Neetel Inside ニートノベル
表紙

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 赤宮猛が死んだ。
 そのことについて、塵は何も思わない。専属のドライバーにリムジンを運転させ、その車中で、塵は通り過ぎていく街の光景――人っ子一人いない――を横目に、昨夜の『騒動』の資料に目を通していた。運転手に指先だけで指示を出し、室内温度を下げさせる。
 赤宮の死体は、展望台で発見された。なぜそこにいたのかは不明。最後に赤宮と会ったのは、塵本人。特に変わった様子はなく、いつも通りに別れ、そして赤宮は展望台で死んだ。血液以外の遺体は、小さな肉片しか残っていなかった。室内は、最後に殺戮者が床を爆砕したために荒れていたが、それ以外にも壁やドームガラスに欠損などがあり、赤宮と殺戮者の間で戦闘行為があったのは探偵いらずで明らかだ。
 レギュレスの都は、当然といえば当然だが、生徒の怪死によって、学校封鎖を行った。授業は全て休講。学院への一般生徒の立入は禁止。しかし、これには反論も父兄から出たようで、『誰が死のうと授業だけは受けさせろ』という意見も多々あった。が、殺戮者の行方が知れずに危険であること、死亡したのが帯剣していた高潔種の赤宮家嫡男であることなどから、やはり授業実施は不可能と判断された。実は、塵が父親を通して、学院側にその方針を通した。
 殺戮者に関して、個人的に調べる時間と猶予が欲しかったからだ。まァ、神沼家の嫡男ともなれば、授業など全て出なくてもテストで満点は取れるし、仮にしくじっても、卒業などは容易くさせてくれるのだが。
 学院に着いた。
 燃え尽きた火山のように、静かだ。塵は手を振ってリムジンを帰し、帯剣している魔法剣の柄を握り直しながら、展望台へ向かった。そこではまだ、煙の名残がたなびいていた。
「おい」
 塵は、そばにいた教員に声をかけた。教員は吸っていた煙草を慌てて靴裏でもみ消して、「これはこれは、神沼のお坊ちゃん」と恭しく、そして卑しい笑いを浮かべた。その胸元で、スーツの上に羽織ったローブを留める箒のブローチが、昆虫の背中のように輝いている。
「どうされました。危険ですよ、まだここは」
「殺戮者がまだこんなところに残っているものか」
「ですが、犯人は現場に戻ってくる、といいますし」
「それはない。展望台に、殺戮者を特定できるようなモノはなかったんだろう?」
「ええ。ついでに、赤宮くんの魔法剣も、無くなっていました。もっともこれは、瓦礫の下にまだ埋もれているのかもしれませんが」
「どうだかな……」
 塵はしばらく、教員から根掘り葉掘りと昨夜の状況を聞きだしてから、崩れた展望台ギリギリまで近寄った。
 瓦礫の撤去作業は、現在、休憩中らしい。誰もいない。
「…………」
 おそらく、というか確実に、赤宮は『追跡者』に殺されたのだ。どうやって赤宮を深夜の展望台に呼び出したのかは知らないが、どうせくだらん手を打ったのだろう、と塵は推測している。赤宮は小心者のくせに考えなしで行動するところが多かった。血筋が透き通っていなければ、とても塵のそばには置いてはおけないような悪臭漂う精神だった。つまり雑魚だ。
 赤宮は、塵が渡した『薬』を飲んだのだろう。
 渡しておいてよかった。赤宮が捕まり、尋問でもされようものなら、塵は終わりだ。赤宮は死んだが、ちゃんと正しく死んでくれた。それだけでも認めてやろうと塵は思う。
 外殻だけをわずかに残した、展望台を見上げる。
 展望台には『戦闘の痕跡』があったという。追跡者は猫のはずだ。
 暴走した赤宮の戦闘力がどれほどのモノか、薬を渡した塵は把握している。戦闘の痕跡が残るほどの時間をかけて、『アレ』を殺して逃げ果せたのだとしたら――大したことはない。
 塵なら殺せるレベルの戦士。
 じわり、とその顔に笑みが広がる。
 いよいよ殺す時が来たのだ。
 忌まわしき、猫を――堂々と真正面から。
「……か、神沼、せんぱい?」
 塵はゆっくりと、声がしたほうに顔を向けた。そこには私服姿の女子生徒が立っていた。亜麻色の髪、くりくりとした幼い目つき、高校一年生にしては豊かな胸――確か、水葉が屋敷に何度か呼んでいたな、と塵は思った。そう、確か名前は、
「……新田蜜柑?」
「あ、はい。そうです……あの、ここで何をしているんですか?」
「それは俺のセリフだ。お前こそ何をしている? ここは立入禁止のはずだ」
 蜜柑は怯えている。
「え、それは、あの……でも、神沼先輩だって」
「俺は高潔種だ」
「あ、……そうです、よね。すみません」
「質問に答えろ。白痴か、貴様?」
「えと、あの、その」
 へどもどして、ハッキリしない蜜柑に、塵はじんわりと滲むような殺意を覚えた。そして考える。
 追跡者は新入生のはずだ。
 この一連の騒動は、入学式を境に始まっている。
 塵は、じっ……と蜜柑を冷たく見る。
(殺しておくか)
(手を出してみれば、案外あっさり、化け猫が尻尾を出すかもしれない)
(猫だろうとなんだろうと、俺の魔法で……)
 腰に帯びた魔法剣の柄に、手を伸ばし――
「何やってんの?」
 森間の暗がりから、双我臨路が現れた。
 訝しそうにしている。
「こりゃまた妙な組み合わせだな。蜜柑に、おにーたまか」
「双我……」塵は音もなく柄から手を離した。
「お前、よく動けるな。きついのをお見舞いしてやったはずなんだが」
「ふん、男の子をなめるんじゃないよ」
「そ、双我くん!?」蜜柑はワタワタしている。
「な、なんでここに!?」
「なんでって……気になるだろ? 昨夜、ここで赤宮先輩が殺されたんだぜ。それも断片程度しか死体が残らなかったって言うじゃねーか。『殺戮者』は猫かもしれないって噂もあるし……娯楽の少ない学徒人生、蜜柑だって何があったのか気になって仕方ないから来たんだろ? 俺ら以外にも、そのへんに結構いるぜ」
 双我は腕を振って、木陰や建物の裏などを示した。コソコソと何かが動く気配がする。
 双我はケラケラ笑った。
「みんな、ちょっと怒られるぐらいじゃ言うこと聞かねーんだな」
「お前らは、ちょっと怒られる程度じゃ済まないがな」
 塵は言った。
「この件は、レギュレスの運営委員会に報告させてもらう。お前たち二人はよくて停学、悪くて退学、さらに悪くて……」
「ちょっと待てよ」双我がパーを突き出した。
「そういうアンタだって規則違反だろ?」
「俺は高潔種だ」
「……ソーデスカ。何かっていうとすぐそれだもんな。やんなっちゃう」
 やれやれ、と首を振る双我。
 その姿は、とても塵に二度も打ちのめされた男には見えない。
 というより、むしろ……
「……お前か?」
 双我はキョトンとしている。
「え? 何が?」
「お前が『殺戮者』か?」
 双我は何も言わない。
 ただ、笑っている。
 塵は、首を振った。
「……お前のわけがないな。手合わせした時にハッキリ分かっている。お前は猫じゃない」
「――いや、俺だよ」
 展望台の跡地に、静かな風が吹いた。
 蜜柑が、息を呑む気配がして。
 塵は言った。
「……なんだと?」
 双我はニヤニヤ笑っている。
「赤宮を殺したのは俺だ。俺が殺戮者、狩人の猫だよ」
 流石の塵も思考が停止した。
(双我が、猫……?)
(それなら、なんでそれを打ち明ける?)
