Neetel Inside ニートノベル
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     †

 気付いたのは『あの日』の翌日だった。
 武藤は茫然自失といった様子であてもなく街を彷徨っていた。まだ交差点は人が溢れ、繭化のケの字も存在していない時系列。休日の昼下がりは驚くほど平穏で、昨日武藤に起こったこと全てが虚実であったと思えてしまうほどに日常で溢れている。
 明滅する信号機。駆け足のサラリーマン。路面電車。
 全てのものがいつも通りの朝を迎え、微妙に変化を続ける日々に身を委ねている中で、武藤だけは少しレールを脱線し始めていた。
 空が青ざめている。気分がすぐれない。体調は悪くないはずなのに風邪気味で運動した時のような茹だる暑さと気怠さを感じながら、武藤は信号が青に変わるのを待つ。隣の女子高生が電話をかけ始める。耳障りな笑い声がガンガンと三半規管を揺るがして沈んだ気分は吐き気へと様相を変えていく。
 ざわめく雑踏。大画面ビジョンから流れる焼肉屋の広告。色の変わった歩行者信号の電子音。噴水のように溢れだす生活音の全てがノイズとなって、際限なく武藤の聴覚を削っていった。
 息苦しさを覚えながら、歩みを進める。
 脈が不安定だった。よろめく歩行のリズムと並んで鼓動が不規則になる。どこかの誰かとぶつからないようにしながら、なんとか横断歩道を渡り切る。ただ道路を横切っただけなのに、足が棒になっていた。疲労が溜まっている。昨日のことが原因か、単に肉体が疲弊しきっているだけか、考える気も起きなかった。
 暑さで消耗しているのかもしれない――そうとも思った武藤は、近くにあった自販機に歩み寄る。好んで飲むカフェオレはなかったので、仕方なしにスポーツドリンクを買った。脱水症状だとしたら効果覿面だからだ。
 蓋を開け、ごくごくと喉を鳴らして半分ほどを一気に流しこむ。
「……………………」
 口を離し、そのまま太陽の昇る空を見上げながら武藤は呟く。
「何も、感じない」
 中身の入ったペットボトルをゴミに捨てる。
 何も感じなかった。喉は渇いているはずなのに、何も満たされなかった。
 思えば、これが始まりだったのだ。

     ○

「……どういうこと、なんだ」
 アラガキは握っていた銃を床に落とし、自身も腰から崩れ落ちた。
「どうもこうも、あなたの見ているものが真実です」
 武藤は態とらしく慇懃に振る舞い、左胸の当たりを指で擦る。
 触れている左胸――心臓へ直結するはずの場所には、ぽっかりと穴が開いていた。理由はもちろん、今しがたアラガキに銃で撃たれたからだ。どうやら正確に撃ち抜かれてしまったようで大量の血が溢れだしている。
 だからと言って、生命活動に支障が出るわけではない。
「き、君は一体、何者なんだ」
「自分を殺そうとした人間に、なぜそんなことを教えないといけないんでしょうか」
 漏らしたのか床を湿らせていくアラガキに、武藤は数歩近づく。
「あなたは全てを見過ごしてきたはずです。価値がないと判断したから殺した。僕を殺そうとしたあなたは、僕にはもう価値がないと判断した。あなたにとって僕とは生きている価値のない人間。そんな人非人とみなした生き物に、今さら何を問おうと言うんですか」
 ぬっ、と顔をせり出して、
「答えが知りたいから、手当たり次第に捕まえて情報を引き出す? そんな回りくどいことをしなくても、答えが知りたいのなら教えてあげます。“僕は優しいですからね”」
 アラガキを観察するように、武藤は自分の顎に指を添える。
「あなたの考えは正しい。存在理由の消滅――まあ、それもれっきとした繭化の原因“の一つ”です。大部分はそれが原因で死を迎えていますね。だからあなたの並べた理論は九分九厘間違っていないんです。
 ……見抜けなかったのは、残っている他の原因」
 ぐ、と力を込める。武藤の口が、きりきりと開いた。
「――――――――――!!!!」
 そして、アラガキは絶句する。
「冥土の土産に、良い物を見せてあげますよ」
 笑いとも嘲りとも取れるように、目を細める。
 ぱくぱくと口を動かしているアラガキが見たのは、大きく開かれた武藤の口の中。

「これが――――僕が生涯抱えることになった“傷跡”です」
 “喉の奥から大量の蛾が”。

     ○

「……結局、奥の手を使ったのね」
 武藤が打ち捨てられていた原付の掃除をしていると、重い空気を晴らすように明穂が言った。
「あそこまでしなくても、君なら上手く言いくるめられたんじゃない? そうしたらあのアラガキって奴も無事で済んだだろうし、君が気分を害することもなかった」
「かもしれないね」
「かもしれないって、だったらどうしてそうしなかったの?」
「弱かったから」
 武藤は原付に跨がってブレーキの効きを確かめながら、
「僕は武器も何も持っていない弱い人間だから、見せるしかなかった。繭化という淘汰の流れに抗うモノ――則ち“僕自身”という答えを見せつけなければ、あの男はどうにもならなかった」
「……死ぬ?」
「じきに繭化するだろうね。彼は答えを知ってしまった」
「いや、私が聞きたいのは、君のこと」
 明穂は俯いたまま、繰り返す。
「君は――武藤学は世界の流れに逆らうことによって、死んでしまうの?」
「分からない。淘汰作業が終わった暁には<原罪>として殺されてしまうかもしれないし、もしかしたら全てがなかったことになるかもしれない。僕の命をどうするかは、繭化が終焉を迎えた後に神様が決めることなんだ」
 旅立つ前、武藤は己の見聞を広めるためだと嘘をついた。それも嘘だったのだ。
「だけどこれ以上、神様のゆりかごでじっとしているのも退屈でね。どうせなら神様に抗えないかなと思って、僕は旅に出ることにしたんだ。というわけで再確認しておこう」
 武藤は言う。
「いつまでも余計な荷物を背負って『繭化』――――」
 その先を口走ろうとした矢先、武藤は続きを遮られるようにヘルメットを投げ渡される。
 見ると、明穂は既に自らの分のヘルメットを被っていた。
「これでおあいこね」
 明穂がしたり顔で笑う。
「……まさか、憶えてた?」
「少なくとも、ヘルメットを護身用に使うつもりはないよ」

 誰もいないひび割れた道を、原付が走って行く。
 夕陽に照らされて伸びるのは、二つ分の人影。
 終わりの見えない地平線に向かって、小さな二人と一台はまた歩みを始めた。

       

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