Neetel Inside ニートノベル
表紙

SCP-173
第一章

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第一話

「『エスシーピー』って知ってるか?」
 俺の部屋に入るなり、開口一番、カシマが言った。
「フリーゲームのあれだろ?」
 何の事かと俺が聞く前にタローが言った。
 取りあえず、俺も知っているふりをして頷いて見せる。
「『エスシーピーイチナナサン』ってわかるか?」
「イチナナサンって……あの最初に出てくるヤツだろ?」
「そうそう」
 会話の意味が全く理解出来ないので、相槌を打ちながら、こっそりとスマホでその『イチナナサン』とやらを調べてみる。ちょっと考えてから、検索スペースに『173』と打込んでみた。検索ボタンを押すと、一番上に『SCP―173』とやらが表示された。『イチナナサン』とは『173』で正解だったらしい。ページを開いてみる。
(何だこいつ……)
 開かれたページには『イチナナサン』の説明文と一緒に画像も掲載されていた。ロッカールームの様な部屋に、そいつはこちらを向いて立っている。フリーゲームと言っていたからもっとCGっぽい画像が出てくるのかと思ったが、妙にリアルで写真みたいだ。
 そいつは頭でっかちな人形の様な姿をしている。ボーリングのピンを逆さまにして、適当に作った手足をくっつけた様な感じだ。あちこちが薄汚く汚れており、こちらを向いた顔は──、
「で、それが何なんだよ」
 タローの声に顔を上げた。つい、画像に見入ってしまった。
「見たんだよ」
「何を?」
「『イチナナサン』」
 タローがカシマの頭を叩いて笑った。
「いてえな! 叩くなよ」
「バカ、お前。何? 怖がらせようとしたの? 下手すぎだろ」
「嘘じゃねえよ。ほんとに見たんだよ」
「……何処で見たの?」
 ずっと黙っているのも不自然かと思い、俺も口を挟んだ。
「ほら、ユキオは信じてくれたぞ」
「信じてるわけないだろ。なあ、ユキオ」
 俺は笑って誤魔化した。
「まあ聞けって。あのさ、寺の近くの公園あんじゃん? あそこの近くに『グッドラック』って変な店あんじゃん」
「変な店っていうか、変な店長な」
 その店は俺達が生まれる前からある、ファンキーな感じのじいさんがやっている小さなリサイクルショップだ。買い取りもやっているが、じいさんが海外から仕入れてきた気味の悪い雑貨も売っている。品揃えは豊富といえば豊富だ。テレビや冷蔵庫といった家電から、アフリカの何処かの部族が祭りで使うお面やら動物の骨やらまで売っている。小さい頃は親に「あの店には近付くな」と言われていた。
「昨日……一昨日だったかな? あの店の前にいたんだよ」
「何が」
「だから『イチナナン』だってば」
 タローは「やれやれ」といった風にこちらを見た。俺は肩をすくめて見せる。
「もしだぜ、もしほんとにいたとしてさ、なんでお前生きてるんだよ」
「いやマジびびってさ、まばたきしそうになったんだけど、超ガマンしたわけよ」
 まばたき……?
 俺はこっそり、再びスマホに目を落とした。
 どうやらこの『イチナナサン』はずいぶんと凶暴なヤツらしい。誰かの視線を受けている間はただの彫像の様に動かないが、目の前の人間の視線が全て外れた瞬間──例えば視線を逸らしたり、全員が同時に瞬きしたら──近くの人間は首を折られて死ぬらしい。もしそんなヤツが本当にいたら……、どうしたら良いんだろう?
「で、無事逃げられた、と」
「だからここにいるんだろ」
「いや、もしかしたらお前死んでんじゃね? あー、何かそう思って見ると、お前ちょっと透けてるかも」
「やめろよ」
「あのさ、じっと視線を逸らさないで逃げたの?」
「後ろ向きでな」
「走ったの?」
「走った」
「こけて死ねば良かったのに」
「うるせえ」
「まあお前の取り柄は足が速いくらいだからな。良かったなあ、唯一の取り柄が役に立って」
 カシマは中学の時は陸上部で、部長をやっていた。高校に入ってからは「遊びたいから」というシンプルな理由で辞めてしまったが、今でも足は恐ろしく速い。坊主頭がトレードマークで、背は低いが目鼻立ちははっきりしているため、女子からの人気はかなり高い。いくつになっても、足の速い男の子はもてるのだ。
「タローさっきからバカにし過ぎ。お前なんか目ぇ開けてっか閉じてっかわかんねえから、あったら速攻ぶっ殺されるだろうよ」
 そう言われたタローはカシマと対象的に背が高く、顔立ちも全体的に薄い。特に細い目は長い前髪のせいもあって、開けているのか閉じているのか、確かにぱっと見ではわかりづらい。見た目はそこまで良くは無いが、成績は学年トップクラスで身長も高いため、好意を持っている女子も少なくは無い。
「確かにな、俺は目が細いからな。実際に『イチナナサン』がいたらヤバイだろうな。実際にいたら、な」
「だからいたんだってば」
「そしたらとっくに事件になってるだろうが」
 少なくとも俺は、そんな事件ニュースでは見ていない。
「なあ、一緒に見に行こうぜ」
「はあ? バカだろお前」
「何だよ、いるはずねえってバカにしたくせに、怖いのかよ」
 カシマの言葉に、タローが黙った。
 その隙に、俺は再びスマホを見た。『イチナナサン』に関する情報は大して書かれていない。他のサイトも見てみたが、何処も同じ内容だ。もしかしたらゲームの中で提示されている情報を写しているだけなのかも知れない。
 そもそも『エスシーピー』とはどんなゲームなのだろう。後で調べてみるとしよう。フリーゲームと言っていたから、ちょっとプレイしてみるのも良いかも知れない。ホラーゲームは苦手だからユタカ──弟にも付き合わせよう。
「そら、ホントにいたら怖いわな」
「だろ?」
「ホントにいたらな。つか『グッドラック』ってとこはちょっとリアルだわ」
「だろだろ? あそこならいてもおかしくないだろ?」
「……確かにな。大きさはどれくらいだったんだよ」
「たぶん……お前くらいかな。もうちょいでかかったかも」
「本物じゃないにしても、実物大のフィギュアとかってことはあるかもな」
「ああ、そっちのパターン?」
「普通そっちから考えるだろ」
 タローが言うのももっともだ。カシマも少し照れくさそうに笑った。
「とにかくさ、見に行ってみようぜ」
「んー……、どうするよ、ユキオ」
 別に目的があって集まっているわけでは無い。小学校からの幼なじみである二人とは、こうしてほとんど毎日の様に一緒に遊んでいる。
「もしホントにあんな不気味なヤツがいたならさ、ツイッターとかで話題になってないのかな?」
「あ、なるほど」
 そう言って、三人同時にスマホを見た。どうやらカシマもそこまでは考えていなかったらしい。
「……マジかよ」
 最初に口を開いたのはタローだった。俺もカシマも、おそらく同じツイートを見ていた。
「何か『グッドラック』で事件あったみたいだな……」
「うん。店主が何者かに殺された、って……」
「……やっぱ、マジで本物だったんだって」
 三人とも、黙り込んでしまった。ついでにネットニュースも見てみる。早くも記事になっているようだが、内容はツイッターと大差無い。新しい情報としては、店主が殺されているのが発見されたのは今朝の事らしい。そして、死因は『首を折られて』……。
「もしだぜ、もしカシマが見たのが本物の『イチナナサン』だったとして、どうやってあのじじいは仕入れたんだよ。無理じゃね?」
「そんなん、俺にわかるわけないだろ。最初っから箱にでも入ってたんじゃね?」
「なるほど……」
「でも、箱から出したら速攻殺されるんじゃね?」
「かもな」
「もしかしてさ、お前が『イチナナサン』を見た時にはもう、じじいは店内で死んでたんじゃねえの?」
「うっわ、マジかよ。超ヤバイじゃん」
「……あのさ」
 二人の視線が俺に向く。
「ツイッターにもネットニュースにも『イチナナサン』の事は何にも書いてないね」
「あ、マジ?」
「うん。偽物だとしても、あんな不気味な人形、ツイッターに写真くらい出ててもおかしくないよね。店頭に置いてあったんだろ?」
「うん」
「……確かに、何処にも写真無いな」
「あ、でもほら『店先に謎の血痕。血液と排泄物が混じっているよう』って」
「これマジで『イチナナサン』でしょ! ほら、俺が見たのマジだったんだって」
「うーん……」
 タローはしばらくスマホをいじりながらうなっていたが、ふいにこちらを向いて言った。
「行ってみっか」
 俺は躊躇いながらも頷いた。

     

第二話

 俺達三人は『グッドラック』の前に到着した。家から自転車で十数分。駅で言えば隣駅になる。
 初夏の日差しが肌に痛い。全くの文系である俺にはキツイ。
「警察、まだいるのな」
 時間は午後二時。今朝遺体が発見されたのなら、まだ警察がいても何もおかしくは無いだろう。野次馬もまだかなりの人数がいる。俺達は遠巻きに『グッドラック』の様子をうかがった。
「……無いね『イチナナサン』」
「うーん、見当たらないな」
「これさ、もしもカシマが見たヤツが本物だったとして、そこにいないのってかなりヤバくない? 野放しって事っしょ?」
 タローの言葉に三人が凍り付いた。
『とても信じられない』という思いと『もしかしたら』という思いが半々くらいだ。ゲームの世界に迷い込んでしまった様な、そんな気味の悪さがある。
「……帰る?」
「帰るか」
「そうだね。『イチナナサン』がいないとしても、店主を殺した犯人はどっかにいるわけだし」
「だよな。危ないよな」
「よし、コンビニ寄って帰るか」
「遊びに行く金も無いしな」
 俺達は誰もバイトをしていない。学校で厳しく禁止されているのだ。内緒でやっているヤツもいるが、俺達は(かっこ悪いが)親からの小遣いでやりくりしている。そのため、遊ぶとなると大抵は誰かの家でゲームか、ガキみたく表を駆け回るしかない。漫画やアニメ、ドラマで見るようなチャラい高校生ライフには憧れるが、現状叶わぬ夢である。

