Neetel Inside ニートノベル
表紙

レギュレスの都
レギュレスの都

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 猫、と呼ばれる存在がある。
 もちろん動物ではない。いや、この世界にも猫はいるが、この物語にそっちの猫は出て来ない。出て来るのは先天的な劣悪遺伝を患って生まれてきた魔法使いたちだ。
 魔法が編み出されてから二百年。
 人々は繁栄の頂点を極めていた。
 都市は魔法によって制御され、魔法を取り扱うものたちは専用の学園でみっちりしごかれ、立派な魔法使いとしてこの世界を運営していく。もちろん、魔法の才能がないと判断されたものは、奴隷階級として一生を終える。ああ、見てみるといい。いままた行き倒れがアスファルトの端っこに転がり、魔力を注がれた清掃人形がいそいそと死体を片付けていく。古き良きとんがり帽子をかぶらずバッヂにした魔法使いたちはそれを横目にも見ないで過ぎ去っていく。
 この世界のことは、これでいくらかお分かりになって頂けたと思う。
 しかし、この世界が平和と安寧に浸りきったものでないことは、きっと猫が教えてくれるだろう。
 猫。
 膝を曲げて子供に教える時のそれを流用すれば、『凄い魔法使い』である。彼らは生まれながら魔導の天才であり、普通の魔法使い――鼠と呼ばれることもある――が、五十年もかかって習得する大魔法を、ほんの2、3ヵ月で扱いこなせる者もいる。この説明を聞いた子供は目を輝かせ、大人に言う。
「それって最強?」
 と。
 大人は頷き、子供はますます元気になる。僕もいつか猫になれるかな。大人は曖昧に笑って、その場を立ち去る。
 その子供が猫になれることは永遠にない。
 なぜなら猫は生まれた時から猫であり、猫以外の何者でもなく、そして鼠は決して猫にはなれないからだ。どんなに肥え太ろうと、爪を研ごうと、鼠は鼠。
 これは、鼠が猫になろうとする物語だ。
 そして、悲しい終わり方で幕を閉じる。
 それでもよければ、語り始めよう。
 とある一匹の悲しい猫の物語を。

 双我臨路はびっしょりになった自分の制服を見た。
 それは赤と黒を基調にしたもので、ところどころに金属の装飾がある。飾りの鎖がチャラチャラ鳴るたびに、まるで鈴をつけられた獣のような気持ちがするなあ、などと考えていた矢先のことだった。廊下のど真ん中で、双我はピカピカの制服が汚水でびしょびしょになるのを味わった。周囲からの気の毒そうな視線と、そしてどこか好奇心に満ちた熱い呼吸を感じた。
「おっと、悪い悪い。手が滑っちゃってよ」
 双我は顔を上げる。見ると、自分と同じ制服を着た三人の少年が、目の前に立っていた。空のバケツを手にしてニヤニヤ笑いをしているのが一人、その後ろで興味無さそうに突っ立っているのが一人、もう一人は薄笑いを浮かべつつもチラチラと教師の影をあちこちに探している。そんな必要はないのに。彼らは金色の腕章をつけていた。特権階級、魔法使いの中の魔法使い、魔導貴族出身者の証だ。たとえ教師であろうと、彼らには逆らえない。
 もちろん双我は、そんな腕章を持っていない。
 つまり、差別される側の存在というわけだ。
 双我はシャツをつまんだ。かなりきついにおいがする。くんくんと嗅いでみると、そばで女子生徒が気味悪がって悲鳴を上げた。わかってないなあ、と思う。ここで押されたら負けなのだ。
「えーと、先輩」と双我は言葉を選びながら言ってみた。相手は二年、自分は一年。確かそういう設定だったはずだ。
「いまのは魔法ですか?」
「はあ? バカかお前。剣も使わずに魔法が使えるかよ」
 そう言うニヤニヤ笑いの腰には、魔法を扱う時に必ず用いる剣が提げられている。校内で魔法剣の自由帯剣が許されるのも特権階級だけの権利だ。自衛のため、とは言うが、その実は弱いものいじめに使われる。
「なんだ!」
 双我はことさら明るく言った。
「びっくりしましたよ。てっきり剣も使わずに魔法が使える天才なんじゃないかと。凄いですね! って思ったんだけど、残念です、ああいやもちろん、先輩を煽ってるわけじゃないですよ?」
「……なんだこいつ。きめぇな」
 ニヤニヤ笑いは、その笑みを引っ込めた。
「赤宮。それぐらいにしておけ」
 我関せずを貫いていた、クールな少年が元・ニヤニヤ笑いに言った。
「ジンくん、でもさ」赤宮は同級生にくんづけを使った。
「なんかこいつ生意気じゃねーか。高潔種(グリーン・ブラッド)としてやっぱり調教が必要なんじゃねーかと……」そこで一睨みされ、「あ、いや、ジンくんがいいならいいんだ。いや、ほんとの話」
 ふん、とジン君と呼ばれた少年は鼻を鳴らした。何かにつけてどうでもよさそうな態度を取るのが、貴族ってやつのおたしなみなのかもしれない、と双我は思った。そして改めてクール少年を見やった。
 神沼塵。
 この魔法学園『レギュレスの都』の生徒会長であり、魔法庁の高級官吏のご令息。実技堪能、魔術卓抜、つまり本物の貴公子。写真で見るよりずいぶん鼻が高い。
 気がする。
「もうすぐホームルームが始まる。生徒会役員ともあろうものが、遅刻しては格好がつかない。一年への『挨拶』も済んだ。もうこんな」
 そこで、ひくひくと不愉快そうに鼻を動かし、
「――こんなところにいる意味もない。いくぞ」
「あ、ま、待ってよジンくん。……おい一年ども、わかったな? いまので。この学校の支配者が誰か。身の程を弁えるんだな」
 双我は笑いを堪えるのを少し頑張った。しかし、目ざとく赤宮に見られた。
「おい、お前――!!」
「赤宮!」
「あ、ごめんよジンくん、今行くから……」
 ご挨拶、とやらを終えた二年生がいってしまうと、周囲にいた同級生たちがそろそろと近寄って来た。大変だったね、とか、ひどいよね、とか、言ってくれる彼らに双我は笑ってそれぞれ頷いた。そうとも。こいつはひどい。入学式を終えて、希望に胸を膨らませた一年に魔法動物の飼育小屋あたりからかっぱらってきた汚水をぶっかけるなんて。ひどい、ひどすぎる。
 だが、少しだけ溜飲が下がることもある。
 それは、双我が今日から神沼家にホームステイする、ということ。

「神沼邸にホームステイ?」
 教室までなんとか退却を済ませた双我に、話しかけてきた女子生徒がある。赤茶色のショートカットが少しカールした、小柄な少女だ。ブラウスが少ししわくちゃになっているのは、慌てて起きて登校してきたからか。
 入学初日だって眠いものは眠い。
 そのクラスメイトは新田蜜柑という名前らしい。机にテープが貼ってあった。
「え、それって……双我くん、優秀ってこと? あの神沼家に御厄介になれるなんて……」
「いや? そうでもない」
 双我は貸してもらったハンカチで制服を拭いながら答えた。
「俺の家は金がなかったからな。それを貸してもらって、衣食住の世話をしてもらう代わりに、奴隷のようにこき使われる。奉公ってやつだな。まァ、喰わせてもらえるだけマシだけど」
「そうなんだ……」
 蜜柑はどこか茫然としていた。
「あたし、田舎から出てきて、都会のことってよくわからなくて……入学初日からあんなことする先輩がいたのもビックリだし……」
「蜜柑はどこ出身?」
「みっ、蜜柑!?」
 よく日に焼けた蜜柑の狐色の肌が、ぽっと赤くなった。
「い、いきなり名前呼びとは……これがばーちゃんの言ってたジゴロってやつ……?」
「落ち着いて? 冷静になろう」
「う、うん」
「俺のことはいいよ」
 喋れないこともあるし、とは言わない。
「当ててみようか。蜜柑って南の方から来ただろ」
「あ、やっぱりわかる?」
 蜜柑は腰かけた机に沈み込むようにしょぼくれた。
「田舎くさいのかなあ、やっぱり」
「いや、俺の知り合いにも南から来た人がいてさ、その人に君が似てるだけ」
「へぇーっ。そうなんだ。どんな人? 優しい?」
「俺の上司」
 言ってから、
「……バイト先のね? もちろん」
「双我くんってバイトしてるんだ。偉いなあ」
 蜜柑はゆさゆさ足を振っている。
「あたしもどこかで見つけなきゃ……魔法道具店とかだと、学校の勉強の先取りもできるし、いいかなって思うんだけど、どこも人気なんだよね。お金出すから働かせてください、みたいな人までいるって言うし……」
「そりゃ現場に出向く以上の勉強はないからなァ」
「双我くんはどこでバイトしてるの?」
「やばいこと」
 双我は適当にごまかした。蜜柑がじろじろ双我を見て来る。
「何?」
「え、あ、いや、双我くんって色々なことを知ってるなあ、って……」
「アッハッハ。暇なだけだよ」
「あのね、双我くん」
 蜜柑はもじもじしている。
「あの、あたし、上京してきたばっかりで、まだ知り合いとかいないのね、だから……友達になってくれる?」
 双我は笑った。
「当たり前だろ?」
 自分の制服の胸元から、汚水の臭いが立ち昇っているのを感じる。
 俺ならこんな汚い臭いのする奴と友達にはなりたくねえな、と双我は思った。

