Neetel Inside ニートノベル
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     ○

 少年は名を、ナオキと名乗った。
「ということはつまり」武藤はナオキが取り出した折りたたみ椅子に腰掛けながら言う。「君たち兄妹も、生まれ育った街が繭化によって壊滅状態に陥ったから、こうして世界の終わりに逃避行をしているわけだね」
「つっても、アンタらみたいに原付でひとっ走りすることは出来ないけどな」
 自嘲気味に言うナオキ。それを聞いて、武藤の視線は少し離れた場所にいる少女に向いた。
 少女は明穂に車椅子を押してもらいながら、何かを話しているようだった。
「妹さん、足を?」
「ああ。数年前に交通事故でな」
 そうか、と武藤は呟く。
「実は足だけじゃ、ないんだよ」
 ナオキは諦めたような笑いを浮かべながら、頭を掻く。
「あいつ、『   』って名前なんだけどさ」
 ナオキの言葉の中には、聞き取れない音があった。
 何も言わなかったわけではない。
 ただナオキの放った言葉は声にならずに、一種のノイズとして聴覚へ飛び込んだ。
 瞬間、武藤は理解する。
「まさか、君の妹は」
「そのまさかだ」ナオキは言う。「妹はもう、名前が『繭化』してしまっている。」
「名前が、繭化……」
 不思議に思いながら、武藤はその言葉を反芻する。
 武藤の導き出した理論で考えると、ナオキの妹の名前が繭化するということはほぼ考えられない。それはつまり、武藤理論が間違っていることを示している。武藤は打ちひしがれる思いになりながら、それでも平静を装って額に手を当てる。
「繭化で名前が奪われるなんてことは、今まで聞いたことがない」
「俺も繭化の事はよく分からん。武藤……って言ったか。アンタ、繭化について詳しいのか?」
「多少はね」武藤は答える。「ただ、詳しいと言っても全て憶測の域を出ない。繭化によって消えていく人たちを看取り続けてきた結果を、淡々と記憶しているだけだ」
「辛くは、ないのか」
「ないよ。元々家が葬儀屋だったから、人が消えることに抵抗はない。どちらかというと恐怖とか悲しみを覚えるのは、繭化のことを知らずに死んでいく人々が星の数ほどいる、という事実かな」
「……それで、アンタは繭化の治し方を知ってるのか」
 ナオキのその言葉を予期していたのか、武藤の動きがぴたりと止まる。
「知ってるなら教えてくれ。頼む。俺は……俺はこのまま妹が繭化してしまうんじゃないか、怖いんだ」
 武藤の前に跪き、ナオキは教えを請う。
「なあ、教えてくれよ! どうしたら妹を繭化から救えるんだ! 教えてくれ!」
「……僕も出来ることなら、そうしてあげたい」
 遠くで明穂と話しているナオキの妹を、武藤は見遣る。
 屈託で、純朴そうな少女だ。見たところ、兄であるナオキに逆らっている様子も見えない。明穂とすんなり相容れているところから、心が広く、とても寛大な性格であることは間違いない。
 武藤は考えた。
 あの子はきっと、何でもかんでも貪欲に欲しがるような、子じゃない。
“だからこそ繭化に陥ったのだ”。
「だけど、きっと無理だ。残酷な話になるけど、君の妹では恐らく繭化には抗えない」
「そんな……どうして、どうしてそんなふうに決め付けるんだよ!」
 ナオキは思わず立ち上がって、武藤の襟首を引っ掴む。
「お前も、あの明穂っていう奴も! 繭化の蔓延する世界で、悠々と生きてるじゃねえか! それはつまり繭化を防ぐことが出来てるからだろ! その方法をちょっと教えてくれりゃあいいんだ、頼むよ」
「いいかい? そもそも繭化っていうのは、いわゆる自然界の淘汰作業みたいなものなんだ」
 言葉を無視し、武藤は言う。
「白亜紀はいつか知らないけど、恐竜が氷河期になって滅びたように、人間も繭化によって滅びる。両者の違いは死滅させる現象だけだ。恐竜を殺すなら凍りつく寒さを、人間を殺すなら繭化をと、神が選択したんだよ」
「……じゃあ、繭化ってのは避けられない現象だって、言いたいのか」
「そういうことだ。僕も明穂も早かれ遅かれ、いずれは繭となって淘汰されていくだろう」
「だったら、完全に繭化するのを遅らせるだけでもいいんだ」
 いつの間にか明穂と少女が戻って来て、二人のことを遠巻きに眺めていた。
 それに気付いているのか、そうでないのか、ナオキは泣きそうになりながら言い募る。
「俺は少しでも長く、一秒でも妹の側に居てやりたいだけなんだ。頼むよ。この通りだ。頼む、頼む」
「お兄ちゃん。もう、いいんだよ」
 土下座して懇願するナオキの元に、名前を失くした妹が近寄る。
「私、幸せだよ。お兄ちゃんがそう思ってくれるだけで、幸せだよ」
 ナオキは武藤から、手を離す。
 口がわずかに動いていた。
 言葉にならない名前を、呼んでいた。
「お兄ちゃんがいてくれるなら、私もう何も、」
 武藤は目を細めて、少女を見る。それだけは――――それだけは、絶対に。
「――――何も、要らないから」 
 言ってはいけない、言葉なのだ。


「子どもっていうのは、希望そのものだ」
 林の中を歩きながら、うわ言のように武藤は言い続ける。
「昔のイギリスでは、子どもたち誰もが未来を支えることを祈って、寝る前の挨拶に『おやすみ、ニューイングランドの王たち』と言っていたらしい。誰もが国の王に、国を支える力になれることを願って」
「だから希望を捨てるな、って言いたいの?」
「僕は完成した人間じゃないから、そんな偉そうなことは言えない」
 武藤は平板に言う。
「だけど、これで十分だ、これで満足だなんて感情を持ってはいけない。繭化を受け入れてはいけない。生きることを諦めてはいけない。君も分かってるだろう、明穂」
「……“理由を失ったものから、神は繭の糸を絡み付けていく”」
「そう。いつか君に教えたことだ」
「憶えてるよ。だから私はこうして立っていられる。それに」
 明穂は、武藤の隣に並びながら。
「君がそう望んだから――――私は今、生きているんでしょう?」
 遠く後ろのほうから、何かが羽撃く音が聞こえた。

     ■

 ある時、僕は望んだ。
 愛した少女との決別が出来ない僕は、強く望んだ。
 世界は望みに応じた。

 きっと誰にも分かることのない、かすかな代償とともに。

       

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