「じゃあな」
「あー、明日学校だりー」
 夕食前に二人は帰った。
 リビングに入ると、ユタカが父と並んでソファに座り、やたら真剣にサザエさんを見ていた。弟のユタカは中学二年生ながら、兄である俺に身体的に劣っている部分はひとつも無いほど、恵まれた体格の持ち主だ。しかし本人はいたって文系なため、兄同様、スポーツとは無縁の学生生活を送っている。趣味はゲーム。得意なジャンルはシューティングだ。
「ユタカ」
「あに?」
 俺が声をかけると振り向きもせずに答えた。どれだけ真剣にサザエさんを見ているのか。
「『エスシーピー』って知ってる?」
「ゲームっしょ? やったことあるよ」
 どうやら知らないのは俺だけらしい。少し、悔しい。
「やったって、何処で?」
「え? 部屋で」
「いつだよ」
「ちょっと今サザエさん見てっから後で良い?」
 ……兄に対して何という態度だ。後でビシッと言ってやらねば。
 それにしても、気付かなかった。兄弟の部屋は同じ。PCも共有。大抵は家にいる二人だから、ユタカがゲームをプレイしていれば気付いても良いものだが……。どちらかの友達が家に来た時は、先に来た方が部屋を使い、友達が来る予定が無いか後から友達が来る方はリビングへ行くのが我ら兄弟のルールだ。もしかしたら、友達が来た時にプレイしたのかも知れない。いや、きっとそうに違いない。

 夕食後、部屋に戻った俺は、早速ユタカに『エスシーピー』を見せてもらう事にした。
「兄貴、自分でプレイしろよ」
「やだよ。俺こういうの苦手だもん」
「俺だって苦手だって……」
 アイコンをクリックし、ゲームを起動させる。兄弟の部屋に机は二つ。PCは俺の机の方に置いてあるが、完全に共有の物として使っているため、見られてまずいものは中に保存しないようにしている。しかし、もしも見覚えの無いファイル等があった場合は、見て見ぬふりをするのが二人の暗黙の了解である。たぶん、このアイコンも癖で見過ごしていたのだろう。
 ロードの後に、スタート画面が表示される。英語ばかりで何が書いてあるのか良くわからない。なるほど、海外のゲームなのか。
 ユタカは大きな溜め息を一つ吐いて、プレイボタンをクリックした。
「マジで苦手だからね。俺、すぐ死ぬからね」
「うん、構わないってば。ちょっと『イチナナサン』ってヤツを見てみたいだけだから」
 ゲームが始まる。
 特にオープニング等は無いようだ。
 ネットで調べた『イチナナサン』の画像がリアルだったので、ゲームもかなりリアルなCGなのかと思ったが、意外と大した事が無い。あの画像は、プレイ画面のキャプチャでは無かったようだ。
 ユタカはキーボードを操作して、自分視点のプレイヤーを動かす。何処へ行ったら良いのか等の指示は無いようだ。所々に武装した人間が立っているものの、話しかけられはしないらしい。進める方へ進んで行く、といった感じだ。
 少し進むと、地下格納庫の様な場所に出た。角を曲がった先に、開いたシャッターが見える。
「あれ」
 ユタカが操作の手を一旦止めて言った。
「何が?」
「『イチナナサン』」
 言われて見ると、確かに格納庫の左隅の方に『イチナナサン』の姿が見えた。ずいぶんとしょぼいCGだが、かえってそれが不気味に感じさせる。
「行くよ」
「あ、ちょっと待って」
 俺が言うと、ユタカはゲームの一時停止ボタンを押した──ようだ。
「なに?」
「このゲームの目的って? あれと戦うの?」
「戦えない。攻撃とか無いから。逃げるんだよ、この施設から。脱出が目的」
「攻撃出来ないんだ」
「出来ない。出来るのは移動とまばたきだけ」
 まばたき……。そうか『イチナナサン』は視線を外してはいけないのだったか。
「やるよ、続き」
 ユタカが勝手にプレイを再開した。
 シャッターの向こうには、そこそこ広い空間が広がっていた。左の隅に『イチナナサン』。他に二人の人間がいた。おそらく、主人公の同僚的な存在なのだろう。
「あいつらと自分とで『イチナナサン』の監視をしながら、この部屋を掃除するってのが本来の目的ね」
「本来の……?」
 その時、突然画面が真っ暗になり、警報の様なものが鳴った。
「停電。こっからゲームスタート」
 プレイヤーを操作し、移動する。すぐに画面は明るくなった。目の前には、同僚二人の死体。『イチナナサン』は……、
「いない……」
「上、見てみ」
 言われた通り、画面上部を見てみる。すると吹き抜けになった空間の二階部分、周囲をコの字に巡る廊下の端で『イチナナサン』に銃を撃つ兵士の姿が見えた。
「逃げまーす」
 そう言ってユタカは走り出した。一瞬画面が暗くなる。これが、まばたきか。
 ボタンを押してドアを開け、隣の部屋へと逃げ込む。すかすず振り向いて、ドアを閉めた。
「ねえ」
 ユタカが振り向いて言った。
「もう止めて良い?」
「何でだよ」
「疲れんだよ、これ。後は兄貴がやれよ」
「……じゃあ良いよ。今度やるわ」
 制止した画面が、時折瞬く。BGMなのだろうか。石臼を碾くような、妙な音が耳障りだった。

 その後、スマホで色々と調べてみた。
 先ずは事件の事。ネットで調べる限り、特別な進展は無いようだ。ツイッターにも大した情報は見つからなかった。今日にしても昨日にしても、『イチナナサン』を見たという記事は何処にも見当たらない。やはり、カシマの見間違いだったのだろうか。
『エスシーピー』についても色々と調べてみた。ネットで検索すると、やたらと充実したファンサイトがあったため、そこをじっくり覗いてみた。それでようやく『エスシーピー』の世界観が理解出来た。『SCP財団』という機関は、『SCP』と呼ばれる人智の及ばない様な力を持った物や人物、場所等を『確保、収容、保護』する事を目的とした秘密機関らしい。サイトには数千に及ぶ『SCP』の紹介が掲載されており、俺が見た『イチナナサン』のページも、その中の一ページだったようだ。紹介文を読んでいると、ついつい夢中になってしまう。不思議で奇妙で、ものによっては不気味な『SCP』達は、もともとオカルトに興味がある俺の心を強烈に刺激した。
 結局、その日は夜遅くまでサイトを覗いていた。

     

第三話

「おはよ」
 翌日、寝不足の目を擦りながら教室へ入ると、すでに登校していたカシマとタローが俺を出迎えた。タローは自分の席、カシマはその後ろである俺の席に座り、何やら話していた。
「おせえよ」
「遅刻ぎりぎりだな」
「うるさいな、カシマは早く自分の教室帰れよ。遅刻になるぞ」
 タローと俺は同じ2年3組だが、カシマは隣の2組だ。
「そういや『グッドラック』の事件さ」
 椅子から立ち上がりながらカシマが言った。
「今タローと話してたんだけど、進展無いみたいだな」
「ああ、朝のニュースでやってたね」
 朝のニュースでは、昨日ネットで調べた以上の情報はほとんど得られなかった。わかったのは店主の名前と年齢くらいである。
「何の話し?」
 俺達の話を聞いて、クラスメイトのリナが声をかけてきた。
 リナはクラスのアイドル的存在──というわけでは無いが、個人的にはめちゃくちゃ俺好みの容姿をしており、密かに狙っている子である。名前も見た目も俺が好きなアイドルに似ている。違うところといえば髪の長さくらいだろうか。リナは小柄でショートカットの似合う、スポーツマンタイプの女の子だ。部活には入っておらず帰宅部だが、帰り道の方向は俺と真逆である。残念。
「ニュースで見なかった? 昨日さ……」
 俺が説明しようとしたその時、校内に予鈴のチャイムが鳴り響いた。
 カシマが慌てて教室を出て行く。
 リナは「後でね」といった感じで手を振ると、自分の席へと戻っていった。
「『イチナナサン』の目撃情報は、いくら調べても全然出てこないな」
 俺が席に座るのを待って、タローが言った。
「そうだね。ニュースでもツイッターでも、全然ひっかからないね」
「やっぱカシマの見間違いなんじゃね?」
「でも、あんな特徴的なもの、見間違えるかな」
「確かになあ……。いや、カシマもさ、絶対に見間違いじゃないって言うんだよ」
「目、良いしね。あいつ」
「頭は悪いけどな」
 そんな話しをしていると、担任が教室へと入ってきた。
「えー、ホームルームの前に、みんなにちょっと話がある」
 担任のアガワが、教壇に出席簿をバンと置いて言った。教室が一瞬、シンとなる。
「知ってるやつもいるかも知れないが、昨日近くで殺人事件が起きた」
 そう前置きして『グッドラック事件』の簡単な説明をした。
「犯人はまだ捕まって無いとの事で、もしかしたらこの辺を逃げ回ってるかも知れないから、みんな気を付けるように」
 女子から「こわーい」という声があがった。男子もざわざわとしている。リナの方を見ると「これの話し?」と口を動かしたので、俺は頷いて見せた。
「せんせー、気を付けろってどう気を付ければ良いんですか?」
 サカシタが声をあげた。いわゆる三枚目で、クラスのムードメーカーだ。
「そうだな……、ちょっとでも怪しい人を見たらすぐ逃げろ」
「ちょっとってどれくらいですか?」
「……それくらい自分で判断しろ」
「先生くらいの怪しさの人の時は逃げるべきですか?」
 笑いが起こる。アガワはめんどくさそうに顔をしかめると「出席を取るぞ」と出席簿を手に取った。

「ねえねえ、殺人犯とか超こわいね」
 一限と二限の間の休み時間、俺とタローのところへリナがやって来た。
「しかも犯人は化け物なんだぜ」
「化け物?」
 タローが笑いながら言った。そして俺の方を向いてウインクをして見せた。リナは首を傾げ、俺の方を見ている。おそらく『イチナナサン』の話しをする流れなのだろうが……伝わるだろうか。
「カシマがさ……一昨日『グッドラック』の前に、ゲームに出てくるモンスターの人形が置いてあるのを見たって言うんだよ」
「俺の身長くらいあるでかいヤツな」
「すごい、おっきいね。でも人形なんでしょ?」
「そうなんだけどさ……」
「ユキオは説明が下手だなー」
 タローが笑う。うるさい。自覚はある。
「あのな、最初から説明するとな──」
 俺では無理と判断したのか、タローが改めて説明した。
 意外な事に、リナは『イチナナサン』の画像をネットで見た事があるそうだ。そんなに有名なのだろうか。
「あれのおっきい人形とか超怖いね。ホラーだよホラー」
「で、カシマはそれは絶対本物の『イチナナサン』だって言うんだよ」
「そんなわけ無いじゃんね」
「……無いとも、言えないかも知れないよ」
 俺が言うと、二人の視線が同時にこちらへと向けられた。
 その時、タイミングを見計らったかのように授業開始のチャイムが鳴った。いつの間にか来ていた数学教師が「早く席に着け」と手を叩く。
「後でね」
 席に戻るリナの後ろ姿を見ていたら、タローが俺の頭を小突いた。
「痛っ」
「何見とれてんだよ」
「っ……早く前向けよな」
 俺がリナに抱いている気持ちは、どうやらタローにはバレているようだった。

