Neetel Inside ニートノベル
表紙

SCP-173
第三章

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第二十一話

「ユキオです」
 少しだけ緊張しながら、俺はトニーの部屋の扉をノックした。
「どうぞ」
「失礼します」
 ゆっくりとノブを回し、部屋に入る。
 トニーの表情が気になったが──、無表情だ。
 手で促され、机を挟んで向かいに座る。
「……漸くですね」
 我慢出来ずに、トニーが口を開くより先に言った。
 この一年。俺は財団の指示で、様々なSCPとの接触や対話を試みてきた。対象は未分類のものから、それこそネットで見た事のあるような『有名な』ものまであった。幾つかは有益な結果を得られたが、ほとんどは全くの徒労に終わった(周りの職員の話によれば、これでも収穫は多い方だという)。
 具体的にどんな事をしたかというと、あるSCP(これは未分類のものだった)の時は、単純に素手で触ってみるよう指示をされた(俺で『実験』する前に、生命を脅かすような危険が無いか、Dクラス職員でテスト済みと聞かされた)。結果としては無反応。しかし──詳細は教えてくれなかったが──Dクラス職員が触った際には反応があったそうだ。つまり、このSCPは俺の体質──頭の中にある金属の影響で反応が抑えられるという事がわかった。
 他にも人間の姿をしたSCPと対話させられた事もあった。その時は特別な結果は得られなかったのだが、なかなか貴重な体験だった。

 俺は仕事をしながら、ずっと『イチナナサン』との接触実験を許可してもらうよう要求し続けた。しかし財団が貴重な『モルモット』である俺を簡単に死の危険に曝す様な事をするわけも無く、要求は却下された。それでも俺が何度も訴え続けたのは──、上手くは言えないが、それがアイデンティティの確立には絶対に必要と思ったからだ。
 財団は俺が本当に『イチナナサン』の攻撃対象にならないのか疑っている。それは職員達──特に博士達の言動の端々から見てとれた。俺がギデオン博士の送り込んだスパイだと考える人間も少なからずいるようだ。そんな風に思われるのは、俺には耐え難い。博士は──ギデオン博士は、俺の家族や友人達の仇なのだから。
 昨日、『実験』を終えた俺にトニーが声をかけた。
「明日の十三時に私の部屋へ来て下さい」
 それを聞いた瞬間、俺はピンときた。ついに、許可が下りたのだと。

「……一昨日、財団がユキオさんの申し出に対して、許可をしました。明日の十四時に隔離棟にて、ユキオさんには『173』と直接の接触を試みていただきます」
「はい」
 俺はトニーを真っ直ぐに見据えて答えた。トニーもいつものように顎を撫でながら、俺を真っ直ぐに見ている。
「これは大変危険な実験ではありますが──」
「わかっています。しかし──」
「大丈夫です、ユキオさん。私はユキオさんを信じています。私が心配しているのは……、心配しているのはそこでは無いのです」
「……?」
 トニーが小さく咳払いをした。何か、言いにくい事なのだろうか。
「……この一年。ユキオさんは色々な実験に率先して参加して下さいました。その結果、財団は非常に有益な情報を沢山得る事が出来ました。ありがとうございます」
「いえ……」
「しかし……、中には多少危険な実験も含まれましたが、命の危険があるようなものは無かったかと思います」
「そう、ですね」
 何が言いたいのだろう。
「今回の実験は、非常に危険な実験です。最悪死ぬ危険性もある実験です」
「大丈夫ですよ」
「はい。わかっています。問題は、財団がそういった死の危険を伴う実験を許可したという事なのです」
「つまり……?」
「つまり……、そうですね……。厳しい言い方をすれば、財団がユキオさんが最悪死んでも問題無い、と判断したという事になります」
「……そんな、まだたった一年ですよ? まだまだ調べて無いSCPだって──」
「もちろんです。もちろん今回の許可が『処分』を意味しているとは思いません。しかし、ユキオさんも気付いているとは思いますが、職員の中にはあなたをギデオン博士のスパイだと考えているものもいます」
「……」
「例え今回の実験の結果、あなたが無事だったとしても、それが即ちスパイで無い事の証明になるわけではありませんが──」
「無事ならまだまだ生かす価値があるとわかるし、死んでしまったなら『怪しい奴が処分出来た』という事で良し、と?」
「あくまでも私の推測ですが……」
 そう言ってトニーは黙った。
 そこまでは……、正直考えていなかった。
 今回の実験が成功に終わるのは確実だが、その結果、俺の評価はいったいどうなるのだろうか?
 余計に疑いが強まるという事は無いだろうか?
 実験が成功すれば、俺の言っている事が真実だと単純に証明出来ると考えていたが、現実はそう甘く無いらしい。
「──それでも、ありがとうございます。俺、嬉しいですよ」
「……そう言っていただけると助かります。では、明日のブリーフィングを始めます」
 トニーが机の上のファイルを開く。
 表紙には『SCP―173』の文字。
 表紙を捲ると、そこには忘れもしない『ヤツ』の写真があった。
 明日、ついに『イチナナサン』に会える。
 会ったら、一発ぶん殴ってやろうか。
 スパイで無い事のアピールにもなるかも知れない。
 俺は思わず笑いそうになるのを堪えながら、トニーの話に耳を傾けた。

   ***

 俺は分厚い、無機質な扉を前に深く息を吸った。
 この扉の向こうに『イチナナサン』がいる。
「準備はよろしいですか? よろしければ、カウントを開始します」
 耳に入れたイヤホンから聞き慣れたスタッフの声がする。
 準備は出来てるかって?
 当然出来てるさ。
 でもその準備は俺がしたんじゃない。
 誰かが──おそらくはギデオン博士が──勝手にやったんだ。
 頭の中にふと『復讐』という言葉が浮かんだ。
 復讐?
 今まで不思議と考えた事が無かった。
 俺から全てを奪った相手に復讐する。
 考えてみれば当たり前の思考じゃ無いか。
 でも、どうやって?
 ……いや、やめよう。こんな事、今考える事じゃない。
 気を紛らわすように、ぐるりと周りを見渡す。
 地下格納庫の様な部屋。
 銃を構えた職員はいないが、中二階の回廊があって……。
 そして、この分厚い扉。
 ああ、いつだったか、ゲームで見たのと同じ景色だ。
 あの時は……、そう俺の部屋で、ユタカがPCに向かっていて……。
 涙腺が、つんと痛む。
「準備はよろしいですか?」
 イヤホンから再度確認の声が聞こえる。
 いけない、感傷的になっている場合では無い。
「OK」
 俺の返事を合図にカウントが始まる。
「カウントが終わったら、扉が開ききるまで決してまばたきをしないようお願いします」
 わかってるさ。

 ──、
 3、
 2、
 1……。

 カウントが終わり、扉が小さく軋みながら上に開いていく。
 ゲームで見た時より、恐怖は感じなかった。
 そう、大丈夫。
 俺は大丈夫だってわかっている。
 ヤツの姿が、足下から少しずつ顕わになっていく。
 広い部屋の左手の隅。
 これもゲームと一緒じゃ無いか。
 何だか、現実味が失せていく。
 だけど、これはゲームじゃ無い。
 現実なんだ。
 扉が完全に開いた。
 俺はしっかりとヤツの姿を確認してから、ゆっくりと、目蓋を閉じた。

     

第二十二話

「ユキオ」
 食堂で休んでいると、ハビエルが声をかけてきた。
 彼とは歳も近く、同僚の中でも一番親しくしている。
「どうした?」
 座ったままの俺を見下ろす彼の身長は190センチ弱。横にも若干広めな体は、こうして見上げるとまるで壁の様だ。
「トニーさんが呼んでたぜ」
「ああ」
「昨日の実験についての話かな? 大成功だったんだろ?」
「もちろん」
 昨日──、俺は『イチナナサン』との接触実験を行った。実験内容は非常にシンプル。ヤツを目の前にしてまばたきをするだけだ。
 結果は、成功。
 俺は『イチナナサン』と二人きりの部屋で、何度まばたきをしても殺される事は無かった。まばたきをする度に、俺の目の前までは来るのだが、決して攻撃はしてこなかった。
 この結果は、俺にとってはわかりきった事だったが、周囲の人間を非常に驚かせた。その驚きの大きさは、即ちどれだけ俺が疑われていたかという証明だった。実験終了後、俺と入れ替わりにDクラス職員で再度試したというから、全く信用が無い(Dクラス職員はもちろん、死んだ)。
「俺は信じてたぜ、ユキオ」
「調子良いな」
「何言ってんだよ。俺がいつお前を疑った?」
「さあね。で、トニーは何だって?」
「メディカルチェックが終わったらトニーさんの部屋に来いってさ。飯食ってるって事は、チェック、終わったのか?」
「終わったよ」
「どうだった?」
「どうって……、別に、何も変わらないよ」
「そりゃ良かった」
 ハビエルがほっとした表情で俺の肩を叩く。
「──っ、痛いな。あー、骨、折れたかも。これじゃまたメディカルチェックしなきゃだ」
「何だって? ユキオは勉強ばっかじゃ無くて、もっと体を鍛えないとダメだな」
「うるさいな」
 食器の乗ったトレイを手に立ち上がる。立ったところで、ハビエルを見上げる構図に変わりは無い。
「なあユキオ」
 歩き出した俺の後ろをついてハビエルが言う。
「何?」
「夕食が終わったら、俺の部屋に来いよ」
「またポーカーか? 賭けるならパスだぜ」
「そうじゃねえよ」
「酒なら少しくらいだったら──」
「いや、まあ酒も飲むだろうけどさ。たまにはちょっと語ろうぜ」
「何を?」
「何をってわけじゃねえけど……。ま、良いから来いよ」
「……わかった」
 俺が首を縦に振ると、ハビエルは「じゃあ後で!」と去って行った。
 ──ハビエルの意図はわからなかったが、悪い気はしなかった。
 彼は、俺の事を友達だと思っている。……もしかしたら親友とも。
 確かに、俺も彼を友人だと思っているし、親友と言って良い程に余暇の大半を共に過ごしている。
 しかし、俺は何処かで心にブレーキをかけてしまっている。
 何処かで、あまり親密になり過ぎないようにしてしまっている。彼も、きっとそれには感づいているだろう。
 これではいけない事はわかっている。何より彼に失礼だ。
 ……今夜、彼は俺と何を語りたいのだろう。
 俺は少しもやもやとした気持ちで、トニーの部屋へと向かった。