(何か考えがあるのか? それとも……)
 塵が口を開き、何でもいいから言おうとした瞬間、蜜柑が双我にいきなり、
「どりゃあああああああああああ!!!!」
 腰の入った素晴らしいタックルをぶちかました。
「あう!」
 倒れ込む双我。そんな双我に馬乗りになって、蜜柑は胸倉を掴み、双我に叫んだ。
「双我くん!! 何言ってんの!?」
「いたいんですけど」
「自分が猫だなんて……そんな冗談、不謹慎だよ!! 神沼先輩は、友達を亡くしてるんだよ!?」
 友達、と聞いて、むしろ塵の方がすぐに理解できなかった。
(ああ、赤宮のことか)
 どうやら蜜柑は、双我の発言を冗談と受け取り(彼女の立場からしたら、それ以外にないとは思うが)、双我を張り倒しているところらしい。
「双我くん、見損なったよ!! 神沼先輩、怖いところもあるけど、きっと、赤宮先輩の死を悼んで、ここに来たんだよ!! そうですよね、先輩!?」
「え? ああ、そうだ」
「ほら!! 双我くん謝って!! 謝ってぇーっ!!」
 がっくんがっくん双我の首を揺さぶりまくる蜜柑。もう双我は半分以上酔っているらしく顔面蒼白になって「たすけてください」と許しを乞うている。ふむ、と塵は思う。
 何か妙だ。
(……新田は、話題を逸らそうとしているのか?)
(この二人は、グルなのか?)
(いや、まさか)
(猫がチームを組むなんて、とても稀だと聞く……追跡者は、単騎のはずだ)
(俺の考えすぎか……)
 双我を揺さぶり過ぎて、逆にバレ、ぜいぜい息を切らしながら蜜柑が芝生にドサリと座り込んだ。
「双我くん……神沼先輩……に……」
 そのまま、くたっ、と倒れこみ、動かなくなる蜜柑。双我は口元のヨダレを拭いながら、そんな蜜柑を驚愕の真実を見るような目で見た。
「こ、この状況で寝やがった……ナニモノなんだ、この女は……」
「同感だな」塵は頷いた。
「まったく、くだらん。お前らの品位を俺は疑う」
 双我はぺっと唾を吐いて、立ち上がった。まだ足にちょっとキている。
「ふっふっふ。ま、許してくれよ、おにーたま。俺ァ冗談を言ってねえと死ぬんだ」
「下等な生き物だな」
「かもな」
 二人の間に、冷たい電気が流れた。
「双我」
「なんだ」
「俺は、お前を躾けることにした」
「……ナンデスッテ?」
「躾けだ。お前の俺への不敬は極めて甚だしい。あれだけ痛めつけてやって、まだ懲りないとは、お前も正真正銘の馬鹿だな」
「よく言われる」
「結構、それでなお、反省の色がないということは、粛清決定だ。今夜十二時、『封鎖書庫』にて待つ」
 封鎖書庫。そこには、レギュレス創成期に初代学院長が教師として集結させた魔導師たちの研究成果が、保存されているという。禁書区画とは違って閲覧絶対不可能の聖域だった。
「俺のパスじゃ開かねーよ、そんなとこ」
「開けておく、俺は高潔種だ。それぐらい悟れ」
「いちいち言い方ムカツクな……で、何するわけ?」
「躾けだ」
「それじゃわかんねーよ」
「怖いのか?」
 ぐっ、と双我が言葉に詰まった。
「……怖い? 俺が? ま、まさか」
「安心していいぞ。仲間を集めてお前を袋叩きになどしない」
「べっ、べつに俺はそーしてもらってもいいけど?」
 腕を組み顎を突き出す双我。その足がわずかに震えているのは、まだ蜜柑からダメージが残っているのか、それとも……。
「お前ごときに応援を呼ぶ俺だと思うか? 心配するな、モノは試しと思ってくればいい。ただの稽古だよ」
「……本当か?」
「ああ、本当さ。……じゃあな。ここにはもう、用は無くなった」
 塵は背中を見せて、双我からの射抜くような視線を後にしながら、展望台跡地を後にした。坂をゆっくりと歩いて降りながら、考える。
 どっちでもいい、と。
 仮に、双我の猫カミングアウトが真実であろうとなかろうと、関係ない。偽なら偽、くだらぬ冗談ならそれでいい。問題は真実だった場合。双我はどこかの猫ギルドから送られてきた刺客ということになる。赤宮を殺した以上、『追跡者』は次に神沼塵を『本命』として殺そうとするだろう。つまり、今夜の『密会』は、双我が追跡者ならば、塵を殺す絶好の機会。
 同時に、それは塵が追跡者を排除できるチャンスでもある。
 赤宮殺しの手際の悪さ、そして先の『決闘』で見た双我の戦闘力、その二つを組み合わせた結果、塵は、双我が本物の猫だった場合、今夜なにが起こるか予測した。
 塵の勝利で終わるだろう。
 こちらには、黒魔法がある。対する双我は、手ぶら。おそらく赤宮の魔法剣はどこかに隠し持っているのだろうが、カートリッジの補充など出来るはずもないし、それに本当に赤宮とやったなら心身ともにダメージが蓄積しているはず。仮にあの決闘で見せたレベルの低さが騙りだったとしても、充分に、塵に勝算はある。いや、充分すぎるくらいだ。
 塵は双我を罠にかけたのだ。
(白でも黒でも、どっちにしろ殺してやる)
(俺に刃向かった朝霧のように、そして、あの雌猫のように……)
 権力者の家系に生まれて、一番よかったと思うこと。
 それは、殺しをやっても、死体の始末に困らないことだ。

 神沼水葉にとって、兄、という存在は特別だった。子供の頃、水葉は塵の背中にくっついたきりで、なかなか離れようとしなかった。母はいなかったし、父は多忙だった。屋敷で暮らすメイドたちは家族のようで家族ではなかったし、引っ込み思案の水葉には、兄しか頼れるものがなかった。
 兄はいつも、輝いているように見えた。人形のように整った顔で、宝石のような目を細めて、いつも遠くを眺めていた。水葉は、そんな兄の横顔を見るのが好きだった。
 月日は経って……
 兄は強くなった。体つきも大人になって、声も変わって、今では立派な魔法戦士の卵だ。兄を否定できる人間はどこにもいない。だって兄はいつも正しく、颯爽としていて、人が羨むような結果をいくつも挙げてきたのだから。憧れこそされ、哀れまれることなどあるわけがない。
 そう思っていた。
 双我臨路が、この屋敷に来るまでは。
 最初に双我と会った時、水葉は彼に嫌悪感を抱いたことを認めないわけにはいかない。パッと見た時、入学初日にも関わらず赤と黒の制服は着崩れていたし、髪はボサボサ、顔は筋弛緩剤でも打ったのかと思うほどいつもヘラヘラしていて、口を開けば軽口ばかり。突き飛ばしてやろうかと思ったことなど、この二ヶ月で数え切れないくらいあった。こともあろうに、双我はそんな態度を水葉だけにではなく、塵にまで取った。決闘まがいのことまでし始めた。
 今までも、塵に刃向かった人間は、いなかったわけではない。それでも最後には、誰もが兄に屈服し、その強さ、その偉大さを認めないわけにはいかなかった。
 双我だけが、違った。
 塵に負け、打ちひしがれ、周囲からは冷笑と罵倒を浴びせかけられ、水葉だったら泣いてしまいそうな立場に落ちても、双我は変わらなかった。制服を着崩し、髪に櫛は入れず、ヘラヘラしてニヤニヤして、そして憎まれ口を叩くのをやめない。
 あんなに酷い負け方をしても、双我は変わらなかった。
 誰になんと言われようとも、双我は変わらなかった。
 どんなに悲しい言葉をぶつけられても、双我は黙って頷いて、にわか雨にでも打たれた程度の、少しだけ寂しそうな顔をする。
 それだけ。
 ――こんな男の人がいるなんて。
 水葉はいつも、双我を奇妙な人だと思う。
 双我を見ていると、今まで自分が無条件に信じてきたものが、足元から崩れていくような気がする。それは、不快で、不安で、それでいてどこかワクワクする――変な気持ちだ。
 だから、もし、何か頼みごとでも彼にされたら、水葉はきっと、断れないだろう。
「…………」
 いま。
 双我は、自分の部屋の窓際で、テーブルに座った水葉などいないかのように、ぼうっと外を頬杖を突いて眺めている。とてもわずか五分前に、信じられないような『お願い』を相手にした男には見えない。もしかすると、男という生き物は、みんなこういうモノなのかもしれない、などと水葉はちょっと知りもしないことに思いを馳せてみる。紅茶を一飲み。