 昼休み、学食の窓際にあるいつもの席ついた俺達四人──いつもはタローとカシマとの三人だが、今日はリナも一緒だ──は、銘々育ち盛りの食欲を満たしながら『グッドラック事件』について話していた。
「いや、ホントに『イチナナサン』はいたんだよ」
 俺の右斜め前で、カツ丼と親子丼というめちゃくちゃな組み合わせを頬張りながら、カシマは力説した。
「でもネットで調べても『見た』ってツイートひとつも出てこないぜ?」
「あんな不気味なのがホントに置いてあったなら、誰か一人くらいツイートしててもおかしく無いよね。あたしだったら絶対するもん」
 向かい合って座っているタローとリナは、持参した弁当を食べている。タローの弁当はリナの物の倍くらいのサイズだ。リナの弁当は……自分で作ったのだろうか。カラフルで、バランスも良さそうだ。
「だから、俺が見る前は店内にいて、俺が通り過ぎた後はどっか行っちゃったんだよ。たぶん」
「つかさ、本物前提で話してるけど、まずあり得ないからね」
「いやいや、あれは本物だろ。実物大フィギュアとか、ネットで調べても売って無いからな」
「なにマジに調べてるんだよ」
「そりゃ調べるだろ」
「あ、ねえねえそういえばさ、ユキオ君さっき本物かもよーみたいな事言ってなかったっけ?」
 みんなの視線が俺に集中する。
「ああ、いや、本物っていうか、何というか……」
「本物だろ?」
「カシマ黙れよ」
「ユキオ君はどうして本物だと思うの?」
 隣に座ったリナの顔がぐっと近付く。……良い匂いがする。
「いや、カシマが言う『本物』とはちょっと意味が違うんだけどさ」
「どういう意味だよ」
「黙れって」
「昨日調べてて知ったんだけどさ、あの『イチナナサン』って元ネタがあるらしいのね」
「元ネタ?」
「うん。あの人形は元々、日本人彫刻家の……ええっと、カトウ……イズミって読むのかな? その人が作った『無題2004』って彫刻らしいよ。あんまり見た目が不気味だったから、みんなが面白がって色んな設定をつけていったのが始まりみたい」
「そうなんだ。タロー知ってた?」
「いんや」
「あ、じゃあもしかしたら、そのカトウさんの作ったやつだったのかも、って事?」
「そういう事」
「あんな店にそんなゲージュツ品があるか?」
「でもカシマの話しよりは信憑性があるよな」
「俺信用ねー」
「あると思ってた方が驚きだわ」
「ねえ、もし本当にそれが無題なんとかって彫刻だったならさ、言った方が良いんじゃない?」
 食べ終わった弁当箱を閉じながらリナが言った。
「言った方が、って?」
「警察に。だって、泥棒じゃない?」
「あ、なるほど。カシマ、お前自首して来いよ」
「いや、盗んで無いから」
「だけどリナ……ちゃんの言う通りじゃないかな。何か捜査の手掛かりになるかも知れないし」
「だよね」
 俺が賛同すると、リナは嬉しそうに声をあげた。……可愛い。
「でも俺……怖いわあ」
「前科がなー」
「無いから。でもさ、殺人事件の証言になるんだろ、これ。警察に色々聞かれるのかと思うと、やっぱちょっとびびるわー」
「前科がなー」
「タローうるさい」
「じゃあさ、みんなで行く? タローと俺と、さ」
「うんうん行って来た方が良いよ」
「うーん……でもなあ、警察署とかマジ行かなくない?」
「前科があるやつはなー」
「はいはい、もういいから」
「取りあえず『グッドラック』に行ってみて、警察がいたら言ってみる?」
「それだ! ユキオ天才!」
 カシマがパチンと指を鳴らした。そして「これプレゼントな」と俺にお新香の皿を寄越して来た。……いらない。
「じゃあ放課後行ってみるか」
「明日どうだったか教えてね」
 こうして、俺達三人は放課後『グッドラック』へと向かう事となった。

     

第四話

 放課後、俺達が『グッドラック』に着くと、店の前には二名の警官の姿が見えた。制服を着ているから『おまわりさん』だろうか。何の作業をしているのだろう。わからない。
「うわ警察いるわー。いないで欲しかったなー」
「前科がなー」
「もはやタローのしつこさは犯罪レベルだわー」
 自転車にまたがったまま遠巻きに見ている俺達に気付いたのか、背の高い方の警官がひょいとこちらを見た。
「……見てるね」
「行きます? 行っちゃいます?」
「カシマ、ムショに入っても、俺達ずっと待ってるからな!」
「そういう事言うと俺行かないよ?」
 言いながら自転車を押して店の方へと歩いて行く。警察と話すなんて俺も始めての事だ。少し緊張してくる。
「どうかしましたか?」
 こちらを見ていた警官が、明らかに警戒した様子で言った。何も悪い事をしていないのに、つい謝ってしまいそうになる。
「えっと……」
「こいつが事件の前の日に、店の前にこれが置いてあるの見たって言うんですよ」
 躊躇しているカシマのかわりに、タローがスマホを見せながら言った。こういう時、タローは本当に度胸がある。
「……これが?」
「はい。これはゲームのキャラなんですけど、実際は何かゲージュツ作品らしくて……。店ん中にはありますか?」
 そういえば、店の前に無いのでてっきり無くなったのだと考えていたが、店の中にあるかどうかまでは考えていなかった。普通そう考えるのが当然だろうが、何故かそうは考えなかった。どこかで俺も、カシマの話を信じてしまっていたのかも知れない。
「中にはありませんね。もう少し詳しく聞かせていただけますか? 今担当の者を呼びますので」
「あ、はい」
 緊張して立ちすくむ俺達三人を背にして、警官はもう一人の警官に何か言うと、店の中へと入っていった。残された少し太めの警官は、人の良さそうな顔で「ちょっと待っててね」と俺達に話しかけた。
「タローかっけえなあ」
 カシマが感心した様子で言った。
「びびってる方が怪しいだろ。俺はお前と違って前科無いし」
「おい、警察の前で前科とか言うなよ。聞かれるだろ」
 そうこうしていると、中からスーツ姿の警官がのっそりと現れた。まさに『デカ』といった見た目の、五十代くらいの小柄な男だ。日に焼けた肌に短く刈った髪。漁師と言っても信じるかも知れない。
「えーっと、どなたが、何を見たって?」
 背の高い警官がタローを指さした。
「あ、俺じゃ無くて、見たのはこいつです」
 慌ててタローが訂正した。その横でカシマは明らかにビビっている。
「何を見たの?」
 タローが再びスマホを見せながら説明をした。刑事は見た目にそぐわず丁寧に相槌を打ちながら話を聞いている。
「これを見たのは、事件の前日?」
 聞かれてカシマが背筋を伸ばした。
「あ、は、はい! 土曜の……あれ? 金曜だったっけ?」
「どっち?」
「あ、金曜です。金曜。学校の帰りだから」
「学校帰りって事は何時くらい?」
「確か……六時くらいだったかな……」
「通学路なの?」
「まあ……」
「まあ、って?」
「いや、こっち通らない事もあるんで……」
「……で、これは漫画か何かのキャラクターなのかな?」
 タローが俺に目配せをした。説明しろ、という事か。
「画像はゲームのなんですけど、元はカトウイズミって彫刻家の作品なんです。だから、あったのはその彫刻なんじゃないかって……」
「どの辺にあったの?」
「刑事さんのいるあたりです」
 カシマは店の前──庇の下に、ゴチャゴチャと雑貨が放り込まれたワゴンが並んでいる辺りを指さした。
「大きさは?」
「こいつくらいです」
 言って今度はタローを指さした。
「でかいな……君たち二人も見たの?」
「いいえ」
「見てないです」
「見たのは君だけ」
「はい」
「もう少し、詳しく聞かせてもらいたいんだけど、良いかな」
「あ、はい」

 その後、俺達はあれこれ質問され、最後に連絡先を教えて解放された。
「他にも何かあったらご連絡下さい」
 渡された名刺にはシバサキ・カオルと名前が書かれていた。
「カオルって顔じゃ無かったよな」
 帰り道、カシマが笑って言った。さっきまで緊張でガチガチになっていたくせに、今はすっかりいつも通りだ。
「この後どうする?」
 時間を見るともう六時を過ぎている。刑事とは一時間以上話していたようだ。
「俺は疲れたから帰るわ」
「そうだな、カシマは早く牢屋の中に帰った方が良いな」
「タローマジうぜえわあ」
「じゃあ、また明日」
「おう、明日」
「お疲れー」
 二人と別れた俺は、一人家路についた。
 日が延びてきたとはいえ、この時間になると薄暗い。
 この辺りはあまり人通りが多くない。ふと『イチナナサン』の事を思い出し、背筋がすっと寒くなる。

 ゴリゴリゴリゴリゴリゴリゴリゴリゴリゴリゴリゴリ……

 ふいに、背後から石臼を碾くような大きな音が聞こえた。俺は驚いて、自転車にまたがったまま凍り付いた。音の大きさから察するに、発生源は俺のすぐ後ろのようだ。少なくとも、遠くは無い。近くだ。
 振り返ろうとしたところではっと思い出した。
 この音には、聞き覚えがある。
 そう、昨日家で聞いた。家で、ゲームを──『SCP』をプレイしている時に。ゲームを見ている時は知らなかったが、後から調べてこの音の正体を知った。この音は……『イチナナサン』が発する音だ。
(……気のせいだ。気のせい。気のせい……)
 自分に言い聞かせながらペダルに乗せた足に体重をかける。もちろん、まばたきは、出来ない。
(いるはずがない。気のせいだ。聞き間違いだ)
 心臓が早鐘を打つ。耳を澄ます。音はもう聞こえていない。
 聞き間違いだ、と心の中で繰り返しながら、俺は一気にペダルをこいだ。向かい風が眼球を打つ。目が乾いて涙が出て来た。まばたきをしたら、死ぬかも知れない。しかし、もう……限界だ。まばたきを、する。