   ***

「昨日はお疲れ様でした」
 俺が腰掛けるのを待って、トニーは口を開いた。
「予想通りの結果となって安心しました」
「反応は予想以上の大きさでしたけどね」
 俺の皮肉にトニーは苦笑いする。
「で、今日は何の話しでしょう。次の仕事についてですか?」
「はい。ただ、すぐにというわけではありません。先程、改めて脳内の金属片を採取させていただきましたが──」
「検査結果が出るのにひと月くらいかかると聞きました。驚きましたよ。頭の中の物をあんなに簡単に採取出来るんですね。全く痛く無かったですよ」
「上層部も改めて、あなたの価値について見直したようです」
「『俺の』じゃなくて『俺の頭の中の金属の』じゃないんですか?」
「……否定は出来ませんね。それで、その検査結果を踏まえて、次の実験を行いたいと思います」
「結果が出るまでの間は?」
「一ヶ月間、休暇をとって下さい。ここへ来てから、まとまった休暇を出せませんでしたから」
「休暇なんて、俺……」
 働いている時の方が、色々余計な事を考えなくて済むから良い。一人になると、今でも時折『イチナナサン』や『ゼロキュウロク』の顔がちらついて──、眠れない夜もある。
「時には休む事も必要ですよ」
 優しくも強い口調でトニーが言う。
「……命令ですか?」
「そうとらえていただいても結構です」
「……わかりました。で、休暇明けの仕事内容は何です?」
「はい。少し、言いにくいのですが……、しばらく別のサイトへ移動していただきます」
「何処へ?」
「サイト17です」
「そこで、何を?」
「あくまでまだ予定段階ですので、検査結果を踏まえて、決定した内容をお話しします」
「秘密ですか」
「現段階では」
 今まで、こんな事は無かった。大きなプロジェクトなのだろうか。
 俺の気持ちを汲み取ったのか、トニーが少し声のトーンを落として言う。
「実験内容自体は、決して難しい事ではありません。ただの対話実験です。期間も非常に短時間のものとなる予定です」
「……相手が、特殊なんですね」
「はい。一歩間違えれば……、世界が滅びかねません」
「世界……」
 これは、思った以上に大事だ。いや、大事なんてもんじゃない。
「ですから、検討の結果中止となる事も大いにあり得ます」
「……残念なような、嬉しいようなですね」
「もし実験が中止となった場合はサイト17への移動も中止となりますので、安心して下さい」
「わかりました。以上ですか?」
「はい。本日はもうお休みいただいて結構です」
 俺はいったん腰を浮かせたが、思い直して再び腰を下ろした。
「まだ何かご質問がありますか?」
「サイト17には、トニーさんも来ますか?」
「ええ、もちろんです」
「安心しました。人見知りじゃ無いですけど……、知らない人ばっかのとこに行くのも不安だったんで」
 俺の言葉に、トニーの表情がふっと緩む。
「……私がこの施設へ来たのは、五年前の三月五日の事でした。五年前の三月五日です」
「……はあ」
 トニーが自分の事を話すのは珍しい。もしかしたら、出会って初めてかも知れない。
「来たばかりの頃は──当然と言えば当然ですが──親しいものもおらず、また、私自身も周囲と打ち解けられずに、半年くらいはとても辛かったです」
「ここに来る前は、何処に?」
「……別の、施設です」
 歯切れが悪いが、詮索は止めた。
「一年近くの間、私は独りぼっちでした。しかし、この財団の仕事は決して明るく楽しいものではありませんが、働いている職員は優しく気の良い人間ばかりです」
「たしかに、その通りだと思います」
「私にも、何人かの友人が出来ました。彼等は、今の私の心の支えです。彼等がいるからこそ、この先の……、どうなっていくのか想像もつかない未来だって、楽しみに思えるのです。ユキオさん」
「はい」
「移動する事になったとしても、このサイトにいる友人と永遠にお別れというわけではありません」
「わかっていますよ」
 そう答えたが、正直不安だった。
「この休暇は是非、友人達とお過ごし下さい。二名程度であれば、ご使命の職員に休みをとらせます。さすがに、一緒に一ヶ月というのは無理ですが」
「有り難うございます。でも、俺……」
「ユキオさん、これは私なりのプレゼントなんです。受け取って下さい」
 そう言われると、辛い。
 俺も休みが嬉しく無いわけでは無いのだが……。
 この胸のもやもやは、何と説明すれば良いのだろう。
「有り難うございます」
 立ち上がり、頭を下げた。
 嬉しい顔ひとつ作れないのだから、情けない。
 退室し廊下へ出る。
(休暇、か……)
 休暇と言っても、サイトの敷地内からは出させてもらえないだろう。敷地内には森やちょっとした湖などもある。ハビエルを誘って、そこでキャンプでもしようか。二名程度なら休みを合わせてくれると言っていた。もう一人は誰を誘おう。いくら仲が良くても、男二人のキャンプは寂しい。ダリオでも誘おうか。あいつは確かボーイスカウトをやっていたと自慢していたっけ。
 ──、こうして考えていると、少し休暇が楽しみになってきた。
 高校時代の夏休みの思い出が頭を過ぎりそうになったが、慌てて打ち消す。
 せっかくの休暇だ。楽しまなくては、トニーに申し訳ない。
 俺はキャンプの計画を練るために、小走りに自室へと向かった。

     

第二十三話

「休暇は満喫出来ましたか?」
 休暇の最終日である今日、珍しくトニーが俺の部屋に来た。
 最近、自室では床生活の俺は、彼と卓袱台を挟んで向き合っている。
「ええ」
 俺はこの一ヶ月間の長いバケーションを思い返した。
 ハビエルとダリルと三人で行ったキャンプの事──湖に飛び込んだハビエルが足をつって溺れそうになったり、ダリルがたき火の火を大きくし過ぎて前髪を燃やしてしまったりした──や、久しぶりに一人自室に籠もってだらだらと過ごした事や、そんな俺のところに同僚達が入れ替わり立ち替わりサボりに来た事等が頭の中に浮かんでは消える。まるで学生時代に戻ったかのような、素晴らしい休暇だった。
「体調はいかがですか? 遊び疲れてはいませんか?」
「大丈夫ですよ。そういえば──」何気ない感じで、訊ねる。「どうなりました? サイト17に移動する件」
 トニーはいつものように顎をさすり、少し考えるような表情をしてからこたえた。
「決まりましたよ。正式なブリーフィングは明日行います」
「そうですか……」
「……寂しいですか?」
 心配そうな表情でトニーが言う。
「そりゃあ……、少しは。良い、休暇だったもので……」
 幸せな思い出は、時に哀しみを尖らせる。しばらくの間とはいえ、仲間達と離れるのは寂しく感じる。一ヶ月前より、ずっと……。
「どんな仕事内容なんですか?」
 気を紛らわすように訊ねる。
「詳しくは明日話しますが──、良いでしょう。仕事内容は幾つかありますが、今回のメインとなりますのは『239』との対話実験です」
「SCP……239?」
 何だっただろうか。
「SCP―239は本名をSigurros Stefansdottirと言います。彼女は通称……、『ちいさな魔女』と呼ばれています」
「──っ」
 思わず、言葉に詰まる。
 SCP―239、ちいさな魔女、オブジェクトクラス──。
「ケテル……」
「そうです。今回ユキオさんには初めてKeterクラスのSCPと会っていただきます。その様子ですと、彼女の能力はご存じですね?」
「……もちろんです」
 彼女──『ちいさな魔女』といったらネットのwiki(実は財団が『もしもの時の為』に運営している)にも載っているくらい有名だ。彼女は、実行する意志を表現しさえすればなんでも行う事が出来る、といわれている。その為、彼女に嫌われ『消えろ』と念じられたら、本当にこの世界から消えてしまうという事だ。接し方を一つ間違えば──、世界は一瞬で滅ぶだろう。
「何故……、俺が、彼女と?」
 襟元が冷たい。頬を伝う雫を感じる。
「サイト17の保安職員には、テレキル合金製のヘッドギアを装備する事が義務づけられています」
「……」
「また、彼女に物理的に攻撃──と言ったら物騒ですね、注射等を行う場合、テレキル合金製の針以外で肌に刺す事が出来ません」
「……彼女と、テレキル合金の関係は?」
「わかりません。テレキル合金は、他のSCPと同じ場所に保管する事を禁じられています。それは予測不能な相互作用を引き起こす恐れがある為です」
「じゃあ……、じゃあ俺の今までの実験って……」
「そうです。あなたが思っていた以上に危険な実験でした」
「……もしかして、今、俺がこうして生活している事も、実験なんですか? 周囲への影響や、俺自身への作用を……」
「否定は出来ません」
 財団を信用していたわけではないが、思いの外ショックだった。俺が実験対象となっていた事に対してではない。自分がモルモットだという事はわかりきっている。ショックなのは、俺自身がただいるだけで周りに影響を与えている可能性があるという事だ。このサイト15の中には沢山のSCPが収容されているし、職員の数だって多い。もし、それら全てに対して何らかの影響を与えていたとしたら……。
「……よく、俺みたいな危険なのを野放しにしてますね。このサイトの他のSCPに何かあっても良いんですか?」
「危険は無い、という上層部の判断からですよ」
「何の影響も無い、と?」
「無差別には」
「無差別?」
「ユキオさんの頭の中のそれ──は、ユキオさん自身がSCPに意図的に接触したり、たとえ無意識でもそのSCPの効果範囲内に立ち入ったりしない限りは、特別な影響を周囲に与えないようです」
「そんな事、どうしてわかるんですか?」
「あなたが寝ていた間にも、財団は昼も夜も無く動いているのです」
 つまり、あの地下室から保護されて今の仕事に就く間に色々下調べは済んでいた、というわけか。
「……彼女は昏睡状態にされていると、見た記憶がありますが」
 財団の資料は勝手に見る事が出来ないが、ネットの情報ならば記憶にある。もっとも、ネットに書いてあるのは事実を面白可笑しく歪曲したものに過ぎないが──。
「誰かが眠り姫のお話でも読んで聞かせたのかも知れませんね」
「本当ですか?」
「いいえ、冗談ですよ」
 トニーが冗談を言うのを初めて聞いた。が、笑える状況じゃない。
「少なくとも今は、彼女は目覚めています」
「俺の為に起こしたんですか?」
「そんな危険は冒せませんよ」
 どうやら本当のところを教える気は無いようだ。
 無理に探りを入れても無駄なので諦める。
「明日、朝食後に私の部屋へいらして下さい」
 そう言ってトニーは立ち上がった。
「はい……」
 引き留める言葉が見つからない。
「それでは」
 扉がパタンと閉じる。
 天井のライトは部屋の中を煌々と照らしているのに、何だか薄暗く感じた。

「──おめでとう、と言うべきかな」

 その時、背後から聞き覚えのある声がした。
 間違いない。
 間違えるはずもない。
 なるべく動揺を悟られないように、ゆっくりと振り向く。
「……ギデオン」
「久しぶりだね。まあ、私からすれば全然久しぶりでは無いがね」
 そう言って博士は勝手に俺の向かいに腰を下ろした。
「ジャパニーズスタイルだね」
「ずっと監視していたのか?」
「していないとでも?」
「……何の用だ」
 必死に平静を取り繕うが、震える声は隠せない。
「今日は、ひとつ忠告をしに来た」
「忠告?」
「そう。今度、サイト17に移動するそうだね?」
「お前の仕業なのか?」
「それは誤解だよ。むしろ私は君に、このサイト15でやってもらいたい事があるんだが……、それは、今日は良い」
 気になったが、黙った。
 こちらから気のある素振りを見せるのは危険だと思った。
「君がサイト17に移動する事になったのはあの男──トニーと名乗る人間のほぼ独断によるものと思って良い」
「トニーの?」
 そんな権限があるとは思えないが……。
「いったいどうやって上層部を説き伏せたのか、それは私にもわからなかった。そう、私にも、わからないのだ!」
 博士が、初めて声を荒げた。
「あの男については、私の力を持ってしても、生まれも育ちも経歴も、何もわからないんだ。いつ、どうやって財団職員となり、いつ、どういった理由でこのサイト15に移動になったのか、どの資料を見てもわからなかった。いえ……、正しくは『見てもわかる事が出来なかった』」
「わかる、事が?」
 どういう意味だろうか。
「あの男には注意した方が良い。これは、私からの忠告です」
「……」
 また何か騙すつもりだろうか。真意が見えない。
「私の言う事が信じられないのなら、これをご覧なさい」
 そう言って博士は卓袱台の上に一冊のファイルを投げ出した。表紙にはトニーの名前が記してある。
「彼の資料だ」
 博士の言う『わかる事の出来なかった』資料か。
「彼が何を目論んでいるのかはわからないが、君に死なれては困りますからね。とはいえ、表立って護る事も出来ない」
 護る?
 何から?
 ──トニーから?
「無事、サイト17から戻る事を祈ります」
「待っ──」
 はっとして顔を上げたが、もうそこに博士の姿は無かった。
 後には、トニーのファイルだけが残された。

