Neetel Inside ニートノベル
表紙

ゴールデンクロス・デッドクロス
02.「理由」

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02.「理由」



 そうしてぼくは再び投資の世界に足を踏み入れたわけだけど、早速取引をはじめるというわけにはいかなかった。なにしろ一年半ものブランクがあるからだ。いま下手に手を出したら、ハイエナどもの餌になる運命しかない。
 サッカーやテニスなら、数年の空白期間があったとしてもそれなりうまくやれるかもしれない。一度身体が覚えた感覚は、そう簡単に消えたりはしないからだ。
 けれど、それがうまくいくのはルールが同じ場合に限る。世界は一日ごとに、一秒ごとに変化をし続ける。一年半もあれば、取引の世界のルールはあらかた書き換えられ、あらゆる方法や勘は通じなくなっている。
 ぼくがその日家に帰ってやり始めたことは、ここ数ヶ月分の新聞や経済誌に片っ端から目を通すことと、コンテストが行われている仮想市場の情報を頭に入れることだった。
 日本の経済成長はまだ続いているけれど、この一年間その上昇はゆったりとしたものになっている。天井が見えてきているといった感じだが、まだ多くの人間は大暴落なんてものは微塵も考えておらず、楽観的な市場が続いていた。円もいまだ強い力を持ちづつけているが、日本が強すぎるというよりかは他の国の成長がいまいち悪く、他に動く方向もないといった状態だった。
 トレコン自体も、また大きく変わっていた。
 スタート時の資金が一千万円なのは昔と同じままだけど、それが五つの口座に分けられて与えられる。折花が他の力を必要とする理由もこれで納得がいった。運営側がどういうわけだか、一人の取引ではなく複数人での取引を望んでいるのだ。もちろん五つの口座すべてを一人で使うことだって可能ではある。ただそれでは少し効率が悪くなってしまうだろう。
 もうひとつは取引時間だ。参加者は全員学生なのだから放課後から夜に開かれるべきだけど、これもなぜか十二時から十八時という奇妙な設定がされていた。授業のことを考えると、直接取引に参加できるのは昼休みも含めて三時間といったところだろう。
 いつからこんなふうに変わったのかはわからない。ぼくがトレコンに参加していたのは小学生の頃までだったからだ。全力で取り込めないルールに何の価値があるんだろうかと疑問を感じずにはいられない。
「渡也くん……渡也くん」
 肩にぽんと手を置かれて、ぼくはそこでようやく声に気づいた。
 振り返ってみると、いつのまにかそばに祖父が立っていた。
「私より耳が遠くなってしまったんかと心配になったよ」
「あ、ごめん……なに?」
「晩御飯、できたよ」
「わかった、すぐ行く」
「……渡也くん、それは」
 ぼくは慌ててパソコンやら資料を片付けようとしたけれど、とても隠しきれる量ではなかった。簡単に祖父の目に入ってしまう。
「いや、これはその……」
 うまい言い訳も思い浮かばず、ぼくは申し訳なくなってただただ目を逸らすことしかできなかった。
「また、始めたのかい」
「ごめん」
「べつに謝ることじゃあない」
 ぼくは祖父の怒った姿を一度も見たことがない。むしろ怒鳴って頭でも叩いてくれた方が楽なのに、と思う。父と離れて、取引からも手を引くためにぼくはこの祖父の家にやってきたというのに。
「渡也くんは、いま何歳だったか」
「十七、だよ」
「そうか、それは仕方がない。生き方を変えるには、少しばかり遅すぎる」
 七十年近く生きてきた人に、たった十七年で人生は決まると言われるのはなんだか不思議な感覚だった。理解はできないけれど、なぜか説得力はあった。
「正也の子なんだなあ、やっぱり」
「じいちゃんは、どう思ってるの」
「なにをだ」
「取引のこと」
「私には、よくわからん。ずっとネジばかりつくってきたからなあ」
 祖父はいまはもう退職しているが、ずっとネジをつくる小さな町工場を経営していた。ロケットやコンピューターに必要な、機械にはつくれない細かくて精密なネジなどもつくっていたそうで、それなりに経営はうまく行っていたらしい。
「でも、取引もおんなじもんじゃろ。なにかに人生をかけれることはそれだけで幸せなことだ」
 祖父は父の姿をずっと見てきた。父は成功者となったけれど、投資家というものが必ずしも成功するものではないことも知っているはずだった。むしろその世界で生き残れる確率は、他の職業に比べれば極端に低いだろう。取引に関わる職に就く人間は多いが、そのほとんどはわずか数年で引退し、十年続けられれば一流と呼ばれるような世界だ。けっして、幸せなんて呼べるものじゃない。
「でも、ぼくは……」
「恥や迷いなんて持ったらいかん。自分の手と足よりも大切なもんなんじゃろう」
 そう言って祖父は一度ぼくの頭をぽんと叩くと、すぐにいつもの穏やかな表情に戻って先に居間へと向かった。もしかしたら、祖父なりにぼくを精一杯叱ってくれたのかもしれない。おかしな話だけど、ぼくは少しだけ嬉しかった。
 ――ぼくの、手と足。
 そうだ、ぼくは知っている。自分の積み上げたお金が消えていく感覚は、目玉を繰り抜かれるよりも、すべての皮を剥がされるよりも、ずっとずっと痛いってことを。
 大げさだっていうのは、取引のやったことのない人間の台詞だ。ぼくたちの血液はお金で出来ていて、全身の神経は値動きを電気信号にして動いている。そして、利益という酸素を吸うために、ぼくたちは生きているのだ。

 ○

 それから一週間後。ぼくの学校での居場所は屋上ではなく、株式投資研究部(株研)の部室になっていた。