「先ほどの件ですが……双我さん、やはり、それは、私にはお受けできません」
 双我はこっちも見ずに、そうか、と言ったきりだった。『レギュレス』の展望台跡地を見に行くといって、出かけて戻ってきてから、双我の様子はどうもおかしい。どんな時も、たとえ塵に足蹴にされても揺るがなかったお調子者の態度が、姿を潜めていて、窓から吹き込む緩い風を頬に受けるその姿は、別人のようにも見えた。
 何かあったのだろうか。
 嫌な気分にでもなっているのだろうか。
 もし、双我が『嫌だ』と思うことがあるとすれば、それはどんなことなのだろう。
 水葉はそれが、とても気になった。
「あの、双我さん。いったいなぜ……?」
「ん、いやべつに、気にしなくていい。もしオーケーなら、と思って頼んだだけだ。無理なら無理で、それでいい」
「そう、ですか」
 口調は柔らかいのに、どこか、とりつくシマがない。なんとなく拒絶されている気分を覚える。
「理由を言ったら、考える、と私が言ったらどうです?」
「理由を言わない。そこまでじゃない」
「……私にも言えない、事情がある、と?」
「男ってのはそういうもんだ。淑女なら覚悟しとけ。世の中に、なんでも思い通りにしてくれる王子様なんていやしねぇ。みんな狼少年だ」
「そんなこと……塵お兄様のような殿方だって、きっと世界にはいるはずです」
「ああ、一杯いるだろうな」
 双我は矛盾している。水葉は馬鹿ではない。そのあっさりとした同意の裏にある皮肉に、言い返そうとして、双我がそれを遮った。
「なあ、お嬢」
「なんです?」
「お前、兄貴のこと好きか?」
 言葉に詰まった。
「……いきなり何を言うんですか? 今日のあなたは、いえ、いつもですが、メチャクチャです。私をからかってるんですか?」
「そんなことない。……兄貴のこと、好きか」
 水葉は、おそるおそる、ゆっくりとそれを言葉にした。
「……好きです、もちろん。当然でしょう。私は妹なのですから」
「妹だからって、兄貴が好きとは限らない。……俺にも妹がいてな」
 それを聞いて、なぜか水葉は、胸が締め付けられるような気がした。
 双我が、自分の身の上話をするなんて、初めてだった。
「……妹さんが? 家族がいらっしゃっるんですか?」
「もう死んだ」
 窓枠の木目の上を、小さな羽虫がうろつき回っていた。その無心の軌道を気の抜けた視線で追いかけながら、双我は続ける。
「子供の頃だったから、ほとんど覚えてない。正直言ってな、ビックリするだろ、名前も覚えてねえんだ。実の妹なのにな」
「……すみません、辛いことを、思い出させて」
「謝るなよ。俺が勝手に喋ってるんだ。なあ、聞いておいてもらってこう言っちゃなんだが、ただ謝ってこの話を誤魔化そうって方が、俺に失礼だし、不愉快だ」
 水葉は何も言えなくなった。
 頬を打たれたような気持ちがした。
 身体がぎゅっと引き締まり、目に涙が浮かぶ。
 兄に注意はされたことは、数え切れないほどあるけれど、
 誰かに怒られたことは、水葉には今まで一度も無かった。
「ごめん、なさい……」
「いや、いいんだ。……キツく当たってゴメンな。俺はただ、お前は、俺の話を聞いてくれるだけでいいって言いたかったんだ。そういう時が、俺にはあるんだ」
 双我は、コツコツと窓枠を指で叩いた。
「……俺は孤児でね。つっても、兄妹揃っての孤児ってのは珍しいのか、それとも本来の意味に反するのかな。とにかく、兄妹二人で、スラム街みたいなとこに住んでてね。五歳ぐらいの頃にはもう刃物を懐に隠し持ってたな。デカすぎてさ、誰が使い込んだんだか知らねぇがグリップは油まみれで滑って使いにくいし、俺向きのナイフはないもんかとよくゴミ箱を妹と漁ってた。五歳向きのナイフなんてどこにも無いってデカくなってから気づいたよ」
「…………」
「俺は人間として間違ってるのかもしれねぇが、それでも妹を守ろうっていう気持ちはクズなりにあったんだろうな。弱そうな奴を見かけたらナイフ持って突っ込んでって、有り金と食い物と着る物を奪って妹に分けた。ガキでもガキなりにやり方はあってね。大人が入り込めないような路地に潜んで襲ったり、怪我人ぶって油断を誘ったり、贋金の詰まったバッグのファスナーをほんのちょっとだけ開けて道端に置いて罠を仕掛けたり。色々やったよ」
「…………それは、苛烈、ですね」
「苛烈だな。でも、当然って気もするな。生きていくってのは、本来、これくらい苛烈なことなんだよ。できねぇ奴は死んでった。俺の昔の仲間で、生きてる奴はほとんどいねぇな。妹も含めて……」
 双我の爪が、かり、と窓枠をかく。
「俺は妹をあの地獄から守り切れなかった。俺は、兄貴として不具だった。戦士としてどうだったかは知らない。それでも俺は妹を死なせ、自分だけ生き延びた。最低の兄貴だ。だから、きっと妹はあの世で俺を恨んでいると思う。それでいいとも思う。もう昔の話だけど……とにかく、俺が言いたいのは、兄貴の方からしたら、本当にそうしたいなら恨んでくれてもいいってことだ。少なくとも、俺はそう思って、これまで生きてきた。これからも、それを動かすことはない」
 双我は、ふう、と息をついた。自分の心の底にあることを誰かに打ち明けるというのは、凄く疲れることなのだ。
「お嬢、もう一度だけ聞く。兄貴のこと、好きか」
 水葉は、答えられなかった。
 それからしばらくして、双我は出て行った。
 そしてもう二度と、水葉の元へ帰ってくることは、無かった。

『レギュレスの都』の創始者は、非常に人望のある魔導師だったと言う。彼は後の未来のために、魔法学校を設立することにした。200年ほど前まで魔法学校というものは、あってもギルドの変種であったり、ただの秘密結社の隠れ蓑だったり、真にお互いを切磋琢磨し学究の徒たらんとする者たちの理想郷ではありえなかった。
 レギュレスの都の創始者は、『本物』が欲しかった。
 そこで彼は友人である猫と共に、魔導の最奥を目指す若者たちに声をかけ、次第に人数が集まっていった。レギュレスというのは、創始者を援助した猫の名だという。詳細は不明で、本当に存在したかも眉唾な話ではあったが、なんとなく語り草になっている。
 いずれにせよ、その設立には多大な努力と膨大な説得が必要だっただろう。なにせ魔走回路がカートリッジに組み込まれるまで、魔導師たちの研究成果は全て手書きの書物で残されていた。活版印刷のプリントアウトでは展開する魔法の精度が著しく低下してしまったからだ。だから魔導師たちは、腕の骨が削れて無くなるまで、白い紙に己の人生と奇跡を刻み込んだ。
 学校には教科書が必要だ。彼はそれを集めた。
 預けられた魔導書を保管してあるのが、レギュレスの都の図書館最下層、禁書区画のさらに地下にある『封鎖書庫』だ。そこには今でも、いにしえの魔導師たちが書き残した魔導書がズラリと並んでいる。入室許可は高潔種(グリーン・ブラッド)の中でも、名家中の名家に限られている。
 そこにある魔導書には、危険な物が多く、黒魔法に関する書物もあるという。が、魔導書はほとんどが古代文字や創作文字によって記されていて、いくら高潔種とはいっても、ただの学生に読めるようなものではない。神沼塵でも、古代文字で記されているものならともかく、子を残さなかった魔導師が一代限りで残した創作文字などはお手上げだ。
 塵は、その封鎖書庫にいた。
 決して本を傷めない特殊な魔法をかけられた松明が、壁にかかり、仄かな灯りになっている。古い時間の匂いがする。塵は、一脚だけポツンと置いてある読書用の椅子に腰かけて、足を組み、魔法剣を膝に置いて瞑目していた。
 敵が来た。
 空耳かと思うほど小さな足音が、大きくなり、やがて螺旋階段へと続く石造の通路から、赤と黒を基調にした制服をだらしなく着込んだ、双我が現れた。あくびしている。
 塵はそれを見るだけで不愉快だった。
(……なんなんだ、この男は?)
