第十七話
廊下を走る足取りが、やけに軽く感じられる。
体の何処にも痛みを感じない。むしろ、今までよりずっと早く走れているような気さえする。とはいえ、振り向く程の気持ちの余裕はない。
あの黒衣の医師は、俺を追いかけて来ているのだろうか。
……いや、考えている時間は無い。
もっと早く走るんだ。
もっと、早く──。
廊下は相変わらず狭く、ぐねぐねと折れ曲がっている。
何度目かの角を曲がると、前方に大きな扉が見えた。
間違いない。あれが博士の言っていた扉だ。幅は廊下と同じなので、そう大きくはないが見るからに重そうな鉄の扉である。しかし、躊躇っている暇は無い。
取っ手に飛びつき、力任せに引く。
重い。
それでも、音を立てながら、扉は少しずつ開いていく。
隙間から光が洩れて来た。
外か?
外なのか?
何だかもう何年も表に出ていないような気がする。
流れ込んで来る空気も、妙に美味しく感じられる。
もう扉の半分は開いた。
扉のすぐ向こう側には階段が見える。視線を上に上げれば──。
(ああ、外だ。外に、出られるんだ)
その時、聞き覚えのある声が耳に飛び込んで来た。
《お疲れ様》
博士だ。
《いや、君は本当に頑張ってくれたよ》
俺は無視して扉の隙間へと滑り込む。後ろで足音が聞こえた気がするが、気にしない。
階段を駆け上がる。思ったより段がありそうだ。
《君は、合格だ》
何に合格したというのか。嬉しくもない。
《また、連絡するよ》
一番上の段まであと少し。外の景色が見える。近代的な、街のようだ。
《次は、仕事を依頼させてもらうよ》
「くそくらえだ」
大きく吠えて、外の世界へと飛び出す。
その瞬間──。
強い力で体を抱き寄せられた。
耳に飛び込んで来る言葉は……、英語か? 聞き取れない。
誰だ?
怒りにも似た感情の中、何者かの方へと顔を動かす。
見知らぬ、外国人の男が、こちらを見ながら何かを言っていた。
いったい、誰だ?
「無事ですか?」
今度は反対側から日本語で声をかけられた。
そちら側へ顔を向ける。
「私はSCP財団の者です。あなたを保護しに来ました」
小柄な、柔和そうな四十がらみの男がこちらを見ていた。
「大丈夫ですか?」
博士や教授とは違い辿々しい日本語だが、久しぶりに、ひとの心に触れた気がした。
「大丈夫、です」
絞り出すように答える。
体を抱く力が少しだけ緩んだ。
「安心して下さい。あなたの事は、財団が護ります。詳しい話は施設の方で話します」
体が解放され、ぽんと背中を叩かれる。見ると、俺を抱きかかえていたのは、映画の中でしか見た事の無いような屈強な男だった。体つきに似合わず、人懐っこい笑顔でこちらを見ている。軍人かと思ったが、服装が違う。この男も財団職員なのか。
周りを見渡すとここは、裏路地といった雰囲気の場所だ。建物の感じから日本ではないことがわかる。周囲には他にも十数名の人間がこちらを見て立っている。全員普段着といった服装だが、通りすがりの者ではないだろう。皆、財団職員なのだろう。
助かった、のか。
いまいち実感が湧いてこない。
「どうぞ、こちらへ」
目の前に担架が運ばれて来た。断ろうかとも思ったが、それもまた面倒だったので促されるままに横になる。
「施設につくまでの間、眠っていて下さって結構です」
そう言われても眠くはなかった。
担架は近くに停めてあったバンの中へと運び込まれる。
中の椅子は倒されており、ベッドのようになっている。俺はそこへと寝かされる。
外見は普通のバンだったが、中は妙に広い。気のせいか、それとも、財団の科学力によるものなのだろうか。
担架を持っていた男達が車から降りる。扉が閉められたのと同時に、天井の明かりが白から青に変わった。
体に振動を感じる。
どうやらエンジンがかかったようだ。
運転席は、こちらとは色ガラスで遮られており見えない。
突然、強烈な睡魔が襲いかかる。
ああ、何かされたのだな、と思うより早く俺の意識は闇へと落ちて行った。
──こうして目覚めるのは何度目だろうか。まるで場面転換のへたくそな映画のようだ。
こんなに頻繁に気絶していては、体の何処かがおかしくなってしまうのではないだろうか。
辺りを見渡す。
明るく、清潔な、病室のようだ。
ようやく、助かったのだという実感が湧いてくる。
ベッドの上へ半身を起こす。腕に違和感を覚えたので見てみると、点滴の針が刺さっている。少し怖いと感じたが、そのままにした。
サイドのテーブルにはご丁寧に花まで飾られている。
さて、これからどうするか──。
その時、部屋の扉がガチャリと開き、あの小柄な男が入って来た。おそらく、何処かで監視していたのだろう。
「気分はどうですか?」
正直全く良く無かったが「悪くない」と答えた。
男は柔和な笑みのまま、ベッド脇の椅子へと腰をおろす。
「先に自己紹介をしておきましょう。私の名前はトニーです。SCP財団の職員で、ここは財団の管理する病院です」
「キシダ……、ユキオです」
半ば形式的に頭を下げる。おそらく、名乗らずとも知っているだろう。
「さて、何処から話しましょうか……」
トニーは首を傾げ、顎をさすった。
「……何処から、知っているんですか?」
「我々があなたについて知っている事で一番古い情報は、およそ一年前に起きた『173事件』からです」
「一年、前……?」
まさか、あれからそんなに経っているというのか?
どの段階で、どれだけの時間が流れていたというのか……。
聞きたかったが、今は黙ってトニーの話を聞く事にした。
「その少し前から、SCP─095─JPが何か動き出したという情報は掴んでいました」
「『サトウサイトウ』……、でしたっけ?」
「そう……。何処でそれを……? ああ、いえ、良いです」
トニーはまた長い顎をさする。癖らしい。
「すぐに対処しようとしたのですが、しばらく様子を見るよう上層部からの命があり、我々は監視を続けていました。その時点でおかしいと思っていれば良かったのですが……」
「『173』はどうやって街に入り込んだのですか?」
「イチナナ……? ああ、はい。それが……、詳しい経路についてはまだわからないのです。173は現在確認されている限り、全てのものが監視下にありました。しかし、そのうち三体がいつの間にか監視下から消えていたのです」
三体……。俺があの施設の中で見た数と一致する。
「内部の犯行、ですか?」
「それにつきましては、調査中、としかお答え出来ません。我々が気付いた時には、もう街は壊滅状態でした」
「監視していたのでは?」
「はい。しかし、これも不可解な命令により……」
「命令を下したのは誰ですか?」
「それは……」
「ギデオン博士ですか?」
トニーの顎をさする手がぴたりと止まった。明らかに、動揺している。
「ギデオン……。ユキオさん、その名前を、何処で?」
「俺が閉じ込められていた施設の中で、です」
「博士に会ったのですか?」
「はい」
少し考え込んでから、トニーは口を開いた。
「ユキオさん。これで状況がようやく把握出来ました」
「……?」
「ギデオン博士。彼の事を我々は別の名前で呼んでいます」
「……まさか」
「SCP―431『ギデオン博士』。ユキオさん、済みませんが先にあなたの話を聞かせていただけないでしょうか。いったいあなたは、あの地下施設の中で何を見て、何を聞いたのですか?」