Neetel Inside ニートノベル
表紙

車輪の唄
不幸の棲み家

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 ――その前日は、割と夜更かしをしてたんだ。
 そしたらよりにもよって、修学旅行の朝に寝坊して、京都行きの飛行機に乗り遅れた。
 別に仲の良い友達もいなかったし、大して楽しみでもなかったけど。俺の引率に先生が一人だけ残ってくれるって言われたけど、もう面倒臭くなって、断って二度寝した。
 たっぷりと睡眠をとった心地の良い昼下がりに目を覚ましたら、クラスメイト全員を乗せた飛行機は墜ちていた。
 ――その日から、全てが狂った。
 全てと言っても、17歳の俺の全ては麻雀だった。
 黙って家にいたって仕方がないし、飛行機が墜ちたと聞いたその夜には早くもフリーの雀荘に出掛けていた。

 四五五五六②③④5678東北

 こんなイーシャンテンになって、他の人なら一体どうするって言うのだろう。
 俺は当然のように3枚目の東から切り出す。すると――次巡、俺が持ってきたのは四枚目の赤五萬であった。
 トップまで満貫ツモ条件の3着目。数秒の逡巡の後、北を横に曲げてリーチを掛けた。そんな俺を嘲笑うかのように、次巡、俺は当然のように4索を持ってきた。
 舌打ちをして4をツモ切る。それが親のダマに刺さってラス転落……。

 111222345678東

 ソーズを一枚も余らせることなく俺は仮テンのメンホン東単騎に受けていた。
 次巡、ざらつく9索の感触を親指に覚え、俺は思わず笑みを零した。
 高校に上がる頃までには、メンチンの待ちにとまどうようなこともなくなっていた。俺は淀みない動きでリーチ者の現物の東を切る。――ところが、次巡俺は更に8索を持ってきた。リーチには8索も9索も危険牌である。
 ……それは、逃げ場のない袋小路なのだろうか?
 既に自分のスランプは自覚している。ならば、1索を切って不様に逃げ回るのが正着打なのだろうか――。
(いや、)
 俺は、持ってきたばかりの8索を力強く掴んだ。
(俺は、俺はそうは思わない……!!)
 力強く、投げ捨てるように8索を捨て牌に並べる。
 だが、当然のように鳴り響くロンの発声……。

 ③③③④⑤⑥⑦⑧六七八67

「裏ドラ③筒で16000点。わりーなボウズ」
 誰が……。
(誰が、1-4-7索・3-6-9索の六面張を捨てて、6枚使いの2-5-8索待ちなんぞに……!!)
 俺は、目の前が真っ暗になるのを感じていた。
 高校に入ってから点5のフリーでコツコツと増やしてきた小遣いは底を突こうとしていた。だがそんなこと以上に、俺が俺なりに全てを懸けてきた麻雀がボロボロになっていくことがどうしようもなく辛かった。
 墜落事故の日以来、トップをとれないまま積み重ねた半荘数は50を越えようとしていた。
 ふと、頭をよぎる予感。
 ――幸運で命を拾っただけの俺には、もう二度と麻雀で勝ち切るだけの運は巡ってこないのかもしれない――。
 客の入店を知らせるドアのチャイム音も、店員の声も耳には入っていたなかったように思う。
 涙を堪え、歯を食いしばりながらも席を立とうとしたその瞬間。
 緊張した面持ちで長髪を揺らす、あいつに出会ったんだ。

     

 薄茶色の長髪をなびかせて、そいつは店内に入ってきた。
(若いな……)
 齢を偽って雀荘に通っていた俺が言うのもなんだが、そいつもどう見たって高校生ぐらいにしか見えなかった。しかも、女。フリーの雀荘に通い出して二年弱。若い女なんて彼氏連れのキャバ嬢みたいなのしか見たことなかった。
 新鮮な気持ちを覚えると同時に、いくらなんでもこいつには勝てる、負けるはずないと思った。
「ラス半、やっぱり取り消しで」
 上げかけた腰を再び降ろし、フリードリンクのメロンソーダを口へと運ぶ。
「よ、よろしくお願いします」
 見るからにガチガチに緊張しているそいつは俺の対面に座った。
「よろしく」
 無愛想に言葉を返し、ふと目が合う。
 ――ちょっと、可愛い。
「あれっ?!」
 俺の顔を見て、そいつは途端に声を張り上げた。
「私以外にも若い子いるじゃん! ほっとしたよ! ラッキー!」
 オヤジだらけの雀荘の中に若い仲間を見つけ、安心したのだろう。先程までとはうってかわって明るい表情を見せていた。
「……どうも」
「よろしく! ――良い試合にしようね!」
 その言葉に、俺はもちろん、周囲の客が一斉に視線をそいつに寄せた。
(……“試合”、て)
 俺は右手を口に当て、零れる笑みを隠した。
(なんだこのアホ女)
 ――勝てる。
 こんな子が、何を思ってフリーに来たのかは知らないが……。この半荘だけは必ず勝ち切る。
(この半荘を、浮上のきっかけにするんだ……!)
 そう強く願い、俺は東一局の配牌を開いた。しかし――。
 半荘は、俺の思った通りの展開にはならなかった。