(俺の前に立っているということを、分かっているのか?)
 塵は純粋な忠告心から、どうせ殺す相手の態度を改めさせようと口を開きかけたが、やめた。
 双我が、魔法剣を携えていることに気づいたからだ。
 赤宮の魔法剣だった。
「……そうか。やはり、お前が猫か」
 双我は剣の柄をトントンと指で叩いてみせた。微笑んでいる。
「正解。お前んとこの親父は、自ら進んで自分の子を殺す虎を呼び込んじまったわけだ。お人好しにも程があるな」
「同感だ。父は愚物だ。お前のようなものを、体裁だけで家へ招いた。そのせいで、俺が後始末をする羽目になった」
「遅かれ早かれ、誰かがお前の元へは来たさ。わかってんだろ。なあ、どんな気持ちだ?」
 双我は手持ちの魔法剣の柄を振ってガシャガシャと鳴らした。
「友達を死なせた気分は」
 塵は双我が何を言っているのか、分からなかった。
「お前が殺したんだ。俺じゃない」
「黒魔法薬をただの強化剤と偽って渡してか?」
「……赤宮がそう言ったのか?」
「お前がそうでも言わなきゃ誰があんなものを飲んだりするんだ。俺はトドメを刺したが、殺ったのはお前だ。責任逃れはやめろというなら、共犯ってことにしとこうぜ」
「共犯か」塵は少し愉快になった。
「面白いことを言う男だ。俺とお前が共犯か」
「ああ、似たようなもんだな。そして、同盟関係はいつも仲違いで終わるんだ」
 双我は一歩、踏み出した。
「来いよ、人非人(グリーン・ブラッド)。根性見せろ」

 愚かな男だ、と塵は双我を見て思う。まだ『勝負』なんてことがこれから起こると思っている。そんなことはありえない。なぜなら塵は黒魔導士であり、もはや『最強の存在』へとシフトした。たかが魔法剣を振り回す猫ごときと、勝負など、片腹が痛くなる。
 塵は立ち上がった。魔法剣を、鞘から引き抜き、灯火にかざす。
 その剣には、刀身が無かった。
 双我が疑問を顔に浮かべているのが見える。もう遅い。塵は魔法を使った。
「来い、そして従え、無心のままに、骸のように」
 塵の詠唱、素直な心に従って、従者が動いた。
 それは本だった。
 壁際に遥か高い天井まで積み重ねられた本棚に詰まった蔵書が、水が零れるようにバサバサと落下し始めた。死体の山のように本が積み重なる。そして、その下から、何か重油のように黒く重く粘ついた何かが染み出していた。飛び降り自殺者の身体から溢れる血液のように、それはゆっくりと広がっていった。双我の目がその一部に目を留める。
 それは文字の欠片に見えた。どろどろに溶けては、いたが。
「偉大なる老賢者たちの遺産だよ」と塵が言った。
「判読困難な魔法文字で書かれた魔導書など、記念品以上の価値は無いと思っていたが……やり方はいくらでもあるものだな。黒魔法を使ってその『内容』だけを引きずり出した」
 白紙になった本がガラガラと崩れ落ちていく中、そこから溢れ出した文字だったもの、汚泥のような重油にしか見えないそれが、波濤のように激烈な勢いで塵の魔法剣の柄に流れ込んだ。塵はぞくぞくするような気分でそれを見ていた。やがて、柄は埋まり、鞭のような柔軟性を帯びた重油が、だらりとやる気を無くした蛇のように首を垂れた。
「お待たせしてしまったかな? 紹介しよう、これが我が愛剣、黒魔法の叡智によって建造された『簒奪剣リレイシス』。この剣は、吸収した魔導書に秘められた魔力と魔法の二つを我が物と……」
「よせ」
 双我は、塵を遮り、その場にしゃがみ込んだ。そこには中身を奪われ白紙になった本の死骸が散らばっている。題名さえ奪われた、それらの一つを手にとって、汚れを手の甲で払うと、それを空っぽになった本棚の一隅に納め直した。
 塵には理解できない行動だった。
「……何をしている? 貴様。俺の話を聞け」
「返してやれ」双我は、轢き殺された子犬を見るような目をしていた。
「それは、お前の物じゃない」
「……愚かだな。そんな善悪論で、俺がこのアドバンテージを手放すとでも? いいか、俺にはもう魔力切れという現象が無……」
「かつての魔導師たちは、お前なんかのために生涯を奇跡に賭けたんじゃない。勘違いもいい加減にしろ」
「このレギュレスは魔法戦士の育成のために作られた」塵は両手を広げた。その動きで、魔法剣の柄から、新しい汚泥が吐き出され、絨毯を汚した。
「俺だって魔法戦士の卵だ。その俺が、己が未来のために、これを使って何が悪い? それが嫌なら、最初からレギュレスへ己の叡智を寄贈などしなければよかったではないか?」
「お前には、それが美しく見えるのか?」
 双我に言われて、塵は手中の剣を見た。ごぽっ、ごぽっ、と絶え間なく、魔力と共に重油を吐き出す、剣の柄。塵はそれを一振りしてみた。すると重油が硬質化し、無数の槍となり、白紙の蔵書の山を串刺しにして、それをいよいよ本物の紙屑にしてみせた。
 舞い散る白紙を見上げて、塵はうっとりした。
「美しい。お前は馬鹿だな、双我。この魅力が分からないなんて。それに俺の質問に答えてすらいない。典型的猫――非合理的な考え方をする、愚物」
「愚物でいいさ」
 双我が走った。
 駿足、一瞬間で距離を消し去り、完全なタイミングで抜剣し、斬りかかってきた。狙いはおそらく塵の首筋、頚動脈。塵はそれを避けさえしなかった。簒奪剣から伸びた汚泥の先端が、八本指の手になって、双我の剣を受け止めた。二人の視線が至近距離で交錯する。
「……決闘の時と同じだな。闇雲な突撃。無謀を勇気と置き換える都合のいい神経。貴様ら猫にはウンザリだ」
「その割りに、腕が震えてるぜ」
「そうか?」
 言って、塵の泥腕が、双我の魔法剣をいとも容易くへし折った。
「!」
 双我は緊急回避のバックジャンプ。追いすがるいくつもの泥腕に空中で回転蹴りを見舞い、さらにそれを足場代わりにハイジャンプ。二階か三階に位置するあたりの本棚に足をかけて、息をついた。そして、折れた魔法剣を一瞬だけ見て、それを捨てた。
「おい、その剣の名前をマッチョ剣に変えよう」
「絶対に嫌だ」
「なんでだ」
「悟れ」
「冷てぇ奴」
 双我は笑って、別の本棚に飛び移った。そして壁際に備え付けてある松明に飛びつくと、それを抜き取り、中に内臓されている小型のカートリッジに魔力をありったけぶち込んで強制ショートさせた。一回限りの爆炎魔法を眼下に向かって撃ち放つ!
