Neetel Inside ニートノベル
表紙

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 一ヶ月後、双我は少し驚いた。
 二ヶ月後、双我はちょっと嫌になった。
 三ヶ月後、双我はバーで愚痴った。
 四ヶ月後、双我は公園で寝た。
 五ヶ月後、双我は自分が泣いているのに気づいた。
 六ヶ月後、双我は疲れた。
 七ヶ月後、双我は誰かに頼るのをやめた。

 八ヶ月後、双我は新聞を読んでいた。
「は~い、お待たせ♪」
「やっと出来たのかよ」新聞を四つに折って放り投げ、
「どんだけ待たせるつもりだてめーは」
「だって、お腹ぺこぺこの方がおいしいでしょ?」
 食卓に座る双我の前に、フリル付きのエプロンを着けたリリスがシチューの椀をことりと置いた。とろっとろのクリームシチューだ。一口大に刻まれたニンジンやブロッコリーがぷかぷかと浮いている。双我は木のスプーンを持って、神妙な顔つきでコンコンと椀を叩いた。
「ま、お前にしちゃ上出来だな」
「ひどいなあ。まるで人を料理音痴みたいに」
 ぷうっと膨れるリリス。腰に当てた手が持つお玉がくいくい揺れている。
「ふざけんな、最初はシチューに血が混じってたじゃねーか。お前は食中毒で俺を殺す気かよ」
「だからあ、それはもう何度も謝ったじゃん?」
「謝って済むことじゃねー。あ、調子乗ってスンマセンでした! 頂きまーす!」
 シチューをキッチンに持っていかれそうになって双我は全面降伏した。リリスはくすくす笑って、エプロンを外し、テーブルの反対側にニコニコ笑顔で座った。十八部屋ある屋敷のダイニングにしては、そこにあるテーブルは小さかったが、「双我の顔がよく見えた方がご飯が美味しい」とリリスが言って最初の頃に買い換えたものだ。
 ちょっと抑え目の照明の下で、顔を付き合わせるようにして、金髪の少女と一緒にジャガイモを突いていると、まるで何もかもが夢なんじゃないか、とたまに双我は思う。
 双我がリリスの家に転がり込んで、あっという間に八ヶ月が経っていた。
 同時に、『ルミルカのたてがみ』の一員になってからも。
「ん~! おいし。やっぱり私は天才だ」
「そうだな」
 自画自賛する相棒に、双我は肩をすくめて見せる。
(……再起不能、ね)
 ミーシャは言った。リリス・アージェリアはほとんど再起不能で、戦闘能力を欠損していると。
 最初は、双我は信じなかった。
 二ヶ月も入院する大怪我をさせられたのだ。戦闘能力がないどころの話ではない。が、最初の任務に就いて、それから疑問を抱え続け、そして四度目の任務で確信した。
 リリスは本当に、再起不能だと。
「…………」
 双我は、シチューに千切ったパンを嬉しそうに浸している少女を見た。
 普通にしていれば何も問題もない。が、戦闘中、リリスは時折、意識を喪失することがあった。気絶する、というのではない。ただ、目が虚ろになり、それまで轟然と振るっていた剣をぱったりと下ろして、ぼうっとする。ぺたんとその場に座り込んでしまうこともある。
 戦場でだ。
 最初の双我の驚きようと言ったらなかった。剣を構えて突っ込んできた敵の魔法戦士が目前にいるのに、リリスはなんの抵抗もしようとしなかった。双我は捨て身でリリスを突き飛ばし、彼女を庇った。
 近頃ようやく、その時の勲章が古傷になった。
「――何してる!! 戦え!!」
 双我は血まみれになって怒鳴ったが、リリスはなんの反応も示さなかった。魂が抜けたよう、とはまさにあの状態のリリスを指す言葉だ。確かに呼吸しているのに、双我にはリリスが、藁とおが屑で出来た人形のように見えた。
 双我は呆然とした。
 任務遂行を積み重ねた結果、深いトラウマを負ったとは、聞かされていても、実際に目の当たりにすると迫力が違った。人間は壊れるとこんな顔をするのか、と思った。そんなことを考えながら、この八ヶ月間、双我はリリスを庇って戦い続けた。皆殺しのリリスの代行者として。
 双我が敵を殲滅し終わると、ようやく、リリスは、
「――あ」
 と言って、目に光を取り戻し、あたりを見回す。
「双我……」
「いい」血を拭って、
「もう終わった」
「…………ごめん」
 リリスはいつも、俯いて、苦しそうに双我に謝る。
 他の誰とも組まされなかったのも無理はない。
 とてもじゃないが、自分の命を預けるたった一人の相棒が、戦闘中に突然、生きる気力を失うとあっては、優しいとか思いやりがあるとか、そういう程度の気配りではどうにもできない。どんなに上手く庇っても、組んでいる自分が死にかねないし、実際に双我は何度も死にかけた。ルミルカから『リリス・アージェリアの専属パートナー』として入団させられた経緯がなければ、双我も――
(……いや、俺はそれでも)
(コイツとコンビを組んでいたかもしれない)
 リリスが顔を上げた。
「ん? どったの?」
「いや?」双我は笑顔を浮かべた。
「ただ、そろそろ家具をまた新調しなくちゃな、と思ってさ」
「ああ」
 リリスがダイニングを見回した。
「そうだね」
 そこに刻まれているのは、破壊の痕跡。
 壁紙は全て引き剥がされて建材が剥き出しになっている。どこもかしこも刃渡りの薄いナイフか何かで切り刻まれた傷があり、ところどころには放火しかけて思い直したような焦げ目がいくつもあった。家具はささくれ立つほどの蹴られ、殴られ、物を叩きつけられており、嵌め込まれていたガラスなどは全て粉々に打ち砕かれて、床に散らばっていた。カーテンは引き裂かれたどころか噛み付いた跡もある。部屋の片隅にある小さなテレビにはハンドサイズのミニハンマーが首を突っ込んだまま死んでいた。
「また随分、派手にやりやがって……」
 リリスは、てへへ、と笑った。
「いやー、ちょっとエキサイトしちゃいまして……」
「俺のカネじゃないからいいが、もうちょっと物を大事にしろよ」
「だって、……だって」
 リリスの顔が叱られた子供のようにしょげ返る。
「……我慢できないんだもん」
「……まァ、いいけどよ、俺のじゃねえし」
 双我は背もたれに深く腰かけなおして、「大したことねーよ? 確かに」みたいな顔をした。安心させるために。
 こんな光景が、大したことじゃないわけがなかった。
 最初に双我がリリスの破壊行動を目撃したのは、二度目の任務が終了して、二人で帰宅した後のことだった。正確には、真夜中に凄まじい破壊音がして、飛び起き、ダイニングに顔を出したら、すでに破壊は終わっていた。
 剣を握ったリリスが、汗びっしょりのパジャマ姿で、双我を見つめ返していた。
 白状すると、双我は本気で『殺される』と思った。蛇に睨まれたようにその場から動けなかった。
 が、リリスは双我に弁解せず、何も言わず、静かに自室へ戻っていった。
 そして次の朝、バラバラになった家具の残骸の上に立って、「おはよう」と挨拶したのだった。
 それが、七ヶ月前のこと。
「…………」
 双我は、手に持ったスプーンを見つめている。クリームシチューがついていた。
 リリスは鼻歌交じりに空中に見えるらしい何かを視線で追っていたが、ツ……と双我を見て言った。
「ねえ双我」
「ん?」
「私のこと好き?」
「仲間としてはな」
 嘘ではなかった。
 双我は時計を見て、口をナプキンで拭いて立ち上がった。
「ご馳走さん。……いけるか?」
 リリスも、壁にかかっている、ガラス盤は割れているがまだ生きている時計を見上げて言った。
「うん」
 心が壊れた戦士を求める、任務は尽きることがなかった。

 いまにも雨が降り出しそうな、真っ白な空だった。
 双我はそれを見上げながら、舌打ちを一つして、隣に座ってカクンと首を垂らしているリリスの肩を揺さぶった。
「着いたぞ」
「んん……?」
 霞んだ目を擦っているリリスを引っ張るようにして、双我は車を降りた。
「ご苦労さん」
「いえ……」
 ルミルカが雇っている国営自動車会社のドライバーは、帽子に軽く手をやってから、リムジンを静かに出発させた。
 ビル群の乱立する一帯の前に、戦闘服を着た二匹の猫が立ち尽くす。
「ここは……?」
「墓地だよ」
 この頃にはもう、人間の墓というものは、それぞれの家の持ち物ではなくなっていた。家族を共同墓地に埋葬することは常識であり習慣であり、そして参る者もほとんどいないのだから、それは形式だけのものになってしまっていて、敬虔でもなければ哀悼の思慕さえない、そこは現代の墓地だった。
 無表情な灰色建材で築かれた、共同墓地の塔が、どこまでも地平線の向こうまで続いている。双我はレザーウェアの金具を指で摘まんで弄りながら、周囲を見渡した。
 誰も墓参りに来ないなら、かくれんぼには打ってつけ。
 悪い魔法使いだっているかもしれない。
 なら殺さないと……
「共同墓地は、黒魔法研究に使う資材を隠匿しておくのに持って来いの場所だ。それはわかるか?」
 リリスは頷いた。双我は続ける。
「俺たちの目的は敵の殲滅。研究資材の完全破壊。他にない」
「……知り合いはいる?」
「誰の?」
「私の……」
「いない。敵の写真、見るか?」
 リリスは吐き気を堪えたような顔で、首を振った。
「いらない」
「わかった」
 双我は手元の資料をビリビリに破いて風に散らせた。どうせ殺せば顔など意味ない。
「今日はたぶん『ヨロイ』とやることになる……大丈夫か? 無理すんな」
 双我が言うと、リリスはうっすらと笑った。
「へいきへいき」
 サーベルを鞘から引き抜く。進軍を指揮する女将軍のように。
「殺せばいいんでしょ? どいつもこいつも……」
 そう言って歩き出す。
 双我はリリスの後を追った。

