第十五話
カリカリと、継ぎ目の無い白い壁を爪でひっかいてみる。
もしかしたら、隠し通路など無いだろうか。
こうなったら、それ以外に助かる方法は無い気がした。
ガンガンガンガ……ド、ドン、ドゴ……ガン、ガ、ガ……
壁を叩く音が少し変わった。
まさか、叩き破ったのだろうか。この分厚い鉄の壁を。
おおおおおおおああああああああああああああああああああああああうううううううああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ……
声が先程までよりも明瞭に聞こえる。
ああ、間違い無い。近付いて来ている。
ガンガンガンガンガンガンガンガン……
再び壁を叩く音。
壁は、後何枚残っている?
最後の透明な壁を入れても、おそらく全部で五枚くらいだったと思う。一枚は押し上げられてしまった。そして今また一枚破られた。残りは、三枚くらいだろうか。この透明な壁の強度はどれくらいなのだろう。三〇センチはあろう鉄の壁を素手で破るようなヤツだ。どれだけ特殊な材質で作られているとしても、この透明な壁で防ぎきれるとは思えない。
「あ、つっ……」
横に移動しようとした瞬間、膝が抜けてしまい、俺は床に倒れた。足に力を入れると、今まで以上の痛みが襲ってきた。もしかしたら、骨にヒビでも入ったのだろうか。
仕方が無いので、今度は床をひっかいてみる。床も、継ぎ目無い真っ白なプレートだ。
……酸素が、薄くなってきた気がする。
何だか無性に息苦しい。
息を深く吸おうとすると、肋骨が、肺が痛んだ。
喉も痛い。口の中が血の味がする。
いつの間にか溢れた涙が、手の甲に零れた。
何で俺はこんな事……。
こんな……。
……。
…………。
………………。
……今、意識が飛んでいた。
気付けば床に俯せになっている。
今度はどれくらい、気絶していたのだろう。
酸素は、さらに薄くなっているように感じる。
立っているのと寝そべっているのでは、どちらの方が、酸素が濃いのだろう。わからない。学校で習った気もするが……。学校か……。懐かしい。通っていたのが、もう遙か昔のように感じる。
……。
…………。
──ドン!
その時、一際大きな音が聞こえた。
ドン、ドン、ゴ、ゴガ、ガン、ガン!
近い。どうやらすぐそこの壁を叩いているようだ。また、俺は気を失っていたらしい。
ガンガンガンガンガンガンガンガンガガガガガガガンガンガガガガガガン!
すぐそこの透明な壁の向こう。ヤツはもうそこまで迫ってきている。首を回し、防護壁の方へ向き直ると、音に合わせて分厚い鉄板が振動するのが見える。
くそっ……、ここまでなのか。
しかし、ここまで来て諦めるのは嫌だ。
俺は、最後まで、諦めないぞ。
カリカリと、床をひっかくのを再開する。もう俺にはこれくらいしか出来ない。こんな事をして何か見つかる可能性など皆無に等しいだろうが、ゼロとは言い切れない。ならば、やるしか無い。
ドガン!
鼓膜が破れんばかりの轟音が聞こえる。
目をやると、壁の真ん中辺りがまあるく、こちらへ膨らんでいる。早い。ペースが上がってきているのか? それとも……。いや、考えているヒマは無い。
ズガン!
爆音。
闇雲に連打する事はやめ、一撃一撃に力を込めるようにしたのか。
ゴヮン!
今までと少し違う感じの音が聞こえた。
見ると、膨らんだ部分のてっぺんが裂けて、何か白いものが見えている。
何、だ……?
おおおおおおおおおわあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!
ヤツの声が壁を叩く音をかき消す。しかし、着実に裂け目は拡がり──。
ドガン!
拡がりきった裂け目から、見覚えのあるものが飛び出してきた。
(『イチナナサン』!)
裂け目を通ってこちらへズルリと落ちてきたのは、何と『イチナナサン』だった。その後から、現れたのは『ゼロキュウロク』……。どうやら壁と壁の間に閉じ込められていた『イチナナサン』を叩きつけて壁を破壊したようだ。落ちてきた『イチナナサン』の頭部は、壊れてこそいないようだが、叩きつけられたのであろう部分が汚れていた。
いいいいいいいいいいいいいいいああああああああああああああああああああああああああああああああああうううううううううううわあああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!
絶叫。
思わず耳を塞ぐ。
ヤツはこっちへ真っ直ぐ手を伸ばし、駆け寄って来た。
しかし、透明な壁にビタンとぶつかる。それでも立ち止まる事はしない、すぐさま壁をドンドンと叩き始めた。
初めて間近に見た『ゼロキュウロク』の姿……。
全裸の体はひどく痩せており、肌の色は病的に青ざめている。頭髪はおろか、体毛はどこにも見られない。異常に大きく開いた口。こちらを向いたその眼は白く濁っており、到底見えているようには思えない。背が高い。この狭い空間では背筋をのばす事は不可能だろう。手足も異常な長さだ。満足に振り回す広さが無いからここまで時間稼ぎが出来たのだろう。充分な広さがあれば、こんな壁など簡単に破られていたに違いない。
ヤツの周りを、俺のまばたきにあわせて『イチナナサン』が舞っている。
共倒れしてくれないかと少しは期待していたのだが……。『イチナナサン』が『ゼロキュウロク』に襲いかかる様子は無い。いや、もしかしたら俺が目を閉じている一瞬のうちに攻撃しているのかも知れない。しかし、どちらにせよ『イチナナサン』の攻撃は『ゼロキュウロク』には効かないようだ。
ドン! ドン! ドン!
透明な壁は案外丈夫なようだ。一撃で破られてしまうだろうと思っていたが、まだ変形した様子も無い。とはいえ、もう幾らも時間は残されていないだろう。
俺は、再び床をひっかき始めた。
何だかもう、何の現実味も感じなくなっていた。
恐怖心が遠ざかって行く。
ふと、空腹感を覚えた。
お腹、空いたな……。
母さんの作った豚汁が食べたい。
眠い。
眠いな……。
布団で寝たい。
俺、枕がかわるとだめなんだよな……。
……。
…………。
「────?」
耳元で誰かの声が聞こえた。
「どうやら、限界かな?」
限界かだって?
見ればわかるだろう。
「仕方が無い……。いったん休憩にしようか」
低く落ち着いた、男の声。流暢な日本語だ。
いったい誰だ?
博士か?
いや、違うか?
わからない。
声のする方に顔を向けたいが、首が動かない。
手に、何かを持たせられた感触。掌にすっぽりおさまったそれは、ざらざらとした感触で、円い形をしている。何だろうか。
「だ……れ……?」
声を振り絞り、訊ねる。
「そんな事より、さあ」
体がひっぱりあげられ、無理矢理立たされる。
「円盤を落とすんじゃ無いぞ」
わけがわからないが、俺は藁にも縋る思いで手の中の円盤を握りしめた。
「本来はこういう使い方をするものでは無いが……」
誰かは俺の体を抱きかかえると、明らかに突き当たりの壁の方へと、飛んだ。