 塵に殺到する紅蓮の小鳥たち、そして、
 爆発。
「…………」
 炎と煙が晴れると、そこには汚泥のドームが残されていた。それがジュクジュクと溶け、塵の姿が露になる。
「小細工だけは限りがないな。褒めてやる」
「それももうタネ切れでね。アイディアがあったら分けてくれ」
「じゃあ死ね」
 汚泥の指先から、弾丸が放たれた。斬撃魔法の圧縮版・純粋な破壊の一撃。それが連打され、双我の周囲を掃射する。双我は壊れたシャンデリアまで飛び上がり、四天八空に逃げ惑った。ほとんど獣の動き。
 途端、塵が魔法射撃をやめた。戻ってくる静寂。双我は顔を脂塗れにしながら、棚に手をかけて、足をぶらぶらさせた。
「あれ、終わりか。もうちょっと遊びたかったんだけどな」
「ああ、遊びは終わりだ。もう飽きた……わざわざお前で、いつまでも簒奪剣の試し斬りをする意味もない」
 塵は、簒奪剣を指揮棒のように振った。すると今度は、その泥腕の先端から、ポウッと何かが湧いた。
 黒いシャボン玉だった。
 それを見た双我の顔が、火事を見つけた男のようなものになる。
「お前、それ……」
「ご存知かな?」塵は絶対優位の快感に浸った。
「黒魔法・『無限泡』……この黒いシャボンは、動きはとても遅いが、触れたもの全てを喰らい飲み込み消滅させる。そして、絶対に『斬れない』。魔法で吹き飛ばすことも出来ない。全部喰らい尽くすのだからな、この愛すべき大食漢は……」
 黒いシャボンが、ふわふわと、シャンデリアのそばにいる双我に向かって浮かび始めた。塵は一脚しかない椅子に座って、あくびをする。
「あとは勝手にしてくれ。逃げるのは得意なんだろう? せいぜい頑張ってくれ。お前の体力がいつ尽きるのか知らないが、タイムぐらいは計っておいてやる」
「それで自分は高みの見物か」
「高いところにいるのはお前だ」
「うるせぇ」
 双我はペロリと舌で唇を湿らせ、しばらく自分に向かって浮上してくる死を眺めていたが、やがて三角飛びで黒シャボンをやり過ごし、一階へと降りてきた。塵はため息をつく。
「玉砕覚悟で本体を狙うか。ま、それもいい。俺の黒魔法のストックはまだまだある。そして、魔力切れなどもはや無い……何を見ている?」
 双我は、簒奪剣を食い入るように見つめて、言った。
「随分便利なオモチャだな、それ」
 塵はピクリ、と顔の筋肉を震わせた。
「オモチャじゃない。武器だ」
「いや、オモチャだよ。……武器ってのは、手に馴染んで初めて武器になるんだ。心の中の手にな」
「講釈好きな男だな、貴様は。……いいのか? 俺はどうでもいいが、黒シャボンがもう降下して来ているぞ」
「よくねーな」双我は頭上を見上げて、薄く笑い、
「だから、俺もオモチャを使うことにするよ」
「……何?」
 双我は、塵の足元に何か放り投げた。
 紫色の数珠だった。
「リリス・アージェリアって猫がいてな。そいつの持ち物だった」
 塵の脳裏に、白髪の少女の記憶が蘇る。車椅子に乗ったその少女の、怯えた目も、金切り声も、そして最後の抵抗も。
 血を落とすのに、苦労した。
 塵は、双我を睨みつける。
「……それがどうした?」
「黒魔法には猫の肉体が媒介になっていることが多い。……ハッキリ聞く」
 双我は言った。
「その剣、リリスか?」
 塵は、微笑んだ。
「だったら、どうする?」
「べつに。確かめたかっただけだ。お前の反応で全部分かった。もういい。そう、リリスだ。その剣にされた女が、お前は知らないだろうが、スゲェ馬鹿でさ」
 友達に話しかけるように、双我は気楽そうだった。
「普通は、殺す気が無かったら、死ぬかもしれねぇ魔法を撃ったりしねぇだろ。でも、あいつは馬鹿だからヤるとなったら一点突破でよ、巻き込まれた方はたまったもんじゃねえ。見境ねえからな」
「何が言いたい?」
「俺はあいつに雷撃を喰らわされたことがある。その時、ちょっと『焼』かれた臓器があってね。駄目になっちまった。で、人工臓器にしちゃってもよかったんだが……お前ならどうする? どうせなら、もっといいのが欲しくないか?」
 双我は、ドン、と己の左胸に親指を突き立てた。その後方に、死神のように黒シャボンが、いまにも触れそうな距離にまで寄っていることに、気づいているのか、いないのか――こう言った。
「俺の心臓はカートリッジになっていてね」
 瞬撃。
 黒シャボンが、切り裂かれ真っ二つになって、吹き飛び散った。
 塵が思わず立ち上がった。
「な――!?」
 馬鹿な、と思った。自分の黒魔法が破られるわけなどない。ましてや相手は空手、武器破壊済みだったはず。なのに――
 塵の目が、双我の手元に吸い寄せられる。
「……虹?」
 双我の手の甲から、覆うように、虹色の光が煌いていた。燐光が周囲に溢れ、薄暗い封鎖書庫に大きな篝火が焚かれたようだった。
 わずかに、唸っている。
「なんだそれは……そんな魔法、俺は知らない……」
「そりゃそうだろうな。厳密に言えば、これは魔法じゃない……『純粋魔力』なんだから」
 純粋魔力。
 通常、魔法は魔力を消費して使用される。ここまではべつに魔導師でなくても知っている一般常識だ。が、魔力そのものを撃ち出す魔法があるか、という問題は、魔法学校の入学試験での定番設問にされているくらいの引っ掛け問題だった。
 答えは、『無い』だ。
 魔力は、魔法へと変換され、消滅する。魔力そのものを扱う魔法は、魔法ではない。矛盾している。
「なら、ならそれは何だ!? 双我臨路!!」
「純粋魔力をカートリッジから直接引きずり出してる、らしいぜ。……仕組みか? 俺も聞いたよ、でもコレ作ってくれた奴は猫でね。聞いても要領を得ねぇ。鼠が猫にイラつく気持ちも分からんでもねーな」
 双我が一歩、進んだ。
 塵は一歩、下がった。
(なんだあれは。こんなことがあっていいのか? 純粋魔力だと? そんなもの……そんなもの……)
 魔法は、魔力を消費する。逆に言えば、魔法に変換されない魔力は、それそのものがすでに強大な『力』を持っている。源泉とも、純粋魔力とも呼ばれるそれを、顕現できた魔導師は今までいなかった。いや、歴史を紐解けば、探せば猫に何人かはいるだろう。けれど、どうせ真似できない。
 だから、鼠の歴史には残っていないだろう。
 残しても、無駄な記憶だからだ。
 塵は、簒奪剣を構え直した。一振り、二振り、三振り、狂ったように振り回す。笛を鳴らされた猟犬のように枝分かれした泥腕が双我に殺到するが、その虹の爪牙は、いとも容易く黒魔法を切断してみせる。絨毯に真っ黒な染みが増え続けた。
「はあっ……はあっ……」
「息切れしてるが、大丈夫か? 先生呼んどく?」
「ふざけるなっ……この屑が……お前なんかに……お前ごときにこの俺が……!!」
「あんまり悪口ばっか言ってると殺しちゃうぞ」
「殺す……? は、はははは!!」塵は笑い出した。
 そうだ。
 双我に塵は殺せない。
 塵は、泥腕の一つを解き放った。
 自分の心臓へめがけて。
「!!」
 双我が手を伸ばしたが、遅かった。
「が、ふ……」
「……自殺か」
「ふ……ふふふ」
 塵の胸から、泥腕がぬるりと抜け落ちる。だが、その胸には、傷一つなかった。ただ制服が破れているだけ。
「はっはっはっは!! どうだ、これが黒魔法……絶対の再生能力と完全なる痛覚の遮断!! 純粋魔力? いや、それでも俺は殺せない……無限の魔力が俺にはある!! 俺を斬ることは出来ても、双我、お前に俺は殺せない!!」
「お前馬鹿か」双我は、どこか悲しそうに見えた。
「再生魔法なんか撃ってるってことは、身体に黒魔法が走ってるだろ。『猫の血』に関しては知ってるよな、お兄様? 赤宮もそれで殺した。……まさか、予想してなかったのか?」
 塵の笑い声が止んだ。
 その表情は、絶望に染まっている。
「う……」