 魔導装機。
 通称、『ヨロイ』。
 元々は、鼠が猫へと立ち向かうために建造した戦闘兵器である。防御用に身に着ける魔導装甲とは違って、着るというより乗り込むに近い。大きさは小型の重機程度。右腕が小銃となっていて、本体に内蔵されたカートリッジから接続された魔走回路が流れ込む仕掛けになっている。剣の柄よりも大型のカートリッジを搭載されているために、使用できる魔法の出力は桁違いに高い。
 が、致命的な構造上の欠陥が一つある。
 大きすぎるカートリッジは、走っている魔力が強循環するために、細かい魔法の使い分けが出来ない。スピードがありすぎて曲がれないレーシング・カーのように。小回りならバイクの方が利く。
 ゆえに、魔導装機は使用できる魔法がたったの一種類。それもほとんどが爆炎魔法。
 器用貧乏ならぬ単純馬鹿のでくのぼう。それが魔導装機の現実的な評価の落ち所だ。
 とはいえ、火力は本物。
 まともにやりあえばこちらのアーマーなど容易く粉砕され、肉体は木っ端微塵に破壊されるだろう。
 それが、ミーシャの報告によれば、270機ほどこの共同墓地に埋蔵されているらしい。
 これから双我とリリスは、それらを全て破壊することになる。
 二人は、墓ビルの間を歩いていく。
「リリス」
「ん?」
「帰ったら何が喰いたい?」
「そうだなあ……」
 リリスが答えを探すように、足元の草を見下ろした時、
 接敵した。

 おそらく巡回中だったのだろう、墓ビルの角を曲がって、紺色の魔導装機が金属の軋む音と内蔵カートリッジの魔力が走る蜂のような気配をさせながら、その姿を現した。
 敵は、迷わなかった。
 挨拶でもするように腕と同化した魔法銃を構えた。
 しかし、その時にはもう、リリスはサーベルを振り抜き終わっている。
 ず、ず、と魔導装機が滑稽劇のように膝を滑らせ、地面に沈んだ。
 しかし、その装甲には傷一つない。ただ血の煙が、あたりに少しだけ漂った。双我はごくりと生唾を飲み込む。
 共振斬り。
 魔導装機の外殻に走っている魔走回路を逆転利用し、魔力を流したこちらの魔法剣を相手の装甲と共振させて、『透過』させる技だ。これなら相手の装甲がどれだけ硬かろうと、わざわざ破壊することもなく、カートリッジを爆裂させることもなく、中にいる本体だけを殺害できる。血の煙が出たのは、共振させた時に発生した剣と鎧の空隙からわずかに『中身』が漏れたからだ。
 リリスは、双我を見た。
「――なんの話だっけ?」
「いや、もういい」
 双我も剣を振り抜き終わっていた。背後から魔法銃を構えていた赤茶色の魔導装機に自分からもたれかかるように接近し、鞘から抜いた魔法剣を胴体のド真ん中に突き立てていた。
 双我の殺しは派手に終わる。
 バチバチと紫電を放ち始めた魔導装機から、双我がステップジャンプで距離を取ると、それを追いかけるように爆炎が迸った。
 警報は鳴らなかった。
 雨が降り出す。
 双我は言った。
「来るぞ」
 細い傷のような雨の中から、濃紺と赤茶に塗り分けられた魔導装機共が、ウジャウジャと湧いて二人に突進した。強固な装甲をアテにした同士討ちを恐れない魔法弾の多重射撃の嵐に二人は巻き込まれた。
 が、一発も命中しない。
 持ち前の運動性能を惜しげもなく披露した二匹の猫が、空中へと飛び上がった。魔導装機は重量のせいで空中へなどジャンプできない。だが、一機として慌てた素振りなど見せなかった。頭部に搭載されたレッド・アイが上向く。どう考えても、銃を持っている相手に対して空中へ飛ぶなど自殺行為に他ならなかった。
 問題は、飛び上がった二人が墓ビルの壁を蹴ったことだ。
 交差するように壁蹴りを繰り返した二人は魔法弾の一斉射撃をことごとく回避した。弾道が読めていたとしか思えない。手品師に翻弄される幼児のように、その場に集結した十八機の魔導装機はことごとく手持ちの弾丸を無駄にした。備え付けの魔法短剣を左手で抜く奴もいるにはいたが、上空から急降下してきた二匹が狙うのは決まってそういう『やる気』を見せた機体だった。白兵戦に持ち込まれた方が、弾道の読める射撃を喰うよりも怪我をする確率が高い。
 流星のように猫が降り注ぎ、地面に着地したと同時に、左腿部のケースから短剣を抜こうとしていた三機が爆裂した。
 二機殺りは、リリス。
 この段階で魔導装機の中にいた黒魔導士たちは一時撤退を決意した。すでに墓ビルの中に隠されている270全機体に出撃命令が出てはいたが、乗り手が不足していて190機しか出撃していなかった。それでも黒魔導士たちは思った。数さえ揃えばなんとかなる、と。
 おそらく、270全機体が一斉に襲い掛かっていたとしても、そこにいた一匹の猫も狩り獲ることは出来なかったろう。
 リリスの攻撃は素晴らしく速かった。
 それは、五機を一気に切り裂き、七機を地雷魔法で粉砕し、応援にかけつけようとしていた二十二機の内の三機を氷結させて足止めしてみせたばかりの双我でさえも、目で追い切れない速度だった。一度、巻き込まれかけさえした。
 双我は改めて確信した。
(……強い)
 ここ最近では、一番、目覚めている動きだ。
 リリスはいつも戦闘不能というわけではなかった。時々、こんな風に、かつての切れ味を完全に取り戻すことがあった。いや、ひょっとしたら、双我と闘り合った時よりも、こういう時のリリスの方が強いかもしれない。
 眼が違う。
 銀色の双瞳が、焦点を噛み合わせ、視界に映る全てを把握している。めまぐるしく回転しながらサーベルを振り抜き、鞘とそれを繋ぐ鎖を魔法銃で撃ち抜かれても分離した鞘を即座に敵機の赤眼にぶち込んだ。一瞬として停滞することがない。
 剣舞とはよく言ったものだ。
 まさにそれは、荒れ狂う剣霊の舞だった。双我とて、一騎当千の魔導装機を玩具のように翻弄しながらも、リリスの剣技に追いつけない。それどころか、リリスは自分に敵機を集めて、双我の負担を減らそうとしているようにも見える。すでに墓ビルは七柱倒壊し、空っぽの墓石の残骸が曇天から降り注ぎ、平原と化した戦場に動かなくなった魔導装機の亡骸だけが跪いていた。リリスがサーベルを一振りすれば、一機の黒魔導士が生命と操縦を失った。二振りすれば、二機の魔導装機が抵抗と銃撃を止めた。さらに一突きすれば、まるで木の葉のように重なった五機が串刺しにされて爆発した。
 雨が強くなる。
 双我も、背後から襲い掛かってきた短剣を見もせずに己の魔法剣の刃で受け止め、流し、振り向きざまに首を狙って切り裂いた。双我の顔面に魔法鎧の首筋から噴出した血液がべっとりとかかった。左目が血で開かない。が、見えないなら突撃すればいい。濃霧の中を双我は突っ込み、手当たり次第に切り裂き、盲滅法に火鳥を解き放った。爆炎で濃霧に視界が開ける。黒魔導士共が悪寒を感じたのは正しい。四分の一秒後には全員死んでいた。

 雨が上がった。
 双我は息切れしたまま、しばらく平原に剣を突いて、動けなかった。雨とは違うもので濡れた顔が冷え切っている。視線は凝り固まったように動かない。戦闘が終わるといつもこれだ。全身全霊で戦うものだから、終わった後に何も残らない。しばらくの間は食事も満足に取れないだろう。
 それでも、身体を引きずるようにして、死体の山を前に立ち尽くすリリスのそばへ行った。
「……おい」
 リリスは、チラリと双我を見ると、まだ地面に視線を縫い付けた。
「大丈夫かよ」
「弱いくせに」
 双我は黙った。自分のことかと思った。
 違った。
 リリスは、唇を噛んで、自分に歯向かってきた愚者たちの、その亡骸の河を睨みつけていた。
「弱いくせに……」
「おい……リリス」
 リリスは首を振って、水気を髪から払うと、空を見上げた。
 彼女の頬から、水滴が伝う。
「任務、完了。帰投、する……」
「……そうだな。任務完了だ。確認してねえが、200機近くは殺っただろ。あとはルミルカの掃除屋に任せようぜ」
「…………」
「リリス?」
 もう意識はなかった。
 リリスは、誰かにもたれかかるようにゆっくりと、その場に倒れ込んだ。だが、誰もその身体を支えるものはなく、満身創痍の双我も動けず、彼女は草の間に倒れ、そして静かに寝息を立て始めた。
 双我はそれを黙って見下ろしていた。
 その場に座り込んで、しばらくリリスの寝顔を見つめてから、決めた。
 ミーシャに話を通すことにした。