 ────。

 ペダルの回転を緩め、ゆっくりと停車する。そして辺りを見渡す。サラリーマンや学生など、家路を急ぐ姿がちらほら見えるだけで、おかしなものは見当たらない。
(いるわけ、ないじゃないか)
 苦笑して、ゆっくりとペダルをこぎ出す。胸はまだ、痛いくらいに高鳴ったままだ。
 それにしても、イヤにはっきりとした幻聴だった。聞き間違いとは、思えないくらいに……。疲れているのだろうか。昨日遅くまで『SCP』や『イチナナサン』について調べていたから、そのせいかも知れない。いや、そうに違いない。
(とにかく、良かった、気のせいで)
 丁字路を左に曲がると、見慣れた我が家が見えて来た。今夜の夕食はなんだろうか。
 自転車を置き、鍵をかける。
 つい、まばたきをひかえてしまう。目が痛い。
「ただいまー」
 帰宅し、後ろ手に玄関のドアを閉じると、ようやく安心する事が出来た。ここまで平気だったのだ、家の中にまでは入ってこないだろう。
 キッチンの方からは空腹を刺激する香りが漂って来ている。安心ついでに腹が鳴った。
 靴を脱いで、足早に二階の自室へと向かった。ユタカはもう帰っているようだ。靴があった。
 ノックして部屋に入ると、ユタカが寝転がって漫画を読んでいた。
「ただいま」
「おか」
「網戸くらい閉めろよ」
 見ると窓が全開に開け放たれている。カーテンすら引いていない。
「だって暑いし。エアコンつけるほどじゃ無いし」
「だからって網戸まで全開にする事ないだろ。入って来たらどうするんだよ」
「入って来たらって、何が?」
「それは……」
 何だろうか。
「……虫とか、入ってくるだろ」
「兄貴、虫怖いの?」
「お前だって嫌いだろ」
 言いながら網戸を閉め、カーテン引く。何となく、窓の外が視界に入らないよう気を付けてしまう。さっきのは、気のせいのはずなのに。
「そろそろ夕飯だから下いこうぜ」
「これ読み終わったら」
「すぐ来いよ。腹減ったから」
「わかってる」
 弟を残し、階下へと向かう。そしてリビングに入り、テーブルにつく。
 その間ずっと、聞こえないはずの音が鼓膜に張り付いて、消えなかった。

     

第五話

 翌日、俺が教室に入ると、待ってましたとばかりにリナが駆け寄って来た。タローはまだ来ていないらしい。
「おはよ」
「おはよ」
「ねえ、昨日行ったの?」
「うん」
 自分の席へと向かう俺の後ろをリナがついて来る。何となく、良い気分だ。
「えー、じゃあじゃあ、取り調べうけたんだ」
「取り調べって……、色々質問に答えただけだよ」
「調書とか取られたの?」
「メモはしてたけど……」
「へー、すごーい。ドラマみたーい」
 俺が席につくと、リナはタローの席に、こちらを向いて座った。
「それでそれで。どうなったの?」
「連絡先教えて、おしまい」
「電話とかきた?」
「ううん。くるとしても、カシマのとこじゃない? 俺は、見たわけじゃ無いから」
「そっかー、そうだよねー」
 その時、眠そうな目をしたタローが教室に入ってきた。
「おはよ」
「はよ」
「あ、ごめんどくね」
「いいよ」
 そう言ってタローは俺の机の上に腰を下ろした。
「で、何盛り上がってんの?」
「昨日の話だよ」
「三人で行ったんだよね。情報提供っていうの? 何かすごいよね」
「捜査に進展は無いみたいだけどな」
 俺も今朝のニュースは気にして見たが、テレビにも新聞にも、ネットにすらも『グッドラック事件』の続報は報じられていなかった。ツイッターでローカルには話題になっているようだが、騒ぎにはなっていない。騒いでいるのは、俺達四人だけだ。
「話題にもなって無いよね。親はちょっと心配してたけど」
「殺人犯がこの辺うろついてるってのにな。もっとこう、さ、学校の周りに警察がいたりとか、集団下校したりとかさ」
「そうだよね。あっても良いよね」
「クラスでも俺達ぐらいだよね。この話題で盛り上がってんの」
「他人事なんじゃん? 俺達だって、カシマの話が無ければこんな盛り上がらないっしょ」
「確かにね」
「何か今俺の名前言ったか?」
 そこへ隣のクラスからカシマがやってきた。
「あれ、お前今頃牢屋じゃ……」
「しつこい。タローしつこい」
「昨日の話してたんだよ」
「おいおい、俺抜きでするなよ。主役だぜ主役」
「主犯だろ、主犯」
「ちょっと誰かタローどっかやってくんない?」
「ねえ、カシマ君、帰った後に警察から電話とかあったの?」
「え? ああ、いや、今んとこ無い」
「ふーん、そんなもんなんだ」
「そんなもんでしょ」
 話しながら、俺はスマホでネットニュースを調べていた。やはり続報は見つからない。普段身近で事件が起こる事など無いし、こんなにひとつの事件を気にした事も無いからわからないが、こんなものなのだろうか。
「短い祭りだったな」
「いやいや、まだ終わりじゃ無いでしょ」
 カシマがタローの肩を叩いて言った。
「何だよ」
「まだ俺が見た『イチナナサン』が本物だったかどうか、って問題が残ってるでしょうが」
「バカかよ。本物なわけ無いだろ」
「あ、言っちゃったね。夢が無い発言、言っちゃったね」
「どちらにせよ、調べようが無いだろ」
「うーん……ユキオ、知恵プリーズ」
 俺の方を向いてカシマはパンパンと手を叩いた。
「……見間違いか、本当にあったのかくらいは確認出来るかも」
「なになに?」
「その『イチナナサン』が配達されてきたものなら、店内に伝票か入ってた箱くらい残ってるかも」
「ああ、なるほどね。でもどうやってそれを知るの?」
「……店内に忍び込むとか?」
「無理だろ。無理ゲ過ぎるわ」
「だよね。冗談だよ」
 俺も本気で言ったわけでは無い。もし今店に入ろうものなら、警察にどれだけ怒られるかわかったものじゃない。下手をしたら退学か……、それ以上という事だってあり得なくは無い。
「……やっぱユキオは天才だわ!」
 カシマが突然大声をあげた。
「は? 何言ってんの、お前」
「お前達だって気になるだろ? 店に行って確認しようぜ」
「ダメだろ、バカだろ、死んだ方が世界のためだろ」
「言い過ぎじゃね?」
「いや絶対バレるし捕まるって。どうせまだ警察がいるだろうし」
「夜中行けばいないんじゃね?」
「だとしても不法侵入だぞ? 流石にダメだろ」
「……ですよね」
「ですよ。うわー、カシマ、マジ見損なったわー」
「警察の人に聞いたら教えてくれないかな?」
 リナが言った。
「普通それを先に考えるよね。でも、教えてくれないっしょー。下手したら怒られるんじゃん?」
「そっか。そうだよね……。残念」
「ていうか、あり得ないからね。あれが本物とかあり得ないからね」
「何でお前言い切れるんだよ」
「むしろ何でお前はそんな自信満々なんだよ」
「見たからだよ」
「俺が言ってる『本物』ってのは『ゲームの設定のイチナナサン』の事だぞ? 『ゲージュツ品のイチナナサン』の事じゃ無くて。お前、動いてるとこ見たわけじゃ無いだろ?」
「……どうかな」
「どうかなって何だよ」
「動いてた、気がする」
「気のせいですね。あるいは病気です」
 その時、予鈴が鳴った。担任のアガワが教室に入ってくる。
「やべ、教室帰るわ」
「帰れ帰れ」
 バタバタと自分の教室へと帰って行くカシマの背中を見ながら、俺は考えていた。
 カシマが見た『イチナナサン』は見間違いだったのか。それともカトウ氏の作った芸術作品だったのか。それとも……。
 これが漫画や小説だったら『グッドラック』に忍び込んだり、シバサキ刑事と一緒に捜査をしたりと色々な冒険が待ち受けているのだろうが、現実は違う。忍び込んだりすれば逮捕されるかも知れないし、刑事が俺達に捜査協力をお願いしてきたり情報を教えてくれたりなどあり得ない。俺達は善良な一市民として情報提供をして、それでおしまい。それこそ犯人を見たとか、被害者の事を良く知っていたとかいう情報ならまだしも、事件に関係があるかどうかもわからない情報だ。警察が俺達に関わってくる事はもう無いだろう。いや、『グッドラック』の店主がカトウ氏の芸術作品を購入した形跡が見つかれば、もしかしたらカシマに確認の電話くらいはあるかも知れない。だが、カシマとしても昨日話した以上の情報は無いのだから、これ以上俺達に出来る事は……やはり何も無い。
 祭りは、終わり。
 残念だが、タローの言う通りだ。
 物語のような劇的な事など、普通に生きていればまず起きない。この昨日の出来事だけでも、なかなか経験出来ないような事だったじゃないか。
 担任が出席を取っている。俺の名前が呼ばれた。
「はい」
 日常はそう簡単には揺るがないものだな、と思った。

     