「それと、どうもおかしいと思ったら、痛覚遮断なんかしてたのか。やめとけ。これは純粋に忠告だ。痛いのが怖いのは分かるが、戦士として、その感覚がないってのは落伍者と同じだ。今からでも戻した方がいい。お前、さっきから俺の動きを目で追えてないだろう。以前はそんなこと無かったはずだ」
「……黙れ」
「神沼……」
「黙れぇっ!!」
 塵は双我を指差した。その目から涙が溢れている。
「なんっ……なんなんだ!? なんなんだお前は!? 偉そうなことばかり言いやがって、そう、そういう、そういうお前はどうなんだ!? 心臓がカートリッジだと、馬鹿にしやがって、この、この、……卑怯者がァッ!!!!」
 地下奥深い秘密図書館に、塵の絶叫が虚しく響き渡った。
 双我は、初めてそれを見るような顔で、虹の爪牙を持ち上げた。
 決闘の時は、グローブに覆われていて、使えなかったそれ。
 あの時、本当は、塵が黒魔法を撃ってきたら、それを防御するために一瞬だけ使おうと思っていたのだった。その機会は訪れなかったが。
「そうだよ」
 双我は否定しなかった。
「俺は卑怯者だ。こんなオモチャに頼って、リリスの相棒をやってた。あいつは純粋に自分のセンスだけで闘ってたのにな。俺は違ったよ……だから、いまでもみんな、俺を呼ぶんだ。『面汚し』の双我ってな。……でも、俺はそれで構わなかった。リリスをそれで守れりゃな」
「お前なんか……お前なんか……」
「なあ、神沼。お前なんかはきっと、闘えなくなった猫になんの価値があるのかって言うんだろう。そういう気持ちで、リリスを殺したんだろう。
 わかるよ。
 俺だって、闘えない猫になんの価値があるのか、生きていて意味があるのか、分からない。そんなの無いのかもしれない。
 けどな、
 俺はそれでも、リリスに生きていて欲しかった。
 たとえなんにも出来なくなっても、俺はリリスにいて欲しかった。
 リリスに……」
 双我は、足元に転がった紫色の数珠を見下ろした。
 そうだ。なぜ忘れていたんだろう。双我が買ってやったのだ。街のお祭りで、なんでもない小さな屋台で、リリスはくだらないガラス玉を欲しがった。子供のように欲しがって、愚図って、動こうとしなかった。あんまり甘やかしてもどうかと双我は思ったから、最初は無視していたが、いよいよ本泣きされて浴衣姿でしゃがみ込むリリスを見て、双我は折れた。ついでにリンゴ飴まで買わされた。そうだ。どうして忘れていたんだろう。
 紫色が好きなんだ、とリリスは言った。紫は、狭間の色。赤でも青でもない、真実に一番近い色。このままならない世界、その奥に置き去りにされている、真実の紫――
「うわあああああああああああああああ!!!!!!」
 塵が破れかぶれで特攻してきた。顔がべちゃべちゃになっている。偉そうなことを言っていてもまだ子供、十八歳のガキだった。双我は塵が哀れに思えた。誰かが教えてやればよかったのだ。お前は間違っている、それではどこへも辿り着けないと。だが、誰もそれをしなかった。塵は間違ったまま大きくなった。もう元には戻れない。子供の頃には帰れない。
 なぜだろう。
 べちょべちょになった塵の泣き顔が、その妹、神沼水葉のそれと重なって。
 リリスがもう、どこにもいないことを思い出して。
 双我は、
 攻撃をかわす気に、どうしてもなれなかった。

 塵は、自分の手を汚している赤の正体に、しばらく気づかなかった。
 血だ。
 柄から伸びた泥の豪腕、それを伝って、自分の手を真っ赤に染めているその血は、双我の胸から溢れ出していた。
 左胸だった。
「が……はっ」
 笑い出したような、双我の苦悶。
 泥の腕を虹の爪牙で切断し、塵を突き飛ばし、双我はよろよろと後ずさった。その場に跪き、盛大に吐血する。絨毯が泥の代わりに血を浴びて、喜ぶようにそれを吸い込んだ。
「は……ははは……」
 簒奪剣を持ったまま、立ち尽くしていた塵が、笑い出す。
「はははははははっ!! なんだ!? 理解し難いが、そうか、なるほど、双我、お前死にたいんだな? そうだろ? もう生きていくのが嫌になったわけだ? ははははは、……いいぞ! それでいい、そのまま死ね。俺のために!」
「…………逃げろ」
「何?」
 双我の手から、虹の爪牙が消えた。メインカートリッジの心臓をぶち抜かれたのだから、当然、純粋魔力の出力機関としての機能も喪失したわけだ。これでもう双我は黒魔法へ対抗できる武器を失い、そして治癒魔法をかけなければ、存命することも出来ない。
 誰が見ても、敗北だった。
「今なら逃がしてやってもいい。そんな気がしてきた。だから逃げろ」
「……お前、何言ってんだ?」塵がニヤニヤ笑って、双我の頬を泥腕でぺちぺち叩いた。双我の顔が左右に揺れ、血の雫がゆるく飛ぶ。
「助けて欲しいのか? 治癒魔法、かけてやろうか? いいぜ、魔力はたっぷりある。神沼家の財産くらいにはな……が、駄目! 駄目駄目駄目、ありえない! ……俺はお前を助けない。ここには魔法剣はこれ一本しかない。残念だったな? 双我。いや、喜べよ、双我。お前は死ぬんだ」
「俺が死ぬまで三十秒」双我は言った。
「それまでに俺の視界から消えろ。二度とこの世界のどこにも顔を出すな。それで許してやる。逃げろ」
 死に際にしては、明瞭な声音だった。静かで、暗く、穏やかだった。
 塵にはそんなことは分からない。
「リリスとか言ったか? あの猫」
 塵は嗤った。
「最後、ションベン漏らして死んでったぞ。無様だったぜ」
 それが最後だった。
 双我は右手でそばにあった千切れた本を空中に放り投げた。即席の煙幕、紙吹雪。塵はバックステップで距離を取った。どうせ死ぬ男の悪あがきに付き合わない、それは正しい。ゆえに、無理やり攻め込めば殺せた双我を逃した。双我は最後の力で、跳躍した。
「どこへ逃げるつもりだ、双我臨路!! お前はもう負けたんだ!!」
 距離があるなら安心だと、簒奪剣を振り回し、泥腕から極彩色の魔法を次々と撃ち放つ塵。書庫が自壊してはいけないから制限をかけてはいても、どれもがA級魔導師の必殺技と同格の連続魔法。氷の一角獣が双我の脇腹を抉って砕け散り、炎の不死鳥が双我を火達磨にし、稲妻の蛇が盲目の野獣のように双我の周囲を悪戯に爆散させた。双我はそれを跳んでかわし続けた。高みへ、高みへ、逃げていく。そして辿り着いた。
 シャンデリアの真上、天井に両足を着ける形でジャンプしたのが、双我の逃避行のラストだった。もうそこから上には逃げ場がない。後は落ちていくだけ。膝に力をこめる。心臓はもう無い。鼻から鮮血が溢れ出していくのを感じる。視線がクリスタルで出来た、もう脂を注がれることはないだろう、忘れ去られたシャンデリアに注がれる。
 そこに、一振りの刀剣が、そっと置かれていた。
 それほど尺は長くない、せいぜい小振りのサーベル。過剰な儀礼用の装飾が施された、丸みのある鞘、柄の拵えは古式で優美なハンドガードタイプ。わずかに鯉口が切られ、剣身の刃紋、魔走回路がうっすら見えた。
 使え、と剣が囁いて来る。
 そんな気がした。
 天井を蹴る。紅蓮の不死鳥が、一瞬前まで双我がいた空間に突っ込み天井で爆発、抉り取った。その衝撃でクリスタルシャンデリアは夢のように粉々に砕け散り、サーベルも落ちていく。その柄を、双我は空中で掴んだ。身体を捻って鞘を捨て去る、落ちていく。抜き身の刃を輝かせ、
「リリス――」
 詠唱は感情。それだけでいい。
 風迅魔法、リミットエンプティ。空になるまで……
 風の掌に背中を押され、小さな氷の結晶のようなシャンデリアの残骸の螺旋を駆け下りていく。塵が発狂したように顔を歪ませ、簒奪剣を振りかぶるのが見えた。遅い。この土壇場で下界にいる塵が突くのではなく斬るのは絶対に間違っている。
 双我は目を閉じる。角度は調整済み。後は振り抜くだけ。
 最後の手段、『共振斬り』なら、相手が黒魔導士だろうと、猫だろうと、必ず殺せる。どんなまやかしも撃ち砕く、必殺の一刀。もし双我が、たとえ『面汚し』でも本物の猫なら――