 共同墓地での殲滅作戦は成功に終わったが、リリスの衰弱は激しかった。あの後、双我は魔法病院へ昏睡したリリスを抱えて運び込んだが、そのままリリスは緊急入院になった。魔力を過剰に使用すれば、必ず反動が来る。リリスのように一刀に全霊を懸けてしまうような戦い方を続けていれば、なおさらだ。
 双我も、エーテル点滴を一本打ってもらってから、自宅へ戻った。火の消えたリリスの屋敷の真ん中で、暗闇を見つめながら、しばらく双我は悩んでいたが、やがて自分の部屋にある鳥籠を持って、ロビーへ降りてきた。鳥籠の中には、おもちゃのハトが入っていた。扉を開けて、それを開けた窓のそばへ近寄せると、カラクリ仕掛けのハトが目を覚まし、夜空へと飛び立っていった。
 行き先は、『ルミルカのたてがみ』本部にいる、ミーシャ・グライセル。
 双我は、ロビーに置いてある飾りの安楽椅子に腰かけて、動かなくなった。
 ミーシャは、二週間後にやってきた。
「……久しぶり」
「そうだな」
 玄関から入ってきて、視線を合わせずに挨拶してきた猫に、双我は気のない声で答えた。
「リリスが入院したぜ」
「……知らないわけないでしょ。いま、お見舞いにいってきたとこ」
「二週間経って、ようやくか」
 苦い笑みが双我の顔に広がる。
 ミーシャは頬をつねられたような顔をした。
「……行ってあげたかったよ。ずっと。でも、いま、同時に任務に入ってる魔導師が十三人もいる。あたしはその半分以上も付きっ切りでサポートしてあげなくちゃいけないから……」
「人増やせば?」
 双我は笑った。ミーシャは黙った。
 どうせ返事が来ないことなど分かっている。
 安楽椅子を蹴飛ばすように、双我は立ち上がり、ミーシャとの距離を詰めた。
 ミーシャは背が少し低い。まだ十代半ばの双我と並んでも、首を上げるように見てくる。
 キスを求める恋人のように、ミーシャの目が潤んでいた。
 そんなものじゃ、騙されない。
「来いよ」
 双我は顎で食堂の方をしゃくってみせた。
「見せたいものがある」
「……何?」
「いいから。きっと面白いぜ」
 食堂の惨状を見たミーシャの表情は見物だった。金槌で後頭部を強打されたように、表情筋から手足の先まで、電流が走ったように動かなくなった。双我はコツコツと食堂を歩きながら、粉々に砕かれた置物や、引き千切られた花弁の欠片などを持ち上げては、空中に放っていった。
「俺が組み始めてすぐ、この状態になってたよ」
「……どうして」
「どうして? 俺は初日にお前に連絡を入れたはずだぜ。伝書鳩が来なかったか?」
 ミーシャは、自分の腕をきつくきつく握り締めた。
「……連絡は受けてた。でも、こんな……」
「言葉だけじゃ伝わらなかったろ。画像を送っても信じたかな? この部屋は不思議なもんでさ、実際に入ってみないと、怖さがちっとも伝わらないんだ」
 双我はまるで、自慢でもするように喋り続けた。
 唇の端に、噛み千切った跡がある。
「この八ヶ月間、任務に就くと、リリスはいつもこうだったよ。止めても無駄だし、止められるわけがない。猫が剣を振り回してたんだからな。俺に出来ることは、リリスが正気のうちに、あいつの剣からカートリッジを抜いて隠しておくことだけだった。好きにさせたら、あいつはこの街一帯を荒地にしちまうからな」
 座れよ、と双我はミーシャに椅子を勧めた。ミーシャは、脚に亀裂の入ったその椅子を、見ただけで座ろうとはしなかった。双我は頷く。
「ところで、ミーシャ。一つ聞きたい」
「その前に、こっちから一つだけいい?」
 双我は一拍置いてから、答えた。
「いいよ。なんだ?」
「次の任務の命令が降りた」
「…………あ?」
「メンバーはいつもと同じ。君とリリス」
「ちょっと待てよ」
「目標は黒魔導士の裏ギルドに人質にされた、魔法庁の高官の令息の救出。すでに誘拐されてから七時間が経過している。場所は太平洋上の敵戦艦内部」
「待て」
「リリスには、さっき命令書を渡してきた」
 ミーシャの目が、氷のように冷えている。
 その白い指先が、切り傷だらけのテーブルクロスの上に、一通の書状を舞い落とした。
 ミーシャは言った。
「これが君の」
 双我は、魔法剣を抜かずに置くのに苦労した。
(……落ち着け。冷静になれ)
 乱れかかった呼吸を、細く静かに、整える。
 双我は、笑顔さえ作り直してみせた。
「全然わかってねえみてえだな。リリスは病院だ。この二週間、俺はずっと様子を見てきた。とても闘えるような状態じゃない」
「敵は雷撃魔導師を抱えてる。戦艦全体にセキュリティ・エンブレムが張り巡らされていて、それを突破して切り込めるのは同質の雷撃魔導師以外にはいない。つまり、リリスしか」
 まるでマニュアルを読み上げているようだった。
 事実、そうだったのかもしれない。
 双我は吐き捨てるように、反論した。
「……レーゼンとかロッカスとか、いくらでもいるだろう。雷撃使いくらい」
「二名とも別任務に就任済み。三週間は戻ってこない」
「俺がやる」
 ミーシャは、息を吸い込んだ。
「……君は、雷撃魔法に特化した魔導師じゃない。君は白兵戦闘の天才で、高等戦略の専門家じゃない」
「舐めんじゃねーぞ。俺だって……」
「セキュリティ・エンブレムの突破は天才にしか出来ない。まだ体系化されていない技術を、不安定な雷撃魔法で無理やりに突破する。感性だけで生きてるような本物の猫にしか出来ないことだし、これは君の得意分野でもない」
 そこまでまくし立てたミーシャの足が、少し震えているのを、双我の目が捉えた。
「…………」
「双我……」
 双我は、もう理解していた。
 ミーシャが正しいことを。
 双我がミーシャの立場でも、リリス以外には渡せない任務だ。雷撃魔導師は数が少ない。ルミルカに公然と反逆してきたということは、二流でもない。『黒熱のバルキリアス』か、『春炎のザーゼル』か、それとも『六つ目のダン』か。いずれにせよ、双我よりも強い誰かが反逆者になっている。ルミルカの中でも歯が立つのはリリスを含めて五人もいないだろう。
 その中に、雷撃魔法の専門家はリリスしかいない。
 だが、
 それでも、
「……なあ」
 双我は言った。
 握った拳から、何かが染み出していた。
 鮮血だった。
「一つだけ、さっきしかけた質問をさせてくれ」
「……何?」
 双我は、ミーシャに言った。
「これが闘える奴の部屋だと思うか? これが何も感じず平気な顔で剣を握れる奴の場所だと思うか?」
「…………」
 ミーシャは目を伏せて、何も言おうとはしなかった。
 双我はテーブルに、血まみれの拳を打ちつけた。
 態度と違って、声は震えていた。
「あいつは機械じゃねえよ、ミーシャ」
「……誰だってそうだよ」
「じゃあその『誰か』を連れて来い。あいつの代わりになる奴を」
「いないから、あの子なんだよ」
「じゃあ滅べ。それだけの話だ。構うもんかよ。俺はリリスと京都へ逃げる」
「……本気?」
「ああ」
 ミーシャは、諦めたようにため息をついた。
「そっか。それじゃ、誰が討手になるのかな。あたしかな」
「……」
「ねえ、双我」
 ミーシャは、ズタズタにされたテーブルクロスや、割れた皿の破片を撫でている。
「ルミルカはね、いつか猫の国を作ろうって考えてる。京都みたいな特区じゃなくて、本物の猫の楽園を……いつか、鼠と握手はできなくても、お互いに関わらずに世界の反対側で生きていけるように。そのために、今は……」
「あいつに死ねと?」
「どう答えて欲しい?」
 ミーシャは、今にも泣き出しそうだった。
 それが本音かどうかは、ともかく。
「そうだよって言ってもいい。本当はリリスに闘ってなんか欲しくないって泣いてみせてもいい。君が選んでいいよ。あたしはそれに従う」
「お前……!」
「この任務はリリス・アージェリアにしか出来ない。君のフォローも欠かせない。変更はない。代役はいない。君たちに出撃してもらうしかない。今にも人質が実験材料にされているかもしれない。すべてが無駄足になるかもしれない。でもね、双我。君が決めて。いまあたしを殺してリリスと逃げるか、それともリリスの意見を聞きにいくか」
「…………」
「リリスは、やるよ。あの子は、ルミルカが好きだから。こんなあたしのことも、仲間だと思ってくれてるから。……双我」
 ミーシャは双我を見た。
「あの子を守ってあげて」
 双我は、吐き捨てた。
「……勝手すぎんだろ」
 テーブルの上の書状を握り締め、
 そして、それを破り捨てることが、双我には出来なかった。