 ぼくは放課後の学校というものをはじめて知った。それまでぼくは授業が終わると誰よりも早く校門を抜け、家へ帰っていたからだ。
 放課後の部室には、グラウンドから運動部の掛け声や吹奏楽部の練習する音が聞こえてきて、どこか寂しいと感じていたこの街にもこんなに騒がしい場所があったということにぼくは驚いていた。
 株研の部員はぼくを含めてもたった四人だけらしい。そもそもこんなヘンテコな部活がどうして存在しているのか不思議でならないのだけど、たしか生徒手帳に新しい部活をつくるためには三年以上の同好会活動が必要と書いてあったので、少なくともこの部にも三年以上の歴史があるということになる。
 だけど、そのわりにはこの部室にはなにもない。
 いちおう壁際には棚が並んでいるけれど、ちょっとした資料が寂しく置いてあるだけで、その他にあるのはこの長机とノートパソコンくらいだ。もし部活名を言わずにこの部屋だけを見せたら、大半の人が何の部室なのかわからないだろう。もしかしたら空き部屋か「生徒会室?」とでも言われるかもしれない。
 でも、なにもない場所というのはそれはそれでなかなか居心地がよかった。屋上といい、ぼくは結局こういう場所が好きなのかもしれない。
 そんな部室で、ぼくは取引をやっている。とは言っても始めたのは昨日からで、やっていることの大半はただ画面をじっと眺めているだけだった。何回か注文も出してみたけれど、ゴールデンクロスのような明確なシグナルが出ている株に買いを入れただけで、大した利益にもならない小遣い稼ぎばかりだった。ひと通り銘柄をチェックして回るが、「これだ!」と思えるものがなかなか見つからない。それでは得にも損にもならないので、妥協して選んだものに買いを入れてみるが案の定大した動きはなく、微妙な手応えばかりが続いていた。そんな簡単に勘は戻るものでもないらしい。
「おまえもだいぶここに馴染んできたな」
 そんな試行錯誤を繰り返していると、湯波がそう声を掛けてきた。パソコンで作業するときの湯波はメガネをかけていて、それが妙に真面目っぽく見えてしまうため、つい笑ってしまいそうになる。
「そうかな」
「三雲が来るまでおれのほかは美雨と音瀬ちゃんだけだったからさ。男友達がひとりいるだけでだいぶ気が楽になるよ」
「ともだち?」
 その言葉を、ぼくは思わず聞き返してしまった。
 言ったあとで自分でも変なことを言ってしまったと気づいたけれど、どう訂正すればいいのかもわからず、ただ目を逸らすことしかできなかった。これじゃ余計に変に思われだけだ。
「あ、悪い。そういうんじゃないか、おれたち」
「いや、そうじゃなくて、ただ……」
 たしかに最近は教室でも湯波と話していることが多いし、湯波を介して他のクラスメートととも会話をすることが増えて、少しずつだけれど名前と顔が一致する人たちが増えてきた。
 でも、友達っていったいどこから友達なんだろう。。そもそもそんなものに明確な基準なんてないのかもしれないけれど、じゃあいったいどうやってみんなは友達をつくったりしているんだろう。
「そういうの、いままでいたことなかったから、よくわからなかったんだ。湯波は、うん、友達だと思う。たぶん」
 ぼくはそう精一杯の言葉を並べたけれど、湯波は納得するわけでも怒るわけでもなく、呆れの混じった表情を浮かべた。
「おまえなぁ、事実だったとしてもそういうことは口にしないでくれ。どう反応すればいいかわかんねぇだろ」
「あ、ごめん」
「謝るな、ばーか」
 ちょうどそのとき、部室の扉が開いて、音瀬さんが入ってきた。
 いつものようにぼくと目が合うと、今日もまたむっと睨まれてしまった。彼女に対してなにかした覚えはないのだけど、どうしてこんなに嫌われてるんだろうか。他人に無視をされるのは慣れているけれど、こんなふうに敵意を向けられるとどうしていいかわからなくなる。
「湯波先輩、これ。美雨先輩が修正を頼むって」
 音瀬さんはすぐに席に着くのではなく、一度湯波のところへ行くと、なにか一枚の紙を取り出して渡した。たぶん、折花から預かったものなんだろう。
「おっけー、了解。あいつはまたひとりで取引か」
「たぶん」
「そろそろ止めねぇと、ヤバイぞ、あいつ」
「わかって、ますけど……」
 紙を受け取った湯波はさっそくプログラムの修正に取り掛かった。入部してから知ったことだけど、湯波はこの部のプログラム専門の部員らしい。取引は自分の手では一切せず、システムトレードの管理だけをやっている。取引の時間の大半が授業中になっている現在のトレコンでは、空いた時間はプログラム売買によって利益を稼ぐのが主流になっているそうだ。
 プログラミングの経験がほとんどないぼくから見ても、湯波の腕は相当なものだった。おそらく大学で学べるような知識のレベルを越えているだろう。いったいどこでそんな技術を身につけたのか前に訊ねてみたところ、折花の無茶な注文に答えていたらいつのまにかできるようになったらしく、そのほとんどが独学で習得したというので驚きだ。
「折花がヤバイって、どういうこと?」
 湯波のプログラムの修正が一息ついたのを確認したぼくは、さきほどの会話が気になって訊いてみた。湯波は一度軽く腕を伸ばしてから答える。
「そのまんまの意味だよ。あいつの取引はたしかにすごい。でも、それを長く続けられるほど、あいつの身体――特に脳だな、そいつは頑丈にできてないってことだ」
 たしかに、言われてみれば当たり前のことだった。ぼくはどうしてあれだけの取引をして、なにも代償がないと思っていたんだろう。あんな小さい身体の、女の子が。