 魔浄ドーム越しに見える夕陽が描くプリズムが、砕けては散っている。
 放課後。
 双我は教科書やら魔道具やらがギッシリ詰め込まれたカバンを左手に提げて、アナログなメモを片手に、神沼邸を探し回っていた。説明は受けてから来たのだが、どうもその日は朝から体調不良で、誰の言葉も耳に入って来なかった。かかりつけの魔女に頼んで精神活性剤をドッサリ処方してもらったのだが、時すでに遅し。やっぱり今度からもうちょっと真面目に生きよう、生活態度も改めよう、などと双我は思ったりもする。
 入学初日で、クラスメイトとの新しい関係作りとか、いろいろあったので早く休みたかった。蜜柑と仲良くなった代わりに、男子生徒のやっかみを買ってしまったらしく、イマイチ男友達はできにくい雰囲気になってしまった。女なんてめんどくせぇだけなのに、とは言っても、十五、六の思春期のガキなんて、やっかみぐらいしかすることがないんだろう。
 駄目だ。
 思考が安定しない。双我は頭をブンブン振る。どうも緊張しているらしい、らしくもなく。この俺が。
 チッ、と舌打ちすると、背後から声をかけられた。
「――街中で舌打ちなんて、関心しませんね」
 少し殺意を覚えながら、双我は振り返った。そして目を見張った。
 風を感じた。
 白く透き通った柔肌、赤と黒を基調にした制服、黒い生糸のように滑らかな髪、はっきりとした眼差しは秘められた意思を感じさせ、引き結ばれた口元は見知らぬ男を警戒し、責め立てながらも、誘っているようにしか見えない。完璧な少女。ふうん、と思った。
 かわいいな。
「ああ、ちょうどよかった」
 双我はにっこり笑った。
「道に迷っちゃって。でも、これで安心だ。おうちの人に会えたんだから」
「双我臨路さん、ですね?」
 少女はふう、とため息をついてから言った。
「初めまして。神沼水葉です。以後、お見知り置きを」
「どーもどーも。今日から御厄介になります。双我臨路、ガンバってベンキョーしますんで、よろしく」
 水葉はとても疑わしそうだ。
「……私、お兄様以外の男性の方とは、あまりお付き合いしたことがないのですけれど……みんなあなたのように軽薄なのでしょうか?」
「そんなことはないんじゃない?」
「……まあ、いいです。これから我が家へ案内しますが……いいですか? 双我さん」
 びしっと水葉は、意外にもかわいらしく小さな手を双我に突きつけた。よく見れば、綺麗ではあるが、まだまだ童顔。子供っぽい。
「あなたは我が神沼家が投資するに値する、と判断して、家へ招くのです。私から言うのも妙なことではありますれど、くれぐれも、粗相などなきように」
「はいはい」
「はいは一回。私は神沼の女です。逆らうことは許しません」
 冷たい目で水葉が宣言する。
「お分かりですか?」
「……はーい」
「よろしい」
 水葉は満足そうだ。
「では、参りましょう」
 歩き出し、それからちょっと立ち止まり、振り返る。
 どこか悲しそうな顔で。
「……双我さん、奉公制度について色々お聞き及びかと思います。中には確かに、奉公書生を奴隷のように扱う家もあるそうです。ですが、我が神沼ではそんなことは決してありません。お兄様も、お父様も、どちらも立派な紳士です。この私も、立派な淑女たろうと努めております。どうか、ご安心ください」
 そう言って、水葉は歩き出した。

 神沼の家は、もはや城だった。
 ほへぇー、と双我は高くそびえる巨城を見上げた。さすが名門、何度か攻城戦にもつれ込んだ形跡がある。建造されて百五十年以上は経っているだろう。
「どうかなさいましたか? エントランスはこちらです」
「まるで会社に住んでるみたいだな」
「…………。そうですね」
 水葉は少し気分を害したらしい。軽く髪を振ってから、颯爽と城の中へ入っていく。双我もそれに従う。
 夢の国のように明るく火を灯されたエントランスに、パタパタとメイドがやってきた。
「お帰りなさいませ! お嬢様! ……と? そちらの方は?」
「今日から神沼で身を預かることになった、双我臨路さんです。双我さん、ご挨拶を」
 ガキか俺は、と思いつつ、双我はへらへら笑いながら挨拶した。
「どーもよろしく。双我です。メイドさん大好き」
「この人、頭がヘンなんですか?」
「どうやらそのようです」
 女子二人にひそひそ内緒話をされ、双我は割とマジで落ち込んだ。
「まァいいでしょう。では、双我さん、お荷物をこちらへ」
「サンキュー」
 ずしり、と重いカバンをメイドは肩に俵のように軽々と持ち上げた。いいのか乙女、それで。
「お部屋へ案内する前に、神沼の旦那様へお目通ししましょう。お嬢様もそれでいいですね?」
「構いません、それが道理です。双我さん、いきますよ」
 答えも聞かずに歩き出す水葉。まるで弟が出来たばかりの姉のような暴君ぶりだな、と双我は思った。
 真っ赤な絨毯が敷き詰められた階段を上り、血筋が輩出した名魔導師の肖像画の迷路を通り抜けた先に、神沼家当主の執務室があった。
「レトロだな。転移装置ぐらいつけておいてもいいのに」
「お父様は魔法を使えない民のことを想っておられる、本当の紳士なのです」
 と、水葉が反論してきた。
「お父様は私が幼い頃から言っていました。出来ない人たちのことを忘れてはいけない、と。私もそうだと思います。双我さん、くれぐれも失礼なきよう。娘の私ですら、身が引き締まる思いを忘れられぬ方です」
「あっ、お嬢様」メイドが低い声で囁いた。
「塵お兄様がお帰りになったようで……お迎えに参りましょう」
 メイドと水葉が階下へおりていった。双我はそれをぼんやりと見送った。
 双我はちょっと肩を回してから、執務室の扉を開いた。
 光が溢れる。
 中は、映画などでよく見かける、まさにお金持ちの居室、といった雰囲気だった。高価な絨毯、飾りのつけられた照明灯、オークのデスク。そして革張りの椅子に収まった初老の男。細く鋭い目は、まるで顔面の奥の奥へ埋め込まれているかのようだ。
 双我が何か言う前に、初老の紳士――神沼氏は手を振った。適当に座れ、ということだろう。双我はさして動揺もせずにそれに従ったが、心の奥でやはり相手を憎悪した。
 誰であろうと憎まずにはいられない。
 たとえ理由なんてあってないようなものでも。
「君が双我くんか」
 どうでもよさそうに神沼氏が言った。
「そうです。この度は我が身をお受けしていただき、感謝の念を禁じえません」
 定型文を吐いて、頭を下げる。つむじがチリチリ痺れた。
 神沼氏はパイプを吹かした。
「礼などいい。わかっているな? 結果を出してくれ。それだけだ」
「もちろんです」
「言葉など無意味だ。なんの価値がある」
「同感です」
 神沼氏はちょっと目を上げた。少しとぼけたような顔で、剣呑な台詞を吐いた目の前の小僧を焼こうか煮ようか考えているようでもあった。
「我が神沼は名門だ」
 氏は立ち上がり、壁にかけられた絵を順繰りにステッキで叩いていった。
 おそらく仕込み杖になっている、魔法剣。
「歴史は古い。家が起こったのは五百年も前だ。それから魔法革命があり、その先陣を切って活躍していたのはいつも神沼の家のものだった。教科書を読んでみろ。我が家の讃美歌だ」
「その通りですね」
「ああ。神沼は愛国者の家だ。国家もまた神沼を愛してくれている。高い地位、充分な人材、豊富な資料。それもすべて、神沼に任せておけば安心だ、と国家が思ってくれているからだ。五百年の信頼が礎になっているのだ。君のような若者にはわかるまい」
「わかります」
「わかるものか。絶対にわからん。何がわかるというのだ、お前のような子供に」
 神沼氏は少しだけむせた。病気かな、と双我はどうでもいい気持ちで考えた。
「私には家を守る義務がある。それが男というものだ。息子と娘を『レギュレスの都』へ出しているのも、優秀な魔法戦士として育成するためだ。君を孤児院から引き取ったのも、そうだ。塵や水葉と同格には扱えないが、この家で寝食を共にする以上、君にも有能な魔法戦士になってもらわなければならない。立て」
 双我は立ち上がった。
 おもむろに、神沼氏は手に持ったステッキで双我の背中を打った。
「ぐっ……!」
「跪け」
 双我は言う通りにした。その頬にステッキが突き立てられた。
「君に恨みがあるから、こうするのではない。我が子らと同格には決して扱わない、ということを躾けるために、こうしている」
「…………」
「返事」
「……はい」
「いいだろう」
 ステッキを離す、フリをしてもう一撃を加えてから、氏は双我から離れた。
 タン、タン、とステッキを自らの掌に打ち付けている。
「優秀な魔法戦士というものは、決して諦めないものだ」
 映画かよ、と双我は思った。
「君は猫が好きか?」
「猫?」
「動物の方じゃない。魔法戦士として、天然素材として持て囃される猫のことだ」
 双我は立ち上がって、椅子に座り直した。
「好きか嫌いかと言えば、好きですかね」
「そうか。私は嫌いだ」
 格子窓から、神沼氏は外を見ている。
「彼らは不当な存在だ。神から極端に愛されすぎている。万能な素質、高飛車な精神、どちらも甘ったれを作り上げる原因だ。彼らは社会規範を無視し、自分勝手なエゴを振り回し、これまで何度も魔法戦争を引き起こしてきた。まさに害悪。しかし、彼らに手を貸してもらわねば、この魔法都市国家を維持できないのも事実……」
 神沼氏は振り返る。
「私はね、いつか猫に頼らずに自立できる魔法都市国家を夢見ている。そしていつか猫狩りをするのだ。私が育てた、私が作り上げた魔法戦士たちが、彼らの傲慢な才能を打ち砕く日……それを想像するだけで、年甲斐もなく、胸が躍る。君にもいつか、その尖兵になってほしいのだ」
「ご期待に添えるように努力しますよ」
 双我は蜜柑から借りっぱなしのハンカチで、なんとか余白を探して口を拭った。
「神沼さん、あなたはその夢のために『レギュレスの都』の運営を?」
「運営? ああ、寄付のことか。そうだよ。当然だ。子供たちが未来を作る。もっとも投資するに値する品だ」
「なかなか面白いこと言いますね」
「何?」
「いえ、なんでも」
「……まァいい」
 神沼氏はジロジロと双我を見た。
「話は終わりだ。部屋へいきたまえ。それと」
 声が低くなり、
「これから一緒に暮らすことになるわけだが、貴様、水葉に手を出してみたりしてみろ。後悔することになるぞ」
 ハハハ、と双我は笑った。
「残念ながら、俺の好みの女の子は、もうちょっと猫っぽくてね」
 双我は執務室から出て行った。