 東3局
「リーチ!」
 すっかり緊張もほぐれたらしいそいつは威勢良く千点棒を卓へと置いた。

 捨て牌
 北西九七一8
 23
(3索切りでリーチ)

 捨て牌は典型的なメンタンピン。が、2索と3索は手出しだった。
(安目の存在を嫌ってタンヤオ確定のターツを選択したか、もしくは二度受けを一つ外したか……)
 俺は前者のパターンだと決めつけ、リーチの一発目にも関わらず手の中から1索を強打した。予想通り、ロンの発声は飛んでは来なかった。しかし。
「おーっ」
 そいつはとぼけたように喜びながら、一発ツモを手元へと引き寄せた。

 二二二②④⑥⑦⑧56788 ツモ③筒

「2000・4000です。やったー」
(なっ……)
 俺は目を疑った。
(こいつ、わざわざ両面ターツを嫌って嵌張受けにしてやがる。……ガン牌?)
 が……。はっきり言って、誰になんと言われようと、目の前の小娘がそんなことを考えて打っているとは到底思えなかった。一発ツモを純粋に喜んでいる。めちゃくちゃ楽しそうにしている。
(だが、しかし……)

 東4局
「ツモ」

 ③⑤⑧⑧⑧123567北北

 捨て牌
 1七白東九9
 ⑤
(⑤筒切りでリーチ)

 まただった。
(③筒切って、北が釣れそうな⑤筒・北のシャボにしろよ……!!)
 ⑤筒・北のシャボテンにすれば出上がりが見込める上に、この店には赤⑤筒もある。少なくとも俺には、理に適った打ち方には見えなかったのだ。が……しかし、その嵌④筒を一発ツモ。
(ド素人のバカヅキ麻雀じゃねーか)
 俺は腹立たしさを堪え切れずに、思わず舌打ちをした。そしたら――。
「ダメだよ」
 そいつは、にっこり笑ってこう言った。
「舌打ちなんてしたら、牌の神様に嫌われるよ」
 恥ずかしげもなく、物怖じする様子もなく。清々しいくらいの笑顔で、たしかにそう言った。
 そいつがあまりにも自信ありげにそう言うものだから、一瞬あっけにとられた後に、我に返って天井を仰いだ。
(ブッ殺す)

     

 半荘は南場へと突入していた。
 4万点に届こうかという点棒を持つ対面の女に対し、俺は2万点を切っていた。
(このままじゃまずい。なんとしても逆転のきっかけを……!)
 しかし、一度開いた態勢の差は簡単にひっくり返るものでもない。10巡目、またも対面に千点棒が威勢よく置かれた。
(どんだけ手入んだよ!)
 この時、俺としても簡単にベタオリできる手牌ではなかった。