 どんなトレーダーだろうと、取引をしていれば損失は必ず出る。最終的に勝ち数が多く利益を出せばいいだけの話だが、たとえ儲かってる状況だろうとポジション画面にマイナスの数字が浮かべばトレーダーの精神は疲弊してしまうものだ。そして取引が終わったあとでも「あのときなぜ損をしたのか」という疑問は強く残り、同じミスを繰り返さないようにその原因を考えてるうちに翌朝を迎えることだってよくある話だった。折花のような短期トレーダーは取り扱う数が多い分、損を抱える回数も多い。負担は大きいに決まっている。
「でもまあ、頑張ればいいのはいまだけだ。スタートダッシュさえできれば、とりあえず上位には食い込める。あとは三雲や音瀬ちゃんが支えればいいだけだ」
 部室で折花の姿を見ることはあまりない。なんでも、コンテストが始まって最初の1、2週間はいつもこんな感じらしい。
 取引の利益というものは、雪だるま式に増えていくもので、元手が大きいほど利益も大きくなっていく。最初の期間でどれだけ増えせるかで、結果が大きく変わってくるのだ。もちろん、他の参加者たちも同じことを考えているわけだから、当然いまの市場は全体の取引量が多くなり、ボラティリティも高くなってくる。そしてこういった戦場は短期トレーダーにとっては絶好の狩場となる。
「でも、折花は優勝を狙ってるんでしょ?」
「それは美雨が勝手に言ってるだけだ。所詮は夢だよ」
「先輩ッ!」
 そう大きな声を上げたのは、音瀬さんだった。
 立ち上がった勢いでパイプ椅子が大きな音を立てる。いつもぼくに向けている視線よりもずっと鋭い眼が、湯波に向けられていた。
「音瀬ちゃんだって気づいてるだろ。無理に優勝を狙えば、結果は三ヶ月前と同じだ。美雨が倒れたら、成績すら残せなくなる」
 ――倒れる。
 前回のコンテストで折花はそこまで自分を追い込んだっていうのか。
 どうしてそこまで優勝にこだわるのか。ぼくは結局、あのとき屋上でその答えを聞くことができなかった。いったいなにが彼女をそこまで突き動かしているんだろう。湯波は、なにか知ってるんだろうか。
「そんなに、強いやつがコンテストにはいるの?」
「え? 美雨からなにも聞いてないのか」
 ぼくは黙って頷く。そういえばぼくはただ一方的に言いくるめられただけで、折花からは彼女自身のこともコンテストのこともほとんど聞かされていなかった。
「まあ、コンテストが終われば嫌でも知ることになるだろうけどさ
 湯波はそこで一度言葉を区切ると、少し暗い表情をして再び口を開いた。
「――レインメーカーって、知ってるか?」
 たしか昔の映画でそんなタイトルのものがあった気がする。アメリカの新米弁護士が保険金をめぐって大企業の凄腕弁護士団と法廷で争う、といった内容だったはずだ。タイトルのレインメーカーとは、雨が降るように大金を稼ぐ弁護士を指す言葉らしい。
「へえ、元ネタがあったのか。よくそんなこと知ってるな」
 でも、湯波が言いたかったのは映画のことじゃなかったらしい。取引をやめてからは毎日のようにレンタル屋で映画を借りて家で観ていたから、映画の知識だけは無駄についてしまったのだ。よく考えてみればこんな映画の話が突然出てくるのはおかしい。
「でもまあ、だいたいの意味は同じだな。ただおれたちの場合、その相手が人間じゃないってだけだ」
「人間じゃない……?」
 その言葉がどういうことを指すのか、ぼくは本当は気づいていたのかもしれない。でも、わかりたくなかった。取引は人間の思考と手で行われるものなんだ。そうでなくちゃ、いけないんだ。
「行き過ぎた科学の前じゃ、魔術もただの手品に過ぎないってことだよ」
 そう言って湯波はプログラムの修正が終わったのか、エンタキーを叩いた音が部室に響いた。ぼくは昔、似たような言葉をある魔術師から聞かされたことを思い出した。



 翌日の中休み、ひさしぶりに特別棟の屋上へ行ってみると先客がいた。
「あら、三雲くん」
 折花だ。彼女がさいきんこの場所を気にいって使っているということは知っていたけれど、まさか取引時間外の中休みにまでいるとは思ってもいなかった。元々はぼくの場所だったのに。
 彼女の周りにはいつものように電子機器が散らばるようにして置かれていた。いまは取引時間外だけど、午後からの取引のために情報の分析でもしていたのだろう。いったい彼女はいつ休んでいるんだろうかと、ぼくは昨日湯波が言っていたことを思い出して少し心配になった。
「どうしたの、屋上なんかに来て」
「ちょっと、ひさしぶりに来たくなっただけだよ」
「信平がいるんだからもうクラスでももうボッチではないと思っていたのだけれど……そう」
 なにを納得したような表情をしてるんだ。べつに教室にいるのが気まずくなったとかじゃないんだけど。
「折花だって一人じゃないか」
「わたしは周りに迷惑をかけないためにここに来てるだけよ。教室でこんなことしてたら変でしょ?」
 たしかに教室で電子機器を広げてこんなことをしていたら、誰も近づきたがらないだろうし、変な目で見られるだろう。折花なら気にせずにやっていそうなイメージだったけれど、さすがにそれくらいは考えているようだった。ぼくが折花と会うときはだいたいいつも取引をしているので、普段彼女がどんなふうに過ごしているのか想像がつかなかった。普通に周りの女子と会話をしたり、笑ったりしているんだろうか。
「それだったら部室でもいいじゃないか」
「そうなんだけどね、取引のことを考えるときはなるべく一人になりたくて。部室だったら沙耶や信平が来ることもあるでしょ?」
 芸術や個人競技の世界と同じように、頼るものが自分と神以外にない投資の世界では、げんを担いだり自分にまじないをかけるためか、妙なこだわりを持つ人間が多い。折花が一人を好むのもそういったものだろう。自分も似たような感じだったので、わからないことはなかった。