第六話

(……よし、行くか)
 放課後、タローとユキオには内緒で『グッドラック』に来た。目的はもちろん、俺が見た『イチナナサン』が見間違いで無かった事を証明するためだ。二人にも来てもらいたかったが、どうせ反対されるだろうから黙って来た。
 タローに煽られてついムキになったが、さすがの俺でも、あれがゲームの中のように動き出して人を襲うなんて考えてはいない。しかし見間違いと言われるのは不本意だ。他に見たという者がおらず、ツイッターにも何のつぶやきが無くても、俺はこの目で、見たのだ。『グッドラック』の店先に、こちらを向いて佇んでいた『イチナナサン』を。
 店に着くと、昨日の背の高い警官が一人で立っていた。俺が自転車に乗ったまま近付くと、少し不審そうな顔でこちらを見た。
「どうも」
 あちらから話掛けて来た。
「あ、どうも」
 慌てて自転車から降り、頭を下げる。
「昨日は有り難うございました。まだ、何か?」
「あ、いえ……。どうなったかなー、って」
「犯人はまだ捕まっていません」
「……、あの『イチナナサン』は……?」
「『イチナナサン』?」
「あの、俺が、昨日見たって言ったヤツは、見つかりましたか?」
「いえ」
「……やっぱり、盗まれたんですかね?」
「そういった事は……」
「俺の見間違いとかだったら、悪いなって思って……」
「その可能性が?」
「いやいやいや、それは無いっす。いや、マジで見たんすけど……」
「何にせよ、今捜索中ですから」
「……はい」
「情報提供、有り難うございました」
「いえ……、捜査、頑張って下さい」
 頭を下げ、自転車にまたがる。そしてペダルに体重を乗せる。
(ちえ。やっぱ無理か)
 角を曲がり、店が見えなくなったところで自転車を降りた。小さいビルが立ち並ぶこの辺りは、夕方を過ぎると人通りがほとんど無い。時計を見るともう六時を過ぎていた。授業が終わってすぐに学校を出たのだが、さすがに店に行くのには度胸が行った。決心がつくまでうろうろしていたせいで、こんな時間になってしまった。
(歩いて帰るか)
 ここからなら歩いても十五分程で家に着く。俺は自転車よりも、どちらかといえば歩いたり走ったりする方が好きだ。中学までは陸上部だった。高校に入って部活は辞めてしまったが、今でも時々ジョギングくらいはしている。
 陸上を辞めた理由は、周りには「高校では遊びたいから」と言っているが、実際はちょっと違う。怖くなったのだ。一生陸上をやっていくつもりは無かった。走りで食っていけるとも思えなかったし、事実そこまで速くは無い。それなのに、このまま高校でも陸上を続けていたら、何だか青春を浪費してしまいそうな気がして、怖くなったのだ。もちろん部活だって青春だ。しかし、この先何年か経って、学校の思い出が部活しか無いのは寂しく思えた。だから、高校では陸上部に入らなかったのだ。自分で決めた事だ、後悔はしていない。中学で一度疎遠になりかけたタローとユキオと、こうして毎日遊べるのも部活に入らなかったおかげだ。色気は無いが、これが俺の求めていた青春だ。
(あーあ、つまんねえの)
 祭りは終わり、と言ったタローの顔が浮かんだ。
(しゃーないか……。ま、充分楽しめたか)
 そう思う事にした。気持ちの切り替えは早い方だ。自分の見た『イチナナサン』が見間違いで無かった事は証明したかったが、仕方ない。それに、自分がそれを見た事は揺るぎない事実だ。あれは見間違いなどでは無かった。それで良いではないか。
(夕飯何かなー)
 家までは後五分程。歩いていたら汗ばんできた。途中、家のすぐ近くのコンビニに寄って、アイスを買って帰ろうか──。

 ゴリゴリゴリゴリゴリゴリゴリゴリゴリゴリゴリゴリゴリゴリゴリゴリゴリゴリゴリゴリゴリゴリゴリゴリゴリゴリゴリゴリゴリゴリゴリゴリゴリゴリゴリゴリゴリゴリゴリゴリゴリゴリゴリゴリゴリゴリゴリゴリ

 その時、突然後ろから大きな音が聞こえて身を竦めた。
(……何だ?)
 振り向こうかと思った瞬間、目の前に見覚えのある物体が忽然と現れた。
「い……」

 ──ゴキッ。

 …………。

     

第七話

「今日ってカシマ休みなのかな?」
 昼、学食のいつもの席に座った俺は、目の前にいるタローに聞いた。席についているのはタローと俺の二人。リナも、カシマもいない。リナは、今日は友達と別の席で食べている。カシマは……、今朝から姿が見えないので気になっていたが、昼には現れるだろうと大して気にしていなかった。仲が良いからといって、別に四六時中一緒にいるわけでは無い。
「カシマ? 誰?」
 タローが顔も上げずに言った。
「誰、って……。カシマだよ」
「何組のやつ?」
 ふざけているのだろうか。
「2組の、俺達の幼なじみの、カシマだよ」
「ごめん、ちょっと食事中にコントはのれないわ」
「コントって何だよ」
「は?」
 弁当を食う手を止め、タローがこちらを向いた。
「今朝から姿が見えないから、休みかなってだけの話だよ」
「だから、誰がよ」
「カシマ」
「……ちょっと言ってる意味がわかんないんだけど。何、新しいボケなの?」
 話がかみ合わない。
「……もう良いわ」
 仕方が無いのでスマホを取り出す。休みか何か知らないが、ラインの返事くらいは出来るだろう。
「……あれ?」
 カシマの連絡先が、スマホから綺麗に消えていた。
「どうなってんだ?」
「大丈夫? 五月病?」
「違うよ。カシマのアドレスが消えてんだよ」
「だからさあ。さっきからカシマカシマって、誰なんだよソイツ」
「……本気で言ってんのか?」
「本気も何もなくね?」
 どういう事だろうか。俺の知らないところで、ケンカでもしたのだろうか? しかし、アドレスが消えているのは何故だろうか。故障か、俺に気付かれないようにこっそり誰かが消したのか。タローが? いや、今日はずっとスマホはポケットの中に入れたままだった。勝手に消す隙など無かったはずだ。
「で? カシマって誰なのよ?」
 タローが若干いらついた様子で言った。いらついているのは、俺の方だ。
「……もう良いよ」
 これ以上、タローとは話したく無かった。こんな悪い冗談には付き合いたくない。

「え? カシマ?」
 食事を終えた俺は、タローを食堂に残して2年2組の教室へと向かった。タローに聞いても埒があかない。クラスメイトに聞くのが一番手っ取り早い。
 しかし、返って来た返事は俺の予想を裏切るものだった。
「カシマなんて、このクラスにいないよ。クラス間違えて無い?」
「…………」
 俺は、絶句した。クラスぐるみでイジメでも始めたっていうのか?
 そうだ、リナに聞いてみよう。リナなら、こんな悪い冗談は言わないだろう。
「リナ」
 都合良く、うちの教室に帰って来たリナの姿が見えた。慌てて呼び止める。
「あ、ユキオ君。何?」
「今日、カシマ見なかった? 休んでるみたいなんだけど、2組のヤツも知らないって言うんだよ」
「カシマ……?」
「そう、カシマ……」
「ごめん、知らない」
「そ、そっか」
「ごめんね。2組の人なの?」
「……うん」
「2組にカシマ君……、あ、男子だよね? そんな人いたっけ?」
「……もう良いよ。ありがと」
「あ、うん……」
 愕然とした気持ちで、俺は教室を背に歩き出した。昼休みはもうすぐ終わりだが、教室に戻る事が、何だか怖かった。
 あてもなく廊下を歩きながら、考えた。
 これは、一体どういう事なのだろうか。もしかしたら、俺の頭がおかしくなったのだろうか?
「……」
 少し考えて、母に電話をかけた。カシマとは幼なじみ。家族ぐるみの付き合いだ。母なら、きっとカシマの事を覚えているだろう。
「もしもし?」
 母はすぐに出た。
「あ、あのさ……」
 そこで、言葉に詰まった。もしここで「知らない」と答えられたら……。
「どうしたの? 忘れ物?」
 母の不審そうな声が聞こえた。
「……いや、ごめん、間違えてかけちゃったんだ」
「なんだ。びっくりするじゃない」
「ごめん」
「じゃ、勉強頑張って」
「うん」
 電話を切ると、昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴った。教室には帰りたく無かった。しかし、授業をサボる勇気も無かった。俺は今まで、学校をサボった事は一度も無い。そういう事が出来ない性分なのだ。
 深いため息を吐いて、踵を返した。
 自分の教室へと戻ると、何だか騒がしい。何人かが窓から体を乗り出して何か言っている。
「おい、あれなんだ?」
「どけよ。見えねえ」
「何だ? あのでかいやつ」
「俺にも見せろよ」
「あれ? いなくなった……」
 ……何の話しだろうか。
「あ、おい、ユキオどこ行ってたんだよ」
 他の男子に紛れて窓の外を見ていたタローが振り返って言ったが、先程の出来事が頭を過ぎり、思わず無視してしまった。
「今さ、校庭に変なやつがいたんだぜ」
「そうそう、何かでかい人形みたいのがさ」
 タローの隣のサカシタが、振り向いて補足した。
「……人形?」
「そう、何か不気味な感じの……ニン……ギョ……ウ……」

 その時、教室の真ん中に現れたものを見て、その場にいた全員が凍り付いた。

 叫び声を上げるものすらいない。

 音も無く、何の前触れも無く現れたそれは──、

「い……『イチナナサン』……」

 ──ゴキッ。

 刹那、静まり返った部屋の中に鈍い音が響いた。
 いつの間にか、『イチナナサン』は教室の隅に移動していた。
 そして、その足下には──、
 明らかに異常な角度に首を曲げ、床に倒れ込んだクラスメイトの──、
「死……」
「いやああああああああああああああああああああああああああ」
 さっきまで一緒に笑っていた、変わり果てた姿の友人を見て、幾人かの女子が叫び声を上げた。幾人かの男子も、吠えるような声を上げている。
 その声を聞いて、金縛りが解けたように、皆が一斉に教室の外めがけて走り出した。

 ──ゴキッ。

 ──ゴキッ。

 しかし『イチナナサン』はまるで俺達を閉じ込めるかのように、教室のドアを潜ろうとした者を片端から縊り殺していく。
 俺は、一歩も動けずにいた。視線は『イチナナサン』を視界から逃すまいと、神出鬼没に教室の中を移動するその姿を追いかける。当然まばたきは、出来るはずが無い。思い切り見開いた目は、徐々に水分を失ってひりついていく。後、どれくらい我慢出来るだろうか。
 タローは、リナは、無事だろうか?
 確認したかったが、不用意に眼球を動かすわけにはいかない。
 どうする。
 どうすれば、ここから逃げられる。
 今、視線の先で『イチナナサン』はただの彫像のように制止している。
 ……そうだ!
「みんな! 俺の作戦を聞いてくれ!」
 何人生き残っているかはわからないが、生き残っているもの全員でまばたきのタイミングをずらせば、きっと逃げる事が出来る。そうだ、俺は一人じゃ無い。皆で力を合わせれば……、皆で……。
「……みん、な?」
 ……おかしい。
 静か過ぎやしないか?
 誰の声も、息づかいさえも聞こえないじゃないか。
 そういえば、担任は来ないのか?
 昼休みは終わったのに……。
「おい! みんな!」
 もう一度、大きな声で呼びかけてみる。
 しかし、無反応。
 もしかして……。
「な、なあ」
 声が震える。乾いているせいだけで無く、涙が、滲む。
「おいってば……。みんなあ……」
 最新の注意を払いながら、視線を下げる。
 目の前の床には、無数に折り重なったクラスメイト達の死体。
 後ろは……、いや、ダメだ。『イチナナサン』を視界の外に出してはいけない。
 でも……、
「みんなあ……」
 堪えきれず、勢いよく振り向いた。
「う、うわあああああああああああ」
 そこには、死体以外、何も見えなかった。
 皆、死んでしまったのか?
 タローも、
 リナも、
 俺も、すぐに……。
 再度振り返り『イチナナサン』の方を向いた。
 しかし──、
(……いない)
 クラスのどこを見渡しても『イチナナサン』の姿は見えなかった。
 かわりに……、