 新しい自分の部屋。
 そのベッドの上で、双我は寝転んでいた。荷物はすべて床にぶちまけてある。
 魔力光の明りを見上げながら、うとうととする。
 魔法剣が手元にないとイラつく。柄のあの感じがないと不安だ。しかし、学生になったからには、魔法剣は貸し出し式。帯剣が許されるのは特権階級のグリーン・ブラッドだけ。緑鳳王と十七人の魔将。子供でも知ってるくだらない昔話。その系譜を自称する貴族ども。
 にゃおう。
 どこかで猫が鳴いた。双我は起き上がる。窓を開けると、外にニレの木が植えられていた。その枝に猫が乗っている。窓枠に頬杖を突いて、双我は猫に喋りかけた。

「コード638。作戦名『ファット・デーモン』。
 担当官、第一級白兵魔導師リンジー・ソーガ。
 ――潜入成功、作戦続行中」

 毛づくろいを終えた猫が一度あくびをしてから、なんと声を出した。それは本物の猫ではなかった。
「本部了解。魔導師ソーガは引き続き神沼邸で奉公書生として活動されたし。――調子はどう? 双我。元気ないじゃん?」
「入学初日から、先輩に汚水をぶっかけられてね。おかげでクラスメイトとフラグが立ったが、ツバつけてもいいかな?」
「容疑者以外との接触は極力控えるように、ってダーナが言ってる。代わろうか?」
「いいよ。そっちも捜査で忙しいだろ。……援軍はなしか?」
「残念ながらね」猫は肩をすくめるフリをした。
「実戦級の魔法戦士候補生がいる学園に、あなたを単独で送りたくはなかったのだけれど……生憎と手駒が、ね」
「もう何度も聞いたさ。構わない。どうせ死ぬならいつでも一緒だ」
「またそんなこと言って。でも、本当に気を付けてね」
 そこで猫は一拍置き。
「情報は確かだよ。君の通うことになる『レギュレスの都』には、――独立蜂起を考えている魔法貴族がいる。容疑者は神沼、朝霧、赤宮の三家。君には反逆者を発見し、捕縛、ないし虐殺してもらう必要がある。この魔法都市国家の存続のためにね」
「ミランダ警告みたいだな。いちいち定時連絡のたびに言わなきゃダメかそれ」
「そうじゃないけど、やっぱりお役所仕事だから」
「ま、なんでもいいさ。じゃ、気をつけて戻れよミーシャ。敵地だぜ、ここ」
 窓を閉めて、猫がいなくなるのを見届けてから、双我はベッドに再び腰かけた。じっとカーペットの一点を見つめていると、トントン、とノックが鳴った。どうぞ、と言ってから、自分の声が学生に聞こえないくらい低くなっていたことに気付く。咳払い。
 ドアが開くと、カーディガンを羽織った、寝間着の水葉が入って来た。双我は目を丸くした。
「あの」と水葉は、喉を使ったことがない人のように途絶えがちに言った。
「今日はいろいろあってお疲れでしょうから、反省会も兼ねて、紅茶でもどうかと」
「反省会って、まるで俺が入学失敗したみたいだな」
 笑ってから、ああ、と気づく。
 今朝の汚水騒ぎを、水葉も見ていたのか。
 サイドテーブルにトレイを乗せて、小さな椅子に腰かけると、目を合わせずに水葉が言う。
「兄は、本当はあんな人じゃないんです。ただ、長男でもありますし、レギュレスを率いる生徒会長という重責もあり、その……」
「いいって。気にするな」双我は笑って手を振った。
「とはいえ、妹の君から、少し手厳しく言ってやって欲しいけどな」
 水葉はうっすらと笑った。疲れた顔をしていた。
「双我さん……どうか、兄と仲良くしてあげてください」
 それだけ言うと、紅茶だけを残して、神沼の娘は去って行った。
 双我は紅茶のカップを手に取ると、猫舌をなんとか駆使して、少しずつ紅茶を啜る。水葉の背中が消えていったドアの方を見やる。
(兄と仲良くしてあげてください――)
 双我はベッドに横たわった。真っ暗な天井を見上げながら、思う。
 それは出来ない。

「水葉、その態度はなんだ」
「お兄様……」
「ナイフとフォークの置き方がなってない。名門の士族はそういうところも見逃さないぞ。お前ももうすぐ十六だ。上流の社交界に出た時、付け入られないようにしなさい」
「……はい、わかりました、お兄様」
 これが兄と妹の会話か、などと双我は思うが、口を出すわけにもいかないので、黙っている。
 朝食。
 神沼氏はいない。すでに魔法庁に登庁している。家族三人には大きすぎるテーブルに、兄と妹が向かい合って座っている。双我の椅子はなかったので、適当に空き部屋から一脚かっぱらい、勝手に座っている。足を組み、トーストに手慣れた調子でバターを塗りたくっている様だけを見れば、まるで双我が当主のように見える。
 ただ偉そうなだけだとも言う。
 そんな双我を、神沼家のご令息、神沼塵は徹底的に無視している。
 昨日の挨拶のことはもう忘れているらしい。
 双我は口元をナプキンでぬぐいながら、塵の冷ややかな目元を眺めた。
 ――魔法能力指数480オーバーの麒麟児にしては、物覚えの悪いことで。
 塵は、居候の反逆心など気づいていても関係ないとばかりに、ひたすら妹に喋りかけ続ける。
「昨夜、生徒会室に赤宮氏が訪れてな。ああ、父上殿だ。二ヶ月前の校外魔法試験教練の結果をわざわざ届けに来てくれたよ。やはり紳士というものは、器が違う。こんな学生の俺にまであのような態度を……」
「お兄様も、直に名流の仲間入りですわ。大学を出ればすぐにでも……」
「いや、それでは遅い。大学へ進んでからすぐに、インターンで魔法庁に登らせてもらうつもりだ」
「それは……!」水葉はおもちゃを見た子供のように目を輝かせる。
「素晴らしいですわ、お兄様、いよいよお父様の跡目をお継ぎになられるのですね……!」
 塵は愛想笑いを家族に向けて浮かべた。
「そうだな。いずれな」
「双我さん、あなたもお兄様を見習ってくださいね」
 水葉はニコニコと言ってきたが、そのセリフが塵に与えた不快感は相当なものだったらしい。
 ガタン
 塵は何も言わずに立ち上がると、物音にびっくりした水葉を一瞥もせずに食堂を出て行った。扉が派手に閉まった。水葉は凍り付いている。双我は笑った。
「まるで子供だな。気に入らなくなったらすぐ逃げる」
「双我臨路っ!!」
 今度は水葉が音を立てて椅子から身を乗り出す番だった。被造物くさい白みのある肌が、赤く染まっている。
「撤回しなさい。お兄様への侮辱は許しません」
「撤回しよう」双我は水を注いでゴクゴク勝手に飲んだ。
「が、俺だって不愉快だぜ。居候とはいえ、これでも寝食を共にしてるわけだ。俺は礼儀を尽くしてるぜ。今日だっておはようって言ったし、それを返さないのは向こうの勝手だ。まさかボコボコにして挨拶させるわけにもいくまい」
「その野蛮な口調も直した方がいいですね。当世風ではありません」
「いや、それを君に言われるとなんかモヤモヤするんだけど……わかったよ、改める」
「それに、あなたのような凡人がお兄様をボコボコになどできるわけがありません」
 むふーっ、とどこか少女っぽい鼻息を立てて、水葉が椅子に座り直した。そういうところは、やっぱりまだまだあどけない。
「お兄様はエリート中のエリート。あなたなどとは違うのです。あなたが見習う点はあれど、お兄様が改めなければならない点などあるわけがない」
「ふーん」
「……なんです?」
「ちょっといいか」
「えっ?」
 双我はおもむろに手を出して、水葉の額に手をやった。水葉はいきなり世界が終わったような顔をした。
「なんだ、熱でもあるのかと思ったよ」
「ひっ……」
「ひ?」
「ひ、氷室っ、氷室ーっ!! 狼藉者です!! ろうぜき、ろっ」
 食堂のドアがバターン! と勢いよく開いた。
 昨日のメイドが息を切らして立っていた。
「どうなさいました、お嬢様!!」
「氷室っ、氷室っ」
 メイドに取り付いて「みー」と泣き始める水葉。
 ひとりぼっちの双我は、ただただ茫然とするしかない。
 メイドこと氷室は、胸の中の少女の頭をぽんぽんと叩いた。
「おお、よしよし。大丈夫ですよお嬢様」
「ううっ」
「あの不届き者は今、この氷室が今ブチ殺しますからね」
「えっ、ちょっと待っ」
 つかつかつか、と歩み寄って来た氷室の鉄拳が、バタートーストを入れたばかりの双我のストマックにいい角度をつけてブチこまれた。
 もちろん双我は、もんどり打って遅刻した。