 一一一二二三五七七八九東東

 メンホンのイーシャンテン。なんとしても浮上のきっかけとしたかった手牌であったが、やはり、リーチの一発目に俺が掴まされたのは⑥筒であった。

 対面捨て牌
 八二四971
 2②⑨西

(ピンズの混一模様を匂わせてはいるが、②筒、⑨筒以上に二枚切れの西を抱えていたからには大本命は七対子。メンホン七対子まであるのかもしれないが……)
 すいませんと言い、俺は椅子の背もたれに背中を預けた。大きく息を吐き気持ちを落ち着かせる。
 ……この⑥筒がアタリになっていること、あるか?
(仮にメンホン七対子だとする。四枚目の⑨筒はいいとして、②筒、西以上に⑥筒を優先する理由が分からない。②筒は暗刻からの一枚落とし? だがそれならギリギリまで抱えて対々、四暗刻までの変化を見るんじゃないのか? 七対子に決め打った? だが⑨筒、西ともにその時点で二枚切れだったんだぞ……)
 ⑥筒待ちを否定する読み、肯定する読みが交互にやってきて俺の押し引きを決めようとする。だが、この時には今度こそ、自分の不ヅキっぷりを“正面”から受け止めていた。
 断腸の想いで⑥筒を手牌に仕舞い込み、俺は一枚切れの東を捨て牌へと並べる。
(理屈じゃない。が、俺が掴んだからこそこの⑥筒はアタリなんだ)
 仮に四萬、六萬が上家から零れてくるにしても、東から仕掛けたにしてもこの手は面前で仕上げられなければただのバカホン。しかもどう仕掛けたとしても愚形の待ちにしかならない。
(この手は勝負手なんかじゃない。俺の本当の浮上のきっかけはここじゃない……!!)
 リャンカン形を面前で埋め、最後の東であっさりアガる。そんな展開を夢見ない訳じゃない。だが……。
(もう、幸運なんかに期待するのはやめた。ツキなんてなくていい。自分の腕だけで勝ち切ってやる……!!)
 唇を噛み締めた、苦悩の東切りだった。
 ――結局、この局は誰もアガることなく流局した。唯一のテンパイを果たした女が手牌を倒す。

 一一5588②②⑥⑧⑧中中

(やっぱり⑥筒単騎……!!)
 自分でも怖くなるくらいの巡り合わせである。
(だが、混一じゃない! その上タンヤオがつくわけでもないのに⑥筒待ち……!)
 とぼけたように悔しがりながらテンパイ料の3000点を受け取るそいつを見ながら、ついに俺は口を開いた。
「なんで、⑥筒待ちに……?」
 そいつは、きょとんとしたように顔を上げた。
「さっきも。両面を拒否って嵌③筒に受けたり。シャボ有利な状況で嵌張にしたり。なんで……?」
 もう別に、ガン牌なんて疑ってるわけじゃない。ただただ純粋な疑問だった。
 そしたらそいつはまたニッコリ笑って、当然のように言い放った。

 ――ピンズが好きなの。

 俺は、言葉を失った。
「麻雀を始めた時から、ずっとピンズが好きだったんだあ。丸っこくて可愛いこの模様。盲牌した時に指に残る柔らかい感触。一発であの感触が来た時なんて、ホントたまんない!」
 そいつは興奮気味に話していた。
「だから私は、なるべくピンズで待ちたいの」
 ピンズへの想いをあらかた語って、そいつは次の配牌へと視線を落とした。だが俺はしばらく呆然としていた。
 そんな理由で……。そんな理由で待ちを決めるのも馬鹿馬鹿しいが、その選択を一発でツモり上げるのも大概だ。本当にただのバカヅキ麻雀野郎じゃないか。
 だが、不思議と馬鹿にする気にはならなかった。
(本当に……、好きなんだな。)
 “麻雀”が――。

 オーラス。最後の親番を迎えて、点棒は俺が11300点。対面の女は35200点持ちの2着につけていた。
 配牌を開く前に、目を瞑って深く息を吐いた。
(どんなゴミ配牌でも、もう嘆かない。最後まで諦めない。お前の“ピンズ打ち”も否定はしねえよ。俺も、俺の麻雀を信じる……!)

 配牌
 一七九11①東南西北白發發

 ――これは、夢か?
 配牌で国士無双の2シャンテン。
 そして親の第一ツモ。俺は9索を手牌に引き入れた。
(1シャンテン……!!)
 ここまで来てなんの意味があるのかは知らないが、俺は国士迷彩の1索から切っていった。
(⑨筒か中を引けばテンパイ! この手は……この手は必ず成就する!!)
 この国士無双をアガれれば、何かが変われる気がした。
 ……が。
 ピンズ女の第一ツモ。それを手牌の左端に寄せると、そいつはニコっと微笑んで、嬉しそうに右手を手牌の中央部分にそっと乗せた。
「カン」
 高く、澄んだ声が突き抜けていった。
 その牌が倒される前から。俺にはもう、最悪のイメージしか見えなかった。
(……やめろ)
 牌が四枚、表向きに倒れる。

 やめてくれ……!!