「ここなら三雲くんくらいしか来ないしね。あなたこそ、どうして部室じゃなくてわざわざこっちに?」
 なんて答えようかどうか迷ったけれど、上手い嘘も思いつかなかったので正直にぼくは答えた。
「取引以外のことを考えたくて」
 それを聞いた折花は、くすくすと笑い出した。
「つまり、わたしが邪魔って言いたいわけね」
「それは折花も同じだろ」
「べつに三雲くんなら居てくれたって構わないけど」
 それは単にぼくをからかうのが楽しいってだけじゃないだろうか。折花はまだ楽しそうに笑顔をつくっていた。少し意地悪が混じっていたけれど、こういう表情を見せられると、普通の女の子なんだなと思ってしまう。
「あんなしょぼい取引で、なにを悩む必要があるの?」
「う……」
 折花の言っていることは事実ではあったけれど、こうしてはっきりと言われるとなかなか傷つく。彼女には思いやりっていうものがないんだろうか。
「悩んでるから、あんな取引しかできないんだよ」
「まさかあなたがそこまで重症だったとはね」
 折花はぼくになにがあったか、だいたい見当がついてるのだろう。人が投資を始めたりやめたりする理由はそう多くない。大ざっぱにまとめてしまえばたったひとつとも言える。
「取引をすることに、恐怖でも感じてるの?」
 恐怖、と言われるとそれは少し違うような気がした。むしろ、昔の自分の方が市場に対して明確な恐怖というものを持っていた。だからこそ実体のない市場と真正面から向き合うことができていたのだ。それが、いまのぼくにはない。
「まるでアナリストね」
 折花はあきれたようにそう言った。
「いまの三雲くんは、ただ砂浜から海を眺めて不気味な静けさを感じてるだけよ」
「……どういうこと?」
「あなたが外からしか市場を見ていないってこと。だから恐怖の本質がなんなのか理解できないのよ」
 外から見えるものと、内から見えるものはまったく違う。それは当たり前のことだった。そして、人は必ずどちらか一方にしか立つことができない。両方の視点を得ようとすれば、身体は二つ裂かれ、奈落へ落ちていく。株式市場とはこの世でもっとも手軽な地獄への入り口だった。
「悩むのは思考するからよ。そんなもの、中に入ってしまえば無駄なものでしかない」
 井の中の蛙、というのとは違うだろう。ぼくは一度海の中に潜っていたのだから。ただ、自分の知っている恐怖と、このトレコンの市場にあるものが同じなのかは確認できていない。あるいはぼくはそれがまったく違うモノだと気づいてしまっているのかもしれない。だからこそ、足を踏み出せないでいる。
「ここにいたんですね、美雨先輩」
 そのとき階段室の扉が開く音がした。ぼくと折花以外にここへ来る人なんて誰だろうと思い、振り返ってみると、そこにいたのは音瀬さんだった。
 折花をみつめるときの彼女の表情はまるで晴れた冬の日の陽光のようにあたたかなものだったのに、ぼくと目が合った途端それは雪の降る日のようにどんよりと曇った。
「沙耶? 今日は来客が多いのね。どうしたの、こんなところに来て」
 てっきり折花が呼んだのかと思ったが、折花も驚いている様子だった。
「いえ、その、特に用事があったわけではないんですけど、少し顔が見たくなって」
 なんだその恋する乙女みたいなセリフは、と思ったけれど、音瀬さんの気持ちはわからないでもなかった。昨日、あんな話があったのだ。折花のことが心配になったのだろう。でも、折花はぼくが見る限りいつもと変わらないように見えた。
「どうして三雲先輩までここに」
「どうしてって……」
「たまたま会って話をしていたの。それとも、三雲くんも本当はわたしの顔が見たくなって来てくれたのかしら?」
 そんなわけないだろ、とぼくは視線だけを折花に返す。
「あの、よかったらこれ、食べてください」
 そう言うと、音瀬さんは持っていた袋からなにかを取り出して、折花に渡した。
「あ、いちご大福パン。ありがと、いくらだったの?」
「いえ、そんな、いいです。もらってください」
「そう? じゃあ、ありがたくいただくわ」
 折花は音瀬さんからもらったパンをさっそく開封すると、小さな口でかじりついた。見た目は普通だけれど、中に本当にいちご大福が入ってたりするのだろうか。名前を聞いただけで胃もたれしそうだった。
「そんなの食べてたら太るんじゃないか」
「ふふん」と折花は口の端にあんこをつけたまま、満足そうに笑った。
「ちゃんと頭で消費するからいいのよ。取引にブドウ糖は必須でしょ? 三雲くんも食べる?」
「食べないよ!」
「三雲先輩の分はないです」
「わかってるよ!」
 そもそもこんなものをもらっても食べきれる気がしない。一口だけなら少し興味はあったけれど、折花の食べかけをもらったら音瀬さんにいままで以上に嫌われそうだった。
「沙耶、次の授業移動じゃなかったっけ?」
 意外と早いペースでパンを食べきった折花は口元を拭ってからそう口にした。いや、なんでこいつは他人の時間割を把握してるんだと思ったけれど、音瀬さんは特に疑問も抱かず「そうでした」と答える。脇にはノートやファイルを抱えていた。いちおう準備は持ってきているらしい。
「わざわざありがと。今日は部室にも行くわ」
「はい、待ってます!」
 そう言うと、音瀬さんは駆け足気味に屋上を去っていった。本当に折花にパンを渡しに来ただけだったのか。
「ずいぶんと慕われてるんだね」
「三雲くんも可愛い後輩に慕われてみたいの? ふふ、ずいぶんと沙耶に嫌われているものね、あなた」
 折花はまた意地悪そうに笑顔をつくった。
「そもそも、なんであんなに嫌われているのかわからない」
「それはたぶん、わたしが三雲くんを部に誘ったからよ」
「え?」
 訳がわからなかった。どうしてそれだけで嫌われるんだ?