 そんなに嫌か、とたまに双我はリリスに聞く。人を殺すのが嫌なのか、と聞くと、そうかもしれない、という。だから双我は少しだけ心を鬼神に近づけて、言ってみる。それでもお前が殺した人間は戻って来ない。お前がせめて幸せに生きていくことが、負けて死んでいった奴らへの弔いってやつになるんじゃないのか、と。
 欺瞞もいいところだ。双我が殺された側なら黙っちゃおかない。が、もちろん死者に口なしで、そんなことは構いやしない。死んでいった奴らのことなど双我はどうでもいい。雑魚がいくら死のうと関係ない。リリスが苦しまずに済むなら、そんな奴らの死なんかは生贄だとさえ思っていい。
 だが、リリスは困ったように笑う。
「そういうことじゃないんだけどなあ……」
 その微笑みは寂しそうで、
 どこまで語っても、理解してもらえないことを分かっている人間の顔だった。そんなリリスを見るたびに、双我は血が出るほどに拳を握る。
 じゃあ何が苦しいんだ。
 いったい何がそこまでお前を苦しめる。
 人を殺すことに良心の呵責があるわけでもない。『ルミルカのたてがみ』から離れないのは、リリスの強さを考えれば自分の意志だと言っていい。リリスがその気になりさえすれば、双我はいくらでも手を貸す。どこへだって付いていく。
 お前が行くと言ってくれさえすれば。
 それでもリリスはルミルカのたてがみから離れない。
 病室のベッドに横たわって、リリスは窓の外を気持ちよさそうに見上げている。
「仲間がいるからね」
 その声には、諦めたような寂しさがあった。
「捨てちまえ」
 双我は床を睨みつけながら言った。リリスが不思議そうにこちらを向く。
「そんなもん、全部捨てちまえ。自分が死んでちゃ話にならねぇ。仲間だか友達だか知らんが、自分がくたばるよりそいつらが死ぬ方がマシだろ」
「双我……」
「なんでだ? なんでそこまでして義理立てする? 『ルミルカのたてがみ』が、お前に何をしてくれた? 居場所なんて、お前なら自分の力だけで作れるだろ。仲間だと? そんなもの……こんな時にお前を助けに来ない奴らが、仲間なもんかよ!!」
 子供のように怒鳴り散らした。
 双我が子供じみていた、わけではないだろう。どちらかといえば現実的に考えていたのは双我の方だった。
 ただ自分だけが生きていく、ということをもっとも現実に即した生き方だと定義すれば、だが。
 リリスは眩しそうに、目を細めた。
「……ミーシャのこと?」
「…………」
「いろいろ言われた? でも、悪く思わないであげてよ。あの子も好きで私を動かしてるわけじゃ……」
「本当に奴がお前の仲間なら、なぜ助けに来ない?」
「私は助けて欲しくなんかない」
「嘘だ」
 双我は頑として譲らなかった。
 燃えるような目つきで、弱ったリリスを睨みつけた。
 喉が獣のように鳴った。
「それは、嘘だ。リリス」
「……嘘じゃないよ。助けてなんて、私は言ったことがない」
「戦場でいきなりぶっ倒れる奴がか」
「…………ま、そういうこともあるよね」
「そういうこともある、じゃねーよ。死んだらどうすんだ」
「うーん、その時はね……」
 リリスは半笑いで、自分の前髪をいじくった。
「死ぬだけじゃない?」
 ずっと我慢していた。
 やっと怒れた。
 双我は椅子を蹴って立ち上がり、リリスの胸倉を掴んだ。パジャマのボタンが音を立てて弾け飛び、病室の清潔な床を転がっていった。
 二人はしばらく、辛い姿勢で、無言のまま見つめ合った。
「死ぬだけ? ふざけんなよ、こっちがどんな思いでお前を助けてると思ってる」
「……それは……」
「それも、『自分は助けてなんて言ってない』か? それも『双我が勝手にやってるだけ』か?」
「違う! 私はそんな……」
「お前はそう言ってるんだよ、この俺に」
 ぐっとリリスは言葉に詰まった。
 その目に涙が滲んだ。
「だって……だって私は……」
 ひぐっ、とリリスの喉が鳴った。
「私にも……どうしていいか分からないよ……」
「じゃあ教えてやる。リリス、お前はもう闘うな。お前は再起不能なんだよ。とても戦闘できるような状態じゃない。二度と剣を……」
 ――剣を振るわない猫に、生きてる意味があるか?
 そんな自分の心の声に唾を吐く。
「二度と剣を持つな。お前にその資格はない」
「……それで?」
 双我はリリスの服から手を放した。
 びろんびろんになったブラウスから、リリスの胸元が見えた。
「それで私は、どう生きていけばいい?」
「どうも生きるな。一生、屋敷で暮らしてろ。
 なあ。
 それのどこが不幸なんだ? 金なら俺が送ってやるよ。心配いらない。
 それのどこが不満だ? 闘うことがそんなに好きなら、なんで闘って傷つく? あのな、お前はきっと闘うことなんて……」
 好きじゃないんだ、とは言い切れなかった。
 リリスが何か言ったから。
「……だよ」
「あ?」
「私が闘わなきゃ、双我が死ぬからだよ」
 双我は黙った。
 それから、ゲラゲラ笑った。
「俺が死ぬ? 冗談言うな、俺は死なない。任務のこと気にしてるのか? ハッ、誰が相手だろうと知ったことかよ。俺は負けない。必ず勝つ。だからお前は……」
「双我が死んだら、私は悲しい。ルミルカの誰が死んでも、私は嫌だ」
 リリスは、窓際の花瓶に目をやった。
 もう枯れていた。
「ルミルカの首輪に繋がれて戦い続けるのは、双我、認めるよ。はっきり言って苦しい。嫌で嫌で仕方ない。でも、私がやらなきゃ、誰かが死ぬ。死ぬかもしれない。そう思うと、死にたくなる。ミーシャも、ダーナも、ダンゼルも、双我も、私にとっては……」
 眠るように目を閉じて、
「昔は、こんなこと、考えなかった……」
 目を開き、その銀色のまなざしを過去に据えて。
「独りだった時は、闘っていればよかった。誰が相手でも後腐れのない決闘だった。逃げたい奴は逃がしてあげたし、刃向かって来る奴には生まれ変わっても忘れられないくらい深く深く、剣を突き立てた。それでよかった。他には何も考えずにいられた……」
「……じゃ、今からでもそうしろよ」
「できない。……ねえ双我。独りじゃないって苦しいね」
 リリスがパジャマを脱いだ。
 下着姿になって、恥ずかしげもなく、ハンガーに吊るされていた戦闘服を身に着けていく。
 やめろ、と。
 そんな些細なたった一言が、双我には最後まで言えなかった。
 いつもの姿になったリリスが、ベッドの縁に座っている。
 そのそばには、愛剣が立てかけられていた。
「いこっか、双我」
「……これで最後だぞ。いいな。どうせお前は俺の足手まといになるんだからな。それがわかったら、引退しろ」
「わかってるって」
 リリスは笑った。
 そして、それが本当に最後の任務になった。
 リリスの髪は、その頃にはもう雪のように真っ白だった。

 リリスはいつも自分で自身の髪をカットしている。そのために専用ハサミも持っているくらいで、その手捌きはちょっとした見世物に出来るくらいだ。チャキチャキチャキ、とほとんど指に力をかけていないはずなのに、サラサラとその白髪が――かつては太陽のように輝いていた金髪が――床にサラリと落ちていくのを見るのが、双我は好きだった。時々こっちを見て、「ん?」などとはにかんでくるリリスを見ていると、絶対に守ってやろう、なんてガキくさいことも考えていた。本当に双我はガキだった。
 けどな、と双我は思う。
 そんなことも容易く思えなくなったなら、そんな自分はくたばる以外に能がない。
 今。
 リリスと双我は、かつてヘリコプターと呼ばれていた機械に乗っていた。いまではすべて魔力から電源を取っていて、呼び名も『蜂』が一般的だ。ヘリなんて言う奴がいたら、まず映画の見過ぎだとからかわれるだろう。パイロットはいない。最近はなんでもオートでやる。
 オートで出来ない仕事が、双我たちに回ってくる。
「…………」
 向かいの座席に、腰を下ろして。
 双我とリリスは何も言わずに、黙っている。双我は手に着けたグローブのリストをいじっていて、リリスはやはり、髪を切っている。もうかなり整って来た。雨が降るかと空を見上げる子供のように、前髪を確かめてから、リリスはくるっと手の中でハサミを回して、ポケットに仕舞い込んだ。
「どう?」
 自信満々、といった態度で、リリスがニヤニヤしながら双我に聞いた。双我はぷいっと顔を背けた。
「いーんじゃねーか」
「双我の頭もヤッたげよっか?」
 ギラリン、と八重歯を見せてくるリリスを見て、双我はいやいやと首を振った。
「やめとく。お前、他人のはスゲェ適当にやりそう」
「なんでわかるの?」
「アホンダラ、俺とお前がどれだけ一緒にいたと思ってんだ。お前のことならなんでもわか……」
 言ってしまったら、お約束。
 二人は顔を赤らめて、視線を合わせようとしなかった。
「いやあ……」
 リリスがぽりぽりと頬をかきながら、チラチラと双我を窺い見る。
「……不意打ちは、どーかと思いますよ?」
「……スマン」
「ま、いいけど。……嬉しいし」
「……スマン」
 平謝りしかない。
 珍しく素直な双我を、リリスはくすくす笑った。
「双我って猫っぽくないよね」
「……ああ? 唐突に何をディスってんだよ」
「いや、だって、こんなヘラヘラしてられるのって、私には双我しかいないし」
「……そうか?」
「他のメンバーのことも、好きだけど、でも双我はなんか、特別な感じする」
「……そうか」
 それ以上、なんと答えていいかわからなかった。
 防音壁の向こうから、ヘリのローターの音が遠く聞こえる。
 心地のいい、安らかな騒音。
 二人はしばらく、目を閉じていた。
「ねえ、双我。いつかさ……世界って平和になったりするのかな?」
「なんだ突然。そういうのは日記に書いてろ」
 ため息をつき、
「……ま、お前がババァになる頃には、なってるかもな」
「ほんと?」
「ああ、俺は嘘はつかねえ」
「どの口が言ってるの?」
 ぷーくすくす、とリリスは口に手を当てて笑う。
「まァでも、信じてあげてもいーよ。そう、うん、きっとね。私たちがヨボヨボになる頃には、もう世界はそれはそれは広くて深くて穏やかで、闘ったりしないでいいところになるよ。うんうん。双我の言うとーり」
「……なんか言い方むかつくな」
「あはは、ごめんごめん。……でも、ほんとにそうなるといいよね」
 あのね、とリリスは言った。
「おばーちゃんになってもお嫁にいけてなかったら、双我が貰ってくれてもいいよ」
「ふざけんな。願い下げだ」
「うん」
 リリスは微笑んで、愛剣の柄を握った。蜂の羽音が少しずつ静かになっていく。双我は立ち上がった。
 ハッチが開いていく。風が機内に流れ込み、わずかに身体が引っ張られる感じ。
 紺碧の大海原が、眼下に広がっている。その一点に、汚れのように、真っ黒な戦艦が波を切り裂いて航行しているのが見えた。
 名前もない、敵の戦艦。
「双我」
「なんだ」
「……『新型』、使う?」
「当たり前だろ。ここ最近は調子悪かったが、もう直ったはずだし、無理してでも今日は……」
 そう言って、双我は左手で握った鍵束を、自分のグローブに差し込もうとした。
 それを、ひょい、っとリリスがかすめ取った。
 双我は唖然とする。
「……おい、返せよ」
「やだ」
 ニッコリ笑って、リリスはその鍵を口で啄むと、
 トン……
 サーベルを抱いたまま、蜂の体内から飛び降りた。
「バッ……」
 もう遅い。鍵はない。双我は風に巻かれて誰にも届かぬ毒を吐きながら、魔法剣を手に取って、空中へ飛んだ。
(あの馬鹿……!)
 戦艦が少しずつ、視界の中で大きくなっていく……
 リリスが吐き捨てた鍵が、海に飲み込まれて消えた。