 やはりというべきか。
 見る前から分かり切っていた。そいつは、四つの⑨筒を卓に晒した。
 この時点で、“最高で国士空テンのテンパイ連チャン”。
 他の三人は、俺のそんな状況も知らずにまっすぐアガリを目指すだろう。リーチも飛んでくるだろう。
 ――暴風雨に晒されながら続く、流局への延々なる旅路が始まった。

     

 ――これほどに、息の詰まる一局を俺は体験したことがない。
 俺の手牌は既に究極の最終形。誰がどんな仕掛けを入れようとドラポンのタンヤオ仕掛けに中張牌を掴まされようとリーチを掛けられようと、降りることはおろか回し打ちも許されない。

 オーラス ドラ3索

 下家、南家 44800点
 捨て牌
 八⑧⑦白86

 対面、ピンズ女 35200点 暗カン⑨筒
 捨て牌
 北9白南①二

 上家、北家 8700点
 捨て牌
 東2⑧南三白

(南家は手が良さそうだ。⑨筒が枯れたターツの扱いに困ったが、極力手牌をスリムにし安牌を抱えながらもダマでアガることが出来ればアガりにいこうという手組み。下の三色のパーツがあれば鳴き仕掛けもあるか?)
 もちろん、既に俺の立場に手牌読みなど関係ない。が、いつもの癖とも呼ぶべきか、俺の目と思考回路は相対する三人の捨て牌を何度も往復していた。
(対面はトップまで満貫ツモ条件。三着も遠いし、目一杯に来てる。捨て牌は一見タンピン形だが何しろ⑨筒を暗カンしている。チャンタも無さそうだし、役はリーヅモドラぐらいしか見えないな。上家は……、リーピンドラ1の3900で三着上等の構えだろう。2索の早切りが目立つしドラは抱えてそうだ)
 そして、俺は七巡目に中を引き入れ、余剰牌の⑧筒を落とした。
 国士無双、聴牌――。
 もちろん空テンなのは重々承知している。が、親の俺にはテンパイ連荘がある。誰もアガることなくこのテンパイを流局まで維持できれば、オーラスを続けることができる。
(……俺はここから、オーラスまで十一回のツモ切りを繰り返すだろう)
 その決意表明という訳でもないのだろうが、俺は自然と自分の手牌を伏せた。
 それを見た、訝しげな表情の対面と目が合う。
 俺の国士テンパイになど、まるで気付いてはないだろう。まっすぐテンパイに向かって、枯れていないアガリ牌を思う存分狙うんだろう。……それでも。
(それでも。俺は、負けない)
 ――そして。
 十二巡目。ついに、千点棒が卓上へとそっと置かれた。
「リーチ」
 細く長い指。この半荘、何度も聞かされたその綺麗な発声。リーチ一番乗りは対面だった。
(……だが)
 俺は、この場面には似つかわしくない安心感を抱いていた。
(対面のトップ条件は満貫ツモか出アガリハネ満。⑨筒暗刻のあのリーチで出アガリハネ満は無いだろう。つまり、この局に限っては俺があいつのアタリ牌を切っても見逃すはずだ)
 結論から言うと、その読みはズバリ的中していた。そのリーチに出アガリハネ満は無かった。しかし。上家が牌を山からツモる前に、そいつは言葉を続けた。

「開きます」

 ――俺は、自分の愚かさを呪った。
(オープンリーチ……!!)
 そいつは、自信に満ちた表情で③筒と④筒のターツを場へと晒した。

<オープンリーチ>
 この店では、半荘に一度まで認められている二翻役。手牌全体を晒す必要はなく、晒すのは待ちの部分だけで良い。
 オープンリーチに対して、リーチを掛けていない者はアタリ牌を切ることが出来ない。誤って切った場合はアガリ放棄で牌を手牌に戻さなければならない。
 裸単騎などで、手牌全てがアタリ牌になった場合のみ役満払い。リーチ者からの放銃は通常通り二翻。

