Neetel Inside 文芸新都
表紙

渚にいる。
海の縁

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海の縁 一

昔々、小さな漁村に、子宝に恵まれない夫婦がいた。

夫婦はお互いだいぶ年を取ってしまったのを焦り、
その村の外れにある岬の神社に熱心に参拝し子を願った。

そこの神社に座す祭神は、海に出る漁師の
航行の安全を守るので忙しかったが、
氏子を不憫に思い、子を授けることにした。

祭神は、この女房の腹に宿すための子の魂を用意した。
しかし、何の偶然か、祭神がその子を授けるほんの少し前に、
夫婦には子どもが出来てしまった。

祭神はせっかく用意した子の魂を持って
途方に暮れたが、ほどなくして諦め、
その子を岬から離れた海の上にぽつんと
ある岩の小島に捨ててしまった。

波が打ち寄せる岩の上で、
人の形を成さないそれは黒い霧の
ようにわだかまっていた。

     

海の縁 二

それは長いことそこにうずくまっていたが、
何年か経つとふいに人の形を取り始めた。

ちょうど小さな子どものようで、
遠目に見ると岩盤の上に子どもが
立っているように見えるのだった。

夫婦のかつての念じ方が強かったために
子どもの姿は輪郭こそはっきりと人の形をしていた。
しかし、細部はぼんやりとしていて、ちょうど
真夏の日差しで生じる濃い影のようだった。

ある日ふとその影は、岩肌を降りて音もなく海におりた。
そのまますっと滑るように海面を移動して、
村のほうまでやって来た。

影の子に感情らしきものはなかったが、
ただ、夫婦の子どもに乗り移ろうとやって来たのだ。
本来自らがいるべき場所へ納まろうとしたのだった。

     

海の縁 三

影の子どもは、自らにわずかに刷り込まれた
夫婦との縁をたどって、彼らの家へたどり着いた。

夏の暑い正午頃だった。
竹藪から、草むらの少し開けたところに井戸があって、
子どもが一人、そこで水を汲んでいた。

気配が、似ていた。
自分ともかすかに近しい。
あの夫婦の子だと分かった。

影は音もなく近寄って、
ひたと、止まった。

ふいに振り返ったのは、つややかな黒い髪と
澄んだ目の、可愛らしい少女だった。

跡取りを、男児をと望まれた影の子は、
男児と生まれた自分とこの少女の魂との
違いに、陽炎のように揺れ動いた。
しかも、この凛としたまなざしの少女は、じっと影を見つめている。
見えているのだ。
睨むのでもなく、微笑むのでもなく。
顔もないはずの影は、ああ、自分と似た顔だ、と思った。

それからというもの、影は少女から
つかず離れずの距離を保って、彼女のそばにいるようになった。
少女は大して気にするようすもなく暮らしていたが、
時折振り返っては自分を見つめる影の姿を探すのだった。

これを知ったかの祭神は、人と人ならざるものの
通じるのをよしとせず、影に彼岸へ還るよう命じた。

影は、揺れ動きさえしなかったが、
祭神にただ一言だけことばを言った。
正確には、口がないので、それを念じた。

     

海の縁 四

その年の夏の終わり、村祭りの日に、
少女の両親は日ごろ懇意にしているということで
村長の年長の娘のお古の浴衣を貰い受けた。
藍色に染め抜かれた生地に紫のハナショウブの
模様をあしらった浴衣だった。
それなので少女は、それを着てずっとにこにことしていた。

神社の境内へ登る階段は、大小さまざまなちょうちんで飾られた。
ともし火は夢のように揺れて、波の音が
お囃子の笛太鼓に紛れて遠く聞こえている。

影は、明るい境内から少し離れ、静かな林の暗がりにいた。
少女はひとりで、影を探し境内にたどり着いた。
境内はかがり火が炊かれていたが他に人はいなかった。

影はじっと少女を見ていたが、ふと、
手招きをした。

少女は近づいて立ち止まった。
ゆっくり手を、伸ばした。

突然、影は少女の細い腕をガッと掴み、辺りは霧に包まれた。

     

海の縁 五

昼間だろうか。
雲が覆っているのだろうか。
空の白い、とても静かな場所にいた。

濃い、黒に近い緑の、背の高い杉の巨木が
どうやら遠くまで広がっているようだ。
雨が降ったあとのような、しっとりとした森のにおいがした。

小さなふたりの子どもの目の前には、
巨大な朱塗りの鳥居が佇んでいた。
古びて、なおも厳粛な鳥居の向こうは質素な木の橋で、
更にその向こうには、道が続きながら、
杉の並木林の中へと消えているのだった。

いっさいの空気は動いていないかのように、
何の音もしなかった。

少女は、隣に立つ少年を見た。
自分とそっくりな目つき、顔つきをしていた。
人間だったら一緒に悪ふざけをして遊べそうな、
子どもらしい顔で笑っていた。
とても、満足そうだった。

「じゃあな。」
少年が言って、鳥居をくぐろうとする。
その調子は、夕方に家路につくために
道端で別れる友達とまるで変わらない。

少女は、とっさに少年の手を握った。
温かかった。近しい魂だった。
「あたし、」
少女はそう言って、少年は少女に向き直った。

柔らかな雨上がりの風が、杉林を吹き抜けていった。

「あたし、忘れたりしない。」
幼いが凛とした、この自分と良く似た子に、
少年はもう一度笑って頷くと手を静かに離して、
鳥居の向こうの橋へ、駆けていった。

やがて、林へ少年の姿は見えなくなって、
辺りがだんだんと霧が立ち込めるように感じたところで、
少女は我に返った。

お囃子の音色が聞こえる。
辺りはかがり火だけが明るい、暗い夜空で、
少女は林に向かってぼんやり立っているのだった。

     

海の縁 終

それから、何年か経った。
少女はいつしか年頃の女性になり、
少し山に入ったところにある隣村の男へ嫁いだ。

鳥居のたもとで別れた少年のことは、
もうぼんやりとしか思い出せなかったが、
彼女はいつも実家の村の神社に参拝していた。
子宝に恵まれるように、と。
山の安産の神に参るように亭主が勧めても、
微笑んで首を横に振るのだった。

「あたしには、海の縁があるんです。」

ある日彼女は、
朱色の鳥居と、ぬれた土と杉の幹の
においを思い出す。
笑っていた顔も、鮮明に。
彼女は、自分の胎内に懐かしい命の宿ったことを知る。

凛とした、柔らかな空気が海を渡っていった。
海の上の離れ小島に、子どもの影はもういない。

その子どもは今しがた、母親に見守られて、
浜辺への道を元気良く駆けて行くのだった。

       

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