜陽の国産ではない液晶パネルで構成されていて、強烈な原色の光を放っていた。
まるでアタックなんとかっていう地味なクイズ番組のスタジオが、突如として若者に占拠されて横転させられたみたいだ。

音楽はケミカル・ブラザーズのリミックスのようだった。
ぼくはなるべく誰かを(この誰かというのは女性なわけだけど)待っているようなそぶりで、ときどきスマホをいじったり、「いつまで待たせるんだ」と腕時計を見たりした。
実際には、誰かが僕に会いに来るわけじゃない。でも、こんなところ男が一人で来るなんておかしいし、ナンパや援助交際目的だなんて思われたくなかった。
ここからダンスフロアまでは10m近く離れていたけれど、それでもその熱気は感じられた。

「すいません、相席いいですか?」
彼女はぼくを見下ろしてそう言った。
目の前に立った彼女は、スキニーデニムとTシャツという姿で、まだ学生に見えた。とても細い体に長い髪。
「えっ、あっ、大丈夫です。」
ぼくは突然声をかけてきた彼女に反射的にそう答えた。驚きと焦りと吃音と、会社で刷り込まれたイエスマンの性。
全然だいじょうぶじゃない。ぼくは顔を赤くして周りを見た。たしかにどのテーブルもカウンターも満席だったし、おひとりさまはぼくだけだった。
「あの、やっぱり待ち合わせですよね?」
彼女は本当に申し訳なさそうに、僕にそう言った。
「本当にごめんなさい、邪魔ですよね、私」
「いえ…」
ぼくはビールを煽った。この気まずさを取り繕うには、全て洗いざらい話してしまうしかないと思った。
「実は僕、ひとりできてるんです。誰かと待ち合わせとかじゃなくて。」
ウェイターが彼女に何かのカクテルを運んできたので、僕はビールを頼んだ。
「女の子を誘うんですか?」
「違うよ、そうじゃなくて」僕はほんとうに慌てた。
「そうじゃなくて、ここの雰囲気がとにかく好きなんだ。」
それは嘘じゃなかった。
外界から隔絶された箱のなか。音と光が充満している。
踊る人々。会社や取引先や、信用不安やアベノミクスや、ウクライナやシリアから開放された空間。
「ふぅん。」
彼女がぼくの言い訳を信じてくれたのかはわからない。もしかしたら興味がないのかもしれない。
彼女は横を向いて階下を覗きこんだ。背後のステージライトが彼女の横顔を白く照らす。
きれいな人だな、と思った。
「あ、いた。」
彼女がそう言って指さした先には、液晶パネルのフロアに黒く浮かび上がる群衆があった。
「えっ、誰か知り合いがいたの?」
彼女は横を向いたまま何も言わなかった。そのとき、ぼくは少し恐怖した。まるで東京タワーにある蝋人形みたいに、人体特有の「揺れ」が彼女にはないように思えたからだ。
彼女は、ただただダンスフロアを見つめていた。曲が変わる合間だったので、スポットライトがすこし落とされていたから、彼女の顔は影で黒く塗りつぶされていた。
再び音楽が流れ出す。ケミカル・ブラザーズの2003年の名曲、 STAR GUITAR。ダンスフロアの床には、有名な「車窓」が流れだした。

この子はちょっとヤバイ子かもしれない、思った。インターネットでよく耳にする、すこし常軌を逸している未成年の少女の話。
「ああ、知り合いがいるんだね。じゃあぼくは、そろそろ終電もあるし…」
「ごめんなさい、あなたにその権利はないの」
立ち上がった僕のスーツの裾を彼女が掴んだ。ぼくは驚いて彼女を見た。
曲はサビに突入し、外国人の女性の声が歌っている。
「わたしは今ここで叫んであなたを痴漢の容疑者に仕立て上げることもできるし、あなたを今ここで殺すこともできる。」
突然のできごとに、ぼくはなにも言えなかった。今度はぼくが蝋人形になった。ただ黙って、つばを飲み込んで、彼女の顔を見た。
「お願いがあるの。」
曲は最高の盛り上がりを見せ、ダンスフロアの人々は光と音を浴びるように両手を掲げた。
歓声が上がり、ライトが間欠なく光を吐き出す。

「私は環状7号線で生まれた気体生命体なの。」
STAR GUITARが流れる中で彼女はそう言った。

僕らは追加の酒が来る前にクラブを出た。
彼女の後ろを歩くよう、彼女はぼくにそう言った。
「逃げようとしたらすぐわかるし、わたしはそうしたら大声を出す。警察が来て、あなたは会社をクビになる。」
彼女のお願いというのは、車で山手通りをいっしょに走ってほしいというものだった。
「でもぼくは車を持ってないし、酒も飲んじゃってるよ。」
「別にあなたの車じゃなくていいの。あなたの会社の車だっていいし、それに悪いけど、もう酔いも覚めたでしょ?」
顔を赤くした人々で混雑する渋谷駅から、ぼくらは埼京線に乗って大崎へ向かう。
大崎駅からペデストリアンデッキを渡り、高層ビルに入る。誰もいないオフィスから社用車のキーを取り、地下駐車場へと向かう。
その間、ぼくらはひとことも会話をしなかった。人の目もあるし、余計なことを言って彼女の神経を逆なでしたくなかった。
明日は土曜日で休みだから、「昨日は大変な目にあったな」と、今夜のできごとを懐かしみながら家でビールを飲む自分の姿を想像した。
ぼくが今できる、恐怖と戦う唯一の方法。

