Neetel Inside ニートノベル
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 夜になっても、雨はまだ静かに降り続いていた。
 勢いは幾らか落ち着いたように見えるが、遠くがうすら曇る程度には降っていて、傘もなく彷徨けばきっとすぐにずぶ濡れになってしまうだろう。よっぽど身体が汚れていない限り、こんな中に飛び込む者などいない。
 だから、雨降りの草叢というのは「少年」が身を隠すのにはうってつけだった。
 少年は息を殺して、草叢の隙間から顔を出す。
 東屋だ。目の前にはこの公園の東屋がある。
 そしてその中にあるベンチには、誰かが毛布をかけて眠っている。男と女、二人いるようだった。傍には、荷物が括りつけられた原付が停められている。男の独り言を聞いていた少年は、その原付が故障していると分かっていたので、今更それを盗む気にはなれなかった。
 再び狙っているのは、ロープで結わえ付けられているリュックサックの方だ。
 先刻は男がまだ起きていたので、まともに盗みを働くことが出来なかったが、その男も今は寝息を立てている。少年にとって、これは稀に見るチャンスだ。
 リュックの中には食料品が多く入っていた。あれを手に入れられれば、どれだけ幸福だろうか。
 少年はゆっくりと深呼吸して、雨音が耳に入らなくなるほど集中する。
 手元には錆びついたサバイバルナイフ。これでロープを切って、リュックごと荷物を盗む。もし男か女どちらかが目覚めたら、ナイフを使って脅しでもかければいい。そんな風に考えていた。
 雨の勢いが少し強くなる。
 今の内だ、と空が囁いた気がした。
 直後、少年は疾駆した。
 裸足で駆ける音は雨に打ち消され、さながら暗殺者のように少年は原付に向かって真っ直ぐに駆け抜けた。
 一〇メートル、五メートル。その距離はみるみる縮まって行く。
 そして、少年の持つナイフの刃が、荷物を括っているロープに向かって――――

「駄目だよ、味をしめてしまっては」

 声が聞こえると同時に、少年は自分の身がふわりと宙に浮かぶのを感じた。
 いや、違う。そう錯覚してしまっただけだ。どこからか男の声が聞こえたかと思うと、少年の身体は想定していた走路から大きく軸を外れて、原付の右斜め前に放り出された。
 うわっ、と呻き声を上げて、少年の身は東屋の硬い石床を転がる。視界が転と揺らいだせいで、ぐわんぐわんと頭に痛みが走る。その逆かもしれない。少年の思考回路は、不意を突かれた所為で混乱していた。どこかに潜んでいた男に、思い切り突き飛ばされた。そう考えられるまでには、数秒ほど時間を要した。
 ごろごろ転がった身体は、仰向けになって空を見る。
 東屋の軒先から落ちる雨垂れが額を打った。それが微かに沁みた。額を擦りむいたようだった。
「他人の生命線を断りもなく奪うのは感心しないね」
 視界の隅に、男の影が映る。
 ああ、千載一遇のチャンスを逃してしまった。
 少年はじくりと広がる痛みを感じながら、そんな風に考えた。

     ○

 雨が止み始めて、世界に無音が戻りつつあった。
「生きるためには、奪うしかない」
 少年は脱いだ衣服を乾かしながら言った。
 湿気った薪では火をつけるのに幾分苦労したが、少年の手も借りて東屋には小さな明かりが灯った。
 東屋の中には、田圃の地図記号を縦に並べたように四つのベンチがある。その一つには毛布を掛けられて明穂が眠っていて、武藤と少年は互いにベンチに座り、向かい合う形で火をおこした。
「こんな世界で生きていくためには、犯罪じみたことも平気で出来るようにならないといけないんだ」
「ほい。君も一つ食べるかい?」
 武藤は蓋を開けたスパム缶を、少年に向かって差し出した。
 このスパム缶は、少年が武藤から盗んだものだ。少年は眉をひそめる。
「それ、俺が盗んだものだろ。なんで」
「ああ。これは君が盗んだ物だ。返してもらったけど、盗んだ時点で所有権は君にある」
 武藤はにっと笑う。
「そういう世界、なんだろ?」
「……変な人だな、アンタ」
「よく言われるよ」
 互いに小さく笑い、武藤と少年はスパムを口にした。
 武藤はあっという間に平らげたが、少年は何かに気を遣っているのか、半分ほどで手を止めた。
「なあ、アンタ」
「僕はアンタって名前じゃない。武藤だ」
「……武藤サン。この残ったスパム、貰ってもいいかな」
「貰うも何も、所有権は君だと言った筈だ」
 雨水で缶を洗いながら、武藤は少年のことを見る。
 その、何かを憂えているような表情には、幾らか心当たりがあった。
「さしずめ、腹を空かせている待ち人が居るってところだろ? 持って行ってあげなよ」
「! どうしてそれを……」
 驚いて目を丸くする少年に、武藤は人の良い笑みを向けた。
「悲しいかな、人の機微には敏感になってしまってね。気まぐれ暴力少女と接してきた所為だとは思うけど」
「誰が気まぐれ暴力少女だって?」
「誰だなんてそんな無粋なことを言うなよ明穂。それはもちろん明……」
 は、と武藤は口を止めて、ロボットのように顔を恐る恐る横に向けた。
 瞬間、目を覚ました明穂のローリングソバットが武藤のこめかみにクリーンヒットして、武藤は「おふぅ」と情けない叫び声を上げながら漫画のように吹っ飛び、近くの草叢に頭から突っ込んだ。
「やあ明穂、その様子だと快復したみたいだね。良かった良かった」
「風邪なんて寝れば完治するわよ。あんまり私を甘く見ないで」
「ドラ○エの宿屋でも状態異常は治してくれないというのに、凄いね明穂は。ところで相談がある」
 ふらつく意識で武藤は言う。
「逆に今度は僕のほうがダメージを負ったみたいなんだけど」
「クノー」
「さしずめ、『くたばれ無能な武藤』?」
「残念。正解は『クソ喰らえ無能な武藤』」
 なんて酷い言われようなんだろう。
 どくどく頭が脈打つのを感じながら、武藤は独りごちた。
「何なんだこの人達……」
 少年は緊張感に欠ける二人を眺めながら呟いた。

 それから少しだけ他愛のない話をして、少年は再び夜闇の中へ消えて行った。
 武藤はその後ろ姿を追うことなく、焚き火を消す作業に取り掛かっていた。
「ねえ、武藤」
「何だい、明穂」
 明穂は冗談なしに尋ねる。
「あの少年、何だか君に似てない? もちろん今じゃなくて、昔の」
「……悪い冗談だよ、明穂」
 明かりが消える。
 さああ、と鳴く止みかけの霧雨に、二人の会話は溶けていく。

       

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