 リリスは、もういないけれど――
 目を開ける。塵の顔を見る。剣の握りに気迫を注ぐ。
 呟く、

「これはお前の妹の愛剣だ、神沼塵」

 塵が最後に、双我と言ったのか、糞がと言ったのか、どちらだったのか。
 双我には分からなかった。
 一撃。
 切り裂かれた塵の手から跳ねた簒奪剣が、柄から泥を吐き出しながら、ゆるゆると回転し――落ちた。
 泣いているように見えた。


「お兄様あああああああああああああ!」
 共同墓地、午睡にうってつけの、昼下がり。
 喪服を着込んだ大人たちに囲まれて、一人の少女が、赤と黒を基調とした『レギュレスの都』の制服を着込んだ少女が、泣き喚きながら棺に取りすがって泣いていた。
「嫌あっ! お兄様っ、お兄様ぁ!」
「水葉お嬢様、おやめください、お嬢様、どうか……」
 メイドの氷室が、自分が刺されてでもいるかのように顔を歪めながら、それでも満身の力で水葉を棺から引き剥がした。水葉は靴が脱げ、顔は涙で汚れ、それでも手足をばたつかせて、棺に取りすがった。
「嫌です、そんな、お兄様、どうしてっ! どうしてっ!」
「お嬢様……!」
「嫌ああああああああああああああああ……」
 今ではもう、遺体を埋葬する習慣も、火葬する風俗もこの世界には無い。魔導師の死体は残っていれば残っているだけ、研究機関へ送られて素材にされる。それは誰もが避けられぬ運命。そのおかげでこの200年間、魔法文明は発展を繰り返してきた。そして、その正しさが一人の少女から、兄の死体に取りすがって泣く権利を奪った。棺は形だけ、霊柩車から墓ビルの中へと葬列者たちの手によって運ばれ、そこからは葬儀会社の手によって、塵の場合は高潔種用の高層階へとエレベーターで運搬される。そこで棺は一度解体され、その中にあるネームプレートだけが、この世界で『墓』と呼ばれる引き出しに仕舞われる。それでお終い。
「お兄様っ、お兄様っ!」
「わっ、やめるんだ、ちょ……」
 水葉が葬列者の一人に飛びつき、彼がバランスを崩した。棺は空とは言え重い。支えきれなくなった棺が階段に落ち、ガコガコと下まで落ちていってしまった。なんとなく滑稽。それを見た誰かが、
「ぷっ……」
 と笑った。しかし、すぐに静粛な場を思い出してその笑みを消す。
 水葉が呆然とした顔で、笑い声のした方を見た。
「誰ですか……?」
 誰も答えない。
「誰が、兄の死を笑ったんですか……!!」
 誰も答えない。水葉は、階段を下りて、その誰かを探そうとして、そしてふわっとまたその顔が歪み、その場にへたりこんで、童女のように泣き出した。
「わあああああああああああああ…………!!!!!!!!!」
 誰も、何も言わなかった。
 少女の泣き声が止むことはなく、葬儀だけが、慎ましく執り行われた。
 そして、それを戦闘服姿で眺めている男がいた。
 双我臨路だった。
 隣に、藍色の髪を一房だけ鎖状に編み込んでいる少女も連れ添っている。双我は手ぶらだが、少女は帯剣している。
「……満足した? 双我」
「ああ、もういい。行こうぜ」
 二人は、駐車してあった黒塗りのリムジンに乗り込んだ。ドライバーが熟練の手さばきで、車を死者の眠りに相応しい静かさで、発進させた。
 しばらく、後部座席で二人は、何も言わなかった。
 共同墓地をぐるりとめぐるように、車はゆっくりと走っていく。まだ、双我の位置から、水葉が泣いている姿が小さく小さく、見えた。
「見ろよ、ミーシャ」
 双我は窓の外を指差した。
「へっ、まだ泣いてら」
「……そうだね」
「俺が泣かしたんだぜ、あの子を」
 双我の指先が、かすかに震えていた。
「そんなに悪い子じゃなかった。考え方がちょっと固いとこあったけど、兄貴を奪われて、あんな風に泣かされていい子じゃなかった。結構ノリがいいところもあったしな」
「双我……」
「俺があの子から兄貴を奪ったんだ。な、そうだろ、ミーシャ」
 かわせなかった。
 ミーシャの平手打ちが、双我の頬を打った。
「いい加減にしな」
 ミーシャは無表情だった。けれど、その目からは大粒の涙が滴り落ちていた。双我は不思議な気分でそれを眺めた。
「君は悪くない。命令したのはルミルカだし、黒魔法に手を出したのは神沼塵本人だった。その代償を彼が払うのは、当然だった」
「……だとしても、だよ」
「だとしても? だったら何? ねえ双我、あたし、感傷に浸るのをやめろなんて言ってないよ。『調子に乗るのをやめろ』って言ってるの……」
 ミーシャは、ぐっと、小さな手を握り締めた。毅然な表情で、双我を睨む。
「同情するなんて、何様のつもり? 自分を強いと思ってるから、そういう心の贅肉が顔を出す。ねえ、双我。認めてあげるよ。君は強い。みんな間違ってる。君は面汚しなんかじゃない。たぶん、リリスの世界についていけてたのは、ルミルカでも君だけだった」
「……買いかぶりすぎだ」
「買いかぶりなんかじゃない。ねえ、双我。考えてみて。他の猫だったら、こんな時、どうする? 君みたいに泣き言を吐き散らす? 違うよね。グレイバスやバルキリアスだったら、こんな時、何も感じない。何も思わない。だって、猫には絶対、次の闘いが待ってるから。どんな時でも、何があっても、後ろを振り向いてなんて、いられないから」
「…………」
「生きるために闘うんだ、双我。負けた奴は死んでいく。猫は、闘うためだけに生きている」
「リリスもか?」
「そう思う?」
「…………」
「……止めて」
 リムジンがゆっくりと停車した。バタン、とミーシャはドアを開けて、半身を出した。振り返りざまに、言う。
「リリスは、闘って死んだ。あの壊れた魔法剣から、あたしはそう受け取った。……それだけ。じゃあね、双我」
 ミーシャは降りていった。しばらく、双我は開いたドアを眺めていた。
「……どうします?」運転手が話しかけてきた。双我は手を軽く振った。
「出してくれ。どこでもいい。静かなところがいいな」
「わかりました」
 ドアが閉まって、リムジンが走り出す。
 双我はぼんやりと、窓の外を眺めていたが、ふいに車中に、ミーシャの魔法剣が置き去りにされているのに気づいた。刃紋が、少し見えている。
「…………なあ」
 双我は、運転手に話しかけた。
「不思議に思わないか」
「……何がです?」
「神沼塵の屋敷から、黒魔法の研究資材が見つからなかったことさ」
 運転手は、チラ、とバックミラーを見やった。
「生憎と……私はあなた方の職務までは存じ上げておりませんゆえ」
「じゃ、聞き流してくれ。……無かったんだよ。黒魔法の研究ってのは結構、いろいろとデカイ機材が必要になることが多いんだ。大型の実験用カートリッジとかも使うしな。で、だ……神沼塵が黒魔法研究者だとしたら、自宅に設備がないことが、そもそもおかしいんだよな。だって、そこ以上に安全な場所なんてなくねーか?」
「……そうですかね」
「無いんだよ。俺はてっきり、隠し部屋でもあるのかと思って調査してた。親父もグルなら自宅にそういう設備が堂々とあってもおかしくねーし、ひょっとして俺が潜入魔導師なのはバレてて、あっさり殺されるのかと思った。が、グレイバスの奴から、神沼の親父は潔白だと追加報告が上がって来た。てことは、塵は単独で黒魔法研究をしてたことになる」
「そうだったんじゃ、ないんですか」
 双我は運転手の質問には直接答えず、続けた。
「あの盤面で疑わしかった奴らはいくらかいるが、結論から言えば、赤宮がリリス殺しに関わってたところから、あの周辺が黒ってのは俺が調べるまでもなく確定した。行方不明になっていた神沼塵の好敵手・朝霧空也はおそらく黒魔法の実験台にされて殺されたか何かしたんだろうってアタリもついた」
 双我は指を三本立てる。