「音瀬さんも折花が誘ったの?」
「いいえ、彼女は自分から入部したわ。取引を覚えたいってね。沙耶は、どうしてわたしがあなたに期待してるのかわからないのよ」
 それはぼくだって同じだった。自分が取引と無縁の世界で生きていくことに限界を感じていたのは確かだけど、だからってもう一度あの世界に浸るのにはいまだ抵抗を感じていた。いまのぼくはなにもかもが中途半端なのだ。そんなこと、自分でも気づいてるっていうのに。
「……っ」
「折花?」
 そのとき、折花の身体がゆっくりと横に倒れた。
 突然のことに、一瞬理解が追いつかなかった。まるで映画のスローシーンみたいに、すべての出来事がゆっくりと動いてるようだった。ようやくぼくは事態の異常性に気づいて、慌てて折花に駆け寄ろうとしたけど、その前に片手で静止を求められる。大丈夫だ、と。
「少し休むだけよ。この時間はどうしても眠くなっちゃうのよね。取引が始まったら、ちゃんと脳も覚醒してくれるのに」
 湯波の言っていたとおり、折花の身体はとっくに限界を超えている。取引をやる人間は健康をあまり気にしないものも多いが、いくらなんでもここまで自分を追い詰めるのは異常だった。取引をするのは、自分の身体だ。それが動かなくなってしまったら、拾えるものも拾えなくなってしまう。そんなこと、当たり前だっていうのに。
「どうして……」
 どうしてそこまでするのか。
 ぼくは、彼女の理由を知りたかった。だけど、こんな姿を目の前にしてその疑問を口に出すことはできなかった。それは、あまりにもずるいやり方だったからだ。
「三雲くんが話し相手になってくれててよかったわ。沙耶にこんなとこ、見せられないもんね」
 彼女はこんな状況でも自分より他人の心配をしていた。
 自分のことなんてどうでもいいのだろうか。でも、そんな献身的な精神の塊みたいな人間が、取引なんてできるわけがない。取引の世界は、誰よりも欲を持っているのに誰よりもその欲を隠すのが上手なやつだけが生き残れる世界だ。彼女だって本当はなにかを求めていたはず。
 なにか、大事なことを見逃している。
 ぼくは、はじめて折花と出逢ったとき、彼女が言っていた言葉を思い出していた。
 ――あなたに、投資をやってもらいたい。
 ぼくはその言葉を、自分に都合の良いように解釈していた。
 祖父が言っていたように、ぼくは取引の世界から離れて生きていくことができない人間だ。たとえそれが地獄にしか通じない道だったとしても、株式市場という世界はあまりにもぼくの人生の大部分を構成してしまっている。
 ずっと、誰かが背中を押してくれるのを待ってたんだ。もう一度、取引の世界へ行ってもいいと許してくれる誰かを。それが、折花だった。だからぼくは、彼女の言っていた本当に大事な言葉の意味をちゃんと理解しようとしていなかった。
 ――あなたがどうしてもほしいの。
 彼女は自分を救ってくれる誰かを待っていた。ぼくが取引の世界へ戻りたがっていたのと同じように、たとえ一本の糸だろうが自分を引っ張りあげてくれるなにかを。
 それなのに、ぼくは彼女の力になることを考えていなかった。
 彼女はぼくを救ってくれた。
 じゃあ、ぼくにできることはいったいなんだ?
「……沙耶にね、テクニカル分析を教えたのはわたしなの」
 折花は目を瞑ったまま、静かに話し始めた。それは半分、寝言だったのかもしれない。いつもより弱い言葉だった。
「本当はわたしみたいな取引がしたかったみたいなんだけどね、わたしのは主観的なものも混じってるから自分でも教えようがなくて」
 音瀬さんの取引は何度か見たことがあった。的確なテクニカル分析を用いたスイングトレードが主で、たしかに折花の取引とは違うが安定した利益を出していた。高校から取引を始めて半年であそこまで使いこなせるようになったのだとしたら、相当な成長力だろう。
「それに、わたしの知らないやり方なら見つけられるんじゃないかって、そう思ったの。でも、そんなものなんてなかった。この市場で、本当にお金を稼ぐ方法なんて。あの子には、悪いことをしたわ……」
 途切れるようにそう呟くと、それっきり彼女は黙ってしまった。
 折花の取引も、音瀬さんの取引も通用しないわけではない。だけど、それでは届かないのだ。もちろん、取引に絶対なんてものはない。それでも彼女は求めている。運命の女神フォルトゥーナを振り向かせる、たったひとつの方法を。
 そんなもの、本当にあるかなんてはわからない。あったとしてもそれは一度きりのものなんだろう。神様なんていうのは、意地の悪いやつらだとぼくらは生まれたときから知っている。
「こんなとこで寝てたら、風邪引くよ」
 もうすぐ授業の始まる時間だった。ほんの少しのあいだだけど、彼女は本当に眠っていたのかもしれない。ぼくは折花の側にいくと、そっと手を伸ばした。冷たくて小さな手が、ぼくの頼りない手を掴んだ。
「……あなたは、優しすぎるわ」
 その手を強く握り返して、彼女の身体を引っ張り上げる。
 ぼくは、自分にできることを探そうと、そう思った。馬鹿な夢に付き合うのは嫌いじゃない。海を渡る者たちはみな、理想を抱いて進むのだから。



 コンテストが始まって二十五日が経過したその日、トレコンの公式サイトに現在のランキングが発表された。開催期間の四分の一が過ぎるごとに収益率TOP50が更新されるようになっているらしい。
 朝、家を出る前にパソコンを開いて確認してみると、ぼくたちはなんと九位にランクインしていた。収益率は91%。おそらくこの数字のうちでぼくが貢献したのは1%にも満たないだろう。そう思うと悲しくなったけど、結果がちゃんと出ていることを確認できたのはやっぱり嬉しかった。
 一位の結果を見ても収益率は100%ちょっとだったので、そこまで大きな差が出ているというわけではなさそうだった。
「これなら……」
 優勝だって狙える位置なんじゃなんだろうか。だけど、それが楽観に過ぎないということは自分でも薄々感じていた。今回出した91%という収益は、そのほとんどが折花が最初の1週間で叩き出したものだった。しかし、開始の熱狂も収まると市場も次第に落ち着きだし、大きな当たりというのは出しにくくなっていた。