「ひどい目に遭ったよ」
「大丈夫? 双我くん」
 遅刻ついでに速攻で洗濯して返したハンカチを、蜜柑はそのまま双我の頬に当てた。氷室にボディブローを喰った後、さらに二、三度サッカーボールキックを喰らったので、顔面が腫れている。
「メイドって大変なんだな」
「これはメイドさんの所業なの?」
 休み時間、蜜柑は隣の席の双我を心配そうにのぞき込んでいる。午前の陽光が、蜜柑の赤茶色の髪を輝かせていた。
「きっと双我くんが何か悪いことをしたんだね……」
「聞き間違いかと思うほど君から俺へのディスがひどい」
「あはは、うそうそ。でも、やっぱり、大変? ホームステイ」
「知らない人間と一緒に暮らすんだから、そりゃあ多少な。おーいて」
 双我は黒板に書き残された魔法式をぼんやり眺める。現代では魔法剣にそのまま内蔵されている魔走回路の既製品が販売されているため、それこそ専門職にでもならない限りは不必要な知識だが、いちおう学ばされる。悪いことではないと思うが、理論を教えるなら、それを発散させるフィールドを作ってあげなければ教育なんて完遂できないだろう、などと双我は難しいことを考える。
 濡れたハンカチを四角く畳みながら、蜜柑は言った。
「何か手伝えることがあったら言ってね。あたし、応援するよ、双我くんのこと!」
「ありがとう。俺の味方は蜜柑だけだな」
「あはは」
 蜜柑は嬉しそうに笑う。釣られて双我も笑う。しかし、危険だな、とも思う。
 彼女の家のことはすでに調べてある。
 新田家は、地方の豪族崩れとはいえ、まっとうな家柄だ。反逆者を輩出した過去はなし。ただ、蜜柑の兄が魔法事故で三年前に死亡している。事故原因は不明。人為的なもの、偶発的なもの、結果は未解決のまま、事件は迷宮入りした。
 仕事柄、誰かを信用することができない。
 双我の頭は回転する。もし、その事故が反逆者の危険な実験だったとしたら? 捜査が思うように進まなかったのはなぜ? 圧力がかからなかったと誰に言える? 兄の死を切っ掛けに『愚かな鼠ども』が妹を黒魔法の世界に勧誘しなかった確率は何パーセント? 双我ならこんな風に声をかける、葬式で泣いている少女の耳元に囁く。お兄さんの夢を引き継ぎたいとは思わないかい? 少女は涙で濡れた顔をぱっと上げる。選択肢は一つだけ。
 やります。
 双我は黙っている。
「……大丈夫? 双我くん」
「ん?」
「なんだか、疲れてるけど」
 双我は確かに、疲れている。
 乾いた笑いしか出て来ない。
「朝は苦手なんだ」
 テンプレなセリフでお茶を濁して逃げを打つ。左手がありもしないコップを探して机の上を彷徨った。何か飲むフリで空気を整えたい。
 タイミングよくチャイムが鳴った。
「わ、休み時間、終わっちゃった」蜜柑がブラウスから喉を見せて、時計を見上げた。
 赤と黒を織り合わせた制服を着たクラスメイトたちが、ガヤガヤと段差式の机に収まっていく。
 双我はぼんやりと、その後ろ姿を眺めた。
 この中に、この学校の中に、裏切者がいる。
 双我はチラリと隣で鼻歌まじりに教科書を整えている蜜柑を見やる。
 俺は、裏切者を殺さなくてはならない。
 たとえそれが誰であろうとも。

 魔法。
 といっても、発祥はそれほど古くない。
 本格的な魔走回路が開発されたのは魔法革命直後の黎明期であり、それ以前の魔法使いは、ほぼ猫しかいなかった。
 鼠の器で魔導に辿り着いたのは、せいぜい爆死したゲオルグ・ファウストか、中世フランスに跋扈した女毒殺魔たちの何人かくらいであろう。
 体系化され簡易化したのは、ここ二百年程度のこと。
 仕組みはそれほど複雑ではない。
 ある一定の魔法式(パターン)が、その形成者の恣意的な情動に反応し、超自然現象を巻き起こす。言ってしまえばそれだけのことだ。
 真理はいまだ解明されておらず、樹立されてきた基本原則もほとんどが「たぶんこんな感じだろう」と暫定的に置かれているだけのこと。
 破綻がいつ訪れてもおかしくないが、誰もが魔法を支配したような顔をして今日を歩いている。
 魔法式は脳のシナプス回路に似ている。
 つまり、人間の心が全て解明されない限りは、魔法の完成もないだろう、と大魔法使いたちは言う。双我もそう思う。
 少なくともすべてが明らかになるか、あるいは闇に葬られるのは、自分が死んだ後のことになるだろう。
 それでも、いま使える魔法ぐらいのことは、覚えておいても損はない。
 大別して二種。
 攻性魔法と防性魔法。それに特異魔法がイレギュラーでいくつか。しかし、ほとんど使われないか、あるいはせいぜい戦術の味付けになるか程度。
 攻性魔法と防性魔法は、それぞれ最初に魔法式に組み込む時に分量を決めなければならない。
 攻性魔法7、防性魔法3の魔法式で組めば、攻撃型の魔法使い。
 防性魔法8、攻性魔法2の魔法式を編めば、バックアップ型。
 特異魔法は、使いたければ、その隙間に入れる。
 作成した魔法式はカートリッジと呼ばれる装置に記録し、出力装置である魔法剣に挿入する。
 それを振り回せば、それだけで立派な魔法使いだ。魔法剣のグリップが、持ち主の魔法素質を認証して、それに相応しい火力と安全を提供する。
 カートリッジはかさばるので、剣のようにリーチにあるものに挿入するのが適正であると言われている。また、実際の剣技が白兵戦で役に立つのは誰もがお望み通りの知る通り。
 双我はシャーペンの先でノートを叩きながらあくびをした。
 やっぱりやるなら実戦だな、と思う。
 双我は教室の窓から外を見やった。
 結界が緑色の蜘蛛糸のように張り巡らされた中で、三年生が魔法実技の実習中だった。
 魔導装甲を身に着けたハイブリッドな現代の騎士たちが、魔法剣を振り回しては爆炎や槍氷を放ち合っている。
 救護官がイライラした様子で、グラウンドの端から足踏みしていた。かなり危険な動きが多いクラスだった。
 ネットで止められた爆炎の名残が、窓をすり抜けて双我の髪を揺らした気がした。
「…………」
 腰から外された魔法剣の違和感が、抜けない。
 双我は頬杖を突いて、教室の黒板を見直した。
 空いた左手が、自然とノートに一人の名前を記し出す。
 朝霧空也。
 容疑者の一人、朝霧家の令息。家門の位は神沼のそれと同格。
 魔法庁ではなく、代々が魔衛軍の陸軍高官の一族。
 行政の神沼、戦争の朝霧、と言ったところか。
 資料は穴が開くほど見た。
 潜入前、双我はほぼ確実にこの朝霧空也が反逆者だろうと目星をつけていた。
 だが、追い詰めて諮問することは今は出来ない。
 朝霧空也は行方不明になっていた。
 原因不明。目下捜査継続中。しかし芳しい証拠も足取りも掴めていないのが実情。
 つまり、蒸発。
 双我は、暗記している朝霧の情報をノートに書き出した。目は虚空を見ている。
 十七歳、『レギュレスの都』在学。三年生。成績優秀、しかし品行不正。
 血筋の割に粗野な言動が多く、他者の憎しみをよく買っていたという。
 魔法暴発に見せかけた私刑行為が二度、摘発され、停学処分にされかかったが、いずれも親が多額の寄付を学院に施し、不問。
 成績上、極めて優秀な攻性魔導師。しかし、防御面に難有り。
 もしなんらかの事件に巻き込まれて失踪したなら、おそらく白兵魔導師級のウィザードに襲撃されたものと思われる。
 もちろん、朝霧も自由帯剣を許されている高潔種。
 朝霧は、神沼塵とは、入学当初からイザコザを起こしている。
 塵が、ある程度の人望を維持しているのは、わかりやすい悪党の朝霧と敵対していたからだ、とクラスメイトの誰かが噂しているのを昨日、双我は聞いた。
 二人は決闘まがいのことまでしたことがあるらしい。その時の勝者は、神沼塵。それから朝霧は並々ならぬ憎しみを塵に抱くことになった。
 その憎しみが反逆者への道を、わかりやすい強さを、『猫へと至る階(きざはし)』を望む切っ掛けになったのか……
 朝霧空也。
 生きていれば、反逆者。
 そうでなければ、おそらく。
「……ってところか」
 コロン、とシャーペンを転がした双我を、不思議そうに蜜柑が見やる。
「どうしたの? 双我くん」
 蜜柑は不思議そうな顔をしていた。

