Neetel Inside 文芸新都
表紙

ゆめのなかのゆめ
青のおはなし

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 真っ白な世界に、ブリキの古いバケツがひとつ。その中には青い液体がなみなみと注がれている。青は青を集めて群青になる。ブリキが落とす影が、それを濃紺に見せる。液体は、バケツを覗き込んだミチコちゃんの顔をうっすらと映して、ゆれる。
 バケツの影だけが、白い世界を淡く濁らせる。ミチコちゃんはバケツのまわりを、そっと、ぐるりと一回転する。液体に映ったミチコちゃんの顔も、ぐるりと180度回った。

 足音はしない。

 ミチコちゃんは、不思議そうにそれを見つめている。ただし、純粋とか無邪気とか、そういった言葉は似つかない顔だ。何かをひとつひとつ確かめようとする、そんな自分自身を不思議に思っているような顔。いや、不思議に思っているというよりは、興味深く思っているような、そんな表情。

 ミチコちゃんがバケツを持ち抱えようとする。ガラガラン、という音とチャプチャプといった音が同時に聞こえた。この世界に聞こえる、はじめての音だ。

 しかし、そのバケツはミチコちゃんが持つには重過ぎる。ガラガラガシャンといった音をたてて、白い床へそれは落ちる。そして、ミチコちゃんを中心として世界は青く染まっていく。じわじわと、液体は広がってゆく。どこまでも広がってゆく。


 ミチコちゃんは立ちすくんだ。
 ミチコちゃんは私には見えない何かに怯えていた。
 ミチコちゃんは私には見えない何かに打ちのめされていた。
 ミチコちゃんが顔をゆがめた。


 ミチコちゃんの弱々しい表情、私がはじめて見る顔から、伝わってくる感情。私は胸が締め付けられる思いだった。けれど私には、何もすることができない。何もしてやれない。

 ちいさな胸のなかにしまっていたものが、ミチコちゃんの足元から、どこまでもどこまでも広がっていく。
 ミチコちゃんはそれを防ごうとするかのように、手を伸ばす。自分の立ち位置から一歩踏み出す。青く染まった世界へと、一歩。

 瞬間、ただそこに広がる青。消える足場。ミチコちゃんの体は、がくんとなったかと思うと、ゆっくりと落下しはじめた。大きな瞳が、瞳孔が、さらに大きく見開かれる。


 ミチコちゃんは手をのばした。助けを求めるように、私の気配のする方へと。

 けれど私にはミチコちゃんにのばせる手も、ミチコちゃんを抱きしめることのできる腕も残されていない。全部、あの男にくれてやってしまったのだ。
 それでも私は、ミチコちゃんを助けたいと、強く思った。自分でも驚くほどに強く。


 ミチコはこちらを見て、さらにかなしそうに顔をゆがめた。
 けれどミチコは、口元をあげて無理に私に微笑んでみせた。

 私の思考は、そこで停止してしまった。


 急に落ちるスピードが増した。
 はっと我にかえった。はぐれてはいけない。ミチコちゃんを追いかけて、追いかけて、追いかけて行こうとする。もう二度と見失うものか。置き去りになんてするものか。


 私を見て微笑んだとき、ミチコちゃんは確かに泣いていた。

 深すぎる海を、あるいは大きすぎる空を、
 ミチコちゃんは、どこまでもどこまでも落ちていく。

       

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