 俺は……。あれだけ⑨筒の暗カンを呪いながら、“その後”のことについてはまったく頭が回っていなかった。
 対面は、幺九牌である⑨筒を暗カンしているのだ。つまり、切り上げルールでは3翻で満貫確定……!
(あいつはドラを一枚を持っていなかったんだ。つまり、トップ条件を果たす為にはツモって裏を一枚乗せる必要があった。が、どうせツモ条件なら当然オープンリーチを掛けるに決まってるじゃないか……!)
 自分の甘さに涙が出た。
 自分の腕だけで勝ち切ると、誓ったはずじゃないのか……?!
(俺は、俺はなんて甘いんだ……!)
 空テンだから何だって言うんだ? 他家の足を止める意味で、俺は国士無双のリーチを掛けるべきだったんだ。……そして、このオープンリーチ。
 俺がリーチを掛けていれば、たとえ②-⑤筒を掴まされても恐らく対面は見逃しただろう。が、ダマテンの今はアタリ牌を掴まされればルール上オリるしかない。
 上家はホッとしながら⑥筒を切った。
 ――頼む。
(何を引いてきても、俺はここでリーチを掛ける)
 ――だから、頼む……!! ただこの一巡だけは、②-⑤筒を掴まされるんじゃねぇッ……!!

 ……親指の腹全体に残る、柔らかい感触。

 俺は、一発で赤⑤筒を掘り起こした。
(――俺が)

 一体俺が、何をしたって言うんだ……!!!

     


 一九19①東南西北白發發中 ツモ赤⑤筒

 切り飛ばしちまいたい。

 役満払いでもなんでも、もうどうでもいいよ。
 俺が32000点払うって言ってんだから、切っても良いだろうが。
 が、俺がなんと言おうとそれはルール上認められない。赤⑤筒を手牌に引き入れ、聴牌を崩して逃げ回ることしかできない。リーチを掛けている者以外、オープンリーチに振り込む資格はないのだ。
 ピンズ女のリーチにより、俺の聴牌連荘は夢物語に終わった。どういう結果になろうと、オーラスはこの一局きり。
(もう、どうでもいい)
 俺は、中を一枚掴んで雑な切り方で卓へと投げた。
 オープンリーチを掛けることで、裏ドラに託すまでもなくツモった時点でトップを確定できるのは大きなメリットだが、トップ目を身軽にしてしまうというデメリットも同時に存在する。通常のリーチであれば大人しく降りていたかもしれないトップ目が、アタリ牌を掴まされない限りはまっすぐアガリに向かうことができるのだ。
 それでも、そいつはオープンリーチを選んだ。その選択によって俺がどんな思いをしたか、今すぐ胸倉を掴んでやりたい気分だ。
 トップを懸けたリーチ一発目のツモ。ピンズ女は軽く盲牌をして牌をツモ切った。一発でツモる気満々だったのだろう。分かりやすい表情で思いっきり悔しがっている。
「リーチ」
 中を横に曲げ、ラス目の上家までもが参戦してきた。

 どうでもいい。

 一発消しも兼ねているのだろうが、これまで絞られてきた中に待ってましたと言うように下家がポンと鳴いた。2索を切り、中の面子を右端に寄せる。恐らく、これで三人聴牌――。

 どうでもいい。

 俺は……、次巡ツモってきた牌をほんの微かな盲牌だけして、ノータイムでツモ切った。俺自身切ってから知ったが、それは左右の二人に危険牌の六萬だった。俺はてっきり振り込んだものと思ったが、しかしその六萬に対してロンの声がかかることはなかった。思わず失笑が零れる。
(あれだけ散々アタリ牌を掴まされてきたのに、こんな時に限ってすり抜けるか)
 振ることを恐れず、完全に開き直ったどころか勝負を捨てたのが良かったのかもしれない。そんなオカルトチックなことを考えながら、俺は手牌の右端の赤⑤筒をぱたりと倒して、後はただ決着がつくのを待った。