 敵戦艦の甲板に激突着地した瞬間、リリスは愛剣をまっすぐに突き立て、雷撃魔法を絶妙な分量でスプレッドさせて、戦艦に絡みついていたはずのセキュリティ・エンブレムを完膚なきまでに破壊した。双我がわずかに遅れて甲板に着艦した時には、リリスは誤作動を起こして開き始めたハッチから滑るように戦艦内部へと潜り込んでいくところだった。
 元々、セキュリティ・エンブレムはそんなに容易く突き破れるものじゃない。
 双我は冷えた汗を流しながら、微かな黄色い磁場の名残が漂う甲板を見渡した。
 リリスがやったことは、数字も読めない人間が高度なコンピュータにかけられたパスワードを『直感』だけで解き明かしたようなもの。敵からしたらやってられない神業だろう。鼠が猫を羨み憧れ諦めきれないのもわかる。ここまで分かりやすく才能を見せつけられる機会が一度でもあれば、己の生まれの卑しさを親父やお袋に恨んで当たり前だ。
 モノが違う。
 どう足掻いても、掃いて捨てられるほどいるカスには生涯かかっても辿り着けない。なにせリリス自身が自分の能力を説明できない。「見ればわかる」とか「なんとなくフィーリング」とか適当なことばかり言ってるくせに、やるとなればその全てが的確で、本質を見抜き、必ず戦果を挙げてくる。セキュリティ・エンブレム? 冗談じゃない。双我には永遠に、この船に単騎で着艦することは出来ないだろう。いままでも、これからも。
 双我はリリスの後を追った。追いかけがてら、斬りかかってきた敵戦士を二人、魔導装甲ごと斬り殺した。浴びた血のぬるさを感じながら、疾駆する。
 パイプや配線が剥き出しになった、来客様お断り仕様の複雑な敵戦艦内を、リリスは剣を腰だめに構えて走っていた。全身を『耳』にしているのが背中を見ればわかる。扉を跳ね開けて踊りかかってきた敵戦士の首が一瞬で飛んだ。兜に包まれた生首が双我の足元で跳ねた。双我はそれを蹴り飛ばして、通路の陰から斬りかかろうとしてきた戦士の顔面にそれを当てた。ずいぶん嫌なキスを味わったことだろう、もんどりうって倒れ込んだ戦士の胸に剣を突き立て、燃やし、復讐に駆られて飛びかかってこようとした戦士七人をその場で足留めした。全滅させる必要はべつにない。貴族の坊ちゃんを救出できればそれでいい。
 双我は死体と流血をかき分けるようにして奥へ進んだ。
 リリスがちょっと殺し過ぎている。
 いや、べつに殺して困ることはない。これだけの騒ぎを起こして人質が死ぬなら死んだ時だし、もう安否なんて考えている場合じゃない。殺せるだけ殺して置くに限る。が、それにしても、惨殺が多かった。わざと苦しむようにリリスは斬りまくっている気がした。
「あはっ」
 敵戦士の魔法剣から繰り出された氷の蔦が槍へと転じ、リリスの頭部が一瞬前まであった空間を貫いた。リリス自身は軽く膝を曲げただけで――よく見れば、その動きが、一瞬わざと自分を気絶でもさせない限りは出来ない反応速度であることがわかる――氷の槍をかわし、身を捻り、その回転の中で魔法剣を鞘走りさせて敵戦士が撃ってきた数の七倍の氷の槍を十四倍の厚さで結晶化させ、贈り返した。
 悲鳴と許しを乞う声が辺りに満ちた。
「だめだめ」
 リリスは酔っ払ったように、夢見る顔で微笑む。
「許してあげない」
 ハイになっている。
 双我はそれをチラと見つつ、眼前の自分の獲物を綺麗に三等分に斬り分けた。剣を空振りして血を払う。リリスがキリング・ハイにかかっているのはべつにいい。猫としては普通の反応。最近は殺しを嫌がっていたが、敵戦士が魔導装機ではなくただの魔導装甲を身に着けた白兵であったのが幸いしたのかもしれない。相手が同じ白兵魔導師なら、リリスはそれを『決闘』じみた『勝負』と扱って、殺すことを躊躇わない時がたまにある。都合がいい、だが、それこそが猫が猫たる由縁だ。
 鼠には永遠に猫の気まぐれがわからない。
 だから負けてすぐに死ぬ。
 リリスに八人の戦士が斬りかかる。同士討ち覚悟の八点特攻。だが、リリスは一人の剣に抱き着くようにまとわりつくと、そのままそいつの腕をバターでもスライスするように切断し鮮血のシャワーの栓を開ける。そのまま少し体重を落とした哀れなその戦士の軽くなった二の腕を背負い投げして、自分が直前までいた空間に投擲、七兵は綺麗にその戦士を串刺しにして、四人が同士討ちで死んだ。
「いけいけ、羽ばたけ。噛みつけ。呪え、殺せ」
 歌うようにリリスが囁き、魔法剣が兵隊蜂のように唸り、そして周囲に飛び散った赤い鮮血に小さな口が出来る。魔法がかけられたまやかしの赤ヒルたちが戦士たちの頸動脈に喜び勇んで噛みついて、その生命と戦闘能力を喰い尽くす。リリスは笑う、笑う、笑う。
「たのしいね」
「そうだな」
 双我は同意する。本気だったし、そのまま最後までリリスが戦い抜けてくれれば、単純な話、双我の殺しが減って有難かった。双我ではここまで速く敵を殺せない。もう少し手間取る。
 リリスは速い。
 圧倒的なまでに速かった。
 殺戮の風と化して扉という扉を蹴破り、ロックというロックを解錠し、敵という敵を惨死させ、突き進んでいく。追いかけていくだけでやっとだ。気を抜けば振り切られそうになる。瞬きする間に安っぽいコメディノベルみたいに死体が増えた。笑い出しそうになるのをなんとか堪えた。あまりに簡単に死ぬから忘れがちになるが、この敵戦艦の乗員戦士たちは、ほぼ誰も彼もが双我と同程度には強い。下手すりゃ殺られる、というヤツだ。鼠の精鋭級を揃えていたのだろう。
 太った鼠は、猫と同じサイズになることがある。
 リリスが操舵室の扉を72分割した後で蹴破った。即興のジグソーパズルとなった鉄扉が吹っ飛ぶ。リリスと双我は操舵室へ駆け込んだ。
 そこが本丸だった。
 戦艦内に突入して、初めてリリスと双我の足が止まった。その瞬間、思い出したように、二人の身体から蒸気が立ち昇った。珍しくリリスが息を切らしている。
 操舵室は、一面ガラス張りになっていて、そこから甲板とその先にある海が見えた。その景色が死ぬ寸前でも気になって仕方ないのか、椅子に座った黒ずくめの少女は、頬杖を突いて、優雅に座りながら、視線を彼方へ飛ばしていた。双我は嫌になった。
「やっぱりお前か。バルキリアス」
 バルキリアスと呼ばれた、黒ずくめの少女は、つい、と二人の方を見た。その顔立ちは幼い。双我と同い年ぐらいだろう。目元がやや狐のようにきついが、いずれ成熟すれば完璧を想起させる白皙の美貌だ。あどけない唇に、妖艶な紫色のルージュがさっと引かれているのが、不気味だ。
「あら、双我にリリスじゃない。久しぶり、元気してた?」
「お前に遭わなきゃもっと元気だったんだがな、バル」
「あらら、それは残念。でも、私は会えて嬉しいわ。なんてったって、同じ猫の仲間ですもの」
「どの口が言いやがる。てめえ、いつから黒魔導士どもの飼い猫になった?」
「べつに飼われた覚えはないけれど。可愛いじゃない? 醜い鼠どもが、ヨタヨタヨタヨタ、私たちの真似事するのって……惨めで無様で、最高のショーだわ。それを特等席で観覧していたいだけよ、私は」
「いい趣味してるぜ……」
「でしょ?」
 バルキリアスは、足を組み替えながら、リリスに同意を求めるようなまなざしを向けた。
「あなたもそう思わない? 『皆殺し』のリリス。……というか、なにその白髪? イメチェン?」
「興味ない。どうでもいい」
 リリスは剣を構えたまま、苛立たしげに答えた。
「あら、つれないわね。私のこと嫌い?」
「ちょっと嫌い」
「あらら、それも残念。でもいいわ、私はあなたのこと気に入ってるから……」
 言って、バルキリアスが、椅子の背後から大剣を両手で抱えるようにして、持ち上げた。竜が首をかしげるような仕草で、墓石のように分厚い大剣の切先が落ちた。
 『黒熱』のバルキリアス。
 その愛剣は、決して自身では振れない大型魔法剣・バスタードソード。
 決して、座った椅子から腰を上げずに戦う様から与えられた二つ名は、かつて猛威を奮った疫病の古銘・ブラックフィーヴァー。
 その実態は、対戦相手を必ず電撃死させる、災厄の雌猫。
 双我には決して破れなかったセキュリティ・エンブレムを結界させたのは、この少女に間違いはない。
 鍔鳴りが二つ、鳴った。
 双我とリリスはそれぞれのスタイルで、剣を構えた。
 双我は納刀、
 リリスは抜剣。
 バルキリアスは値踏みでもするように二人を交互に見比べている。
「ふうん。ねえリリス、半再起不能って聞いてたけど、本当みたいね」
「何が?」
「以前、出会った時と違って、構えに重さが無い。それじゃ猫は狩れないわ」
「剣を振るわない剣士に講釈されてもね」
「あなたは誰に何を言われても拒絶するだけでしょうに」
「…………」
「それにね、そもそも向いてないのよ、あなたには」
 ニヤニヤ笑って、バルキリアスは舌でぺろりと唇を舐める。
「……足手まといを守りながら戦うなんて」
 抜いたのは、双我。
 一瞬の踏み込みで、風の援助を受けながら、バルキリアスの胴体を切断できる一撃を見舞った。
 仕留めた。
 確実に届く距離で、バルキリアスの胴を薙いだ、
 ……はずだった。
「…………何?」
 双我は剣を振り切った姿勢のまま、
 バルキリアスは椅子に座った姿勢のまま、
 死体一個分の距離を置いて、対峙していた。
 漆黒の少女はくすくす笑う。
「あらあらあら。のぼせちゃって」
「てめえ……何した?」
「あんまり舐めないでよね」自慢の足を高く上げて、
「この私がただ接近してくる馬鹿に対してなんの対応策も持ってないわけないじゃない。ま、それを逆手に取って不意を突いたつもりだったんだろうけど。でも、土壇場で切り返せないようじゃ本物の技とは言えない……」
「俺の脳だな」
 双我は左手で顔を覆った。
「……俺の脳神経の電流を、魔法で操り、距離感覚を狂わせた。そうだろ?」
「ご明察。それで? 降参して許しを乞う以外にあなたに出来ることは?」
「お前に俺は殺せない、ってことを宣言することくらいだな」
「……なんですって?」
「脳に直接影響を及ぼす魔法だ。殺傷能力があるなら今、俺を殺してたはず。そうしてないってことは、まだそこまで完熟してない技だってことだ。もう読めた。二、三度攻撃をしかけりゃ、狂った距離感は逆算してなんとかする」
「……これだから単純馬鹿は嫌なのよ。リリス、このオス猫どーにかしてよ。この私に『二、三度の攻撃』を仕掛けるチャンスがまだあるって思ってるみたいよ。止めなきゃ殺しちゃうよ」
「バルキリアスの言う通りだよ、双我」
 リリスが吐き捨てるように言った。
「やめておきなよ。あいつは嫌な奴だけど、馬鹿じゃない」
「…………」
「どうせ、バルキリアスと闘る限り、接近戦は望めない」
「その通り。あなたは察しがよくて助かるわ、リリス。でもね」
 紫色に塗られた爪と爪の間から、狂気に彩られた双眼が垣間見えた。
「それでもやっぱり、あなたは死ぬのよ」