     

第二十四話

「──緊張されているのですか?」
「……いえ」
 目隠しをしたまま、俺は隣にいるトニーから顔を背けた。
 あれから三日。
 俺は今、サイト17へと向かう車の中にいた。
 別のサイトに向かう時はいつもの事なのだが、ここまでの移動は楽なものではなかった。
 まず、サイト15を出る前に薬で眠らされ、気付いた時にはこの目隠しをした状態で飛行機の中だった。それから何度も乗り物を変え、時間の感覚も無いままここまで来た。その間、ずっと目隠しはしたままだ。
 トニーはこの車での移動が最後だと言っていた。

 ──トニー。

 あの日、博士が置いていったファイルを、悩んだ挙げ句に俺は読んだ。
 そこに書かれていたのはトニーに関する出自や経歴、どのようにして財団職員となり、いつどんな理由で今のポストについたのか、という事が書かれていた。
 博士はこのファイルを指して『見てもわかる事が出来なかった』と言ったが、俺にはその意味がわからなかった。自分が読んだ限りは、普通の人事ファイルにしか思えなかった。
 しかし、博士がああ言うからには、きっと普通のファイルでは無いのだろう。それは、このファイル自体が特殊な物──もしかしたらSCPであるという事だろうか。それとも、トニーが──?
「どうかな?」
 ファイルを読み終わった俺に、後ろから声をかける者があった。
 振り向いて誰何する必要は無い。
「ギデオン……、今日は忠告だけだったんじゃないのか?」
「君は、そのファイルを読んでどう思った?」
「……」
 どう、と聞かれても、普通のファイルにしか見えない。
 博士の意図が読めず、俺は黙った。
「普通に、読めたんだね? 素晴らしい」
 何が素晴らしいのだろう。
 黙ったままの俺を無視して博士は話し続けた。
「実験……いや、確認する手間が省けたよ。これでようやく、君に仕事を頼む準備が整った」
 仕事──。
 俺はあの時の博士の言葉を忘れた事は無かった。
《次は、仕事を依頼させてもらうよ》
「……断る、と、言ったら?」
「それでこの関係を終わらせられると思うのなら、そうすればいい」
「……」
 言っている事は、不良の学生と何ら変わりない。それでも、博士の言葉には恐ろしい程の重みを感じた。
「仕事の内容は簡単だ。サイト19にいるSCP―55について調べて、報告して欲しい」
「サイト19? サイト15でやって欲しい事があるって言ってなかったか?」
 サイト19には何度も行っている。財団の中でも最大規模の施設だ。
「それはもう良い。サイト17の仕事が終わったら、サイト19へ移動するよう、すでに手は回してある。そう、懐かしい『イチナナサン』のいるサイトだ」
「……まだ俺は、仕事を受けるとは言って無い」
 奥歯を噛む音が頭蓋に響く。
 どうすれば、俺はこの男に反撃する事が出来るだろうか。
「家族を、生き返らせたくは無いのか?」
 ──生き返らせたいに決まっている。しかし、博士の言葉は信用出来ない。
「別にデメリットは無いと思うが……」
 デメリット……。確かに、そうなのかも知れない……。別に、博士が家族を生き返らせなかったとしても、仕事を受ける事で縁が切れるのなら……。いや、果たしてそうだろうか……。わからない。
「ただSCP―55の情報を調べて報告してくれれば良いんだ。それだけの、簡単な仕事だよ」
 SCP―55とは、どんなSCPだっただろうか……。危険は無いのか? 思い出せない。
「まあ、無理に今返事する事は無い。どちらにせよ、サイト17での実験が終わらなくては、ね。私も楽しみにしているんだ。あの可愛らしい魔女と、君がどんな会話をするのかね」
 そう言って博士は、俺の返事を待たずに虚空へと消えた。
 SCP―55……。
 俺は部屋を飛び出し、資料室へと向かった。
 そして、SCP―55に関する資料を探した。
 しかし──、何も見つける事が出来なかった。
 いや、資料はあった。あったにはあったのだが、そこには、SCP―55に関する極めて簡単な説明のみが記載されていた。
(SCP―55に関する性質や振る舞い、起源等の本質的な情報は自動的に隠蔽される……)
 つまり、記憶や記録をする事が出来ない、という事だろうか。
 なるほど……。
 博士が『見てもわかる事が出来なかった』ファイルを何故俺に読ませたのかがわかった。

「──ユキオさん、着きましたよ」
 トニーの声にはっと我に返る。
 いつの間にか車は停まっていた。
「目隠し、はずして結構です」
 言われるがまま、目隠しの布(財団の事だ、ただの布かどうかはわからない)を外す。暗闇に慣れた眼に、日差しが容赦なく突き刺さる。今は、何時だろうか。
「まずはユキオさんがしばらく暮らす事になる部屋へとご案内します。それから昼食を摂って、実験に参加するメンバーとの顔合わせです」
 取りあえず、今が昼だという事はわかった。

 自分の部屋に案内された後、トニーは食堂の場所を俺に教え、何処かへ行ってしまった。
「済みませんが行かなければならないところがありますので、一緒にランチは出来ません」
「わかりました」
 一体、何処へ行くのだろう。
 別に、こうしてトニーがいなくなるのは珍しい事では無い。むしろ一緒に食事をする方が珍しい。俺の担当官といっても、別に四六時中べったりくっついているわけでは無いし、彼にも彼の仕事があるだろう。
 しかし……、今俺は何処か疑心暗鬼になっている。
 もしかしたら、トニーもギデオン博士のようなSCPなのだろうか?
 そんな疑いが、どうしても晴れない。
 確かめるにも術が無い。
 これは博士の策略だろうか?
 もやもやとした気持ちのまま、荷解きを済ませる。
 壁に掛かった時計を見ると、短針は頂点から少し下ったところにある。
 さほど空腹感は無かったが、気分転換も兼ねて、食堂へと向か事にした。
 部屋を出ると、廊下の向こうに人影が見えた。食堂のある方からこっちへ向かって歩いている。サイト17職員だろう。挨拶をした方が良いだろうか。
 そちらへ向かって歩いて行く。
 少しずつ、近付く毎に、その人物の容姿がはっきりと見えてくる。
 男だ。
 年齢は、三十代くらいだろうか。
 黒髪で、肌はとても日に焼けている。
 服装から見て、研究員には見えない。
 もしかしたら──、SCPだろうか。
 サイト17には脅威の少ない人型のSCPが多くいると聞いた。
 男との距離がどんどん縮まる。
 はっきりと顔の見える距離だ。青い瞳がこちらを向いている。
 額に、何か書いてある。刺青だろうか。それとも──。
「キシダ・ユキオさんですね」
 ふいに男が話し掛けて来た。日本語だ。しかも発音はネイティブと変わらない。
「は、はい」
 まさかこの風貌で日本語を喋るとは思わなかったので、驚いた。
 何故、俺の事を知っているのだろうか。
 もしかして今回の実験に参加する職員なのだろうか。
「博士の依頼を受ける事は、あまりお勧めしません」
「……は?」
 またも予想外の言葉に、思わず間の抜けた返事をしてしまった。
 博士……。
 博士だって?
 まさか……、ギデオン博士と俺のやり取りを知っているとでもいうのか?
「あ、あなたは……」
 そのまま通り過ぎようとする男へ、慌てて声を掛ける。
 しかし男は歩みを止めず、冷たい口調で一言。
「カイン」
 とだけこたえた。

     

第二十五話

「『カイン』? ああ、彼は、そう、SCPだよ。SCP―07……3、だったかな」
 昼食、チームとの顔合わせ、と済ませた俺は、自室に戻るその途中でチームメイトの男に声を掛けた。小柄で眼鏡でボサボサの髪型。見るからに研究者タイプの男だ。若そうに見えるが、幾つくらいなのだろうか。彼は顔合わせの時、アルバートと名乗っていた。
 俺は彼に昼前に廊下で会った男について訊ねた。
 トニーに聞こうかとも思ったが……、何となく、憚られた。
「彼は、有名だから。調べれば、すぐわかるよ。確か、閲覧制限は無かったと、思うから。あれ? どうだったっけな……」
「ありがとう」
 俺はついでにファイルが何処で読めるかを訊ねた。後で読んでみるとしよう。
「彼のファイルは何処で読める?」
「ああ、ほら、それ」
「それ?」
「そう、それ」
 そう言って俺の服を指さす。
「服が、何か?」
「それ、ポリエステルだろ? 君、サイト15から来たなら、支給されてるシャツは木綿のはずだ。あれ? ポリエステルのもあったっけ?」
「両方あるよ」
 舌足らずで歯切れの悪い彼の口調は、普通であれば苛々させる様な喋り方だが、彼は何だか憎めない。むしろ──滑稽と言ったら失礼だが──個性的で、魅力的に思える。恐らく生まれ持ったものなのだろう。
 思わず、頬が緩み、初めて自分が緊張状態にあったのだと気付く。
「でもここに来る前に、木綿のシャツは置いてけって言われたから、今持ってるのはポリエステル100%のシャツだけだよ」
 サイト17に来る前には必ず義務づけられる事であるが、理由までは気にしていなかった。この財団で働く上で、無知でいる事は時に博識よりも身を助けると、経験的に知っているからだ。必要な事であればトニーが教えてくれるはずである。その、はずだ。
「後、本や紙媒体は全てデータに置き換えるように言われて来たけど……。それと、彼──カインと何か関係が?」
 俺の言葉にアルバートが嬉しそうに頷いた。
「そうなんだよ。だからね、紙のファイルはこのサイトには無いんだ。基本的にはね。だから、ええと、何が言いたいかというと……」
「──『カイン』のファイルはネットワーク上のデータベースにある、と?」
「そう! でも、部屋の端末からは見れないからね。ちゃんと、別に、部屋があるんだ」
 そう言って彼は手に持っていたタブレット型の端末をおもむろに操作する。
 間もなく、俺の持っている端末へとメールが届いた。画面を見ると、どうやらこのサイトの地図を送ってくれたらしかった。
「ありがとう」
 既に案内図のデータは持っていたが、素直にお礼を言った。気遣いが嬉しかった。まるで転校生の気分だ。
「良いんだよ。僕等はチームだからね。チーム……いや、違うな……。そう……、そうだ! 僕等は騎士団だよ」
「騎士団?」
 思わぬ単語に首を傾げる。
「そうさ。僕等は小さなお姫様を護る騎士団さ!」