 双我はホコリをかぶった書籍の背表紙をすっと指で撫でた。
 灰色の汚れを指先で確かめつつ、ズラリと並んだ書架を見渡す。
 ポケットの中には受付の図書委員の目を盗んでギッてきた図書カードの束。
 それをぺちぺち捲りながら、余所者を見るような視線をあちこちに飛ばしている。
 学立図書館B12F。
 禁書区画だが、冒険好きな高潔種がたまに出入りしているらしく、安全機構はザルだ。
 魔法機関室の方に忍び込んで、ちょっといくつか回線に眠ってもらえばラクに鍵は開いた。
 さて。
 猫になろうとしている鼠がいるということは、それは禁則指定されている黒魔法を扱っているということ。
 魔法都市国家への反逆、つまり独立蜂起にはどうしても『猫』の力が要る。
 しかし、猫狩りに猫が参加するわけはないし、そもそも猫を少数の鼠が支配下に置けた試しなどない。
 ゆえに、必ず、反逆者がいるなら、彼らは独自に黒魔法の研究をしているはずなのである。
 学校では決して教えてくれない闇の裏技を。
「…………」
 手持ちの図書カードの名前を素早く目で繰っていく。
 神沼塵。朝霧空也。赤宮猛。桜井隼人。新田真司。ほか若干名。
 赤宮、桜井はくだんの『挨拶』で塵のそばにいた取り巻き二人。朝霧と塵は第一容疑者なので当然調査必須。新田真司は、蜜柑の兄。
 彼は三年前まで、この『レギュレスの都』に在籍していた。当然のように、成績優秀。生きていれば魔法庁への入庁は確実と言われていた。専攻は時空魔法。主だった友人はなし。
 蜜柑本人は、入学したてで貸出記録はまだないため、カードは盗んで来なかった。
 が、入学が決まって蜜柑が上京してきたのは一ヶ月前。
 それから足繁く、『見学』という名目で学園を訪れているのを、何人かに目撃されている。
「…………」
 双我は、黒魔法に関する本を指の腹で叩きながら、地下書架を歩いた。
 図書カードに禁書貸出の記録がないのは当然。閲覧さえ、高潔種ならば、という理由で黙認されているだけであり、公になれば罰金では済まない。逮捕拘禁まである。双我が図書カードを盗んできたのは、それでも黒魔法への記述がある一般書籍は少数ながら存在しており、そういったタイトルが並んでいないかと軽く期待していただけのことだ。
 記録が存在していないのは構わない。
 問題は、ここにある禁書がこの数年、誰にも触れられた形跡がない、ということ。
 双我はぽりぽりと頬をかきながら、眉根を寄せた。
 おかしい。
 反逆者がいるなら、必ずここにあるような禁書を手本に魔法実験を行う必要がある。
 独学で黒魔法を編み出すというのは、枯れ木を組み合わせてスーパーコンピュータを作ろうとするようなものだ。
 無限の時間と手順を駆使しても足りない。ましてや鼠には。
(どういうことだ……)
 神沼塵、もしくは朝霧空也はそこまでの天才だったということか? 黒魔法といっても、既存の魔法の延長線上ではある。双我が思っているよりも、軽い奇跡の可能性はなくはない。
 あるいは、と双我は思う。
 反逆者は確かにいる。
 が、その実験は独学による勝手気ままなお粗末そのもので、子供の児戯も同然。結果は得られないが、一応、反逆意思アリということで、粛正だけはしておこうという上の方針だったのかもしれない。双我には、反逆者アリという情報しか落ちてきていない。もしこの推理が当たっていれば、双我は何も心配しなくていい。反逆者はほったらかしておいても、双我を殺すこともできなければ、独立蜂起も出来ないだろう。
 いずれにせよ、ここからこれ以上の情報は抜き取れそうにない。
 双我はいくつかの黒魔法に関する古書をパラパラとめくってから、それを棚に戻した。そこには鼠が猫へと至るいくつもの道筋が記載されていた。
 もちろん鼠は猫にはなれない。
 ただ、猫より大きく肥え太ることは鼠にも出来る。
 双我は子供の頃、豚のように大きな鼠を見たことがある。魔法によって巨大化された品種だったが、凶暴で、人間の手足くらいなら平気で噛み千切れる。よくそういった巨大鼠を相手に魔法剣を振り回したものだ。弾ける肉片、舞い散る血潮。
 思い出しても眠くなる。
 自分を殺すことができない敵を吹き飛ばすなんて、目覚まし時計を止めるよりも億劫だ。
 少しだけ物思いに耽った。
 普段の双我なら、こんなところでグズグズと立ちっ放しにはなっていなかっただろう。情報が取れなければ禁書区域など危険地帯でしかない。すぐに撤退し、なんの意見も表情も持たない学生の姿に戻ればよかった。だが、双我は単独潜入に慣れすぎていた。緊張はあった。だからこそ、緩んだ。
 ……いっそ接敵した方が目が覚める、くらいに思っていたのは否定できない。
 その暗い望みはすぐに叶った。
「……何をしている!」
 女性の声が暗い書架に響き渡った。司書か、と思い、双我はゆっくりと顔を上げたが、その目に映ったのは濃紺の警備甲冑に身を包み、腰には魔法剣を提げた女性衛士の姿だった。凛とした表情を張りつめさせて、衛士は双我に近づいてきた。
「生徒だな? ここで何をしている。学籍番号と名前を言え」
「学籍番号45D6822。氏名、中岡拓真」
 嘘はつくに限る。
「すいません、ああ、しくじった。いや、ほんの好奇心だったんですよ。参ったな。友達と賭けをしましてね。肝試しですよ。貴女も学生の頃は、ちょっと危ない橋を渡ってみたかったものでしょう? ああ、わかってますよ、この本はすぐに戻します……」双我は手の書籍を棚に戻し、笑った。
「ね? なんでもない。僕は本を棚に戻した。ここにある四半本を隠し持てるようなバッグも持ってない。ここでは何も起こらなかった。それで許してもらえませんか」
「腕章はどうした」
 衛士の手は魔法剣の柄にかかっていた。双我の目がそれを掴んで離さない。
 しめた。
 この女、俺を高潔種かどうか考えている。学園と話のついているグリーンを捕縛したとあれば、職を失う可能性もある。それを恐れているわけだ。
 双我はため息をついてから喋ってみた。
「すいません、信じてもらえないとは思いますが、腕章はいま持ってないんです。もちろん僕はグリーンなんですが。困ったなあ、こういうことってあるんですね。本当に、僕、腕章をちょっと汚してしまって、さっき洗濯に出したところなんですよ」
「高潔種は腕章を決して汚さない」
 冷たく切り返してきた衛士から、殺気が立ち昇った。チッと双我は内心で舌打ちをする。確かにそうだ。貴族のお坊ちゃん方が、『自分』が『自分』である証をおいそれと汚したり、外したりするもんか。俺だってそう思う。参ったな。
 これは戦闘になりそうだ。
「僕は中岡家の人間ですよ。上と連絡を取らなくていいんですか? 脅すようで申し訳ないが、庶民であるあなたが、僕のような貴種の顔に泥を塗ることは許されていない」
「お前が本当に貴種なら、魔法剣を帯剣していないのはなぜだ?」
「あっはっは」
 交渉終了。
 女性衛士が一歩、猛禽のような勢いで踏み込んできた。居合抜きするつもりだろう。身を獣のようにたわませている。一瞬が何分割もされた時間の中で、双我はぼんやりそれを見ていた。魔法剣は持っていない。手加減はできない。幸い、書架の中は暗く、顔はハッキリ見えていないはずだ。わざわざ魔力灯を一つこのためだけに予め壊しておいて正解だった。それにしても、
 この狭い書架の通路で居合斬とは、呆れたもんだ。
 双我は一瞬で勝った。手順は簡単。左手で、書架の庇を掴み、それを思い切り引っ張った。書架は一体型ではなくある程度でそれぞれ分割されており、本がぎっしり詰まっているとはいえ、思い切り引けば動かすことはできた。
 抜刀にはある程度の空間が必要だ。
 書架を引いてその空間を小さくしてやれば、衛士の右肘は急に接近してきた書架に激突し、
「!」
 剣は抜刀しきれず、半ばで止まる。
 そして魔法剣は、抜刀しなければ使えない。
 双我は動いた。まず衛士の懐に忍び込み、
 ぽふん
 胸を揉んだ。
「!?」
 衛士の顔が赤くなる。双我はニコニコしている。確かに弁解はしない。揉みたくて揉んだ。しかし、望んだ効果はそれだけではない。衛士は動揺しているが、そこにはこんな期待が少しだけ混じっている。
『この戦闘はひょっとして、ただの冗談だったりするのだろうか?』
 そんなわけない。
 双我が欲しかったのは、衛士が膝蹴りをしてこない保証。一瞬の停滞。それは得た。だからのんびりと、優雅な手つきで、
 抜き取られかかった衛士の魔法剣を、空いた右手で鞘ぐるみ掴んだ。
「あっ」
 そのまま双我は、剣を右から左に振り抜く。
 笑いながら。
 鈍い音。
「ぐあっ……あっ……」
 鞘に収まったままとはいえ、鋼鉄製の魔法剣の殴打を肋骨に受けた衛士は、そのまま床に崩れ落ちた。双我は悠々と鞘から剣を抜き放った。剣の刃紋が鞘の中に仕込まれた認証コードを通り抜けて、魔法の使用に許可が下りる。攻性魔法2、防性魔法8のガードマン・スタイル。全然問題ない。全然使える。
 衛士は痛みに悶え、白い泡の欠片を口の端から零しながら、涙目で見知らぬ学生を見上げた。
 他人の剣を振り上げる。峰打ちなどはしなかった。
 振り抜いた双我の剣から、裂帛の殺意と共に紅蓮の炎が迸った。
 破壊だけが、そこに残った。