 バルキリアスの魔法剣が軋んだ。
「…………っ!?」
「ねえリリス」
 バルキリアスは歌うように言う。
「覚えてる? 私とあなたが最初に遭った時のこと……まだお互いに野良だったわよね。貴方にとっては、ただの下らない喧嘩だったかもしれない。でも、私にとっては違う。あの時、私は、初めて負けた……それまで誰にも負けなかった私が、貴方に勝てなかった。まったく同じタイプの戦士であるあなたにね」
 バルキリアスの白貌が、脂に塗れて濡れていた。
「屈辱だったわ。殺してやろうと思った。こんなことは間違ってると思った。あれから、私は、貴方を超えるために生きてきた……
 でも、それはもうやめるわ。
 認めようと思うの。私は貴方の上を行けないって。
 そして、それこそが、私が貴方に勝つたった一つの最後の手段」
 バルキリアスが何か囁く。呪文のようなものを、
 そして、
「ぐっ……!!」
 双我とリリスが同時に膝を突く。全身が鉛になったように重く、怠かった。とても動けそうにない。双我は黒装の美少女を見上げて、吼えた。
「お前……これ……!!」
「察しがいいみたいね」
 バルキリアスの唇から、ヨダレが垂れている。だがそれは、獲物を前にした狼の空腹からのものではなく、疾走の最期に訪れる過労から来るもの。
 バルキリアスは衰弱していた。
 それも、かなり酷く。
 彼女ほどの猫が一瞬で衰弱するほどの魔法など、一種しかない。
 黒魔法。
 それは、鼠が猫の真似事をした挙句に辿り着く、穢れた邪法――
(それを……猫のお前が……使うのか!)
(誇りも尊厳もかなぐり捨てて……)
「『封鎖結界・無黒の間』……これが私の、切り札」
「バル……キリ……アス……!!」
「私は本気」
 魔法剣の柄を握る、バルキリアスの手は、震え、痺れ、濡れている。
 その顔に、ベッタリと狂笑が貼りついていた。
「こうでもしなければ、リリスには勝てない。これなら、この黒魔法なら、貴方たち二人の動きを同時に殺せる……もう動けないでしょ? 私もそうだけど、元から動く気がないから、これはデメリットじゃない。そして、歪み捻れ曲げられたこの私の結界の中で、貴方たちは、正確に魔法を使うことができな……」
 話を聞かずに、リリスが撃った。
 雷撃の槍が、バルキリアスの髪をかすめて、その背後、大海原を映したガラスを撃ち砕いて、蒼穹に消えた。双我の目が見開かれる。
 外した。
 あの『皆殺し』のリリスが……
「……バルキリアス」
「この魔法は私の生命を魔力として消費する……その代り、リリス、貴方とお付きのオス猫の寿命は、私の十八倍の速度で減少していく……どう? ゆっくりと、高速の死に飲み込まれていく気分は?」
 リリスは、脂塗れに微笑む。
「悪くないかな……」
「言うと思った」
 ぎりり、とバルキリアスの歯が軋んだ。
「それでいいわ。それでこそ人生を台無しにしてまであなたを死なせる価値がある。……さ、どうする? その震え、痺れ、衰えた腕で剣を振るい、最後の接近戦を挑んでみる? それとも……壊れた照準にわずかな望みを託して、撃ってくる? ご自慢の雷撃を」
「リリ……」
「動くな弱者。お前なんかに用はない」
「ぐあっ……!」
 双我にかかる過負荷が、格段に増した。もはや剣を持つことすらままならない。釘づけにされた標本のように、双我は這い蹲った。立ち上がることは、出来そうにない。
「畜生が……!!」
「これは私とリリスの勝負。誰だろうと、邪魔立ては許さない……」
「いいよ、双我」
 リリスは、ぎりぎりと、ゼンマイ仕掛けのような緩慢な動きで、双我をチラリを見やった。
「動かなくていい」
「リリ……ス……!」
「バルキリアスは、私が倒す」
「へえ? だから、どうやって? 接近戦か、それとも……」
 バルキリアスの肩口を、雷撃の槍が掠めて突き抜けていった。
 空気が焦げる臭いが立ち込めて、黒装の少女の黒髪が、わずかになびいた。
 その笑みが、深くなる。
「魔法戦ね。この私に、魔法戦を挑むというのね」
 返答は、再び雷撃。
 今度の誤射はひどかった。操舵輪の下にあるコンソールパネルに緩やかな弧を描いた黄金の一撃が突き刺さり、電気系統を破壊したらしく、照明が落ちた。予備電源は入らない。
 薄暗がりの中で、バルキリアスが、胸を上下させている。
「アドバイスしてあげようか、リリス。この黒魔法は、世界そのものの位相をわずかにズラし、歪曲させている。あなたはその位相がどのぐらいズレているのか、直感と経験で読み切って、正しい位置に雷撃を撃ち込めば私を殺せる……でもね、それは、ズレとも言えないわずかな差異。『無い』と言ってもいいくらいの違い」
 バルキリアスの足元が弾け飛んだ。抉れた鉄塊の縁を、バルキリアスはドレスシューズの爪先で慈しむように撫でた。
 リリスの口元から、ヨダレが滴っている。
「…………っ! …………っ!!」
「そんなに頑張ると後遺症が残るかもよ? 貴方、いま、湯水のように生命を零しまくっているところなんだから」
「うる……さい……な……!」
 リリスは床に突き立てた剣の柄を、憎むように強くきつく握り締め直した。
 こぷっ
 突然に。
 バルキリアスが血を吐いた。
 自らの手についたそれを、どうでもよさそうに、彼女は見ている。
「あらららら。これはちょっと困っちゃった。嫌になるわね、虚弱体質って。計算じゃ貴方たちの方が先に死ぬはずだったんだけど。これじゃ仕方ない……」
 剣の柄に、両手を重ねて、

「…………死亡覚悟で、私からも貴方に雷撃を撃ち込むしかなくなったみたい」

 跪き。
 片手で剣を支え。
 俯き。
 なけなしの魔力を練り上げていたリリスが、やはり、笑う。
「待ってた……」
 そして、雷撃使い二人の剣身から、同時に稲妻の種子が零れ始めた。
 どちらも、本気の一撃。
 蜘蛛の巣のように放射状に拡がる電撃が、バチバチと弾けては泡のように消え、そしてまた現れるのを繰り返す。薄闇の中で二人の周囲だけが激しく炎のように明滅する。リリスの眼光が鋭くなり、バルキリアスの血がとめどなく滴る。
 雷撃魔法の奥義は精神の過集中以外にない、と言われる。
 神経電流とまったく同質の現象を司るその魔法は、心の謎と同じ奥深さを持っている。解明することは誰にもできず、把握したと嘯く奴は詐欺師に過ぎない。それでも撃てる奴がいるのは、人間の精神が神の摂理の末端に触れる程度のことだけは出来るという証明。
 リリスとバルキリアス。
 二匹の猫が、神の領域へとどれだけ踏み込めるか。
 これは、そういう勝負だ。
 そして、
 先手で魔力を練り上げ切ったのは、
 バルキリアス。
 バスタードソードから、プラズマボールが放射され、それが一瞬間だけ、シャボン玉のように煌めいたかと思うと、粒子を撒き散らしながら一点に収束し、極大の電撃種子と化す。下手すれば自身の歪曲魔法の影響で弾け飛びそうなそれを――迷わなかった。
 撃った。
 双我の目が、その雷撃の眩さにくらむ。
 白熱する一瞬。
 双我は見た。
「数撃ちゃ当たる――」
 リリスのサーベルの剣身、その先端から魔法光がサークル状にリリスの周囲に拡がった。その全てが小さな電撃を帯びていたことを双我は後々思い出して戦慄することになる。
 しゅぅぅぅぅぅぅぅぅぅ……
 リリスの周囲から、六つの電撃種子が現れた。
 燐光が明滅する。
 バルキリアスの目が見開かれる。
 リリスは、ニィッと笑った。
 六点瞬撃、
 リボルバー・ボルト。
 それがリリスの解答だった。