 夕食へ向かう前に、俺はデータルームへと向かった。
 アルバート曰く『カイン』はこのサイト17で自由に暮らす事を許されているそうで食事も他の人間と同じ様に食堂で摂っているらしい。と、するとまた食堂で会う可能性は高い。それならば先に情報を知っていた方が良いだろう。
 彼は俺の名前も、博士からの依頼の事も知っていた。注意するべきなのは明らかだ。
「やあ、ユキオ!」
 データルームに入ると、アルバートが待ち構えていたかのように声を掛けてきた。
「アルバート? 君も調べ物かい?」
 笑顔で、しかし何処かで緊張しながら彼の下へと近付く。
 彼はテーブルのモニタを前に座っている。その隣に誰か……、あれは確か……。
「こんばんは、ユキオさん」
「こんばんは。ええと……」
「マリーヤよ」
 そう言って彼女は微笑んだ。
 歳はたぶん俺より一回りは上だろう。銀色に近い銀髪に、薄いグリーンの瞳が印象的だ。
「こんばんは、マリーヤ。どうしてここに?」
「アルバートが、あなたが調べ物に来るだろうから一緒に行こうって……。ごめんなさいね」
「いえ、謝る事は無いです」
「ここのデータベースは、調べるのに、コツがいるから、ね」
「ありがとう」
 モニタの前を二人が空けてくれたので、椅子をずらして腰掛ける。
 正直、調べ物は一人でしたかったが、それはまたの機会でも良い。何となく、人恋しかったのも本当だ。
 椅子に座ると、右隣のマリーヤの方からふわっと良い香りがした。別に俺は年上の女性が好みと言うわけじゃない。良い香りというのは、そうじゃなくて……、母親の様な、懐かしい香りだ。
「ファイルはね、うん、もう開いておいたよ」
「助かるよ」
 確かに、モニタには既にSCP―73『カイン』に関するファイルが開かれている。
 オブジェクトクラスは……、Euclidか。てっきりSafeかと思っていたから、意外だ。
「……なるほど」
 途中まで読んで、ちらりとアルバートの方を見る。
「だから木綿のシャツはダメだったんだね」
「そう。そして、だから、ここの食堂にはパンも、パスタも、クスクスも無いんだ」
「ピロシキもね」
 がっくりと俯いた彼の肩を、マリーヤが微笑みながら優しく叩く。
 まるで親子の様なその光景に……、少しだけ、胸がざわついた。
「『彼の周囲20メートル範囲内に存在する、土で成長する全ての生命は死に絶える』……。けっこう、恐ろしいね」
「恐ろしいよ。パスタが食べたいよ」
「それに『はるか昔のことから現在まで起きた出来事を詳細に説明する事が可能。また、滅んだものも含め世界中で使われている多種多様な言語を話すことが出来る』って、これすごいね」
 なるほど。
 だから俺と博士の事も知っていたというわけか?
 という事は、俺の知らない事も──。
「確かに使い方を間違えれば恐ろしい能力ね」
 マリーヤが俺の顔を覗き込んで言う。
「だけど、彼は私達にとても友好的だわ。彼の財団への貢献度は、たぶん、どの研究者よりも高いんじゃ無いかしら」
「それは、言い過ぎだよ。僕も、彼の事は、そうだね、嫌いじゃ無い、けどさ」
 アルバートは複雑な表情で肩を竦めた。
「──、ユキオは、どうして彼の事を調べたいと思ったの?」
 彼女の瞳が俺を真っ直ぐに見つめる。その表情は穏やかだが……、まるで、母親に怒られている様な気分になる。
「廊下で、会ったんだ。それで、初対面なのに俺の名前を知ってたから、気になって」
「そう。私も同じ経験をしたわ」
「あなたも?」
「ええ……」
 ふ、と彼女の表情が曇る。何か、言われたのだろうか。
「ところでユキオ、そう、『砂糖』……。うん、そう、『砂糖』の事は、調べなくて良いのかい?」
「『砂糖』?」
「『シュガー』と言っても食べ物じゃ無いわよ」
 マリーヤが笑顔に戻って言った。
「『ちいさな魔女』の事よ。勝手な名前やあだ名で呼ぶ事は禁じられているんだけどね……」
「だって、そうだろ、『Sigurros』なんて呼びづらいよ。『シュガー』の方が、うん、ほら、可愛い」
 そう言って彼は、勝手に『ちいさな魔女』のデータベースへとアクセスした。
 間もなく、少女の写真が画面に現れた。
「シュガー……。僕等のお姫様……。彼女の能力は、そう、まさに神の力だよ。そう、そう! 彼女は女神様だ!」
「いつもこうなのよ」
 マリーヤが困った様に笑った。
 俺も同じ様に笑った。
 ……学校のクラスにも、こういうちょっとおかしなヤツっていたよな……。
 また少し、胸がざわつく。
「ねえ、ユキオ」
 唐突に、彼女の表情が真面目になる。
「今回の実験ね、私……」
 そこまで言って、黙る。
 気付けば、アルバートも黙ってマリーヤを見つめていた。
「……ううん、ごめんなさい。何でもないわ」
 自分に言い聞かせる様な口調だ。
「ただね、ユキオ、これだけは覚えておいて」
 そう言って彼女は、俺の右手を両手で握った。
 温かくて、柔らかな手だ。
「あの子の事、実験動物の様には扱わないでね」
「そんな事、俺……」
「ユキオ」
 囁く様な、だけど厳しい声で彼女は言う。まるで、誰かに聞かれる事を警戒しているかの様だ。思わず辺りを見渡す。部屋の中には、俺達三人しか、いない。
「どうして彼女が今目覚めていて、どうしてこんな実験が行われる事になったのか、私にはわからない。ユキオ、あなたを責めてはいないの。でもどうか、この実験に何の意味があるのか、それをしっかり考えてちょうだい」
「意味……」
 この実験の結果、財団がどんな情報を得ようとしているか、という『目的』の事を言っているのでは無さそうだ。
「そう、意味。きっと、こうなった事には、何か意味があると思うの」
 いつの間にかマリーヤの後ろに立っているアルバートも、こちらを真っ直ぐに見て頷いた。
(意味……)
 心の中で繰り返す。
『目的』では無く『意味』。
『何の為に実験を行うのか』という事では無く『何故実験が行われる事になったのか』という事か?
 誰か……。
 博士はこの実験はトニーのほぼ独断で決まったと言っていたが……。
 いや、違う。
『誰かが何かの為に』という事じゃないんだ。
 意味……、それは、『運命』という事か?
 わからない……。
 そんなの、わかるわけが……。
(意味……)
 マリーヤの淡い瞳に、俺の姿が映っていた

     

第二十六話

《準備は、良いかな? 良いよね? うん》
 耳に仕込んだ超小型スピーカーからアルバートの声が聞こえる。
「ヘッドギアの具合はどう? きつくない?」
 マリーヤが俺の手をそっと握り、訊く。
「大丈夫です」
「一人で心細いかも知れないけど、決まりだから……」
 これから俺は『ちいさな魔女』と初回のコンタクトを行う。
 Keterクラスという事もあり、『ちいさな魔女』とのコンタクトには非常に細かい規定がある。
 ひとつは、収容エリアの保安職員はテレキル製ヘッドギアの着用が義務づけられているという事。『ちいさな魔女』が収容されている独房自体もテレキル―鉛合金によりコーティングされているのだが、それらは全て彼女の『魔法』から職員の身を(例え気休めとしても)護る為の措置である。
 しかし、今回俺が頭に装着しているヘッドギアは──、テレキル製の物ではない。
 そう、今回の実験の目的のひとつとして、俺の頭の中にあるテレキル様金属が、果たしてテレキル製ヘッドギアと同じ様な働きをするかを調べるという事がある。その為に、装着したヘッドギアは俺の脳波等を読み取る仕組みになっている。これにより、彼女が俺に与える精神的影響をモニタリングし、数値を取ると共に実験続行・中止の判断が行えるというわけだ。
《ユキオ、マリーヤに手を握られて、ドキドキしてるね? 実験中は、そう、余計な事は考えない方が、良いよ。例えば……、ほら、いやらしい、事とかね。全部、わかっちゃうんだから》
 アルバートが《くっくっく》と笑った。
 しかし──、よくこんな危険な実験を許可したものだ。
 もし俺の頭の中の物質が彼女に対して無力だった場合、どんな結果が待っているか、想像もつかない。彼女の能力による精神干渉が具体的にどういうものなのかは不明(調べる事は非常に危険だ)だが、もしテレパシーでひとの心を読む事など出来たら──。些細な思考が世界を滅ぼす引き金になる可能性だってある。
 実験の目的自体は理解しているつもりだが、これだけの危険を冒す必要が本当にあるのか、結局、この段階になっても今ひとつ納得出来ない。
 それに、未だ彼女が目覚めている理由についても不明なままだ。
 彼女は昏睡状態に置かれ、決して目覚めさせる事は認められないはずだ。もし目覚めさせた人間がいれば、その者は即刻処分となる。
 現在目覚めているという事は、誰かが目覚めさせたという事だ。
 それなら何故、すぐに昏睡状態へと戻さないのだろうか。
 解せない事だらけだが、あえて何も言わない事にした。
 マリーヤも言っていた。
『この実験に何の意味があるのか、それをしっかり考えてちょうだい』と。
 何かしらの意図が、この実験に隠されているのは間違い無い。
 それが何なのか……、考えずにいる事は許されそうに無かった。
 コンタクトにおいて、もうひとつ──いや、ふたつ、重要な決まりがある。
 それは、彼女の機嫌を決して損ねない事と、彼女と親しくならない事だ。
 機嫌を損ねてはいけない理由は明白として、親しくなってはいけないという事も重要なのだ。『親しくなってはいけない』とはつまり「また会いたい」と彼女に思わせない事だ。
 彼女が「また会いたい」と願えば、間違い無くその願いは叶えられるだろう。そうすれば、もはやこちらで接触の回数を制限する事は不可能だ。
 接触の回数が増えれば、意図せず能力を使わせてしまう恐れもあるだろう。それに、もしマリーヤのような女性に対して、「このひとが私のお母さんだったら」などと思われでもしたら……、それこそ取り返しのつかない自体になってしまう。
「今日は本当に挨拶だけよ」
「わかってる」
 接触実験は全部で三回の予定で、三ヶ月の間に不定期なインターバルを置いて行う事になっている。実験の時間は、初回は五分、二回目は十分、三回目は五分と予定している。コンタクト中に発言出来る内容は全て決められており、脳波から思考もモニタリングされている為、勝手な行動は一切出来ない(どの程度解析出来るのかは教えられていないが)。
「挨拶をして、何か欲しい物はないか訊く──、だね」
「そう」
「何か欲しいと思った時点で、彼女の願いは叶えられちゃうんじゃないのか?」
「彼女が、心から望めばね。でも、彼女には財団が与えた事前承認済みの『呪文』のリストから外れるような能力は使えないよう信じ込ませてあるから」
「そのリストは教えてはもらえないんだね?」
「もちろんよ。私だって知らないわ」
「わかった」
《準備は良いですか?》
 スピーカーから、今度はトニーの声が聞こえた。
 彼もモニタールームで待機している。
「OK」
《それではマリーヤさん、戻って来て下さい》
 トニーの指示で、マリーヤが心配そうな顔で退室する。
 危険な実験とは理解しているが……、何をそんなに心配しているのだろうか。
 思えば、彼女が昏睡状態に置かれる前は、普通に職員が面倒を見ていたはずだ。それなら、そこまで危険な存在じゃないのでは──、
《ユキオさん。何故、彼女が昏睡状態に置かれる事になったのか。それを……、よく考えてみて下さい》
 脳波から俺の考えを読み取りでもしたのか、トニーの声がする。
 ──なるほど。
 少なくとも、財団に取って彼女が危険な存在である事は間違いなさそうだ。
 カウントダウンの声。
 それが終わると同時に、目の前のドアが軽い音を立てて開いた──。