 双我は剣を鞘に納めると、気絶している衛士の側へ放り投げた。盗んだところで隠し場所がない。
 学生服のポケットに手を差し込み、1ダースにパックされた錠剤を取り出した。その一粒をパチンと割り落とし、気絶した衛士の唇の奥に押し込んだ。軽めの記憶浄化剤だった。ここ二、三日の記憶が飛ぶ。何かいい思い出でもあれば可哀想だが、仕方ない。
 生きてさえいれば、思い出なんてまた作れる。
 たぶん。
 双我は立ち上がり、警報装置の音を聞きながら、書庫を後にした。走り去る時に、燃やし尽くした黒魔法に関する古書の破片が、その靴を汚した。

 カートリッジが抜かれていたらしい。
 もちろん双我は、やっていない。
 衛士の魔法剣は禁書区画に置き去りにしたままだ。
 べつにカートリッジに充填された蓄積魔力が欲しかったわけでもない。
 発動機だけあってもフレームがなければ、刀身を鞘でリコードさせなければ、魔法は使えないからだ。
 双我にはカートリッジは必要なかった。
 だが、抜かれていたらしい。
 教室の中央で女の子のクラスメイトたちがひそひそと囁き合っている。蜜柑もその輪の中にいて、おずおずといった感じで、話題に入ろうというそぶりだけ見せている。時々チラチラと双我の方を心細げに見やってくるので、微笑んでやると安心したように頷いていた。それを横目で眺めながら思う。
 学院は、生徒の所持品検査をするつもりだ。
 それ以外には考えられない。レギュレスの運営委員は禁書区画での事件を極めて重大なトラブルと認識しているらしい。当たり前の話ではある。自宅の物置が夜の間に誰かにブッ壊されていたら誰でも国家権力に通報するだろう。見て見ぬフリなど本人がしたらそれこそ怪しい。
 問題は、レギュレスが『黒』かどうかだ。
 学院そのものが魔法貴族の反逆行為に加担している可能性はある。少しある。通常は、学院はその手の黒魔法には関与しない。儲からないし、危険だし、さほどメリットもない。学院はセンスがあろうとなかろうと、貴族のお坊ちゃまお嬢様を教育して金を稼ぐための組織だ。何もわざわざ手を差し出したら小切手の代わりにお縄を頂戴する必要などない。そんなことしなくても金は音を立てて落ちてくる。雲の上という名の貴族社会から。
 が、レギュレスの金主である神沼家の当主は、極めて猫嫌いのお殿様だから、鼠をチマチマ育てるどころか手っ取り早い『猫殺し』の手段である黒魔法を支援してもおかしくはない。もしそうならこの学院は真っ黒だ。双我は竜の胃袋の中にいるのも同然になる。思わず笑う。この推理が当たっていたらたぶん俺は死ぬ。
 だが、双我が派遣されたのは『学院内での黒魔法使用の形跡』が探知されたからであって、『神沼当主に反逆の疑いがあるから』ではない。だいたい、反逆なんていう青臭いことをやるのは喰うに困らぬ学生と相場が決まっている。老人連中は今の魔法社会に文句があろうとなかろうと、それなりの自分のポスト、地位や給料、そういうものを抱え込んでいるから野望なんていちいち追わない。そんなものを追っかける奴は双我と同い年ぐらいの頃からかたっぱしから死んでいくだけだろう。双我もそういう鼠や、あるいは猫を何人も見てきた。勇者は死ぬ。それが真理。
 反逆者はこの学院の中にいる生徒の誰か。
 その基本方針を双我は変えないでおくことにした。
 いずれにせよ、学院が近々所持品検査を打ってくるのは間違いない。レギュレスが黒なら鼠狩りにやってきた潜入捜査官を、レギュレスが白なら禁書区画に好んで入るような黒魔法愛好者を、それぞれ炙り出して消そうとするはずだろう。どっちだろうと『所持品検査』は絶対に行われる。黒魔法に関する道具か、さもなければ隠して持ち込まれた魔法剣が発見されると読んでくるはず。
 もちろん双我は魔法剣を所持していない。
 いつもより軽くなった腰に左手を当てながら、双我は考え続ける。
 所持品検査をされても双我は痛くはない。が、反逆者はどうだろう。この事件をどう捉えているのだろう。もちろん反逆者は黒魔法に手を染めてしまったわけだから、追手が訪れたことを悟っただろう。仮に禁書区画での白刃騒動が反逆者となんの関係もなくても、恐れないわけにはいかない。
 双我の目が教室を舐めるように渡った。
 一見すれば、いつもの教室。
「…………」
 やはり朝霧かな、と思う。
 姿をくらませた優等生。
 奴が反逆者ならこの学院にはもう残っていないだろう。とはいえ、お坊ちゃまが野に潜り山を抜けて僻地で黒魔法の研究に打ち込んでいるというのも考えにくい。レギュレスは魔法技術の最先端だ。大型の機材を必要とする黒魔法研究の場としてこれほど相応しいところもそうはない。朝霧が反逆者なら、潜伏し続けていて欲しいところだ。
 見つければブッ殺すだけで済む。
 朝霧が生きていて『白』ということはないだろう。
 双我は組み合わせた手を伸ばして、指と指を突き合わせた。まるでそれが深遠な数式に繋がっているかのように、じっとその繋ぎ目を見る。そばで女子が「なんか双我くんの目ぇ怖くない?」などと失礼なことを言っているが無視する。
 双我は決めた。
 まずは朝霧を洗う。
 昼の鐘が鳴るとすぐに、双我は席を蹴って立ち上がった。