 ――事件は、十七巡目に起こった。

 祈るようにして最後のツモを引いてきた上家が、途端に表情を暗くして諦めた様子で牌をツモ切った。お察しの通り、それはオープンリーチのアタリ牌である②筒であった。
 意外と決着が長引いたな。そんな事を考えながら、上家が振り込んでくれたことで一応はラス落ちせずに済んだことにもさしたる関心も持たずに、俺はツモる手を止めて対面が手牌を開くのを待った。
 ……しかし、いくら待ってもその牌に対してピンズ女から声がかかることはなかった。
 ふと顔を上げると、こちらを見ていたピンズ女と目が合った。
「どうぞ?」
 そいつは、当然のように俺にツモを促した。
「……アガらないのか?」
「もちろん」
 そいつは即答した。
 その瞬間、俺は下家の鳴いた中の存在を思い出した。
(そうか……! 本来なら西家である対面に十八巡目のツモは存在しないが、南家が北家からポンをしたことで西家に海底が回ったんだ……!!)
 確率的には、どっちが正解なのかは分からなかった。
 ピンズ女のトップ条件は満貫ツモかハネ満出アガリ。つまり、オープンリーチ・ドラ4出アガリでもその条件を満たす。カンで裏ドラは一枚増えているのだから、あっさり四枚の⑨筒が裏ドラになっているかもしれない。
 もちろん、その確率が高いとは決して言うまい。だが、麻雀は何が起こるか分からない。海底牌で北家に倍満を放縦すれば三着まで落ちてしまう。海底でツモる確率だって微々たるものだ。
 それでも……?
 そいつは、凛とした表情で言った。

「このリーチは、二着になる為に開いたわけじゃないから」

 今まで俺は、こんな状況で幾度二着確定の手を打っただろう。フリーで揉まれる中で、確率的に見ればそれは必要な処世術なのかもしれないが、最後までトップを追い切れなかった半荘がどれだけあっただろう。そんな俺から見て、そいつはあまりにも格好良く。その両眼は確固たる意志を放っていた。
 そして、新たな希望の道程が目の前に開く。
 上家のアタリ牌を見逃した以上、今ピンズ女は出アガリの利かない状態。今なら、リーチを掛けていない俺にもアタリ牌を切ることが許される。枯れた⑨筒以外、幺九牌の何を持ってきても赤⑤筒を切って国士無双聴牌。

 一九19①赤⑤東南西北白發中

 “国士無双、十二面張”――。
 俺は、静かに右腕をツモ山へと伸ばした。
「ここで引いてこれないくらいなら、本当に麻雀なんてやめてやるよ」
 触れた瞬間に分かる。もう、牌を見るまでもない。指に触れる、美しいくらいに滑らかな白の感触。

(ありがとう……!!!)

 海底。最後の牌をピンズ女がツモ切って、この局は流れた。
 恥ずかしいことなど何もなかった。俺は誇らしげに国士無双の聴牌を宣言した。それを見て下家が声を上げる。
「うわっ、国士無双かよ! しかも最後に手出し赤⑤筒ってことはアンタ、テンパってなかったの?! せっかく中をポン出来たのに、アンタがリーチに対して危険牌バンバン切るもんだからてっきりテンパってんだと思って俺は降りちまったよ。真っ直ぐ行ってりゃ下家の七萬でロンだったのになあ」
 下家は悔しそうに手牌を晒した。既に聴牌は崩されていたが、たしかに四-七萬待ちの跡が見てとれる。
 ――正に、針の穴をくぐり抜けるかのような国士無双空テン連荘。
 俺は感じていた。この連荘で掴みとったものが、単なる一本場なんかではないことを。
 永遠に続くかのように思われた雲間から、たしかに陽が差していた。

     