「こんにちは」
 俺の声に、彼女がこちらへ顔を向ける。
「……こんにちは」
 子供部屋にしては殺風景な、狭い部屋の中。ベッドに座ったまま、真っ直ぐにこちらを見つめて彼女は言葉を返した。
 色素の薄い髪と肌。謎めいた輝きの瞳に、子供らしいあどけない表情。
 余計な事は考えるな、と言われたが──、綺麗な子だ、と思った。
『ありがとう』
 その時、頭の中に直接声が響いた。
 奇妙な感覚。
 紛れもない、彼女の声だ。
 テレパシーか?
 精神干渉されている?
 俺の頭の中のテレキル様金属じゃ、彼女の能力は防げないのか?
《どうかしたの? ユキオ?》
 アルバートの声が聞こえる。
《脳波が、乱れてるね。何か、感じたのかい?》
 必死に心の中で否定する。
 何故かはわからないが、ここで実験を中止されるわけにはいかない、と強く感じた。
『聞こえる?』
 彼女の声が再び響く。
「体調は、どうだい?」
 こんな事で脳波の解析を邪魔出来るのかわからないが、声を出して誤魔化す。
《中止するかい?》
 アルバートの声に『No』と強く念じてみせる。
「あまり……、良くないわ。ずっと、眠っていたらしくて。体がまだ……、すごく、だるいの……」
『だからこうやって喋る方が楽なの。本当はダメって言われてるんだけど……』
 鼓膜と、心が同時に震える。
『お兄ちゃんは、元気?』
『……ああ、元気だよ』
 戸惑いながらも、テレパシーの真似事をしてみる。
『……うそ。──これでどう?』
 これで、とは……?
《ユキオ! 機械がおかしい! 脳波が読み取れなくなった!》
 アルバートの叫ぶ声が聞こえる。
 トニーの声は……、聞こえない。
『君が、やったの?』
 恐る恐る、訊ねる。どこまで心が読まれているのだろう。
『何でも出来るわけじゃ無いのよ。教えてもらった魔法しか使えないの』
『この魔法も教わった?』
『……そうね』
 彼女は誤魔化す様に笑って見せた。大人っぽく笑ったつもりなのだろうが、それが余計に子供っぽく見えた。
 それにしても、曖昧な返事だ。
『でも、頭にそれをしている人にはこの魔法は効かないのよ。お兄ちゃんは、どうして──』
《ユキオさん》
 トニーの声が、彼女のテレパシーを遮る。
《実験を中止します。扉を開けますので、退室して下さい》
 予定の時間よりだいぶ早いが、仕方あるまい。
 俺は小さく頷いてみせる。
 スピーカーからは、トニーの指示が続いている。
《──退室するまで、余計な事は考えないで下さい。例えば、そう、『またすぐに会おう』とか……》
(……『またすぐに会おう』とか?)
 その言い回しが、少し気になった。
『もう行っちゃうの?』
 彼女の寂しそうな声が聞こえる。
 少し思ったくらいでは、考えを読む事は出来ないのだろうか?
(それなら……)
 ──少し考えてから、こう念じてみる。
『また、すぐに会おうね』
『うん。待ってる』
 背後で扉が開く音が聞こえる。
 ゆっくりと振り向き、部屋を出る。
『またね。ユキオお兄ちゃん』
 彼女の声が、頭の中に響いた。

     

第二十七話

《ユキオ、大丈夫!?》
 独房を出て、待機室に戻る。
 背後で扉が閉じると同時に、アルバートの声が聞こえた。
《急に、無くなったんだよ。脳波が。いや、脳波の信号がね、読み取れなくなったんだ。故障かな? 故障だよ。そうじゃなきゃ大事だ!》
《ユキオさん、何か、体調について感じる事はありますか?》
 メディカルスタッフのヴィクトールの声だ。
「いえ、特には」
《心拍数が高いですね。自分でもわかりますか?》
「そうですね。少し、驚きました」
《もちろん、そうでしょう。しばらくその部屋に留まって下さい。そのまま簡易的なスキャニングを行わせていただきます》
「よろしくお願いします」
 備え付けのソファに腰を下ろす。
 まだ少し、息苦しさを感じる。
「ヘッドギアを外しても良いですか?」
《……、うん。うん、良いよ》
 アルバートの声だ。
 ヘッドギアを外し、傍らに置く。
 部屋の何処からか、機械の作動音が聞こえる。俺の体に異変が無いか、調べているのだ。
(実験は……、当分中止かな)
 先程起こった事を思い出す。
 彼女は──『ちいさな魔女』は、俺に対して、明らかに『魔法』を使用した。魔法の使用は、財団から禁止(少なくとも『制限』)されており、彼女もそれについては理解しているはずだ。何故、禁止されている能力を安易に使用したのか。理由によっては、これは正常に収容が行えていないという事になるだろう。
 テレパシーについては『本当はダメって言われてるんだけど』と言っていた。寝起きで普通に喋るのがつらいようだったから、魔法を使用してしまった理由については納得出来なくはない。
 しかし、ヘッドギアを壊した──故障させた件についてはどうか。これについては、彼女は何だか誤魔化すような態度を取っていた。故障させた理由が、わからない。
 俺の体調を気遣って?
 確かに「元気?」と訊かれた際、決して絶好調というわけではなかった。緊張もしていたし、実験に対して不安も感じてはいた。だが、それとヘッドギアとは何の関係も無い。
 もし、彼女が俺の心を読んだのだとしても、ヘッドギアが原因とは思わないだろうし、実際に原因では無い。
 では、何故?
(何か、理由があるのか?)
 理由……、それとも、誰かの『意図』が?
 ギデオン博士……、トニー……、様々な顔が浮かぶ。
 そう、そもそもこの実験自体にいくつもの疑問を感じている。
 何故、彼女は目覚めたのか。
 何故、またすぐに昏睡状態にしないのか。
 昏睡状態に出来ない理由があるとして、何故、実験を行う事にしたのか。
 そして、何故、今回の様な実験内容なのか。この実験は、どちらかといえば彼女に対する実験というより、俺に対する実験ではないか。それに、危険を冒してまで行うべき実験内容かどうかという事にも疑問がある。俺の頭の中のテレキル様金属がテレキル製ヘッドギアと同じ働きをしたから、どうだというのか。今まで行ってきた様々な実験は、対象と接触させる際、俺自身を『SCPそのもの』として扱ってきた。そうするべきだと思うし、そうしなければ実験を行う意味が無い(他の人間の頭にも、テレキル様金属を埋め込もうと考えているならば別だが)。
 しかし、今回の実験はそうでは無い。別に、俺から実験の意義や意味に対してとやかく言うつもりは全く無いのだが……、言ってしまえば今回の実験は『どうでもいい』実験では無いだろうか。
 それに、今回の様な事態が起きた時、どうするのかという対策について、そういえば何も聞かされていなかった。……何故、今まで疑問に思わなかったのだろう。
 何故、何故、何故……。
 やはり、間違い無く、何か別の意図があるに違いない。
 誰かの、意図が。
《ユキオさん、外されたヘッドギアを正面のボックスへ入れて下さい》
 ソファの向かいの壁には抽斗が付いていて、その中のボックスを介して、モニタリングルームと物品の受け渡しが出来るようになっている。
 指示された通り立ち上がり、ボックスにヘッドギアを入れた。
《ありがとうございます。マリーヤとジュリアが扉の外で待っていますので、彼女達と一緒にメディカルルームへ移動して下さい》
「了解」
 扉を開けると、二人が心配そうにこちらを見ていた。
「ユキオ、大丈夫?」
「怪我はなかった?」
「大丈夫だよ。少なくとも、外傷は無い」
 外傷は、と言ったのは、先程立ち上がった時に軽い立ち眩みがあったからだ。
「とにかく、さっさとメディカルチェックを受けてしまいましょう」
「そうですね。……、実験は、中止ですかね?」
 俺はマリーヤに訊ねた。
「いいえ。中止にはならないわ」
「でも、次の接触までにはずいぶん時間がかかるでしょうね」
 もとより三ヶ月の間に三回の予定ではあったが、ヘッドギア故障の原因を調べて、メディカルチェックの結果や周囲への影響を調べて、と考えると、当初の予定よりインターバルが空く事になるだろう。
 しかし、俺の問いに対して、ジュリアが意外な返事をした。
「いいえ、あなたには、またすぐ彼女と接触してもらうわ」
 ブルーの瞳で、上目遣いにこちらを見て言う。冗談を言っているわけではなさそうだ。
「え? でも……」
《代わりのヘッドギア、代わりのちゃんとしたやつを用意するよ! そう、すぐに……、明日にでも!》
 アルバートの声が耳元で聞こえた。スピーカーを入れたままだったか。
「そう、アルバートの言う通りよ。明日にでも、再実験を行いましょう」
「そうね」
 ジュリアが言い、マリーヤが頷く。
「ちょっと待ってください。まだ、今回の実験の影響もわかってないし、ヘッドギアが何で壊れたかもわからないのに、明日にでも再実験だって? 予定とも違うし、危険じゃ無いんですか?」
 何か、様子がおかしい。
 三ヶ月の間に三回としか聞かされていないから、確かに明日二回目の接触でも良いのかも知れないが……。先程の実験は、失敗か成功かはともかく、少なくともトラブルにより中止となった。それなのに、明日にでも、なんて……。
『また、すぐに会おうね』
 はっとして、息を飲んだ。
『また、すぐに会おうね』
 俺が、彼女に──『ちいさな魔女』に言った(正確には『テレパシーで伝えた』)言葉だ。
(まさか……、彼女の能力か?)
 背筋に寒気が走った。
 たった、あれだけの会話で、こんな影響が……?
 いや、まだ決めつけるのは早い。俺が聞かされていないだけで、トラブルがあった場合は逆にすぐに再実験を行う事になっていたのかも知れないし……。
「ユキオ、大丈夫?」
 小柄なジュリアが、心配そうに俺の顔を覗き込む。
 マリーヤが俺の手をそっと握る。
 いつの間にか、手が震えていた。
「え、ええ、大丈夫です」
「本当に?」
「もちろん」
 そう言いながらも、震えは治まる気配が無い。
 今更ながら、この実験の恐ろしさを──、Keterクラスの恐ろしさを実感していた。
 もしもあの時『まだここにいたい』と念じて、それに彼女が同調したら、実験は中止にならなかったのだろうか。恐らく──、ならなかったのだろう。
 もし俺が『死にたい』と念じて、彼女が『いいわ』と応えたら?
『世界よ滅べ』と念じて、彼女が『そうね』と同調したら?
 わかっていた事だが……、恐ろしい。
(……ちょっと待てよ)
 そういえば、俺が『また、すぐに会おうね』と念じたのは、トニーの言葉があったからだ。
『退室するまで、余計な事は考えないで下さい。例えば、そう、『またすぐに会おう』とか』
 確かにトニーはそう言った。
 その言葉に何か意味があるような気がしたからこそ、俺は彼女に『また、すぐに会おうね』と言ったのだ(今思えば浅はかな行動だったが……)。
 ……やはり、黒幕はトニーなのか?
 いや、待て。黒幕といったって、何の黒幕だというのか。
 何の目的が?
 トニーは俺の……、
 トニーは俺の敵なのか?
 わからない。
(後で、トニーに会いに行こう)
 そう、決心した。

     