 そして、二週間後。
「この間は、どうも」
 双我は、別に上背がある方ではない。
 痩せ気味の中背、目立たない人間だ。が、それでも少女と見間違うように小柄な桜井隼人――神沼塵の取り巻きを校舎裏の壁に追いやって、その身体で太陽光を遮ったりなんかすると、ちょっと強面のお兄さんに見えなくもない。
 桜井は、いきなり誘拐されるように無人の空間に連れ込まれて、怯えたウサギのような顔をしている。
「畜舎から汚水をわざわざバケツで汲んできてくれたのは、桜井先輩ですよね」
 双我がニヤニヤ笑って言うと、桜井は失神しかけたのか、膝がかくんと落ちかけた。
「な、何を言ってるの。ええと……双我くん? 僕は……そんな。あれは……誰かが」
「目が良くてね」双我は自分の両眼を指で示した。
「先輩の袖が茶色く汚れてるの、あのとき見ちゃったんだよなァ。もちろん俺の方が汚れてましたけどね」
 桜井は息も出来ない様子。
 が、双我のこの目撃証言は根も葉もない嘘だ。そんな汚れなど見ていない。が、塵、赤宮、桜井のいつも一緒のなかよしトリオの中で、誰が一番下っ端かといえばこの桜井だろう。あんな汚水を貴族のお坊ちゃん二人がわざわざ運んだりはしない。桜井は確か父親が鼠から成り上がった二代限りの高潔種で、魔法庁専属の公営ドライバーギルドの人間だったはず。双我は頭痛を覚えながら、ジャンクフードのように詰め込んだ容疑者たちの情報を洗い直した。いつの時代も、成り上がり者は相当やり手でない限りは好かれない。
「せっかく入学してきた新一年生にあんなことするなんてひどいじゃないですかァ」
 クスクス笑いながら双我は桜井の胸元を指でなぞった。桜井は青ざめて今にも吐きそうだが、双我も自分の行為に吐き気がしている。だが、自分で自分を嫌いになれるくらいじゃないと、脅迫なんて出来たものじゃない。
「傷ついたなァ。学校やめよーかなーなんて思っちゃいましたよ。ねえ、俺なんかそんなに悪いことしましたかね。顔が気に入らないとか? よく見てみます? 目の中におでこ突っ込んだらちょっとは見やすくなるかなァ」
「や、やめて……」
 双我は相手の制服の胸倉を掴んで、壁に叩きつけた。
「ぎゃっ……」
「まだるっこしいことはなしにしましょう。俺の母親は朝霧空也の遠縁なんです」
 桜井は咳き込みながらも、双我の話に興味を持ったようだった。
「朝霧先輩の……?」
「ええ。宗家の令息が行方不明となっては、分家としても放っておくわけにはいかない。だから俺が派遣されてきたんです。朝霧姓じゃ何かと不便なんで、神沼家の当主殿に内密に家に入れてもらう形になりましたが」
「それは……いや、ちょっと待って、それが僕にどんな関係が?」
「神沼塵と空也様が揉めていたことは聞いています」
 制服を整える桜井から一歩引き、双我は腕を組んでニレの木にもたれた。
「ハッキリ言います。その一件がなんらかのトラブルを引き起こしたものと、朝霧家では考えています。ですが、神沼塵が空也様に何かしたのなら、当主方がこの俺を居候させるわけがない。同時に神沼へのスパイ行為はしますからね、もちろん。ですから、いいですか桜井先輩、ついてきてますか? ……朝霧家では、空也様ご自身が『自滅』に近い何かをしたと考えている」
「自滅……」
「ええ。ですから俺は、行方不明の空也様を発見し、宗家へ連れ戻さなければならない。醜聞があるなら、それを揉み消してからね」
 だから、と双我は嘘を吐き続ける。
「俺は空也様と面識はなかった。だから、神沼塵と近いところにいて、例の『決闘騒ぎ』もそばで見ていたあなたに、空也様の人となりをお聞きしたい。空也様は幼い頃から学問探求のために家から離れてお育ちになられた。家族であろうと、彼の心の深いところは誰も知らないまま今日に至っているんです。どうでしょう。情報を提供してくれませんか」
「…………」
 桜井は何度か何か言いかけたが、結局は黙った。双我は焦れた。
「どんな人だったかだけでいいんです。それだけでも……」
「強い人だった」
 ぽつん、と桜井は零した。双我はそれを見ていた。
「強くて気高くて……粗野なところもあったけど、僕には優しいところもあって」
 双我は何も言わない。桜井は続ける。
「ただ、ジンさんのことは嫌いらしくて……二人ともプライドが高いから、合わないところがあったんだと思う。何かことあるごとに衝突して……」
「それで?」
「……べつに。それだけ。ある日、突然朝霧先輩はいなくなった。ジンさんはそれについて何も言わなかった。それ以上のことを僕は何も知らない。ただ、君が本当に朝霧家の人間なら……」
 そこで桜井の言葉が止まった。双我が顔を上げると、桜井の視線は双我を向いてはいなかった。
「そこで何をしている」
 振り返る。
 神沼塵が立っていた。
 双我のこめかみから汗が伝った。
「朝霧先輩のことを桜井先輩にお伺いしていたんですよ、塵さん」
 塵は、その端正な顔に醜悪な嫌悪感の影をほんの少し見せた。
「貴様が俺の名を呼ぶな。汚らわしい」
「それは失敬」双我は素直に謝った。
「弁解を続けてもいいですか? 神沼家のご令息殿閣下、ハイル・カミヌマー」
 ぶっ殺されるかと思ったが許された。
「俺はちょっと個人的に朝霧先輩を崇拝していまして」
 双我はここぞというタイミングで、一瞬だけ、桜井に視線を送った。
 さっきの話は黙ってろ、と。
 ここで桜井が「この人、朝霧先輩の遠縁で、調査に来てるんですって」などと言おうものなら塵は親父にすぐチクって嘘はバレ、双我は一巻の終わりだ。が、桜井は本物の上流階級ではない。こういった場では庶民は黙っておくのが得策だと身に染みていれば、余計なことは言わないはず。
 それが奴隷というものだ。
 幸か不幸か、桜井はやはり、沈黙を選んだ。双我は吐き気を覚えながら続けた。
「どんな人だったのかなァ、と思って、桜井先輩にお聞きしてたんですよ。課外授業ってやつですかね。真面目でしょう、俺ってやつもなかなかどうして」
 塵は鼻で笑ってきた。
「よく喋るゴミだな、お前」
 双我は言葉に詰まった、
 フリをした。
 いいタイミングで罵倒してくれるものだと思う。ここで詰まっておけば双我が『この程度でカンの虫を起こしかける程度の男』と塵は侮ってくるだろう。それでいい。ここは学校、使えないからといきなり切り捨てられたりはしない。弱者には弱者の位置があり、役目があり、帝王学を鼻から吸って生きてきたこのお坊ちゃんは、屑箱には一定のゴミが溜まっている方がどの箱が屑箱なのかわかりやすくていい、そんな思想をお持ちのはずだ。
 舐めてくれて構わない。
 この場を切り抜けられるなら。
 顔をひきつらせながら、双我は演技を続ける。
「……どういう意味ですかねぇ。俺はこれでも、アンタと一緒に暮らしてる身なんだが」
「だから?」
 塵の鉄面皮は震えもしない。
「神沼に奉仕したいというのなら、今すぐこの場から消えろ。死んでくれてもいい。最近、食堂の空気が濁っていて困るんだ。水葉の身体にも障るかもしれない」
 多弁だな、と双我は塵を評価する。胸の内だけで眉根を寄せる。スマートな貴公子様にしては、罵倒がちょっとストレートになってきた。
 朝霧のことを調べていたのが、そんなに気にかかったか?
 双我は細く息を吸ってから、吐いて、笑った。
「面白いことを言いますね。魔法貴族はジョークも名手というわけだ」
「本音なんだがな」気取って肩をすくめる塵。
「なるほどなるほど」双我はウンウンと頷く。
 ここでカードを切る。
「朝霧空也のことを調べられたのが、そんなに業腹ですか。彼とはライバルだったわけですもんね。意外とアンタ、俺のこと好きなんじゃないですか? 嫉妬でしょ、それ」
「桜井、ひょっとしてこの男は頭がおかしいのか」
 塵が不思議そうな顔をして、珍しい虫でも示すように双我を指した。桜井は曖昧に笑っている。
「少しだけ腹が立ってきたな。ここで捻り潰してやろうか」
 それはこっちのセリフだった。
 双我は塵の魔法剣を見る。
 本気で抜いてきたら、殺すしかなくなる。
 塵を殺せば、本命は逃げるだろう。赤宮あたりが反逆者の可能性もまだ残っている。あのニヤニヤ笑いのいけ好かないクズ野郎は、仲間がやられたとなれば尻尾を巻いて逃げだすだろう。それぐらい潔い鼠は、なかなか捕まえにくいのだ。
「やりますか?」
 半ば本気で双我は聞き返した。やるなら仕方ない。塵が反逆者なら殺せば終わりだ。悩む必要などない。
 いっそ殺っちまうか。
 だらりと下げた双我の右手がわずかに動きかけた時、桜井がいきなり喋り始めた。
「こっ、こういうのはどうでしょう」
 塵が、少し目を丸くして桜井を見た。
「桜井? どうした」
「双我くんは朝霧先輩のことを知りたいそうです。朝霧先輩のことを一番よく知っているのは、ジンさんでしょ。だったら、双我くんは、ただ教えてくれじゃなくて、ジンさんと『模擬戦』でもなんでもして、自分の行為を現実化するべきだ」
「難しい言葉を並べたてられて僕はすっかり困惑なう」
 双我は生真面目な顔で言った。
「が、要するにそれは、俺とカミヌマーに決闘をしろ、ということかな? 桜井先輩」
「そ、そうだよ」
 桜井は双我を、消えていなくなってほしいけど殺すまではしたくない……といった程度の虫を見るような目で見た。
 桜井としては、自分に関わって来た貴種、朝霧(偽だが)と神沼、どっちに組しても相手からの恨みを買いそうなので、折衷案を提示してこの場から撤収したいのだろう。いいぞ、と双我は思った。神沼はどうする気か知らんが、俺はそれで構わない。
「いいだろう」
 塵は、柄にかけていた手を離した。
「桜井、学院に決闘申請して来い。すぐにやる」
「え、す、すぐにですか? もうちょっと時間を置いてからとか」
「すぐだ」
 塵は氷のような目で双我を見た。
「お前が勝てば、朝霧のことを教えてやろう。もっとも何も知らんがな、あんな愚物のことは」
「あんたが勝ったら?」
「べつになにも」塵は澄ました顔で言った。
「お前から欲しいものなど何もない。力でも、知でも。ああ、晩飯抜きなんてのはどうだ? お前のような穀潰しには辛いだろう?」
「あっはっは」
 双我は笑った。
「勝ちますよ、俺は」
「やれやれ」
 塵は肩をすくめて、去っていった。決闘場に向かったのだろう。格技棟の奥にある。そこで朝霧と塵は去年、雌雄を決したらしい。
 双我は一人、取り残されて、意味もなく地面を蹴っていた。
 決闘か。
 悪くない。