「うわああああああああああ!」
「助け……」
「何だよこいつ!」
「誰かあああああ!」

 何処かのクラスから、絶望的な叫び声が聞こえて来た。

 それを聞いて俺の意識は、闇の中へと滑り落ちていった。

     

第八話

「──っ!」
 気が付くと、見覚えのある部屋の中で、仰向けに寝そべっていた。
(俺の……、部屋?)
 見間違う事無く、ここは俺の部屋だ。
 脳裏に、先程の惨劇の情景が浮かんだ。床にごろごろと転がった、クラスメイト達の死体、死体、死体……。そして、俺の前に佇む『イチナナサン』。俺は、あの地獄から逃げ出せたというのか? あの状況から? そんな幸運が起こりうるのだろうか。確かに気絶したその時、『イチナナサン』は別の教室にいたようだ。少なくとも、目の前にはいなかった。とはいえ、俺は気絶した際に間違い無く目を閉じたはずだ。そうすればいずれ、『イチナナサン』は俺を殺しにやって来ただろう。それとも死んだふりが通用するのか? まさか……。殺される前に誰かが助け出してくれたと考えた方が可能性は高いだろう。しかし、誰が、どうやって……。
 ……タローは、リナは、どうなったのだろう。俺が助かったのだ。生きている確立はゼロじゃないはずだ。もちろん、あの状況で生きているとは思えないが、死体を実際に確認したわけじゃ無いし、気絶して、俺のように標的から外れた可能性だってある。
 ポケットに手をやり、スマホを探した。連絡を……。しかし、制服を着ていたはずの俺はいつの間にか私服に着替えさせられており、ポケットの中にスマホは見当たらなかった。誰が、着替えさせたのだろう。
 痛む頭に顔をしかめながら、俺はゆっくりと立ち上がった。そして、自分の服装を確かめる。模様の少ない白いTシャツに、くたびれたジーンズ、かかとの擦れてきた靴下……、これらは間違い無く俺の服だ。
 ──自分の置かれた状態を改めて見ると、おかしい事が沢山ある。俺は、自分の部屋の真ん中に寝かされていた。俺達兄弟は二人で一部屋、寝る時は床に布団を敷いている。しかし、今床に布団は敷かれていない。俺は床の上に直接寝かされていた。タオルケットの一枚も掛けられていなかった。学校の、あの状況から救出されたのだ、布団くらい敷いてくれても良いだろう。それに、着替えさせてくれた事は良いが、靴下をはかせる必要はあっただろうか。ジーンズというのも解せない。
 部屋の中を見渡してみる。時計は午後四時過ぎを示している。という事は、俺は三時間以上気絶していたわけだ。その間に、一体何があったのだろう。
 何か手掛かりは無いかと、部屋の中を探る。スマホも、カバンも見つからない。脱がされた制服も部屋の中には無かった。もしかしたら、警察に押収でもされているのだろうか?
 窓の外を見る。まだ暮れ始めてはいないが、闇を含み出した重たい日光が部屋に射し込んでいる。
「あれ? 兄貴起きたんだ」
 ノックもせずに部屋に入って来たのはユタカだった。片手に飲みかけのコーラのペットボトルを持っている。……気絶して運び込まれた兄が起きたのだ、もう少し、感動めいたものがあっても良いのではないのだろうか。
「休みだからって寝てばっかいて良いのかよ」
 部屋に入って右手に並んだ兄弟の机、その奥、窓側がユタカの机だ。椅子を引き、腰掛けようとしながらユタカが言った。
「……休みって、何が?」
「何って、学校に決まってんじゃん」
 学校が、休み?
 ……そうか、あんな事件があったのだ、学校が休みにならないはずが無い。
「今日は何日だ?」
 もしかしたら、俺はもう何日も意識を失っていたのかも知れない。あるいは、少し頭がおかしくなって、数日分の記憶を失ってしまったのかも知れない。どちらもありそうな話だ。
「……○日だけど?」
 しかし、俺の予想に反し、日にちは経っていなかった。『今日』は『今日』であっているらしい。
「……お前の学校も休みなのか?」
 気になって聞いてみた。
「じゃなきゃ朝から家にいないだろ?」
「……何で、休みなんだ?」
「え?」
「何で俺の学校もお前の学校も休みなんだって聞いてるんだよ」
 思わず、語気が強くなる。ユタカは訝しげに眉を寄せた。
「何でって……。あれ? そういえば、何で休みなんだっけ?」
「いつ休みって決まったんだよ」
「いつって……、前から?」
「違う!」
 思わず叫んでしまった。
 違う。
 何かがおかしい。
 いや、全てがおかしい。
 俺の頭がおかしいのか、この世界がおかしいのか、それはわからない。
 何にせよ、何もかもつじつまが合わないでは無いか。
 納得のいく答えがあるとすれば、あの惨劇は全て俺の妄想だった、という答えだけだ。
 しかし、それは断じて無い。
 あの出来事が、現実で無かったわけが無い。
 俺は、見たんだ。
『イチナナサン』を。
 クラスメイトの死体を。
 今も鼓膜に刻まれている、あの悲鳴を!
 あれは絶対に夢では無かった。
 俺が気絶した後に、一体何があったというのか。
 一体、何が……。
「──兄貴さあ」
 ユタカが自分の机の上に置かれたPCの電源を入れた。ちなみに俺の机の上には本が並んでいる。アナログとデジタルの綺麗な対比だ。
「寝ぼけてんのか知らないけど、大きい声出すなよな」
「……悪い」
「ま、良いけど」
「──そうだ。ユタカさ」
「何?」
「俺の携帯鳴らしてくれない?」
 この部屋にあれば着信音が聞こえるだろうし、無ければ今所持している誰かが出てくれるかも知れない。
 しかしユタカの返事は、予想だにしなかったものだった。
「携帯? 兄貴、携帯持ってないじゃん」

 その後、俺は自分に何が起こったのか詮索する事を一旦諦め、一階へと降りた。下の階には母がいるはずだ。何だか、無性に恋しく感じた。
 俺の頭がおかしくなったのでも何でも良い。今はまず、この世界に、俺を守ってくれる存在がいるのかどうかが知りたかった。守ってくれる存在──、親の愛情が、欲しかった。
 母は、リビングのソファに座り、テレビのワイドショーを見ていた。その後ろ姿を見て、俺はほっと胸を撫で下ろした。思わず、涙が滲む。
「母さん」
 俺の声を聞いて、母はゆっくりと振り返った。間違い無い、俺の母親だ。おかしな事があり過ぎて、もしかしたら別人に入れ替わっているかも、と想像してしまっていた。
「あら、起きてきたの?」
「……うん」
「お昼も食べずに寝てたけど、大丈夫? 夕飯まで我慢出来る?」
 どうやら俺の腹具合を心配してくれているらしい。
「うん、大丈夫」
「そう」
 言って母は、再び顔をテレビに向けた。
 ──これで良いじゃないか、と頭の中の誰かが言った。
 ──これ以上詮索しない方が身のためだ、と声は何度も繰り返した。
 だけど……。
「母さん」
「何?」
 今度は振り向かずに応えた。
「昨日、俺、何してた?」
「何って……、学校でしょ?」
「今日は?」
「朝ご飯食べてからずっと寝てたじゃない」
「学校は、休みなんだよね?」
「……何か、用事でもあったの?」
「ううん。そうじゃないんだけど……」
「どうしたのよ」
 母がこちらを向いた。心配そうな顔だ。
「母さん」
 わけもわからず、涙が零れた。
「何……、泣いてるの? どうしたのよ」
「母さん、俺……」

 ──頭がおかしくなったのかも。

 言おうとしたその時、
 母の後ろに佇む、
『イチナナサン』の姿が見えた。

「かあ──」
 逃げて、と言うより早く、ヤツは姿を消していた。
 ──幻覚、だったのか?
 例の石臼を碾くような音は、聞こえない。
「ユキオ……?」
 母が俺の顔を覗き込んでいる。心から、心配しているのがわかった。
「ごめん、母さん」
 俺は、恥ずかしげも無く、母を抱き締めた。
「ごめん、母さん。ちょっと、怖い夢を見たんだ」
 いつの間にか、俺よりずっと小さくなった母が、俺の背中を抱き返した。
「……もう、驚いたじゃ無いの」
 そっと背中を撫でられる度、目から涙が零れた。

 ──怖い夢を見た。

 そう考えようと、強く思った。

     

第九話

 夕食を食べ終わった俺は、母とユタカと三人で、リビングでテレビを見ていた。父の帰りはいつも九時過ぎで、夕飯は別々だ。普段なら、俺は食事が終わるとすぐに部屋に戻ってしまうのだが、今日は特別だった。
 字幕が画面の半分を占める、下らないバラエティ。芸の無い芸能人が大きな声を上げて笑っている。時々俺も、笑い声のSEにつられて笑う。
 俺がみた『夢』の話は、一切していない。
 もちろん、あれが夢だなどとはこれっぽっちも思っていない。
 しかし、進んでこの平穏を崩す勇気は俺には無かった。
 心の中は大嵐。テレビの内容なんて本当は全く頭に入ってこない。それでも、俺は日常にしがみついた。『こちら』が夢か幻想では無いかと、どこかで思いながら……。

「俺、部屋行くわ」
 番組が終わると、ユタカは部屋へと戻って行った。
 弟の姿が見えなくなると、母が何気ない口調で俺に言った。
「もう、落ち着いた?」
「……うん」
 もちろん嘘だったが、説明のしようも無い。母が心配してくれているというだけで、俺には充分だった。
「そう……」
 母が少しだけ安心したように、テレビのチャンネルを変えた。
「……俺も、部屋行くね」
 二人きりでいるのも、何となく不自然な気がして、俺は席を立った。母は小さく「うん」と言っただけで、こちらは見なかった。それはとても自然で、上手くいえないけれど、嬉しかった。