第二十八話

「どうかしましたか? ユキオさん」
 夜、俺はトニーの部屋へとやって来た。
 もちろん、昼間の話をするためだ。
「少し、話がしたいのですが──」
「今日の、実験の話ですか?」
「……はい」
「そこに座って下さい」
 トニーが勧めたソファに腰を下ろす。その机を挟んで正面にトニーも腰掛ける。
「改めて、お疲れ様でした」
「いえ……」
「体は、大丈夫ですか?」
「大丈夫です」
「それは良かった」
 聞きたい事は山ほどあるが、言葉が出て来ない。
 気が付くと無意識のうちに、まるでトニーの様に顎を撫でていた。癖がうつったのだろうか。
「明日の実験が、不安ですか?」
「……どうして、明日なのですか?」
「どうして、と言いますと?」
「いえ……、こういったトラブルがあった場合、しばらく様子を見るのが通常かと」
「そうしたいですか? 不安があるのならば、もちろん延期しますが」
「いえ、延期したいわけでは無いんです。ただ、何というか……?」
「『ちいさな魔女』の力が、何か影響を及ぼしているのでは無いか、と?」
 思っていた事を言い当てられ、何も言えなくなる。
 俺が黙っていると、トニーは静かに口を開いた。
「それは、あるかも知れません」
「え?」
「ですが、私は元よりすぐに二度目の面会を行うつもりでした」
「それは──」
「それはどういう事かな?」
 ふいに、背後から声が聞こえた。
「初めまして、かな。トニー君」
「……こんばんは、博士」
 唖然とする俺の隣に、ギデオン博士は腰を下ろす。
「今日はどういったご用件でしょうか?」
 トニーは冷静に博士を見つめる。
「目的は何だね」
 博士も冷静な口調で言う。
 俺は──、トニーの方を見つめていた。
「目的、とは?」
「ユキオ君に何をさせるつもりだ?」
「ご存じないのですか?」
「私にもわからない事はある」
「そうでしょうか」
「驚くべき事にね」
 二人とも声は落ち着いているものの、色々な感情を押し殺しているのを感じた。
「明日の実験を、邪魔するおつもりですか?」
「いや、そんな事はしないよ。我々は──、私は財団に友好的な立場だからね」
「それは良かった」
「君達も、僕に対して友好的になってもらいたいものだがね」
「それはまた──」トニーの目が、鋭く光る。「ご冗談を」
「で、君はユキオ君を使って何をしようとしているのかな?」
「使って、とは人聞きの悪い」
「目的は?」
「何故私に聞くのですか?」
 博士の顔に、ほのかに苛立ちの色が見える。
「──、私にとって、ユキオ君は大切な存在なのでね」
「私にとってもです」
「危険な事は、しないでもらいたい」
「もちろんです。実験は予定通りに進んでいます」
(『予定通りに』?)
 トニーの言葉が引っかかったが、俺は言葉を飲み込んだ。
「それなら良いが……。ユキオ君」
 博士が急にこちらを向いて言う。
「ちょっと二人で話が出来ないかな?」
 俺の返事を待たず、博士は俺に『何か』をした。

 ──。
 気が付くと、見知らぬ空間に立っていた。
 目の前に博士も立っている。
「ここは?」
「『ポケットディメンション』と言うと、財団職員には聞こえが悪いだろうが……、まあそれに似たものだ。技術の応用、というやつだね」
「……それで、何の話しだ」
「君は、今回の実験の目的を理解しているのか?」
 それは、まだわかっていない。
 しかし、トニーが俺に何かを伝えようとしているのはわかった。
 トニーは『予定通り』と言った。つまり、今の状況は想定通りという事だ。もちろん、それさえ『ちいさな魔女』の影響では無いとは言い切れないが……。と、言う事は、明日の実験で俺は何かをしなくてはいけないという事だ。トニーの落ち着いた様子からすると、博士の介入も想定の内にあったのでは無いかと思う。だが、何かをしなくてはいけないというならば、チャンスは明日しか無いだろう。明日博士が邪魔をしないとしても、その先の展開までは予測がつかないだろう。
「あの男が君に何をさせようとしているのかはわからないが、私は……、君を失うわけにはいかないのだ」
「何故、そこまで俺にこだわる?」
「君に頼みたい仕事がある」
「SCP―55の事か?」
 そこで博士は少し驚いた様な表情を見せた。
「──そう、そうだ」
「それなら──」
「いや、それだけじゃない」
「……どういう事だ」
 博士が俺の方へ一歩近付く。
 俺は、反射的に一歩下がる。
「君は、全てを知りたくは無いか」
「全て、とは?」
「この世の全てだよ」
「別に……」
「本当か? 今の仕事をしていて、ワクワクする瞬間は無いか? 普通では決して知る事の出来ない世界に触れて、興奮しないか?」
「それは……」
 それは否定出来ない。
 確かに、財団の仕事は刺激的で、時には心躍る事もある。
 もっと知りたい、未知に触れたいと思わないわけでは無い。
 博士は俺の心を見透かすように話を続ける。
「私達の仲間にならないか? そうすれば、財団にいるよりもずっと多くの未知なるものに触れる事が出来る」
「お断りだ!」
 思わず殴りかかりそうになるのをぐっと堪える。
 そうだ──、博士への反撃は、暴力なんかで済ましてはいけない。
「それは本心か? 単に私への反抗心からでは無いのか?」
「うるさい! 黙れ!」
「君の街の事は済まなかった。それを恨んでいるのは仕方ない。しかし、死んだのは君にとっては他人ばかりじゃないか」
「他人──、じゃ、無い!」
「家族の事を言っているのか?」
「……当たり前だろう」
「それなら安心しなさい。彼等は君の本当の家族では無いから」
「何を──」
「君の家族、というのなら、それは僕を指すのが正しい」
「どういう……」
 どういう、意味だ?
 博士の言っている事が、わからない。
 何もわからない。
 わかろうと、したくない。
「君は僕が作ったんだ」
「つ……」
「いずれ話すつもりではあったんだ──、今話すつもりはなかったがね」
「どういう、意味だ?」
「言葉の通りだよ。君は僕が実験の為に作ったんだ。あの家族は、なるべく君を普通の環境で育てたかったが為に用意したものだ。あ、弟君はあの夫婦の実の子だよ」
 博士の声が、まるで硝子越しの様に遠くに聞こえる。
 俺が、博士に『作られた』だって?
 そんな……、そんな馬鹿な事があるか。
 あって……、あってたまるか!
「本当はあの街での実験で破棄──、あ、いや、もう君の事は置いておこうと思っていたんだがね。思った以上の結果が出たのでね」
「捨て置くには惜しくなった、と」
「──言ってしまえば、そうだね」
「……何を焦っているんだ?」
「焦ってる? 私が?」
「今、こんな話を俺にして、お前に手を貸すとでも?」
「無いだろうね」
「じゃあ、何故?」
「さあ、何故だろう」
「SCP―55は良いのか?」
「君はやってくれるさ」
「まさか」
「やるさ。私から提示した条件を忘れたわけじゃないだろう?」
「信じられるわけが無いだろう」
「そうかな? 私は君が惜しい。手の内に置けるのなら、何だってするさ」
「じゃあもう放っておいてくれないか」
「それだけは、出来ないな。ただ、君が我々の用意した状況下にいてくれるのであれば、可能な限りそっとしておいてあげる事は出来る。逆に、それ以外の状況にいるようであれば──」
「俺を殺すか?」
「その方が良い、と判断したらね。だけど、もし君を力で屈服させるのであれば、他にいくらでも方法がありそうだ」
 博士の様子は冷静に見える。
 俺は──、動揺を隠せずにいる。
「……本当に、俺を、お前が作ったのか?」
「そうだ」
「何の為に?」
「それの為だよ」
 博士は自分の頭をつついて見せた。
「『それ』は君や財団が思っている以上にすごい物なんだよ。我々が、思っていた以上にもね。それがあれば、未だ知り得ぬ物を、事柄を知る事が出来るかも知れない」
「……」
 何も、考える事が出来ない。
 頭の中は真っ白だ。
「私が、君の敵で無いという事はわかってくれたかな?」
「……」
「もし我々に組みしないとしても、SCP―55の件を引き受けてくれれば、君の愛する人々は全員生き返らせてあげよう。もう『イチナナサン』の時のような乱暴な実験もしない。一生、平和な暮らしを約束しよう」
「……」
「……まあ良い。考えておいてくれたまえ」
 不意に景色が戻る。
 いつの間にか、俺はトニーの部屋のソファの上に戻っていた。
 博士の姿は見えない。
「ユキオさん、大丈夫ですか?」
 トニーが俺のそばに駆け寄る。
 そして、耳元で囁く様にこう言った。

「明日、あなたが『ちいさな魔女』に願うべき事をよく考えて下さい。あなたにはわかるはずです。あなたは、私なのですから」

 俺は、また、頭が真っ白になるのを感じた。

     

第二十九話

 ──真っ暗な部屋の中、膝を抱えたままの姿勢で毛布を引き寄せる。
 ベッドの上。
 寒いわけではない。
 だけど、温もりが欲しかった。

 あの後、トニーは何も話そうとはしなかったし、俺も何も聞かなかった。
 聞く余裕が無かった。
 頭の中ではまるで吹雪の様な白い嵐が吹き荒れていた。

『君は僕が作ったんだ』

 博士の言葉が鼓膜にべったりと張り付いている。

『君は僕が作ったんだ』

 あの時、博士ははっきりとそう言った。
(俺は、博士に、作られた)
 目的はこの頭の中にある金属の為だと言っていた。
 金属を作る為なのか、それとも金属の効果を確認する為なのか、それはわからない。もしかしたら両方かも知れないし、どちらでも無いのかも知れない。
 そんな事は、今はどうでも良い。
 重要なのは、俺は博士に作られた(どうやって、という事もどうでも良い)という事だ。
 俺は、人間ではなかったのだろうか?
 それとも博士と誰かの間の子──、いや、そういうニュアンスは無かったように思う。
 とにかく、この現実(博士の嘘という事も考えられ無くはないが……)は、俺が今まで信じていた物を、大事にしていた思い出達を粉々に打ち砕いた。
 家族が家族で無かった、という事以上に、俺が──、俺の『生まれた意味』が、俺の『存在理由』が……、こんな……、こんな事だったなんて……。

『明日、あなたが『ちいさな魔女』に願うべき事をよく考えて下さい』

 今度はトニーの声が頭に響いた。
 ──これは、どういう意味だ?
 俺は明日の実験で、何かを『ちいさな魔女』に願わなくてはいけないのか?
 何を?
 ……博士への、復讐を?
 トニーは俺に、いったい何をさせようとしているんだ?
 ──そうだ。トニーはたしか、こうも言っていた。

『あなたにはわかるはずです。あなたは、私なのですから』

(『あなた』は『私』?)
 どういう意味だろう?
 全く意味がわからない。
 意味が……。
 意味……。
 この実験の、意味……。

 ……もしかして、この実験は、俺が博士に復讐をする為に用意されたのだろうか?
 トニーが俺について何処まで知っているのかわからないし、何故復讐をさせようと危険まで冒すのかはわからないが、そう考えれば色々な事のつじつまがあってくるような気がする。
 では、どんな方法で?
 博士に復讐するとして、例えば『魔女』に『博士の存在を消してくれ』と願った場合はどうか。博士は俺に話をする時に『私』と言う一人称を使う事もあれば、『我々』と称す事もあった。それはつまり、俺の敵は一人では無いという事だろう。あの地下で出会ったウィリアム・ウッドワース教授も、博士の一味に違いない。もしかしたら、まだまだ俺の知らない奴等だっているかも知れない。そうなれば、博士一人をどうこうしたって仕方が無いし、『そもそもギデオン博士なんて存在しなかった』事にしても、他の誰かが俺を作るかも知れない(或いは、俺も消えてしまうかも知れない)。一味を全て消し去ってもらう事も出来るかも知れないが、少しでも伝え方を間違えば、失敗する可能性も考えられる。
 では、俺の頭の中の金属を取り除いてもらってはどうか。いや、これは何の意味も無いだろう。無価値な逃走にしかならない。金属を取り除いては、博士達にとっての俺の価値だけでは無く、財団にとっての俺への価値も無くなってしまう。それはそれで幸せかもしれないが、財団から放り出されて、いったいどうやって生きていけば良いのか。財団は新しい人生を用意してくれるかも知れないが……、これ以上仮初めの人生を生きるなんてまっぴらだ。それに、博士達の俺への価値が金属だけでは無いとしたら……。俺は単に後ろ盾を失うだけだ。
 それなら、過去に戻って博士達の陰謀を阻止してやろうか。『魔女』にそこまで出来るのかわからないが、これが一番現実的(一番SF的でもあるが)な気がする。博士の言いなりになって家族を生き返らせてもらったって嬉しく無い。そうとも、過去に戻って家族が、友人が、死ぬ事を阻止出来れば──。