ぼくはトヨタ・プロボックス・ワゴンのハンドルを握った。彼女は助手席に座って、シートベルトを付けた。
ラジオから「ジェットストリーム」が流れだす。この時間の道路は車の姿も少なかった。
「きみは人間じゃないの?」ぼくはそう聞いた。
「人間の体が気体でできてるわけないじゃん」彼女は笑った。
「きみの体は気体なの?」
「正確には、今は違うけど、気体にすることができる」
「環七で生まれたっていうのは」
「気がついたら環七の中央分離帯にいたの。知ってる?あそこの中央分離帯って、だいたい50センチぐらいしかないんだよ、すごく怖かった」
対向車のライトがときどき彼女の顔を照らした。確かに彼女は美人だ。でも前を見る彼女には「揺れ」がない。それがすごく不気味だった。
こんな固い蝋人形みたいな女が本当に気体なんだろうか?
「あの、きみが気体ってこと、証明できる?」
「ここで?」
「そう、いま、ここで」
「そしたらあなた、窒息して死んじゃうよ」彼女は笑った。
「きみは毒ガスなの?」
「でもサリンとかじゃないわ。たぶん、車の排気ガス」
「排気ガス。」
ぼくは前を向いたまま鼻を鳴らしてみた。特にガス臭い、ということはなかった。
山手通りに入ると、工事現場のオレンジ色の光が点滅し、車が詰まるようになった。
彼女は池袋の方へ走るよう指示した。
「でも、どうして環七じゃなくて山手通りなの」ぼくは彼女にきいた。
「あのね、鮭じゃあないんだから」前方で、国際興業バスが無理やり追い越し車線へ入ろうとしている。何台かがクラクションを鳴らす。
「どうしても殺さなきゃいけない男がここを通るの、さっきのクラブにいた男。」
「ころす」ハンドルを持つ手に力が入る。電光掲示板に「車線減少」というオレンジの光がスクロールされる。バスはまだ動かない。
「どうして」ぼくは恐る恐る尋ねた。ラジオからノイズが走りだし、音が止んだ。
「わたしがこうなったのはすべてあいつのせいだから」ようやくバスが車線を変え、ゆっくりと車列が動きだす。
「そいつがここを通るの?」
「そうよ、いろいろな車がわたしに教えてくれるの。わたしは車と話ができるから。」彼女がこっちを向いて笑った。
車と話ができる、身体が気体でできた女。
「もう来てるわ、後ろのあの車―」

突然、あたりにむせ返るような排気ガスの匂いが充満した。ぼくは驚いて急ブレーキを踏んだ。
助手席の彼女の姿は消えていた。
ラジオからはノイズが止み、さっきクラブで聞いたばかりのあの音楽が流れだした。
周りの車が一斉に真っ赤なブレーキランプを点灯させた。エンジン音が止み、不気味な静寂が広がる。
道路上のすべての車と工事現場のすべての重機が停止した。電光掲示板が「ご迷惑おかけします」という文字をスクロールさせている。
ぼくはギアをパーキングに入れ、キーを回し直した。エンジンはかからない。
突然、後方から強烈なクラクションの音がした。停止した車から人々が顔を出して振り返る。
追い越し車線に止まった大きな黒いキャデラックが揺れていた。
ラジオがStar Guitarのサビを歌い出した。
「You should feel what I feel」
中から人の悲鳴がする。ドアを蹴るような音もした。スモークで覆われたフロントガラスから中の様子は見えず、ただ、キャデラックの白いヘッドライトの光が上下に揺れて光跡を描いている。
「You should take what I take」
キャデラックは踊っているように見えた。ディーゼルガスの匂いが充満している。こもったような悲鳴は止まない。
「You should feel, feel, feel, feel...」
突然、エンジンがかかった。周りの車のセルも回り始めた。人々が顔を車中に引っ込めると、車列はゆっくりと動き出した。
排ガスのにおいは消えていた。

僕は新鮮な空気を大きく吸い込んで、アクセルをゆっくりと踏んだ。まだ身体の震えは収まらなかったが、とにかく車を前へ出したかった。
前を走る赤帽の軽トラも、後ろの東京無線の緑色したタクシーも、すべての車が速度を緩めることなく一定の速度で前進していた。
ミラーに写る黒いキャデラックはみるみる小さくなり、どの車も気にも留めないというように、順調に車線変更してそれを避けていた。
異常なできごとがあったばかりなのに、車を横に止めて、何があったのか確かめようとする人はいなかった。
もうミラーにキャデラックも工事現場も見えなくなった。車線は再び2車線になり、どの車も60キロぐらいの速度を出して流れだした。
ラジオは「深夜のクラシック」に変わっていた。

僕はどこかでUターンして、会社に車を戻したら、ネットカフェかマクドナルドで寝ようと思った。
サウナがあればサウナに入ろう。そして朝になったら電車で家に戻り、休日を過ごし、月曜にまた出社する。
日常は続く。排ガスでできた少女がキャデラックの男を殺そうと、ウクライナで大統領が殺されようと、ぼくらは日常を生き、ダンスフロアで踊り続ける。

右折レーンで、対向車線の救急車が通りすぎるのを待って、僕はUターンした。
sage