 部屋に戻ると、ユタカが窓を開け放して、床にごろんと寝転がって漫画を読んでいた。
「窓、閉めろよ」
 弟を飛び越え、慌てて窓を閉めた。鍵を掛け、カーテンを引く。
「暑いって。開けっ放しは謝るけどさあ……、網戸くらい開けといてよ」
「……暑くねえよ」
 不満げなユタカを無視して、俺は机に向かった。特にする事があるわけでは無い。適当に小説を手に取り、呼んでいるふりをした。
 これは『現実逃避』だろうか。それとも『幻想逃避』だろうか。
 正直、今の状態が現実なのか、それとも何者かにより作られた『現実』なのかはわからないが、どちらにせよ、俺が『イチナナサン』に遭遇したという事実は、この世界から綺麗に消え失せている。
「……あ、兄貴」
 ユタカが俺を呼ぶ。
「何だよ」
 振り向かずに俺は言った。
「早く……、こっち……、見て」
「……ユタカ?」
 ただならぬ雰囲気を感じ、俺はゆっくりと振り向いた。

 そこに、ヤツはいた。

『イチナナサン』

 閉めたはずの窓の前。俺の弟を──、ユタカを見下ろすように佇んでいる。
「ユタカ……」
「あ、兄貴ぃ……。俺、ちょっとまばたきして良い?」
 ユタカの言葉に、少しだけほっとする。弟が『イチナナサン』を知っていて良かった。
「お、おう。大丈夫。俺が見てるから。い、一応かけ声いる?」
「うん、うん。早く……、いくよ? いち、に、さん……」
「……したか?」
「うん」
「交代でな」
「うん。兄貴もするなら、早く」
「うん。いち、に……良いか?」
「早く!」
「いち、に、さん……」
「した?」
「おう」
「いち、に……」
 そんな俺達兄弟のやり取りを、ヤツはじっと見つめている。
 俺との距離は1メートルも無い。
 ……でかい。
 改めて見ると、本当に大きく感じる。
 寝転んだ弟との距離は、足先が触れそうな程に近い。床から見上げる『イチナナサン』は、どれだけ恐ろしいだろうか。
「ユタカ」
 俺は、ゆっくりと、ゆっくりと席を立つ。
「あ、兄貴……?」
「逃げよう」
「無理だよ! 無理、だ、よぉ……」
「俺、まばたきするからな! いち、に、さん……」
「……俺も。……いち、に、さん」
 音を立てないように立ち上がり、俺は少しずつ、少しずつ、後ずさりしながらドアへ近づいた。上手く部屋を出て、扉を閉めれば、逃げ出せる可能性も無くは無い。
 じりじりと後ずさり、そのまま後ろ手に、扉を開く。
「いち、に、さん……」
「……いち、に、さん」
 今のところ、俺もユタカも冷静に対処出来ている。問題はユタカが起き上がる時、無意識にまばたきしてしまわないかだ。他の動作に気を取られた瞬間が、危ない。
「ユタカ」
「な、に?」
「俺、部屋から、出たから。お前も──」
「無理無理無理。無理だって。やばいよ。何とかしてって……」
「落ち着け。今の感じで、ちゃんと二人で交互にまばたきすれば逃げれるから」
「う、うん……」
 ゆっくりと、ゆっくりと、ユタカは這いずるように立ち上がる。もちろん、視線はヤツから離さず、かけ声をしながらのまばたきも忘れない。
 ドアノブにかけた手に、汗が滲む。
 そうだ。このまま、このままなら逃げられる。
「良いぞ、そのまま……」
 しかし、その時──、

 ─ゴキッ。

 反射的に、扉を閉めた。

「ゆた……か?」
 扉を閉めた時点で手遅れだとわかりながらも、声を掛けた。
 もちろん、何の返事も無い。
 手が、足が震え出す。
 俺が……、俺が、ユタカを……、見捨てた。
 思わず叫び出しそうになる。

 ゴリゴリゴリゴリゴリゴリゴリゴリゴリゴリゴリゴリ……

 扉の向こうからは例の、あの、厭な音が聞こえ始めている。

 ゴリゴリゴリゴリゴリゴリゴリゴリゴリゴリゴリゴリ……

 早く……、早く逃げないと。

「ただいまあ」

 その時、玄関から父の声が聞こえた。

「とう──」

 ──ゴキッ。

 俺が振り向くより早く、鈍い音が、鼓膜を震わせた。

「おかえ──」

 ──ゴキッ。

 今度は母だ。
 母が、死んだ、音が……。

 階段の下、俺の視線の直線上、玄関の前に、ヤツは、いる。

 いる。

 いる。

 いる。

 ──どうしよう。まば、たき……。

 瞬間──、ヤツの姿が、消えた。

「うわああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ」
 考えるより早く、走り出していた。
 玄関を開け、裸足のまま外に飛び出す。
 心臓が痛い。
 まだ叫んでいる? 喉も痛い。
 頭も、見開いたままの目も痛い。
 痛い。
 痛い、痛い。
 痛い痛い痛い。
 怖い怖い怖い、痛い痛い痛い。

「──っ!」

 その時、誰かに正面からぶつかり、俺は道路に倒れた。
「──あ。──う、う!」
 自分でも何を言おうとしたのかわからないが、意味不明の叫び声が自分の口から飛び出した。
「ああ……、キシダさん。良かった。思った通り、無事だったようで」
「あなたは……」
 それは、刑事のシバサキだった。その後ろには、作業着のような服装で、無表情な、不気味な男が三名立っていた。皆、日本人では無いようだ。
「あなた、は……?」
「はいはいはい。取りあえず、こいつらが来たから『イチナナサン』の心配はしないで良いよ。こいつらは、プロだから」
「プロ?」
「で、君は、まあ……、思った通りだからね。来てもらうよ」
「思った……?」
 ふいに、耳元で聞いた事の無いような奇妙な音が鳴り響いた。
 瞬間、視界が色を失い、闇が支配していく。
「すまんなあ……、SCP……***……」
 シバサキが俺に向かって何か言った。
 しかし、何と言ったのか考えるよりも早く、俺の意識は暗黒へと飲み込まれていった。

     

第十話

「──お目覚めかな?」
 気が付くと、見知らぬ、薄暗い部屋の中にいた。俺はその部屋の真ん中で、椅子に座らされていた。霞む目で、声の主を探す。全面を本棚に囲まれた部屋の奥、まるで大統領が使うような大きな机に男は肘を乗せてこちらを見ていた。
「出来れば、暴れたりはしないで欲しい。君にはこれから、きちんと説明をさせてもらうから」
 男は四十代か五十代くらいだろうか、白髪の混じった髪を後ろに撫でつけており、正に紳士といった風貌だ。縁の細い眼鏡の奥には、青みがかった大きな目。日本人のようには全く見えないが、日本語はひどく流暢だ。
「キシダ・ユキオ君、だね?」
「……はい」
「君に何が起こったのか、覚えているかい?」
「……はい」
 当たり前だ。忘れられるはずが無い。
「なるほど。やはり……」
 そう言って男は組んだ両手を解いて、こちらを改めて見た。
「さて、何から説明しようか」
「……僕の家族は、死にましたか?」
「ああ……、済まない。真に残念だよ」
 やはり俺が見た『イチナナサン』は、現実だったようだ。
 哀しかったが、不思議と涙は出なかった。
 おかしな事がありすぎて、もう感情がついていかなくなったのかも知れない。
 こんな事、現実味がなさ過ぎる。
「……最初から、説明しようか」
 彼は深く息を吸い込むと、ぽつぽつと語り始めた。
 俺は、俯いたままそれを聞く。
「そもそも、君住んでいたあの街は、しばらく前から我々の監視対象だった」
「……いつから?」
「一年程前だ。君は自分の街の市長の名前を知っているかい?」
 少し考えてみたが、思い出せなかった。首を振って答える。
「サトウサイトウ、というんだ」
 サトウサイトウ?
 全く聞き覚えが無かった。それに、おかしな名前だ。何かの間違いでは無いだろうか。
「実は『サトウサイトウ』は、SCPなんだ。『SCP─095─JP』と分類されている」
「市長が、SCP?」
 思いも寄らぬ展開に、俺は顔を上げた。男と目が合う。何て、優しい目をしているのだろう。こんな状況にもかかわらず、少しだけ心が落ち着く。不思議と、彼の言葉を信じよう、という気になる。
「そう。本来であれば、気付いた時点で即解任させるつもりだったが、財団は、しばらく様子を見る事にしたんだ」
「何故?」
「もちろん、ヤツの事をよく知るためさ」
「俺達を、実験台にしたのか?」
「いや、確かにヤツは時に住民に対して暴行や拷問を行うよう働きかける事がある。しかし、そうなる前には対処出来るよう、我々は極めて厳重な監視体制をひいていたんだ。君が会ったあの刑事もうちの職員だ。そして『グッドラック』の店主もね」
「『グッドラック』の店主もだって? 嘘だ。だってあの人は俺が子供の頃からあそこで……」
「君は、この一年のうちに、店主の顔を見たかい?」
「……いえ」
「事件後も、ニュースなどに顔写真は出なかったはずだ。つまり、君は店主がうちの職員と入れ替わっていた事を知らなかったんだ」
「入れ替わって?」
「そうだ。そんなの、気付かれるだろうって? 我々の記憶操作力を甘く見てはいけないよ。まあ、君には無効なようだが……。いや、それはまた後で話そう。ええと、どこまで話したかな? ……そう、我々が君の住んでいる街を監視していた、というところか。『サトウサイトウ』は特別問題を起こさないまま、時間が過ぎていった。そんなある日、『グッドラック』の店主──うちの職員のもとに、荷物が届いたんだ」
「『イチナナサン』……」
「そうだ。これは完全に我々の失態なのだが……、受け取った職員はその荷物を不用意に開けてしまったんだ」
「……いったい、誰が?」
「誰が、何処から、どんな方法で『イチナナサン』を送りつけて来たのか。それは未だ不明だ。あの街の荷物の出入りは全て監視していたのだが……。何にせよ、そうしてあの惨劇は起こった」
 惨劇、という言葉に悪夢がフラッシュバックする。込み上げるものを感じ、思わず彼から目を背けた。彼は気にせず、話を続ける。
「『グッドラック事件』が起こった時点で『イチナナサン』による殺人と気が付いた。君の友人の証言も、とても役に立ったよ」
 カシマ──。友人の顔が、脳裏に浮かんで、消えた。
「『イチナナサン』の事を、我々はよく知っている。過去の捕獲経験だって少なくは無い。しかし、それでもヤツの捕獲は非常に困難なのだ。結果的にヤツは君の学校へ侵入。生徒数百名が犠牲になった。君は……、あの学校にいた、唯一の生存者だ」
「唯一……」
 それはつまり、タローもリナも死んでしまったという事だ。
「学校にもうちの職員はいたのだが、ここでもヤツを捕獲出来なかった。君を見つけたのは処理班の人間だ。とても驚いたよ。まさか『イチナナサン』と対峙して、生き残った一般人がいるとは思わなかった。我々は、君がどうやって『イチナナサン』から逃げおおせたのか、学校に設置してあったカメラの映像から、すぐさま調べた」
「カメラが、あったんですね」
「ああ……。映像を見ると『イチナナサン』が気絶した君の前を素通りしていく姿が見えた」
「……死んだふりが通じるんですかね」
「いや、それはあり得ない。我々は悩んだ結果、君に記憶処理を施し、自宅へと帰す事にした」
「俺も観察するつもりだったんですね。実験動物みたいに」
「人権は尊重したつもりだよ。確かに、自分本位なやり方かも知れんがね。さて、ここでまた一つ問題が起きた」
 問題……。うちに『イチナナサン』が来た事だろうか。
「どうやら君には、我々の記憶処理が効かないようなんだ」
「え?」
「君が思う以上に、我々のもつ記憶処理の技術は強力だ。一つの国の住民全ての記憶を書き換えたり、ニュース等のネット上の記録を改竄したり事は容易い。しかし、君にはその記憶処理が効かないんだ。ここへ連れてくる間にも、とびきり強力なやつを行ったんだがね。その結果は……、君が一番わかっているだろう」
「……」
 自分では、その処理が上手くいったのかいってないのか確かめようも無い。「わかっているだろう」と言われても、答えようが無い。
「君が家に帰ったその後、何が起こったのかは言うまでも無いね」
 答えない。考えないようにした。
「そこでもまた、驚くべき事が起きた」
 何か、あっただろうか。
「君は気付かなかったかも知れないが、君は……」
「……俺、何かしました?」
「『イチナナサン』に背を向けて、逃げたんだ。いや、逃げ延びた、と言った方が正しいか」
「……つまり?」
「どうやら君は、『イチナナサン』の視界にいながら、攻撃対象にはならないようなんだ」
「まさか……」
「さらに、『イチナナサン』は君を追いかけているようにも考えられる」
 何だって?
 それは、つまり……。