『あなたは、私なのですから』

 ……もしかして、トニーも俺と同じ経験をしたのだろうか。
 彼も、博士の策略で大切な人を失った……、或いは、何らかの目的で作られた……。
 しかし、博士はトニーの事を知らないようだったし、会った時も「初めまして」と言っていた。
(『魔女』に頼んで、博士の記憶から存在を消してもらったとか?)
 あり得なくは無い。
 そうして、ひっそりと暮らす道を選んだのかも知れない。
(そこに俺が現れた……)
 俺を、過去の自分と重ねたのだろうか。
(自分の代わりに、博士へ復讐させようとしているのか……?)
 だとしたら……、自ら復讐を行わない理由は何だ?
 復讐心が残っているのならば、俺に任せず、自ら実行したって良いはずだ。
 ……『魔女』を目覚めさせたのはトニーだと思い込んでいるが、もしかしたら、これは偶然だったのだろうか。それなら、俺を使って実験をする方が、自ら接触を図るよりずっと実現性は高いだろう。

 ──ずいぶん頭がすっきりしてきた。
 まだ考えはまとまらないが、的外れな推測でもないだろう。
 立ち上がると、少し立ち眩みがした。
 そういえば実験から何も口にしていない。喉はカラカラ。水分ぐらい摂るべきだろう。
 時計を見ると、ちょうど零時になったところだ。
 冷蔵庫には飲み物くらいは入っているが、小腹も空いた。食堂へ行こうか?
 ……いや、止めとこう。
 今は誰にも会いたくない。
 それに、博士が何処で目を光らせているかわからない。
 もちろん、部屋にいても変わりないが……。
 アルバートやマリーヤの顔が浮かんだ。
 彼等はきっと、俺の事を心配しているだろう。
 ハビエルの顔も浮かんだ。
 彼は、どうしているだろうか。
 サイト15へは、いつ戻れるのだろう。
 それとも──。
 博士は、何の為にSCP―55の事を俺に調べさせたいのだろう?
 ……サイト19へ行ったら、博士の望み通りSCP―55の事を調べてやろうか。それとも……、やはり断ろうか。
 いや、当然断るべきだろう。
 受ける理由なんて……。
 ……、俺は、何を迷っているのだろう。
 まだ、混乱しているのだろうか。
 そうに違いない。
 こうして俺が悩んでいる姿を見て、博士は楽しんででもいるのだろうか。
 今も、何処かで見ているのだろうか。
 ……トニーの、トニーの言葉も、博士は聞いていたのだろうか。
 ──ダメだ。
 ますます混乱してきた。
 冷蔵庫をから水のボトルを取り出す。
 蓋を開け、一気に飲み干す。
 よく冷えている。
 少し、むせる。
 落ち着こう。
 落ち着いて考えなくては。
 明日、そう明日だ。
 明日俺は、あの可愛らしい魔女に願いを叶えてもらわなくてはならない。
 ──本当に?
 本当に、トニーの言う通りに、俺は、あの子に……。
 わからない。
 わからないが、逃すわけにはいかない。
 そうだ。
 あの子は、あのちいさな魔女は、上手くすれば俺の願いを叶えてくれる。それは間違い無い。そして、そのチャンスは明日しか無い。
 では、何を願う?
 さっき思いついたように、過去に戻って博士と戦う?
 過去に戻るなんて出来るのか?
 いや、この際『出来る』と信じるしか無いだろう。
 それで……俺一人で、戦う事なんて出来るのか?
 過去に戻るとして、いったいいつに戻る?
 よく考えなければ。
 子供の頃に戻っても仕方が無いだろう。『イチナナサン』事件の後でも仕方ないし、直前でも間に合わない。何にせよ、戦う手立てが無い。
 そうだ……、俺が俺のまま過去に戻ったって、いつに戻ろうが結局何にも出来ないじゃないか。
 何とか財団と連絡が取れたとしても……、信じてもらえるだろうか?
 信じてもらえたとして、何が出来る?
 どうすれば良い?

 ──その時、俺の頭の中に一つの恐ろしい考えが浮かんだ。

(これなら……。そうか、そういう……)

 手からボトルが滑り落ち、足下に水が零れた。

 明日。

 全ては、明日だ。

     

第三十話

《──お疲れ、ユキオ! ああ、それに、お姫様もね。あ、いや、聞こえないんだけどさ》
 スピーカーから聞こえるアルバートの声に、ほんの少しだけ、ほっとする。
 鼓動は自分なりにコントロールしたつもりだが、手の震えは抑える事が出来なかった。脳波は確実にモニタされている。途中で実験中止にならなかったという事は、脳波などの乱れは正常値の範囲内だったと云う事か。それとも……、『魔女』の力か。
《ユキオさん、何か、体調について感じる事はありますか?》
 前回と同じ様に、ヴィクトールの声がする。
「──大丈夫です」
 少し、声が上ずっていなかっただろうか。平静を装う。
《……素晴らしい。前回トラブルがあったにも関わらず、とても冷静ですね。ユキオさん。お疲れ様でした》
 漸く、胸を撫で下ろす。
(終わった……)
 ある意味で『始まり』だと云う事はしっかりと自覚しつつも、それでも安心した。
 俺は、ほんの数分前の『魔女』とのやり取りを思い出す。

 ──。

「……こんにちは」
『また、会えたね』
 部屋に入ると、すぐに彼女と目が合った。
 俺は事前に打合せをした会話を声にしながら、頭の中では違う言葉を呟いた。
「こんにちは」
『そうね。奇跡、かしら?』
 彼女がクスッと笑ったのは、テレパシーの方の言葉に対してだろうか?
 俺も自然に笑って返す。
「体調は、どう?」
『今日は、お願いがあって来たんだ』
 喋りながら別の事を念じるのは以外と難しい。
 難しがっている戸惑いも、彼女には筒抜けなのだろうか?
「ええ、良いわ」
『ええ、わかっているわ』
 彼女は声を発するのと全く同時にテレパシーを送って来る。
 声が重なって聞こえるので、少し、聞き取りづらい。
「そう、良かった」
『そう、良かった。……え?』
 わかっている、とはどういう事だろう?
『それはね──』
 彼女が俺の思考に答える。やはり心の声は筒抜けらしい。
『それは……ううん、やっぱりダメ』
『何が?』
「何か欲しい物はあるかい?」
 沈黙が続かないように注意しながら『本題』を進めていく。
「……何でも良いの?」
『ダメなのは、私。もう、ほんとダメね。だってね、こんな風にお喋り出来るの久しぶりなんだもの。何でも喋っちゃいたくなっちゃう』
「何でも、ってわけにはいかないけど、出来るだけの事はするよ、お姫様」
《ああっ、ユキオ! お姫様なんて言っちゃダメだよ! その気になったらどうするんだい?》
 耳の中にアルバートの声が響く。
 しまった、つい……。
『ありがとう』
 ああ、また心の声が……。彼女は照れたように笑った。
『ええっと……』
 頭の中が混乱して来る。声に出しているのか、念じているのか、だんだんわからなくなってきた。
「じゃあ……、あのね、赤いのが欲しい」
「赤いの?」
《シロップ漬けのチェリーの事よ。大丈夫、この棟は『カイン』の影響下にはないわ》
 マリーヤの声だ。何だか、嬉しそうに聞こえる。
「チェリーの事かい?」
「……うん」
 彼女がまた可愛らしくはにかむ。
『……ありがとう』
 可愛いと思った事も伝わってしまったのか?
 ……少し、恥ずかしい。
「持って来させるよ」
『えっと……』
「ほんと?」
『気になる?』
 彼女は心を読んでいる。俺が気になっている事も……、バレバレか。
『心が、読めるんだね』
「もちろん。本当だよ」
『……うん』
「嬉しい!」
 晴れやかに彼女が笑う。
 今まで見せなかった無邪気なその表情に、また少しドキッとする。
「ああ……、すぐ……、すぐ持って来させるよ」
 適当な返事をしてしまう。
『ずっと前から?』
『うん。でもね、ずっと、出来なくなったと思ってた』
『そうなの?』
『……うん』
 含みのある返事だ。
「あのね、それとね──」
『あのね、お兄ちゃんがね、思ってる事は、合ってるよ』
「……それと?」
『合ってる?』
「もう一個、良い?」
『うん。ほとんど、合ってる。すごいね。お兄ちゃんも、私みたいに出来るの?』
「言ってご覧」
『出来ないよ。もしかしたらそうかな、って、思ってただけ』
「えっとね……」
『おりこうなんだね。すごい』
『凄くないよ』
「ココアが、飲みたい」
「ココア?」
「うん。たくさん!」
『お兄ちゃんのお願いを聞くようにって、ちゃんとお願いされてるから、大丈夫だよ』
「大丈夫?」
 しまった。思わず声に出してしまった。
「だいじょうぶだよ。たくさん、飲みたいの」
 彼女に救われる。
『……大丈夫って?』
『え? だって……、ううん、気にしないで』
 気になるが……、追求する時間は無い。彼女の心の声が聞こえないのが悔しい。
「……わかった。温かいのが良い? それとも、冷たいの?」
「温かいのが良いな。あ、あとねクッキーも食べたい! チョコチップの!」
「わかった」
『じゃあ……、良いかな?』
『もちろん。私に出来る事なら』
「ほんとに良いの?」
「もちろん。但し、今日だけ特別だ」
『きっと出来るよ』
「嬉しい」
『うん、わかった』
「他にお願いはあるかな?」
「……ううん。だいじょぶ」
『それじゃあ──』

 ──。

《ユキオ、もうヘッドギアを外して良いよ》
 アルバートの声に我に帰る。
《ユキオさん、お疲れ様でした》
 今度はトニーの声だ。
《これにて、実験は終了です》
「え? でも、全部で三回って……」
《予定は変更です。もう、充分なデータは取れたので、これ以上の危険を冒す必要はありません》
 ……そう云う事か。
「……チェリーと、ココアをお願いしますね」
《それとクッキーもね!》
 アルバートだ。
《今メディカルスタッフがそちらに向かいます。少し、座って待っていて下さい》
「はい……」
 俺はトニーの指示通りソファに腰を下ろした。
 一気に汗が噴き出す。手の震えも治まってはいない。
(終わったんだ……)
 少なくとも、これで俺の未来は決まった。
 いや──、俺の──。
 ふとハビエルの事を思い出し、それから……、
(SCP―55、か)
 博士からの依頼を思い出す。
 メディカルチェックが何事も無ければ、恐らく今月中には──博士の言葉が本当ならば──サイト19へ移動となるだろう。
 そうしたら、俺は……。

(大丈夫。大丈夫さ……)

 俺は、自分自身を見つめながら、呟いた。

(大丈夫。『これ』できっと……、上手くいく)

     

第三十一話

 サイト19へと向かう車の中、俺は目隠しされたさらに奥──目蓋の裏に昨日までの出来事を映している。

 ──。

 ちいさな魔女との対面が終わり、メディカルチェックもすぐにクリアした俺は、名残を惜しむ余裕も無くサイト19へと移動する事になった。サイト15へ戻るのではなくサイト19へ移動となった理由は聞かされていない。トニーは「手続き上」と言っていたが、博士が「手を回しておいた」と言ったのはこの事だろうか。
「今夜は、ささやかですが、あなたとのお別れパーティーが開かれるそうですよ」
 メディカルチェックが終わった後、トニーが俺に言った。
 お別れ──。
 その言葉が妙に切なかった。
 せっかく仲良くなった人達と、あっという間にお別れ。
 いや、もうその人達の事さえ信じられなくなっている自分がいる。
 こんな事が、いつまで続くのだろう。
 一生?
 それとも……。