 ドッ、と空気を引き裂く音がして、
 バルキリアスの雷撃がリリスの電撃種子の一つに直撃し、相殺され、金色の粒子だけを残して弾け飛んだ、そして、
 もはや、バルキリアスに盾と成り得るモノはない。
 五槍紫電のうち、バルキリアスの心臓を直撃したのはたった一槍だった。黒装の少女は座っていた椅子ごと背後に倒れ込み、その手からバスタードソードが滑り落ちた。鈍い音を立てて剣が転がり、
 それっきり、もう、バルキリアスは立ち上がらなかった。
 双我は、目を閉じる。
(強ぇ――)
 喜びさえ感じる。
 圧倒的なまでの強さ。この死地に置いて揺るがぬ鋼鉄の精神。たとえ錆に犯されていても、その本質は変わらない。六点瞬撃。この歪曲結界の封鎖から解放されたとしても、双我には決して撃てない一手だ。一撃だろうと、この結界の中で双我が撃てば、おそらく逆走させて自分の心臓を撃ち抜くのが落ちだ。初手からリリスはバルキリアスの方角へだけは攻撃を集めていた。左手一本で油絵を描き切るような、その精神力。
 真似できないと思った。
 生涯、追いつけない。
 どんなにもがき足掻こうと……
 乾いた笑みが思わず浮かぶ。
 再起不能?
 どこがだ。
 心配いらない。これだけ強ければお釣りが来る。たとえ敵地のど真ん中で戦意喪失しても、リリスが死ぬなんてありえない。全ては双我やミーシャの杞憂に過ぎなかった。今わかった。皆殺しのリリスが、殺される側に回ることなんてありえない。これからも、たとえどんなに苦しもうと、リリスは勝ち続けるだろう。そういう星の巡り会わせになっている。それがわかった。それだけで、満足だ。
「なあ、リリ――」
 双我が声をかけようとした瞬間、リリスの殺気が電流を帯びた。
 視界は後方、双我の背後。剣を床から引き抜き放ち、慣性の手助けを受けて、力任せに振り抜く一刀、その剣軌から燐光が出現し収束し、まだバルキリアスの呪縛を帯びているにも関わらず――最高の一撃となって撃ち放たれた。空気を焼き裂く稲妻の果てに、電撃に齧られた肉の気配がした。人が死ぬ気配だ。追跡者が来ていたのか、と双我は今更ながらに背筋を凍らせ、背後を振り向く。
 転がっている死体は、まだ幼いモノだった。
 パジャマのような服を着ている。下は裸足。雷撃を正面から受けた胸元は焼き焦げて地獄の底へ通じていそうな真っ黒な穴が開いている。その穴と、顔面の穴という穴から白煙と異臭が溢れ出していた。子供――双我は思った。
 子供?
(子供って……)
 ミーシャの声が蘇った。
 わんわんと。
 わんわんと。
 割れ鐘のように。
(目標は黒魔導士の裏ギルドに人質にされた、魔法庁の高官の令息の救出。すでに誘拐されてから七時間が経過している。場所は太平洋上の敵戦艦内部……)
(魔法庁の高官の令息の救出……)
(令息の救出……)
 リリスが、ふらり、と双我の横を通り過ぎていた。ようやく、ようやっと、バルキリアスの呪縛が消失していることに、双我は気づいた。
「リリス……」
 リリスは、少年の死骸のそばに跪いた。
 サーベルが、玩具のように打ち捨てられて転がった。
 今まで剣を握っていた手で、少年の死体を抱きかかえた。
 だらり、と少年の手が落ちる。
 爪の先が血で汚れていた。
 きっと、
 きっと、とても勇敢な冒険をしてきたはずだった。
 双我は思う。あのリリスの、船のコンソールパネルをぶち抜いた一撃。あれで照明が落ちた。その時に、人質が監禁されていた部屋か何かの、ロックが外れたのではないか? もしくは、セキュリティ・エンブレムを展開されていたぐらいの船だ、電気系統の細かな部位を、自分流にバルキリアスが調整を施して制御していた可能性もある。バルキリアスが自らを圧殺する危険性を押してまで使ったあの黒魔法、あれは、船の制御系統なんて些事の片手間に撃てるような魔法か? 双我にはそうは思えない。どちらかだ。どちらかで、ロックが外れ、少年は脱出したのだ。扉か何かがなかなか開かなかったのか、それともどこかのダクトか何かをよじ登ったのか、いずれにせよ、どこかで爪が剥がれるような怪我をしてまで、ここへ逃げてきたのだ。
 生きるために。
 助かるために。
 家に帰る、ために。
 だが、もう少年は動かない。立ち上がることもない。喋ることもない。恨み言を放つことも、許しを呟くこともない。
 もう死んでいるから。
「ねえ」
 リリスが言った。双我は、自分に呼びかけてきているのかと思った。違った。
 リリスは、抱きかかえた少年の死骸を、ゆさゆさと、揺さぶっていた。
「ねえ」
 少年は動かない。その口蓋からドロリと真っ黒な血が流れ落ちた。やけに粘つく、感電死者特有の黒血。
 見慣れた死者の置き土産。
 助かっていたはずの、命だった。
「起きて」
 ゆさゆさ。
 ゆさゆさ。
「起きて」
 ゆさゆさ。
 ゆさゆさ。
 少年は動かない。
「どうして、起きて、くれないの……?」
 リリスの疑問に、誰も答えを返さない。
 返せない。
「どうして……?」
 リリスは虚ろな眼差しで、少年を揺さぶり続けた。
 ポタポタと、流れ落ちた涙が、汚れた少年の死骸に落ちた。
 連絡が途絶え、航路を彷徨わせ始めた戦艦の様子から内部で異変ありと見たルミルカが、追撃メンバーを投入してきたのは、それから四時間後。
 援軍が見たのは、いつまでも、いつまでも、少年を抱きかかえ続け、泣き喚きながら、それを離すことを断固として拒絶するリリスの醜態。それから、
 それを見ていることしか出来なかった、項垂れ、跪いたまま、何も言わない一人の白兵魔導師の姿。

 リリスは、今度こそ再起不能になった。
 言語、記憶、精神、感情。その全てを喪失し、車椅子に乗ったまま、俯き、項垂れ、何も言わなくなったリリスが、双我の見た最後の彼女の姿だ。それきり彼女は絶対安静、専属のセラピストの下で、余生を送ることになった。全て、ルミルカが手配した。
 それから双我は、リリスには一度も会っていない。
 それでも、生きていてくれれば。
 いつか、平穏な暮らしが、傷ついたあの心を癒してくれれば。
 そう思って、双我はこの三年間、闘い続けてきた。
 何度も。
 何度も。
 パートナーを変え、愛剣を折り、古傷ばかりを増やしながら。
 リリスの代わりに、自分が苦しめばいいと思った。
 終わらない『今日』を生き続ける羽目になったリリスが、いつか、
 いつか……
(そんな)
(そんなリリスを)
「よくも殺してくれやがったなァ……!!」
 双我は、うずくまった赤宮猛の首筋に剣先を突きつけた。
 場所は、深夜の展望台である。

 双我は、だらりと手に持った魔法剣を下げて、相手の様子を窺った。場所は深夜の展望台。円形のタワー最上階の天井はガラス張りのドームになっており、そこから満天の星々と誰かが使った魔法の残り香が見える。照明はすでに双我が破壊した後。だから室内の光源と言えば、お互いの眼光くらいしかない。
 赤宮は、双我に斬りつけられた腕を抱えて、喘息の発作を起こしたように激しく息を荒らげている。腕を滴った血が握った魔法剣の剣身をぬらぬらと赤く染めている。ブレードには亀裂が入り、白煙を噴いていた。
 それを、赤宮の『三つの』目が、潤みながら見下ろしていた。
 しゅう しゅう
 赤宮は、獲物を見つけた蛇のような呼気を繰り返す。
 それだけだ。何も言わない。ただ敵である双我を焼き殺せそうな視線で睨みつけている。
「…………」
 双我は剣を構え直した。
 もはや赤宮にしてやれることは、何もない。

 偽の手紙で赤宮を呼び出し、『追跡者』としての素性を明かした双我を、赤宮は笑った。それが五分前のこと。
 赤宮は言った。
「へえ、お前が猫? あの弱さで? ジン君に手も足も出なかったお前が猫か、なら俺は虎か狼か?」
「試してみようぜ、ゴチャゴチャ言わずに」
 双我は、桜井隼人を脅して借り倒してきた魔法剣を鞘から抜き放ち、星灯に剣身を晒した。
「だが、お前が全てを暴露して、俺に降伏するっていうなら許してやっても――」
 ハッ、と赤宮は軽蔑したように笑った。
「ぬかせよ、バーカ」
 ポケットに手を突っ込み、赤宮は何か小さなものを取り出す。
 それは、真っ赤なカプセル剤だった。
「お前に見せてやるよ」
 カプセルを口に含んで、奥歯で噛み砕き、
 赤宮の目が金色に輝いた。
「本物の黒魔法を」
 そう。
 赤宮は確かに、双我にそれを見せてくれた。止める間もなかった。おそらく詳細は聞かされていなかったのだろうし、自分で調査してみる気もなかったのだろう。もし、赤宮が自分で予め、そのカプセル剤の中身を、0.1mgでも取り出して魔法試験紙にでも浸せばすぐに分かったはずだ。
 それが最悪の劇薬だということに。
 よせ、という双我の声が虚しく響き渡り。
 赤宮の身体に異変が起こった。
「え?」
 まず肌の色が変わった。青白かった肌はドス黒く染まり、神経や血管と思しきものが銀色に輝き始め、蜘蛛の巣のように浮き上がった。赤宮の手から剣が滑り落ち、甲高い音が鳴り響く。膝をついて両手を見下ろす奴の顔は呆然としていた。自分の身体だ、危険な異常が起こったことは本能的に察したろう。「なぜ俺が?」と言いたげな表情だけを浮かべたまま、その背中がボコボコと蠢いた。内臓が肉体から産まれようと暴れているようだったが、痛みはないらしく、赤宮はのたうつ肉体を放置して、双我を見た。その目が言っていた。
(助けてくれ)
 それは無理なことだった。
 その目が三つになったからだ。双我は顔をしかめる。
 多眼。
 それは黒魔法に飲み込まれた者の刻印とも呼ばれる。魔法を制御しきれなくなった黒魔導士を、魔法そのものが支配した証。赤宮の第三の目は、奴の頬のあたりに現れた。それは宿主の視線を無視して、自分勝手なところにギョロギョロ動いた。そして腹を空かせた猟犬が兎を見つけた時のように、双我をぬらぬらした視線で捉えた。
「ああ。あああ。あああああああああ……」
 赤宮が両手を伸ばした。
「たすっ、たすけっ、たすっ」
「無理」
「あっ」
 斬撃。
 やったのは、赤宮。
 肘関節がへし折れる音がして、凄まじい角度から赤宮は床に落ちた剣の柄を握り込んだ。かと思うと次の瞬間、展望台そのものに激震が走った踏み込みで、双我との距離を一瞬で殺した。蛇の模造品のように柔軟になった右腕から振り抜かれた常識破りの一刀が双我の影を切り裂いた。
 すでに双我は、ハイ・ジャンプで逃げている。
 その顔は、不愉快そうに歪んでいた。
 追撃してきた赤宮の爆炎魔法を、繊細な跳躍でかわした。双我が割らないように気をつかった天井ガラスは赤宮の魔法で粉々に爆砕された。レギュレス関係者が展望台に駆けつけて来るまで180秒。それ以内に決着をつける。
 双我は剣を振り抜いた。
 微弱な電流、それが空中に機雷のように帯電し、突っ込んできた赤宮だったものが面白いように感電した。
「!」
 黒魔法薬を服用した直後で、赤宮の体内の神経経路はまだ揺らいでいる。常人用の感電魔法でも充分に麻痺の効果が得られた。
 死神よりも速く、双我は動いた。
 剣を動けなくなった赤宮の首筋に近づけ、
「よくもリリスを殺してくれやがったな……!!」
 容赦なく斬った。
 ぶしゅうっ
 勢いよく赤宮の頚動脈から鮮血が迸る。天井近くまで跳ね上がった血が、重力に引きずられて赤い雨と化した。双我はバックジャンプでそれをかわした。黒魔導士の血は穢れている。何か呪いに巻き込まれないとも限らない。
 首筋を切開された赤宮は、二重に捩れた左腕で傷口を押さえて、目を見開いていた。滑稽でさえある。思わぬところでメスを見つけた猿のように両目と口蓋を開けっぴろげにして、夜空を見上げながらドサッと倒れ込んだ。ぴゅぴゅっと血が決着の合図のように噴いた。
 そして赤宮は立ち上がった。
 何事もなかったかのように。
 双我の視線の先で、首の傷が見る見るまに塞がっていく。
 剣の柄が、冷や汗で濡れていくのが分かる。
「もう人間じゃねえな、赤宮」
 しゅう
 しゅう
 赤宮はこちらに近づいてくる。
「教えてやるよ。お前が口にしたものの正体を。たぶんお前は、魔力や肉体を強化してくれる、そんな薬だと言われてそれを渡されたんだろう。それの中身を知ってたら飲むわけねえからな。
 それな。
 飲めば確かにちょっと不死身に近くなるが、その代わりに全人格と全記憶を喪失する、失敗作の黒魔法なんだよ。
 大抵は、ドジを踏んで俺みたいな狩人に見つかった下っ端にあらかじめ、お守り代わりに持たせておくものなんだ。
 本当にやばくなったらこれを使え……ってな」
 双我は剣を構え直した。
「分かるか? もう分かんねぇか。お前は足切りされたんだよ。そうなっちまったらもう助からない。たとえ俺がいま、神様ぶった善意でも持ち出して、お前を制圧してどこかへ護送したとしても、お前はずっと檻の中だ。よくて実験動物ってところだな。
 聞こえるか?
 まだ意識が残ってるか?」
 赤宮は何も言わない。ただ血まみれの魔法剣をぶら下げて、ヨタヨタと敵へと近づいていく。頬にある目は鮮血の歓喜に濡れ、そして、
 元からある両眼は、わずかに涙で濡れているように見えた。
 双我はぎりっと奥歯を噛んだ。
「参ったな。これじゃリリスのことも聞けねーな。ま、黒魔法研究にゃ猫の肉体が必要になることが多いから、そんな薬を持ってるってことは、やっぱ死んでんだろーな。
 嫌な気分だよ。
 スゲェ嫌な気分がする。昔馴染みの仲間がお前みたいな馬鹿どもに殺されたことも、そして、
 お前みたいな馬鹿が、どこかの誰かに騙されて破滅したこともな」
 すれ違いざまに、双我は三撃した。
 背後で、赤宮がくずれ落ちる気配。アキレス腱を切ってやったが、すぐに立ち上がったらしい。
 首の裏に奴の呼吸が当たっている。
 さらに振り向く。
 七撃。
 両手両足、それから首まで切断してやった。首は三撃も打ち込まねば落とせなかった。ドサリ、と床にバラバラになった赤宮たちが転がる。
 そして双我は、血管がひとりでに動くのを初めて見た。
 しゅるしゅると体内繊維が絡みつき合い、復元していくのを、双我は虚ろな目で眺めていた。
「本当に死なねぇんだな」
 笑えてきた。
「プライド傷つくぜ。これでも『皆殺し』のパートナーだったんだけどな。まァいい。安心しろ。
 殺してやるよ。キチンとな」
 ゴロリ、と転がった赤宮の生首が、悲しげに双我を見上げている。
 その視線に、双我はうなずいてやった。
「やり方は残ってる」
 言って、結合しようともがいている赤宮のボディの上に拳をかざした。
 そのまま、
 ぶちっ
 握り締めた。爪が掌に食い込み、鮮血が流れ出した。それがポタ、ポタ、と赤宮の肉片に滴る。

 きぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃぃっ………………

 展望台下にいるであろう、レギュレスの警備隊は度肝を抜かれたことだろう。
 死刑囚の断末魔でさえここまで恐ろしい声はそうそう出まい。
(精製されていない猫の血は、お前ら鼠には決して馴染まない……)
 双我の血を受けた赤宮のボディが、硫酸を浴びせられたように煙を上げて融解し始めた。逃げ惑う肉片たちに双我は的確に自分の血を浴びせていった。バーナーで焼かれたように肉片が焦げて溶けてなくなっていく。
 最後に残った、赤宮の『第三の眼』を、双我は靴の底で踏み潰した。
 ぱちゅりっ
 それで終わりだった。
「…………」
 双我は勝った。
 もう展望台には、ほかに誰もいない。
 ただ、嫌な気分だけが残っていた。
「……! ……っ!」
(来たか)
 警備隊が扉の外に集結している気配がする。人数を集めて、この展望台の出入り口を固めて、間も無く突入するつもりだろう。双我は剣身を払って穢れた血を落とした。
 相手をする義理はない。
 展望台の扉が開き、警備隊全員が突入するのと、双我が剣身を床に突き立てて爆炎魔法をブッ放したのがほぼ同時。
 爆炎と砂塵にまぎれて、双我は再び逃げ果せた。

「お兄様」
「…………」
「お兄様?」

 神沼塵は全てを与えられて産まれてきた。
 家柄、容姿、頭脳、体格、剣技、魔法。どれを取っても塵に勝てる者など、そうはいないだろう。せいぜい足りないのは経験ぐらいだが、それももはや不要、父親の跡目さえ継げば、白兵戦闘などは手持ちの駒がやる。塵はせいぜい、自分を守るくらいでいい。戦争で死ぬのは現場の人間だけで充分だ。死ぬのは王の職務ではない。
 塵は、全てを持っている。
 優秀な血統の予備、妹の水葉も、塵ほどではないにせよ優秀だ。神沼の血は今後もこの魔法都市国家の隅々まで、その勢力を伸ばし広げ続けるだろう。
 それなのに。
 塵は満たされない。
 眠っても眠っても、爽やかな朝を迎えられない。
 まだ足りない。
 まだ力が。
 もっとパワーが、要る。
 なぜならこの世界には、塵の思い通りにならないモノがいる。王よ神よと尊ばれてきた自分が、恣意に出来ないモノたちがいる。
 猫。
 先天性の天才魔導師衆。一騎当千、その言葉に偽りはなく、彼ら一人を飼うためなら、一般の魔導師など脇に捨て置く。それが当然、自然な帰結。そして、それが通ってしまう。なぜならば、彼らは本物だから。
 塵はよく子供の頃、乳母に、「僕はいつか猫よりも凄い魔導師になる」と言ってみせていた。そのたびに、乳母は、それまで塵を「坊ちゃんほどの天才は、私、この目で見たことがありません」と言って誉めそやしていた女は、決まって顔を逸らした。曖昧な笑みと共に。
「坊ちゃま、それは、ええ、そうなると、ようございます」
 それは塵の望んでいた答え方ではなかった。子供騙しのおべんちゃらになど用はなく、塵はそういって塵に嘘をついた乳母を片っ端から解雇した。路頭に迷わせ、まだその実態も分からぬうちから彼女たちを娼館へとぶち込むよう手配した。塵は嘘を望んでいなかった。本当に、心の底から、自分を賞賛し、信じ抜き、神と崇める。そういう手駒以外は欲しくなかった。
 猫?
 塵は猫を見たことがなかった。貴族の男は、普通は自分の息子を猫の前になど出さない。どんな場面、どんな式典でもだ。猛獣の前に赤子を差し出す馬鹿がどこにいる? 猫になど、弱みを見せたら、それまで――奴らは嬉々として、いつでも殺せる、という余裕と嗜虐の笑みを浮かべる。
 それが塵には気に喰わなかった。
 出会えば勝つ。そう信じた。十歳の頃、貴族同士の少年剣闘会で優勝した。十三歳の頃、魔法大学主催の魔法理論コンテストで客員教授をごぼう抜きにして最優秀理論提唱者に選ばれた。塵は誰もが羨むトロフィーを箒で枯葉を集めるようにかき集めた。そのどれもが、塵を正しいと賞賛していた。殺せないわけがない。勝てないわけがない。
 俺は強い。
 俺は正しい。
 誰にも負けるわけがない――
 だから、それをより強く証明するために、塵は己の手を差し出したのだ。
 黒魔法の誘う手に。

「……水葉」
 塵は我に返った。あまりにも、朝の食堂に似つかわしくない光景を見たせいで、意識が少し逃避していた。
 燦々と降り注ぐ陽光を浴びながら、水葉が双我にヘッドロックをかましていた。
「…………」
「…………」
「……何をしている?」
「助けてくれおにーたま」
 双我が息も絶え絶えに助けを求めてくる。
「この妹はちょっとおかしい」
「なっ、何を馬鹿なことっ!」
 べきぃっ
「ああああああああ」
「違うんです、お兄様! これは、この不届き者が、私のコーヒーを勝手に飲んでっ、それでっ、こ、こともあろうに、か、か、『間接キスだね』などと! だからっ!」
「わるがっだ、でっがいずるがら、かんせつぎめるのやめで」
「お黙りなさい!」
 ぐしゃあっ
「ああああああああああああ」
「お兄様! 信じてくださいっ、わ、私はこのようなものと間接キスなどしたくてしたわけでは……」
「水葉」
 塵はゆっくりと、優雅な足取りで、テーブルの橋のそばを渡り切り、妹へと近寄った。その肩に手を乗せた。水葉の頬がぽっと赤く染まり、
「お、お兄様?」
「大丈夫か?」
「い、いえ、べつにそんな、大丈夫ですけれど……こんな、間接キスぐらい……」
「違う」
 塵は静かに言った。
「お前の頭が大丈夫か、と聞いている」
 水葉は、双我へのヘッドロックを解いた。どさり、と双我が倒れ込む。
「……お兄様、あの」
「下賎な者と長くいすぎたな、水葉。毒されている。お前は淑女だ。たとえ家族の前であろうと、自分の城の中にいようと、保つべき態度、維持すべき秩序がある。……わかっているな? 前にも言ったな?」
「……はい、申し訳ありませんでした」
「……お、俺に、謝ってくんない、かなっ、ゲホ」
 水葉は「キッ!」と双我を一瞬見たが、また兄の視線が鋭く冷たくなっていることに気づいて、子供のように萎縮してしまった。
「少し、悪ふざけが過ぎたようです。双我さんの方にも、私から言っておきます……」
「その必要はない」
 言って、塵は倒れ込んでいる双我の脇腹を思い切り蹴り上げた。
「がっ……!!」
「次に妹に触れてみろ。今度こそ去勢してやるぞ、弱者」
「お、お兄様!!」
「……なんだ? 水葉。何か俺に文句があるのか」
「……、いえ……ありま、せん。お兄様は、正しいですから……」
「いつもか?」
「いつも、です」
「なら、お前はよく分かっている。賢い子だ」
 水葉の、吸い込まれるように艶やかに輝く黒髪を軽く指で触れてやってから、塵は食堂を出た。食事をする気分ではなかったし、後片付けは、使用人が全てやってくれるだろう。

       

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Neetsha