「塵は人を信用できない男だった。取り巻きは必要以上には増やしてない。赤宮猛と、桜井隼人の二人。その二人のうち、赤宮が黒魔法研究を率先して行い、塵に流していたってのは考えられない。赤宮は騙されていたからだ」
「……それで? 桜井という子の方は?」
「桜井は俺が早々にパチこいて脅しといた。黒魔法研究者なら、俺が追跡者だということは一発で気がついたはずだ。だが、桜井は怯えはしていても、俺を探ってくるようなことはしなかった。あくまでも、自分は塵に従っているだけ……あとは関係ない、ほっといてくれ。終始このスタンスだった」
「……なるほど」
「で、肝心の塵だが、黒魔法の研究資材を隠し持っている気配が無いこと、そして『俺に使用してきた黒魔法が、大味で使い古されたもの』ばかりだったことから、黒魔法研究者ではない、と推測できる」
「……たまたま、そういう魔法しか使って来なかったのでは?」
「無い。黒魔法研究者にしてはバリエーションが無さ過ぎる。まるで……まるで、あの攻撃手段のレパートリーは『誰かに黒魔法のセットを一箱いくらで買い取った』みたいに、整い過ぎていた。小技も無かった」
「…………」
「もし、塵が黒魔法の研究者ではなく『購入者』だったのなら……」
 運転手が、ゴクリと生唾を飲み込んだことに、双我は気づかなかった。
「神沼塵は極めて交友関係の少ない男だった。あの性格じゃ友達なんかロクに出来ねぇのは一緒に暮らしてた俺が一番よく分かってる。だから、奴が黒魔法の『売人』と繋がっていたとしたら……赤宮猛か、桜井隼人か、そのどちらかだ。赤宮は無い。死んでる。となると桜井隼人? いや、奴はそんな自主的に行動できるクチじゃない……あるとすれば」
 双我の冷たい眼差しが、運転席へと注がれる。顔写真つきのネームプレートが、ダッシュボードのところに添えられていた。
 桜井護、とある。
「逆らえない存在に利用されていたか、だ。たとえば、家族、それも……『父親』とか」
「…………」
「なあ、桜井さん」
「…………」
「俺の推理は、当たっているかな」
「……何が悪い?」
 運転手は、ふふっと笑った。
「たかが金持ちのガキに、邪法を流したくらいで……猫も気に入らないが、ああいう太った鼠も、俺たち下っ端からすれば、同じくらいムカツクんだよ。畜生。だが、これでも商売は綺麗な気持ちでやってたんだぜ。使い方だって嘘偽りなく伝えたんだ。もっとも材料は向こうで用意してくれって頼んだがね。俺たちはレシピを売っただけ……自分で猫狩りなんて恐れ多くて出来やしねぇ」
「だろうな」
 双我は、運転席の上部にある隙間に、仕込み杖が隠されているのを見た。
「運転中だぜ、止めてからにしてくれるか、猫の兄さん」
「わかった」双我は頷いた。
 その瞬間、手馴れた動きで左手一本、仕込み杖を抜いた運転手が、後部座席の双我めがけて一撃を見舞った。双我はまだ、ミーシャの置いていった剣に触れてさえいなかった。が、そんなロスは無いも同じだった。
 切り返しの一撃で、仕込み杖ごと、その向こうにいる運転手の悪相を粉々に双我の剣が割り砕いた。鮮血が車内を胸焼けするような真紅に染めた。
 双我は速かった。
 圧倒的なまでに、速かった。
 そのまま、溢れる感情に任せた八連撃を見舞い、リムジンから飛び出した。斬壊されたリムジンは爆発すらしなかった。静かに静かに、砂の城が崩れるように自壊していって、中の細切れの死体と共に、ただの残骸と化した。双我はそれを振り返って、虚しそうに目を細めると、空を見上げた。手に下げた魔法剣から、新鮮な血が滴っている。
 蒼穹が、唐突に泣き出した。
 柔らかな雨粒が双我の頬を打った。双我は、そんなこと、全然分からないとばかりに、無垢な表情で空を見上げていた。誰もいない空を。
 そして、言った。
「任務完了、帰投する」
 不機嫌そうに、誰にともなく背中を向け、双我は歩き出し、街の中に消えていった。あとはただ、雨脚が強くなっていくのを、誰が聞くともなく聞いているだけだった。双我がいなくなったのも無理はない。
 猫はいつも、雨を嫌うものだ。

 コンコン、とドアがノックされた。誰が来るのかは分かっている。
 どうぞ、と水葉が言うと、ドアが開いて新田蜜柑が入ってきた。なぜか念入りにおめかししている。
「おはよー、水葉ちゃん」
「おはよう、蜜柑」
 二人はすっかり名前で呼び合う関係になっていた。
 あれから二週間。
 水葉は、心身ともに健康を少し害し、学校を休学していた。息子を失い傷心していた父も、娘まで失いたくないと思ったのか、すんなりと認めてくれた。
 蜜柑は、よくお見舞いに来てくれる。メイドの氷室はなぜか嫌がったが、水葉は、気が紛れて嬉しかった。
「体調はどう? 水葉ちゃん」
「ええ、もう、だいぶ落ち着きました。もう少ししたら、復学してみようかと思っています」
「そうなんだ。よかったあ。あたし、さりげなくクラスに溶け込むの失敗したから、水葉ちゃん来てくれないとぼっちなんだよね……」
 どよーん、と椅子の上でしょんぼりする蜜柑。水葉はベッドの上から、身を乗り出して心配した。
「だ、大丈夫ですか蜜柑。悩み事があるなら聞きますよ」
「うう、ありがとう水葉ちゃん。あたしの味方は君だけだあ」
 鼻をすする蜜柑を見て、水葉はちょっと申し訳なかったが、笑ってしまった。けれど、すぐに涙が出てきてしまった。
「あれ……?」
 蜜柑は静かに、泣いている水葉を見ている。
「水葉ちゃん……」
「ご、ごめんなさい蜜柑。最近は落ち着いてたのに発作が……」
「いいよ。いいんだよ。いいから、泣きなよ。あたし、ここにいるから」
「……すみません。あり、がとう……」
 それからしばらくして。
 ハンカチで目元を拭う水葉に、蜜柑はぽつり、と言った。
「あたしね、魔法使いになんてなるつもりなかったんだ」
「……そうなんですか? では、なぜ、レギュレスへ?」
「死んじゃったお兄ちゃんのことを、調べたくって」
 お兄ちゃん、という言葉が、またチクンと水葉の胸を刺したが、今度は耐えた。
「そう、だったんですか」
「うん。結局、あんまり手がかり無かったけど……だから、水葉ちゃんの気持ち、少しだけ分かるんだ。いて当たり前だった人がいなくなる気持ち」
 でもね、と蜜柑は、自分の指をくにくにしながら、続けた。
「いなくなった人は、戻って来ないけど。でも……いまいる人を、蔑ろにしていいってことじゃないと思うんだ。だから……元気出して」
「そう、ですね……」
「……双我くんのこと、憎んでる?」
 蜜柑からすれば、と水葉は思った。
 双我への憎しみから、水葉が心と身体のバランスを崩したと、見えているのかもしれない。
 自分でも、そうなのかもしれないと思う。
 違うのかもしれないとも思う。
「蜜柑、……私はどうしたらいいのでしょう。最初は、双我さんのことを憎もうと思いました。でも、憎めませんでした。私は、兄のことを、本当に慕ってはいなかったのかもしれません。心のどこかで、兄は、死に値する罪を犯しかねない人間だと、思っていたのかもしれません。悲しいけれど、苦しいけれど、でも、……どこかでホッとしている自分がいます」
 水葉は、悲しみを笑顔にしてみせた。
「ねえ蜜柑、私は最低な人間ですよね?」
「そんなことないよ。……あのね、たぶんね、あたしがどう言おうと、どう思ってようと、正しいことってそんなに簡単に決められるものじゃないよ。あたしなんかには、とても決められない。ごめんね。逃げるみたいで、ずるいかもなんだけど。でも、水葉ちゃん。たぶん、水葉ちゃんが決めて欲しいことは、水葉ちゃんが決めるしか、ないと思うよ」
「……そう、ですね」
 窓から優しい風が吹き込んで、二人の間に流れていった。
「蜜柑。あなたは、強いですね」
 蜜柑は、ちょっとだけはにかんだ。

       

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Neetsha