 パーティーは宣言通りささやかなものだったが、それでもチームの全員が集まっての食事会はなかなか賑やかだった。
 俺も、ほんの一瞬ではあるけれど、心から笑う事が出来た。
 アルバートは潤んだ目で、ずっと俺の手を握っていた。「また会えるよ」と俺は言ったが、たぶん、それは嘘になるだろう。
 マリーヤも、別れの言葉を言う時、少し瞳を潤ませていた。
「明日、見送る事は出来ないの。ごめんなさい……」と俺の肩を抱き寄せてくれた。何となく、母が抱き締めてくれているような感覚がして、ぎゅっと唇を噛んだ。

 ──。

 パーティーの後、俺の部屋に思いもよらない客が来た。
「失礼します」と言って入って来たのは、カインだった。
 俺が声をかけるより早く、勝手に部屋の中へと入り込んだ彼は言った。
「ギデオン博士は私にも、SCP―55について調べるように依頼しました」
「……?」
「一年以上前の事です。私は断りました。SCP─55については良く知っていますが、彼には教えない方が良いと思ったからです」
 彼の言葉の意味がわからず、俺はただ黙って聞いていた。
「あなたは受けるのでしょう。それは仕方の無い事です。しかし、全てのものに思いやりを持つべきです。あなたが人間ならば」
 一方的に話して部屋を出ようとする彼に、俺はようやく振り絞った声をかけた。
「……でも、SCP―55に会えば、博士に会える。そうだろ?」
「いいえ」カインは首を横に振った。「博士達に、です」

   ***

「トニー」
 目隠しの裏で眼を開けて、俺は暗闇に声をかけた。
「はい?」
 すぐ近くから声がする。「俺は一人じゃ無い」と、意味も無く感じる。
「サイト19に着いたら、すぐ仕事ですか?」
「いえ……、すぐサイト15に戻る事になるでしょう。そうしたら……、良ければ、またしばらく休暇を取っていただこうかと考えています」
「……そう」
「ええ。今回はずいぶん、お疲れでしょうから」
「そうだね。カインのせいで、炭水化物も恋しいしね」
「私もです」
 そんな軽口を叩きながら、俺は必死に涙を堪えていた。
 何故だかはわからない。
 しかし、俺のひとつの冒険が、今終わろうとしているのだと云う事がわかった。
「サイト15のみんなは元気かな?」
「ええ。誰一人欠ける事無く、ユキオさんの帰りを待っていますよ」
 誰一人欠ける事無く……。つまり、誰も任務で死んではいないと云う事か。安心した。
「会いたいな……、友達に」
「もうすぐ、会えますよ」
「そうだね……」
 暗闇の中、ふいに手に温もりを感じた。
「もうすぐ、です」
 トニーの手が、俺の手を握る。
 ──、強いくらいだ。
 少し、痛い。
 でもその痛みが、自分が生きているって事を、教えてくれていた。

   ***

 サイト19に到着すると「本日はこちらにご宿泊下さい」と部屋に通された。俺は荷物を置くと、廊下に人がいなくなった事を確認して廊下に出た。
 SCP―55のところに行く為だ。
 SCP―55がこのサイトの何処にいるのかは誰も知らない。調べる術も無い。居場所を教えてくれたのはカインだ。部屋を去る間際に「念の為」と教えてくれた。念の為も何も、彼が教えてくれなかったら、俺は55に辿り着く事が出来ないだろう。
 教わった居場所は『しっかり覚えている』。この意味するところが、俺の心臓を締め付ける。本来なら、覚えていられるはずが無いのだ。SCP―55は『そう云うSCP』なのに……。

『君は僕が作ったんだ』

 博士の言葉がまた聞こえる。
 幻聴なのはわかっているが、耳を塞ぎたくなる。

 俺は、今この時の為に作られたのだろうか。

 目の前にひとつの小さなドアが現れる。カインの言葉が正しければ、SCP―55はこの中にいる。
 ノックしようとして伸ばした手を、下ろす。
 深呼吸をして、ドアの取手に手をかける。
 そして、俺は










    だった。それはまるで








         と思ったが、





     は、



 そして、





 俺は          。   を持って、











 部屋を出る時、   が











 俺は、    を
















 ──。

 部屋に戻り、ソファに腰を下ろす。
「お疲れ様」
 博士の声が頭上から振ってきた。
 俺は、あえてそちらは見ないようにする。
「いや、君がSCP―55の事を調べてくれるとは」
「……依頼した事を、忘れているのか?」
「……まさか、そんな、覚えているさ。心から感謝しよう」
「そんな事より──」
「いや、報酬はまだだ。先程君が見聞きしたものをレポートにまとめたまえ。ワープロはダメだ。手書きで頼むよ。ちなみに、レポートの提出期限は明日だ」と、まるで学生に宿題を言い渡すように言う。
「レポートに? 無駄じゃ無いのか?」
「無駄……。そう、確かに確実な方法では無い。しかし、明日のただ一瞬、『会議』の間だけでもそれが存在していれば充分だ。紙の上にも、我々の頭の中にも」
「『会議』?」
「それでは、また明日会おう」
 俺の質問には一切答えず、博士は気配を消した。ゆっくり、部屋の中を見渡す。誰もいない。
 ほっと息を吐く。
 SCP―55が言っていた事は正しかった。それだけで、全身の緊張が解けていく。
 後は──、
(後はレポートをまとめて、明日の『会議』に出るだけだ)

 それで、全て終わる。

 いや、始まり、だろうか。

 俺は重たい体を無理矢理立たせ、レポートを書くために机に向かった。

 これで、全てが終わり、全てが始まる。

 嬉しくも哀しい感情が、ペンを握る俺の手を震わせた。

     

第三十二話

『【   ―      報告】

       は    に     、  ている。
 今回、
                 は
         を     して        た。





    の他に
                  SCP―



      ?     つまり

 「                    、      。  は
     と、


              伝えて           」と、

 しかし、       SCP―    は

      の影響で

             日、    氏が

              いたって普通の

  元に戻す事は       結果的に

    いつも     いる
 また、               における


       報告を




















          、









                                     】

  ***

 レポートを読む者達の口から、感嘆とも感心とも取れる声が漏れ聞こえる。
 この──ここは、どこだろう──暗い『会議室』には紙をめくる音が乾いたメロディーとなって響いている。
「素晴らしい」
 そう言ったのはギデオン博士だ。暗くて表情は見えない。
「やはり、彼に頼んで正解だったね」
 これは……、ウィリアム・ウッドワース教授の声だ。
「これからも彼をメッセンジャーとして使うつもりかい?」
 この声は……、誰だろう?
「ハーマン、そのつもりはない」
 これは博士だ。
「なら処分するのかな?」
「我が有権者を処分とは、認められないね」
 これも、誰かわからない。
「処分するつもりはない。彼には仲間になってもらうか……、幸せになってもらいたい」
「幸せ?」
 博士が言った言葉に、思わず聞き返してしまう。
「そう。そうとも、君には幸せになってもらいたい」
 その場にいる全ての者の視線が俺に向くのを感じる。
「──」俺は喉元まで出かかった呪詛を飲み込んだ。
「しかし、出来れば我々の仲間になってもらいたい」
「……仲間」
「そう、仲間だ」
「悪人の仲間か?」
「驚いたな……。君は、我々を悪人だと思っていたのか?」
「当たり前だ!」
「我々は善良なる研究者だよ。悪意を持って行動しているわけでもない。君は──我々が世界征服を企む悪の秘密結社だとでも思っているのかい?」
「よくも──」
「確かに、研究や実験の過程で哀しい事故が起こってしまったり、犠牲を払う結果となったりする事もある。しかし、それはどんな研究においてもそうではないか。技術発展の過程においては、何千年も昔から繰り返されている事ではないかな?」
「だからと言って……」
「君の気持ちはわかる。確かに君は、僕が実験の為に作った。普通の人間、とは言えないかも知れない。済まない気持ちもある。だからこそ、こうして救いの手を差し伸べているんじゃないか」
「お前達の仲間になる事が救いだって?」
「君は、未知を探求する悦びを知らないか? 誰も知らない世界を、見てみたいとは思わないか?」
「……」
「財団がSCPと呼ぶ者達は、世界の不思議のほんの一端に過ぎない。我々が知っている事ですら。世界という巨大な化け物の細胞一つにも満たない。全てを知りたいとは思わないか? 全てを知る事が例え不可能だとしても、あと少し、もう少しでも知りたいとは思わないか?」
「……」
「我々は普通の人間ではない。最初からそうだった者もいれば、いつの間にかそうなった者もいる。しかし、未知の数から比べれば、所謂『普通』か『普通じゃないか』など、あまりにも些細な違いじゃないか」
「……騙されないぞ」
「騙す? 何を? 君を騙して仲間に引き入れようとしている、と?」
「……」
「君は私が作った」
 その言葉に、俺の心臓が痛いくらい躍動する。
「君は──、そう『普通』の人間よりも、未知に触れる事が出来る。そういう力を、可能性を持って生まれてきたんだ。その力をどう使うかは君の自由だが、無駄にするのは勿体ないと、そう思わないか? 財団で働くようになって、心躍る瞬間は一度もなかったのか? 自分が物語の主人公になったような、そんな興奮を感じた事は? その感情は間違いじゃない。恥ずかしがる事もない。君にはその権利があるんだ」
 先日と似た様な誘い文句だ。案外、芸のない奴だと少しだけ可笑しくなる。
「改めて聞こう、我々の仲間にならないか?」
 沈黙が空間を支配する。
 意外なのは、誰も博士の言葉を遮らず、異を唱える者もいないという事だ。
「──全面的に、賛成というわけではないが」口を開いたのは教授だ。「私も君の力は認めている。いや、認めざるを得ないだろう……。だから……、仲間になってくれる分には構わない。とはいえ、我々も仲良し小好し、という関係ではない。仲間になると答えたところで、行動を共にする必要もない」
 教授が何を言いたいか、よく、わからない。ただ、口調はひどく穏やかだ。
「それに、同行するには君の体は脆すぎる。頭は悪く無いようだし、Broken Tongueでも使えば多少は使いものになるかも知れないがね」
「教授。彼の返事を待たないか」博士がゆったりとした声で言う。まるで、俺が首を縦に振ると確信しているかのような話し方だ。「さあ、どうする?」
「……」
「さあ」
「断る」
 沈黙。
 しかし、それは驚きによるものではない。
 暗くてよくは見えないが、皆一様に「当然」といった表情だ。
「交渉決裂、だな」
 教授が腰を浮かせる。
「交渉? 勘違いしてもらっては困る」博士が言う。「ちょっとばかり、提案させてもらっただけだよ」
「何にせよ、会議は終わりだね。ええっと……、あれ? 今日は何で集まったんだっけ?」
「それは……、何だったかな?」
「まあ、良い。それで、彼の処分はどうする?」
「約束通り、彼の願いを聞くさ」
「約束?」
「そう……、ええっと、どんな約束だったかな?」博士が内心戸惑ったような顔で聞いた。
「俺の家族や、友達みんなを……、返してくれるんだろ?」
「ああ、そう……、そうだったね」
 博士はどこか釈然としない様子で、何かを探すような仕草をした。そして、手元のレポートに眼を落とした。レポートを見た博士はまるで恐ろしいものでも見たような表情をすると、まわりの人間にも聞こえるような音でレポートを叩いて言った。
「正当な報酬だ」

       

表紙

H.Y.K 先生に励ましのお便りを送ろう!!

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