 ――いつの間にか、外はすっかり暗くなっていた。
「茶竹さん、どうします?」
 傍でそう尋ねる店員の方を振り返って、俺は半笑いで答えた。
「今日はもう、やめときます」
 死に物狂いで突入したオーラス一本場だったが、結局、トップ条件の軽くなったピンズ女があっさり1300・2600をツモって半荘は終わった。
 席を立つと、ピンズ女の方を振り返ることなく俺は店を出た。体の底から湧きあがってきたかのような大きなため息をついて、エレベーターの前の壁に寄り掛かる。
「結局、トップはとれんかったなあ」
 そう言いつつも俺は、今までとは違った充足感を体中に感じていた。ただ負けて卓を抜けたこれまでとは違う。たしかな“きっかけ”を掴むことができたのだ。今はまだ、それだけでもいい。
(それにしても、可愛い顔してまともな麻雀打つ奴がいるもんだな。ピンズ偏向はともかくとして)
 隙のない条件戦の戦い方、あの場面で②筒を見逃した精神力。ツキのせいと割り切ってしまうのは簡単だが、俺はあいつに打ち負かされたという感覚を拭いきれずにいた。
(名前ぐらい、チェックしとけばよかった。店員になんて呼ばれてたかな)
 そんなことを考えながら、やっと上がってきたエレベーターに乗り込む。その瞬間、着ていたパーカーの首がきゅっと締まった。
 唐突な攻撃に人は想像以上のダメージを受けるらしい。涙目になりながら後ろを振り返ると、そこには慌てて帰り支度をしてきたらしいピンズ女がいた。
 パーカーの襟を直しながら軽く挨拶する。
「く、首ごめんね。聞きたいことがあって……私も慌てて抜けてきたの」
「ふうん」
 決して、自分からその“聞きたいこと”とやらを尋ねることはしなかった。色々な想像をかきたてられながら、無関心を装いエレベーターの壁へと背をつける。
「あの、まず、えー……。高校生だよね? キミ」
 エレベーター内に静寂が流れた。
 言うまでもなく、高校生の雀荘への立ち入りは本来禁止されている。俺はこれでも割と危ない橋を渡っているのだ。
 互いに見つめ合いながらの沈黙の後、我慢できずに俺は思わず噴き出した。ほぼ同じタイミングで向こうも笑っていた。
「あー、高校生だよ。お前もだろ?」
「うん。お店の人には内緒だよ? 私、丸宮。丸宮 春日。聖麻高校の二年生」
「せいあさ?」
 聞き覚えのある名前を聞いて、俺は思わず復唱した。
「聖麻……あー……」
「どうかしたの?」
「いや……。信じられねーと思うけど、そこ、俺が転入する高校かも。親が言ってた」
 その瞬間、くりくりとしたその大きな瞳を更に大きく開かせて、丸宮は俺の両手を掴んだ。
「本当!!? え、なんで?! すごい偶然!!」
 女に手をとられるなんていつ振りだろう。その心地良い感触を愉しみながら、エレベーターが一階についたのをきっかけに経緯を話しだした。飛行機事故のこと。それが原因で親に転校を勧められたこと、別に俺は大して悲しんだりしていないこと、そして、麻雀のツキに見放されたこと。丸宮は神妙な顔をして聞いていたが、俺が別に悲しんでいないことを念押ししたら少し気を楽にしていたようだった。
「そっかぁ。そんなことがあったんじゃ、なんか気軽には勧められないけど」前置きをしてから、丸宮は再び俺の目を見て言った。「“高校麻雀”に興味ない? ……知ってる、よね?」
 ああ。
 そうか、こいつ麻雀部なのか。道理で。
 高校麻雀のことは俺ももちろん知っている。十数年前に始まった高校生競技麻雀のことで、今では高校野球や高校サッカーのように当たり前のように全国の高校が日本一を目指して切磋琢磨している。もちろん、さすがに競技人口は野球やサッカーとは比べものにならないらしいが。
「まさか、フリー雀荘で高校生に会えるとは思わなかった。しかも聖麻に転校してくる人なんて。何かの縁だと思わない?」
 だが、はっきり言って俺は競技麻雀には興味が無かった。
 なんやかんやと言っても、やはり麻雀は金を賭けてこそナンボのゲームだろう。
「それにね、」無言の俺をよそに、丸宮が続けた。「今行われている一般的なルールは、各高校二人一組ずつ出して卓を囲むの。つまり、卓上では2対2の戦いなんだよ」
 えっ?
(へぇ……。それは知らなかった)
「ツキに見放されたら、麻雀は勝てないよ。でも、高校麻雀なら。互いが互いをカバーして、二人で勝つことができるの」
 丸宮はこちらを振り返るとまたあの満面の笑みを浮かべて言った。

「ツキなんて要らない。私が、キミを勝たせてあげる」

 ほとんど陽の落ちた夜道で、薄い茶色の長髪が風になびいて僅かな光をはじいていた。
「君なら、絶対強くなれる。間違いないよ」
 そう言うと、「部室で待ってる」。最後にそう言い残して、丸宮は地下鉄駅へと降りていった。
 一人きりの寒空で、思わず笑みがこぼれる。
 ――何、勘違いしてやがる。たしかに条件戦の打ち回しは上手かったが、後ろ見しなくたってお前がまだまだヘタクソなのは伝わってくる。お前が俺のサポートなんて百年はええよ。
 だから、
(“俺が、お前を勝たせる”。それなら、たしかに少しは面白そうだ)
「どうせ、小遣いもなくなったしな」
 独り言を夜空に呟いて、帰路につく。
 国士聴牌の心地いい白の感触が、未だに親指に残っていた。

       

表紙

鶏徳きりん 先生に励ましのお便りを送ろう!!

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