 コンテストが終わる直前になれば参加者の多くが最後の大勝負に出て市場はまた荒れ出すはずだけど、その頃にはもう一位とは手の届かない位置にいるだろう。
 大事なのは、ここからの中盤戦でどう稼ぐか。
 ぼくは「折花の力になる」と決めたあの日から本格的にチャートの分析を始めていた。そのせいでここ一週間は毎日二時間ほどしか眠れない日々が続いていたけれど、不思議と疲れは感じていなかった。そんな馬鹿げたことを考える余裕は捨ててしまっているからかもしれない。
 トレコンの株には、大きく分けて二種類の株がある。
 ひとつはトレコンだけの仮想銘柄、いわゆるオリジナル株と呼ばれているものだ。企業名や業種が設定されており、現実に存在する企業と同じように決算があり、配当があり、ときには倒産もあるが、基本的にはトレコン参加者の取引によってのみ株価が変動する。
 そしてもうひとつは現実にある有名な銘柄を元にした株だ。ただ、まったく同じ動きをするというわけではなく、トレコンでの取引量も加えられて株価が変動するようになっている。コンテストの参加者は全体で一万組近く。そのすべてが1000万円という資金を与えられて取引をしているわけだから、ときには現実の値動きとは大きく異なることだって起きる。
 トレコンで主に取引が行われているのは前者のオリジナル株で、材料となる情報が少ないうえにテクニカル分析が常に通用しやすいという利点があった。当然、システムトレードなどもこちらの方が高いパフォーマンスを出しやすい。
 だけど、折花は言っていた。テクニカル分析はただ通用するだけで、本当にお金を稼ぐ方法にはならない、と。
 株式取引で一番効率良くお金を稼ぐ方法は、株価の谷底と山頂を当てることだ。たとえ上がる株をうまくみつけることができても、売るタイミングを間違えれば利益は当然少なくなるし、最悪の場合損が出ることだってある。
 もちろんすべての株でテクニカル分析がまったく通じないということはなかったが、それでも現実の市場と比べるとどこか違和感があるのはたしかだった。
 その日、いつものように購買でサンドイッチとミネラルウォーターを買ってから部室へ行くと、先に音瀬さんが来ていた。良い結果が出ていたので少しは明るい雰囲気になってるんじゃないかなと期待したのだけれど、どうもそんな感じは微塵もなかった。むしろ音瀬さんの視線はいつもより厳しい気がした。
「三雲先輩」
 名前を呼ばれる。嫌な予感がした。絶対に怒っている。
 でもなんでだろう。ぼくがあまりに結果を出していないからだろうか。でも、チーム内の取引履歴は部員なら毎日いつでも確認できるので、いまさら気づいたってことはないだろう。その他の原因はというと……やっぱり特に思い浮かばなかった。ポジションはいま全部しまっているはずだし。
「ん、どうしたの」
 ちょうどそのとき、後ろから折花も部室に入ってきた。不穏な雰囲気を察したのか、右手にいちごミルクを持ちながら首を傾げている。
「美雨先輩も見てください、これ」
 そう言って、音瀬さんはノートパソコンを開いた。よく見てみると、ノートパソコンには5という数字のシールが貼っていた。ぼくがいつも使っている株研のノートパソコンだ。
 それを見て、ぼくはひとつ思い当たることがあった。
「ふーん、シミュレーション取引?」
 画面を覗きこんだ折花がそう口にする。折花の顔が近づいて、音瀬さんは一瞬顔を赤らめたが、すぐにぼくに視線を戻した。
「べつにシミュレーション取引を使うのは構いません。でもなんですか、この数字は」
 画面に表示された取引件数は100以上。ぼくはこの一週間、半分以上の時間をシミュレーション取引に費やしていた。勝率は6割強。当然ここで結果を出したって、成績には加えられない。そしてぼくが出していたリターンは……。
「四日間で13%……いまの市場でこれだけ出せるなんて大したものね」
 折花は特に表情も変えず淡々とそう口にした。しかし、音瀬さんの反応の方が正しかった。13%となるとぼくが普段取引をしているものより、100倍近い利益を出していることになる。
「どうして実際の取引でしないんですか!」
「いや、それは試験というか、なんというか……」
 ぼくはそんな言葉を並べてみたけれど、音瀬さんの表情は険しくなる一方だった。これだけの量を取引しておいて試験もくそもないのは自分でもわかっていた。実際、資金を使わずにやれるシミュレーション取引にぼくが気軽さを感じてのめり込んでいたのは事実だった。
「これ、どうやって選定をしたの?」
 画面をスクロールしてしばらくなにかを見ていた折花は、ぼくのそんな怠慢なんて気にもせず、取引自体に興味を持ったようだった。
「どうって、特におかしなことはやってないよ。動きのありそうなものの中から選んだだけだけど」
「それの選定基準を訊いてるの」
 基準と言われると、明確な答えがなかったのでぼくは正直に答えた。
「……勘だよ。嫌な予感がする株を避けただけ」
 株価の値動きにはランダムウォークという考え方がある。この説を支持する学者たちは人間が真剣に考えて選んでも、目隠しした猿にダーツを投げさせて選んでもその結果の平均値は同じだと主張したりしている。ぼくはそのすべてを信じているわけではなかったが、まったく信じていないというわけでもなかった。ある程度の予測は情報のなか立てることができるが、最終的な判断は直感に頼るしかない。
 どちらかというと折花も自分の直感に頼るタイプの人間だったので分かってくれるだろうと思っていたけれど、それを聞いた折花は驚いた表情をしていた。
「あなた、株を見て嫌な予感を感じるの?」
「え?」
「普通、良い予感のするものを選ぶでしょ」
 たしかにそれは当たり前のことだった。取引というのは金のなりそうな木を見つける作業だ。その方法は人によって様々だが、ぼくはただ悪い条件のものを監視対象から外しているだけだった。でも、結局みんなやっていることは同じじゃないか?