 四月の終わりにしては日差しが強かった。
 双我は擂鉢型の決闘場にいた。観客に混じって、当たり前のような顔で頬をかいている。貸し出された魔法剣はガラクタのように地面に置かれていて、それを周囲の生徒が「大丈夫か、こいつ」みたいな目で見ている。そんな双我に跪くようにして、蜜柑が魔導装甲を着せてやっていた。これ無しで破壊魔法のやり取りでもした暁には大魔法使いでもド素人に殺されてしまう。黒銀の鎧を着た双我は、騎士に見えそうで、しかしどうも変装した盗賊にしか見えない。
 あくびをひとつ漏らした。
「眠くなってくるな、こんなにポカポカしてると」
「双我くん、そんな呑気なこと言ってる場合じゃないでしょ」
 蜜柑はちょっとプンスカしている。
「神沼先輩と決闘だなんて……正気じゃないよ。何考えてるの?」
「何も考えてないよ」
 思いっきりぶったたかれた。
「怒るよ?」
「すんません」背中がひりひりする。
「もう……」
 はあ、とため息をつく蜜柑。
「防性呪護付の魔導装甲着てたって、本物の魔法剣を使って斬り合いするんだよ? ダジャレやジョーダンでするようなことじゃないよ、決闘なんて」
「いやダジャレではねーだろ」
「四の五の言わないっ!」
 ビシッ、と指を突きつけられてしまった。双我は苦笑する。
 なんかいつの間にか仲良しになっているなあ、なんて思う。
「怪我なんてしたら許さないからね」
「許さないって……いったいナニモンだオマエは」
「保健委員」
 マジかよ、とそばにいた男子に聞くとまじめな顔で頷かれた。
 双我は深々とため息をついて、諦めたように蜜柑を見る。
「あのな、男には色々あるんだよ、蜜柑」
「そんなの知らないもん」
 擂鉢の底を見下した誰かが、歓声を上げた。
 手すりにもたれて見下ろすと、白銀の魔導装甲を身に着け、顔面をすでにヘルメットで隠した神沼塵が入場門から出てきたところだった。双我はチッと舌打ちする。
「女子供が好きそうだな、ああいうの」
「でもカッコイイよね。双我くんも見習った方がいいよ」
 木陰から虎が通り過ぎるのを見送る小リスのように、蜜柑が塵を見下ろしながら言った。
「なんだかみんな、やたらと俺にあの人を見習えって言うよね」
「それが正しいことですから」
 振り返ると、黒髪白貌の神沼水葉が、絶対零度の眼差しを湛えて、階段の半ばに立っていた。双我はニヤっと笑って片手を挙げたが、水葉は氷槍のように刺々しい。
「やあ、お嬢さん。兄貴のお世話はいいのかよ」
「兄には専属の従者がいますので」
「それはよかった」
 水葉がチラっと蜜柑を見る。
「あなたは?」
「えっ?」
 蜜柑はなぜか真っ赤になってへどもどしている。
「え、えっとあたしはその……」
「……双我さんの恋人ですか?」
「なっ!?」
 いやー実はそうなんだよ、とへらへら相槌を打った双我の鳩尾に蜜柑のショートエルボーがブチこまれた。双我、悶絶。
「違うの神沼さん! 誤解しないで! だっ、誰がこんな悪者っぽい人と」
「出会った頃に戻りてえ。初対面の頃はこんな子じゃなかった」
 愚痴る双我の頬をぎりぎりぎりとつねり上げながら「あはははは何を言ってるんだろうねえこの人は」と蜜柑は狂人のように笑う。
「っていうか、えっと、初めましてだよね? 神沼さん」
「……そうでしたか? 失礼しました、私、神沼水葉と申します。あなたは?」
「新田蜜柑です。あの、隣のクラス。えへへ」
 蜜柑は自分を指しながらヘラヘラしている。
「えっと……お近づきになれて嬉しいです。神沼家なんてものすごいお金持ちだし……」
「お金持ち?」
 水葉の眉がぴくんと動いた。カンの虫と連動しているらしい。
「神沼は名門です。成金上がりのような呼び方は控えてもらえますか」
「えっ、あっ、す、すみません……」
 しょんぼりする蜜柑。どうも水葉と仲良くなりたかったらしい。が、呆れたようなため息をついて首を振る水葉を見るに、秘密作戦は失敗に終わったようだ。
「類は友を呼ぶですね。双我さん、あなたの失礼な態度がこのような仲間を作るのです」
「それひどくねえ? 全部俺が悪いの?」
「そうだよひどいよ神沼さん! あたしは失礼な仲間なんかじゃないです!」
「まったく……騒々しい。これが庶民というものですか」
 水葉は事あるごとに庶民庶民と言うので、周りが少しざわつく。
「お兄様のことを時々、苛烈かと思う私でしたが、どうやら私の見識不足だったようです」
「どうやらそうらしいな。ま、気にするなよ」
 双我はむき出しの素手をぐっぐっと揉み解しながら言った。
「今から本物の庶民の戦いってのを見せてやるからよ」
 水葉の顔に緊張が走る。
「……それは楽しみです。お兄様に歯向かったことを精々後悔するといい」
 子供が聞いたら泣き出しそうな冷たい声でそう言い放つと、水葉は黒髪を翻して去っていった。双我はその後ろ姿を蜜柑と共に見送った。
「おいおい、『精々後悔するといい』って、女子高生が使う言葉じゃなくね?」
「カッコイイ……」
 蜜柑はぽーっとしている。
「お姉さま……」
 双我は聞かなかったことにした。なんか目が怖いから。
 その時、会場にアナウンスが流れ、双我の名前が呼ばれた。よし、と立ち上がる。
 パシン、と素手の拳を打ちつけた。
「いくか」
「気を付けてね」
「任せとけ」
 そしてかねてから頭の中でリハーサルしていた通りに、手すりを飛び越えて、擂鉢の底へ一気に飛び降りた。おお、と歓声が(主に男子から)上がった。鎧の色といい、味方の層といい、つくづく神沼塵とは正反対の男が決闘の舞台に現れたことになる。
 双我はゴキゴキ首を鳴らしてから、目の前に立つ白銀の騎士に言った。
「どーぞ、お手柔らかに」
 白銀の騎士はそっぽを向いている。妹の姿でも探しているのか、あるいは自分の信奉者でも数えているのか。どちらにせよ、すぐにその態度は改められることになる。双我は小脇に抱えていた虫籠型のヘルメットをかぶろうとした。
 その手を掴まれた。
「双我選手」
 制服を着た、三年生の男子がひそひそと囁いてきた。
「グローブを着用してください」
 双我は素手である。
 あはは、と笑った。
「いいんです、俺、素手の方がやりやすいから」
「グローブの着用は義務なので」
「魔導装甲の防性呪護は別にグローブなくたってカバーしてくれてるでしょ。かすり傷は増えそうだけど」
「そういう問題じゃない。規則なんだ。つけてくれ」
 双我と審判が何か揉めているようなので、観客席がどよめいていた。
 双我は心の中で舌打ちした。
(……グローブ?)
「持ってないです」
「一式貸し出されたはずだ」
「いや、どっかいっちゃってさ。困ったなァ、もう時間ないし……始めちゃいませんか。大丈夫、俺なんてすぐ負けるって!」
「それならなおさら防具は必要だろ?」
 双我もそう思う。
 だが、ここでゴネ切らないとまずい。
「いらないって。いいんだ。これは男と男の決闘。防具は少ないに越したことはない」
「何言ってんだお前」
 なおも双我が言い募ろうとした時、
「双我くん、これを受け取ってぇーっ!!」
 観客席から蜜柑が黒二双の魔導手甲をブン投げてきた。一個七万円はする高級素材で出来たグローブが地面に当たってびっくりしたウサギのように跳ねたのを見て、双我はいよいよ笑い出した。審判が心配そうな顔で双我を見ている。気にせず、双我は落ちてきたグローブを両手に嵌めた。着心地はいい。腰に提げた魔法剣の柄頭をわずかに直して、言った。
「お待たせ。じゃ、始めましょうか、先輩」
 鎧の中の神沼塵が、ようやく双我を見たようだった。双我は柄頭をトントンと指で叩きながら、試合開始までを数えるカウントダウンを聞く。
 やべぇ。
 死ぬかも。

       

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Neetsha