 俺が家にいたから、

 家族は、

 俺の家族は……。

 家族との思い出が、浮かんでは消えた。

 いつの間にか俺は、声を上げて泣き出していた。

     

第十一話

「──君が意識を失っている間に、我々は君を色々と調べさせてもらった」
 俺が泣き終わるのを待って、彼は話を再開した。
「もちろん、外科的な検査はしていないよ」
 どうでも良かった。
「調べた結果、ある事がわかった」
「俺が、SCP、とか?」
「少し違う。君の頭の中に、既知のSCPが入り込んでいる事がわかった」
「頭の、中?」
「そう。それは我々がSCP─148『テレキル合金』と呼んでいる物質だ」
「どうして? いつから?」
「それはまだわかっていない。しかし、これが我々の記憶処理を阻害していた事は間違い無いと思う。『イチナナサン』の標的とならない事が『テレキル合金』の作用によるものなかは不明だ。今のところ、そういった実験記録も無いしね」
「頭の中に、金属が……。大丈夫、なんですか?」
「おそらく、としか言いようが無いね。少なくとも、不用意に取り出すよりは安全だと判断して、今はそのままにしてある」
 いったい、いつ、どのようにして俺の頭の中にその『ナントカ合金』が入り込んだのだろう。生まれてこの方、大きな事故や病気になった事は無い。入り込むなんて、考えられない。
「……ここからが、本題なのだが」
 彼は小さく咳払いをして、話し始めた。
「俺に、モルモットになれ、というんですね」
「否定はしない。しかし、もちろん人権は尊重するし、生活は保障する。それに……」
「それに?」
「もし君が我々の実験に協力してくれるのなら……、100%成功する保障は無いが、君の家族の蘇生を試みても良い」
 何とも、頼り無い駆け引き条件だ。
「やってダメだったら、俺は協力を辞めるかも知れませんよ?」
「もちろん、かまわない」
「では、まず、蘇生を試みて下さい。成功したら、協力します」
「良いだろう」
 机の上の電話を手に取り、彼は何処かへ連絡した。何を話したのか、聞き取る事は出来なかった。
「しばらく、待っていてくれ」
「……はい」
 今までとは違う緊張感が、襲いかかってきた。
 蘇生の成功確率はどれくらいなのだろうか。
 家族は生き返るのだろうか。
 それとも……。
「良かったら、少し散歩しないか?」
 彼が不意に話し掛けて来た。
「ここでこのまま待っていても退屈だろう。君の部屋へ案内して、休ませてあげたいところだが、まだ準備が出来ていなくてね。どうだい? 少し、一緒に歩かないか?」
 少し迷ったが、俺は首を縦に振った。ここでじっとしているよりは、幾らか気持ちも楽だろう。
「それじゃあ決まりだ」
 妙に嬉しそうに彼は立ち上がった。俺もつられて立ち上がる。軽い立ち眩みがしたが、倒れる程では無かった。
「じゃあ、行こうか」
 彼の後ろについて、俺は部屋の外へと出た。
 出た後に何気なく振り返ると、部屋の扉に小さなネームプレートが見えた。

『Dr.Gideon』

 プレートにはそう書かれている。『ギデオン博士』と読むのだろうか。
「さあ、何処へ行こうか……。うん、まずはこっちへ行こう」
 そう言って、博士が歩き出す。俺はその後ろをゆっくりとついて行った。

「ここは、何処なんですか?」
 歩きながら、ずっと気になっていた事を聞いてみた。
 目的地があるのかどうかわからないが、博士は特に会話するでも無く、廊下をすたすたと歩いて行く。
 それにしても、他の職員はいないのだろうか。部屋を出て数分経つが、まだ誰ともすれ違っていない。
「取りあえず、日本では無い、とだけ言っておこう」
 博士は振り返りもせずに答えた。
「SCPの施設なんですね?」
「そう。もちろんそうだとも」
「……他の職員はいないんですか?」
 思い切って、聞いてみた。
「もちろんいるさ」
「……」
 何となく、不安な気持ちになってきた。いや、冷静になってきたというべきか。
 先程まではめまぐるしい状況の変化に、頭の中は非常に混乱していたが、冷静になってくるにしたがって、現状の異様さに気付きだしたのだ。
 俺は……、騙されているんじゃないだろうか?
「……ここには、たくさんのSCPが収容されているんですか?」
「いや、そこまでたくさんでは無いね」
「今、何処へ向かってるんですか?」
「ちょっとした、暇つぶしにね、見てもらおうかと思って」
「何を?」
「さあ、到着したよ」
 博士が立ち止まった。目の前には、大きなシャッターが閉まっている。
「ここは……」
 厭な予感しかしない。
「少しだけ、ここで待っていてくれ」
 俺の返事を待たず、博士は右手の部屋の中へと滑り込んでいった。追いかけようとしたが、間に合わない。閉められた扉の向こうから、鍵を掛ける音が聞こえた。
「博士!」
 返事は無い。
 その時、大きく軋みながら、目の前のシャッターが開き始めた。
 倉庫のような、だだっ広いコンクリートの空間が見え始める。
 ああ、この光景は……。
「博士!」
 この光景は、見覚えがある。
 空間の奥、隅に佇むあの姿は……。

『イチナナサン』

「博士!」
 叫びながら、もと来た道を引き返そうと振り向きかけた、が……、ダメだ。ヤツに背を向けるなんて自殺行為だ。……いや、俺は、大丈夫なんだったか? 博士が言うには、俺は何故か『イチナナサン』の標的にはならないらしい。それが本当だったら……。
 しかし、それを試すのはあまりにリスキーだ。
 俺はまばたきを必死に我慢しながら、ゆっくりと後ずさりを始めた。
 すぐに背中が壁にぶち当たる。廊下は左手に折れている。そちらへ入ると、ヤツは視界から消える。そうしたら……、どうなるんだ? それはつまり、まばたきした事と同じなんじゃ無いのか?
「博士!」
 まばたきを我慢するのはもう限界だ。俺はこれで最後と、思いっ切り叫んだ。
 すると、再びシャッターが動き出し、ゆっくりと閉まっていく。
 どこからともなく、博士の声が聞こえた。
《やあ、すまないすまない。驚かせてしまったね。いや、別に君を『イチナナサン』に会わせたかったわけじゃないんだ……。おや?》
 その時、辺りが突然闇に包まれた。
 これは……。
(停電!)
 何て事だ、これではゲームと全く同じではないか!
 明かりはすぐに復旧した。
 しかし、半分だけ閉まったシャッターの向こう側に、すでに『イチナナサン』の姿は無かった。
《ああ、何という事だ!》
 博士の声が聞こえた。
《大変だ『イチナナサン』が逃げ出してしまった! この施設には他にも数体の『イチナナサン』がいるのだが、こちらのモニターで見る限り、全て逃げ出してしまったようだ。それに、君に会わせたかったあいつも……》
「ふざけるなよ!」
 俺は、喉が張り裂けんばかりに叫んだ。
 何という茶番だ!
 今起きているこの事態は、事故とは思えない。博士が仕組んだ事なのは間違い無いだろう。施設内に職員が一人もいなかったし、今のシャッターの開け閉めだって意味不明だった。
 これはおそらく……、俺への実験なのだ。
「畜生!」
 今は悩んでいるヒマは無い。いつ何処から『イチナナサン』が現れるとも限らない。博士の言った通り、俺が標的とならないのなら良いのだが……。
 俺は、走り出した。
 行く当ては無い。
 とにかく、この場所から逃げねば。

《『シャイガイ』によろしく……》

 博士の声が聞こえたが、俺にはその意味を考えている余裕は無かった。

       

表紙

H.Y.K 先生に励ましのお便りを送ろう!!

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Neetsha