 折花は飲みきったいちごミルクの紙パックをゴミ箱に放り投げると呆れた表情をした。空の紙パックはきれいな放物線を描いたけれど、ゴミ箱のふちに当たると弾かれるようにして床に落ちた。
「あなたとわたしたちの違いはそこなのね……。さすがに落ち込むわ」
 惜しくも床に落ちた紙パックを拾いながら折花はそう口にした。
「どういうこと?」
「あなたの選んだ株を、わたしはひとつも選んでないわ」
 ぼくがチェックしていたのは約25個ほど、折花は常に50個以上の銘柄を取り扱っていたはずだ。トレコン全体の銘柄は500ほどあるので別に被らなくても不思議ではないが、そのうちで短期トレードに使えそうなものとなると非常に数は少ない。たしかにひとつも被っていないというのは少しおかしな気がした。
「三雲くんから見て、いまの市場はどう感じる? 嫌な予感のするものは多い?」
 そう訊かれると、たしかにそんな気はした。手を出したくないと思うものが多かったからこそ、いままで取引をする気になれないというのもある。しかし、それらは決して悪い株というわけではなく、強い買いシグナルを出しているものもあったし、実際にそれらの株は上がった。だからこそ、ぼくは自分の勘が正常に働いてないと思ったのだ。昔の自分が嫌だと判断した株はその後死んだように動きがなかったり、予測のつかない乱高下に入るものが多かった。それがないのだから。
「その無自覚さには呆れるわ。実際にあなたが悪いと判断した株は悪いのよ。たとえ上がったとしてもね」
 そう言うと折花は自分のタブレットを取り出してなにか操作をすると、ひとつのチャートをぼくに見せた。なぜか表示期間はいまから1週間前の5分足になっている。さすがにそれだけを見せられても、どこの銘柄なのかはわからなかった。自分がチェックを外していたものとなればなおさらだ。
「三雲くんはこのチャートを見て、どう判断する?」
 チャートを見る限り、悪くはなかった。30分前に底値の1087円をつけて、現在値はゆっくりと上げて1095円。上昇トレンドに切り替わった可能性が高く、多くの買いシグナルが出ていた。この株はこれから上がるぞ、と。
 しかし、ぼくは嫌な予感を感じた。とは言ってもそれはほんのちょっとの違和感だ。自分の横をトラックが通りすぎて排気ガスの臭いが鼻をかすめた程度の、我慢しようと思えばいくらでも我慢できるような、そんな一瞬の嫌な感じ。
「どちらかというと、あまり関わりたくはない」
「そうでしょうね」
 折花はまるでぼくの答えがわかっていたようにそう言った。もしかしたらこの株は折花が買っていた株だったのかもしれない。そうでもなければこんなすぐに引っ張りだしてこないだろう。
「でも、もしこの株を買ってしまったとして、主観的な予感はなしでこの後2時間でどれくらいまで伸びると思う?」
 それは難しい質問だった。株取引においてもっとも難しいのは銘柄選定や価格の決定よりも、どのタイミングで売るかを客観的に判断することだった。それが損益に関わるもっとも重要な部分だからだ。
 でも、ぼくは折花に言われたとおり、なるべく数字の上がり下がりだけからこれからの展開を予想してみた。
「2時間あれば、1150円までは上がると思う」
「そこまで上がると思うのに嫌な予感がするのね」
「主観的な予感は抜きって、折花が言ったんじゃないか」
「冗談よ。わたしもそれくらいまでは行くと予想してたわ」
 折花は一度タブレットを自分の手元に戻すと何度かタップした。答え合わせの準備だろう。
「結果はこれよ」
 タブレットにはあれから3時間分のデータが新たに表示されていた。1095円から予想通りに株価は1113円と跳ね上がって100の壁をあっさり破ると、ワンクッション置いてから1128円になった。しかし、すぐに1120円に押し戻される。株価は一直線に上がるものではない。ある程度値段が上がれば利益を確定しようと売るやつがいるからだ。そうして下がれば、これはまだまだ上がると思っているやつが買って勢いをつけてまた上がる。でも、そのチャートはそこから下り坂になっていた。1128円を頂点にしたまま2時間後には一瞬1100円を割ると、その後は1100あたりを力なく彷徨うだけとなった。これはもう動かないと思われたのか、みんなが出て行ったのがわかる。
「28か……」
 正直、1150円と言ったのも低めの予想だった。あれだけの条件が揃っていながら伸びたのはたったそれだけ。
「わたしはこのとき1101で買って、1118で売ったわ。2000株ほど買っていたから、3万円ちょっとってところね」
 あっさりと下がったのを見て、折花も途中で予想を修正したのだろう。自分だったら「もう一度上がるはず!」と粘っていそうだったので、折花の判断は迅速で正しいように思えた。
「たまにあることじゃないかな」
 取引に絶対なんてものはない。それに損をしたわけではないのだ。思ったより伸びなかったと言って、失敗ではないはずだった。3万の利益と言えば、チーム全体の成績では0.3%の収益になっている。
「そうね。でもわたしは毎日のようにこんなものを見せられてる」
「……毎日?」
「あとで自分が悪いと判断した株を調べてみるといいわ。たぶん似た動きになると思う」
 そう言うと折花は席に着いて、いつものように取引の準備に入った。もうすぐ取引が始まる12時になる。
 音瀬さんはまだパソコンの前に立ち尽くしたままだった。ぼくはこれからはちゃんと実際に取引をすることを伝えておこうと思った。いまいち自分の勘に確信が持てなかったけど、動く値幅は小さくても予想どおりに動いてくれる株を選定する自分のやり方は、どうやら現状では効率がいいらしい。
 でも、それを伝える前に音瀬さんは横を通り過ぎて行くとそのまま部室を出て行った。顔を伏せてはいたけど、彼女はいまたしかに……。
 どうすればいいのだろうかと困って折花の方を見ると、一瞬だけ画面から目を離して、ぼくと目を合わせてくれた。
「わたしたちがどれだけ努力しても避けられなかった厄介を、あなたは“勘”だけで予測したもの。わたしだって信じられないわ」
「……ごめん」
「そこで謝るの、あなたの悪い癖だと思う。それよりもいまは沙耶のところに行ってあげて」
「え? でもぼくが行ったって……」
 逆効果になるだけじゃないのか。ぼくが原因なわけだし、それくらいのことはぼくにだってわかっていた。
「あの子はいまのうちに、あなたみたいな存在を理解しておく必要があるのよ。三雲くんにだって、そういう人がいたでしょ」

 ○

「月にでも行ってみようかな」
 父に、世界一のお金持ちになったらなにをするのかと訊ねてみたことがあった。いま思えば、投資家にそんな質問をするのは意味のないことだったかもしれない。いまの世界で一番のお金持ちになれるのは、大企業の社長か、マフィアのボスか、投資家のどれかだ。そして、たとえ誰が頂点に立ったとしても、答えはたったひとつに決まっている。もっと増やすだけだ、と。
 だけど、ぼくはどうしても興味があった。人はお金を手に入れて、なにをするのか。
 その頃のぼくはお金の稼ぎ方は知っていても、お金の使い方は知らなかった。テレビに出ているお金持ちはみんな、大きな家や高級な車をたくさん持っていたりするけれど、いったいそんなものを手に入れてなにが嬉しいんだろうといつも感じていた。そんなものを手に入れるために、人はみんな、お金を稼ごうとするのか、と。
 だからその父の答えは、ぼくにとって魅力的なものだった。もしかしたら父が適当に用意したものだったのかもしれないけど、嘘か本当かなんてどうだってよかった。
「宇宙飛行士にでもなるの?」
「あはは、さすがにいまから宇宙飛行士になるのは大変かな。それにお金だけじゃ宇宙飛行士にはなれないからね」
「じゃあ、どうやって月に行くの?」
 父はしばらく考えこむと、なにかを思いついたようにぱっと表情を明るくして窓の外を指さした。そこには小さくなった東京の都会が広がっていた。遠くには新宿のビル群やテレビ塔が見えた。ぼくはわけが分からず、もう一度父を見た。
「街をつくるんだよ、月にね。そうすれば宇宙飛行士にならなくたって月に行けるし、月に住むことだってできる」
「そんなこと、本当にできるの?」
「技術的にはもう実現可能みたいだよ。月にはエネルギーも資源も豊富にあるからね」
 そう言うと父はある企業のサイトをディスプレイのひとつに映しだした。ぼくでも名前を聞いたことがある有名な建築会社だった。そこに「Luna City Project」と書かれたページがあった。軌道エレベーターやドーム状の月面都市のCGが描かれている。
「でも、世界一のお金持ちになっても、街をつくるには少しお金が足りないかもしれないね」
「じゃあ、みんなに投資してもらえばいいんじゃない?」
 それを聞いた父は、嬉しそうに笑った。
「そうだね。投資っていうのは本来そういう無謀な夢を叶えるためにあるものかもしれない。でもきっとみんな月に投資なんてしたがらないだろうね」
「どうして?」
「誰にも損をするか得をするか、微塵も見当がつかないからだよ」
 それはわかりやすい理由だった。そして、それが投資家の正しい姿でもあった。一部には天使エンジェルと呼ばれる見返りを求めない出資を行う者もいたが、基本的に投資家とはたとえ地獄だろうと利益を求める生き物だ。
「でも、地球に投資するものがなくなったら、きっとみんなも月に投資をするようになるよ」
「そんな日、来るの?」
 ぼくには想像もつかなかった。地球では毎日いろんな新しいものが生まれて、あらゆるものに価値がつけられて、それが取引の対象になる。投資するものがなくなることなんて、永遠にないような気がした。
「案外、近い未来に来るかもしれないよ。渡也くんが大人になる頃には、もしかしたらね」
 お金があれば月にだって行ける。
 単純だけど、そんな理由でもぼくが投資を続けるには十分な理由になった。
 だけど、この世界にはいくらお金があっても、解決できないものがある。
 それを目の前にしたとき、父は投資家をやめた。
 ぼくにとってそれは、なによりも裏切りだった。

 ○

 屋上へ行ってみると、ちゃんとそこに音瀬さんはいた。フェンスの際で、いつかのぼくのように遠い街を眺めている。
 正直ここにいなかったらどこにいるか見当もつかなかったでぼくはほっとする。だけどみつけられたのはよかったけど、どう声を掛ければいいのかは考えていなかったことに気づく。折花に行ってあげてと言われたから来たけれど、ぼくにできることなんて本当にあるんだろう。なにもいい考えが思い浮かばず、ぼくはただ階段室の扉の前で立ち尽くしていた。
 ぼくが答えをみつけだす前に、音瀬さんはしびれを切らしたのか、振り返って口を開いた。
「なにか用ですか、先輩」
 その顔からさきほど見た涙の気配は消えていた。ぼくはそれを見ると安心して、さっきまでの沈黙がまるで嘘のように言葉が出た。
「用って、わけじゃないんだけど」
「なんですか、それ」
「何なんだろうね」
 それは聞いた音瀬さんは、ふっと笑顔をつくった。彼女を笑わすことができたのが、これがはじめてだった。
「こっちの方が日なたで暖かいですよ」
 たしかにいまぼくが立っているところは階段室の影になっていて少し寒かった。少し前までは涼しくてここの方が居心地よかったのだけど、いつのまにかもう10月が終わろうとしていた。夏のかけらは消えて、空の模様も変わっていた。
 ぼくは音瀬さんの言葉にしたがって移動すると、フェンスにがしゃんと背を預けて腰を下ろす。すぐ隣に音瀬さんも座った。彼女をこんな近くで見たのはこれがはじめてかもしれない。一瞬だけ吹いた冷たい風が、彼女の長い髪を運んだ。どうして女の子の髪って、こんなに細くてさらさらなんだろう。
「べつに、先輩に負けたのが悔しくて部室を出たんじゃないんです」
 なにも言わなくても、ぼくがここに来た理由は彼女もなんとなく察しているようだった。ぼくはなんだか彼女に無理をさせているような気がして、申し訳ない気分になった。
「ただ、情けなかったんです。なにもできなかった自分が」
「そんなこと、ないよ」
 テクニカル分析が本当にお金を稼ぐ方法にはならない。そのことを聞かされなければ、いくらシミュレーション取引とはぼくだってあんな勘に頼ったような取引をしてみようとは思わなかったはずだ。あらゆる方法は折花と音瀬さんがすでに試している。残るもののなかでぼくにできることと言えば、あれくらいしかなかったから。
「勝手にパソコンを見たのは悪いと思ってます」
「べつに気にしてないよ。いつかやめないといけなかったんだ、あんなこと」
 それにいちいちログオンをするのが面倒くさくてロック解除をしていたのは自分だった。取引をする人間としてはどうなんだろうかと思うけど。
「でも、どうして知りたくなったんです。先輩がなにをしてるのかって」
「ぼくが?」
「最近の先輩は、美雨先輩と同じ目をしていました」
 ぼくはその言葉に、ただただ驚いた。
 自分でもまったくそんなこと、気づいてなかった。ぼくはいつのまにか“投資”をやっていたのだ。
「美雨先輩から聞きました。先輩は一度取引をやめた人間だって」
「うん」
「どうして、なんですか?」
 あの日、折花とはじめてここで会った日もぼくはその理由を聞かれた。あのときは言えなかったけど、いまなら言える気がした。いまぼくはこうしてまた投資をすることができて、ここにいるのだし、過去なんてものは参考にはなっても、利益を生み出してくれるものではない。
「単純な理由だよ。トレーダーが取引をやめる理由なんてたったひとつだ」
「ひとつ?」と音瀬さんは不思議そうにつぶやいた。しばらくなにかを考えている様子だったけど、彼女は取引がやりたくてトレーダーになったのだ。やめる理由なんていままで考えたことなかったのだろう。
「自分のルールが、世界のルールに負けたときだよ」
 そう、たったそれだけ。
 それだけの理由で、簡単に人は自分を見失ってしまう。



       

表紙

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Neetsha