Neetel Inside ニートノベル
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「……学。どうした、その子は」
 いつも無表情で仕事に勤しむ父親が、手を止めた。
 身体は雨でびしょ濡れになっていた。靴も、服も、髪の毛も、豪雨の中を走ってきたのか、学の身体の至るところから雨垂れが落ちていた。表情は暗く曇り、疲れきっている。
 目元からは――びしょ濡れにもかかわらずそれだと分かるほど、大粒の涙が流れていた。
 そして、両腕に抱えているのは、小さな女の子。
 白のワンピースを着た、華奢で白い肌の少女。
 少女は深く目蓋を閉じ、糸の切れた操り人形のように力なく項垂れている。
「父さん」
 一体、何があったんだ。
 そうとも言えず、父親が二の句を継げないでいると、学は唐突に口を開いた。
「この子、身寄りがないんだ。だからうちで焼いてくれ」
「焼いてくれ、と言われてもだな……」
「頼む」
 涙の筋をいくつも作りながら、それでも凛とした声で学は言う。
「そうでもしないと、こいつは絶対浮かばれないんだ」
 雨の雑音。
 少女の体を握りしめる、細い腕。
 騒がしい静寂の中で、学と父親は何も言えず、ただただ立ち尽くしていた。

     ○

 雨は嫌いだった。外で遊ぶことが出来ないから。
 雨が降れば川が増水して近寄れない。当然水切りなど出来ないわけで、武藤は家の中で読み飽きた本を何週も読み続けるしかなかった。小説も一ヶ月あけて読めばまたそれなりに楽しめるというが、梅雨の時期はそういうことが続くので昨日読み終えた本をまた読むなんてことも多々あった。
 とりわけ、武藤の場合は読むスピードが速い。二〇分もあれば文庫本一冊は読んでしまえる。だから一〇〇冊そこらしかない本棚は大した暇潰しにならない。雨は嫌いだった。
 だが今に限っては、雨を嫌いになれなかった。
 流れる涙を、必死に抑えていた嗚咽を隠してくれるから。
 体や服が濡れている状態では燃やせないので、明穂の遺体は明日火葬されることになった。街中で人目を憚らずに泣いたあと、武藤はあの寺社へとやって来た。雨の時はあの日以上に気を配らなければ、湿った苔で滑りそうになる。
 横目に、ひっそりと咲く紫陽花の花が映った。葉の上で、アマガエルが悲しげに鳴いている。
 小さい寺社だ。狛犬と手水舎がある以外は、大きくもない本堂が佇んでいるだけ。寺院として機能しているのかも怪しい、とにかく目立たない場所にある寺社だった。
 だからこそ、明穂はこの場所を選んだのだろう。
 武藤は明穂の「明日また来て欲しい」という言葉から、ここには明穂にとって大切な何かがあるのだと思っていた。たとえば昔からここで遊んでいたとか、家族でよくお参りに来ていたとか。今となってはそれを訊く術はないが、明穂が武藤と話すためにここを選択したのは確かだ。
 だから明穂の亡骸は、ここに埋めようと考えた。
 思い返せば、明穂は病弱であってもおかしくない境遇だった。
 身寄りがなく、家はあるものの金はない。少女が金を稼ぐためにはストリート・チルドレンになるしかないだろうが、明穂はそういう風に見えなかった。日毎に明穂の腕が心なしか細くなっていたのを、武藤は今更になって思い出した。おそらく栄養失調は何かで、本当なら今すぐ何かを食べないといけないほど飢えていたに違いない。
 でも明穂は、そんなことをおくびに出さなかった。明穂のことだから、「そんなことよりも冒険のことで頭がいっぱいだった」のだろう。アイツらしいな、と武藤は表情を変えずに小さく笑った。
 そして、どうしてそのことに気付いてやれなかったんだろう、どうして邪険な態度しか取れなかったんだろうと、悔やんでも悔やみきれなかった。
 明穂があれほど自分に執着したのは、助けを求めていたからではないのか。
 あれほど冒険のことを語っていたのは、どこかに連れ出して欲しかったからではないのか。
 誰かの救いが、欲しかったのではないか。
 手の施しようがなくなって、初めてそういうことに気が回った。
 だが、もう涙も出てこない。
 小降りになった雨に打たれて茫然自失としたまま、手水舎に寄りかかることしか出来ない。
 すべてが遅すぎたのだ。覆水盆に返らず、過ぎたるは及ばざるが如し、いくら武藤が悔やんだ所で、明穂の命が戻ってくることはない。武藤はまた明日から一人で水切りをして、葬儀屋の仕事をこなしていくしかないのだ。
 何か、何か自分に出来ることはなかったのか。
「くそっ…………」
 自棄になって手近にあった石を放り投げ、膝を抱えてうずくまる。
 石は敷石の上を数回跳ね、そのまま階段の方へ――――

「泣いているのかい、少年」

 落ちることはなく、白い靴にぶつかってこつんと鳴いた。
 突然投げかけられた声に、武藤は顔を上げる。
「男が女々しく泣くのはみっともないぞ。いやまあ、そりゃあ悲しいことがあったら泣いてもいいけどさ。そういう時は男泣きするもんだ。すすり泣くのは度胸のないやつがやることだ」
「……誰だよアンタ。涙なんてもう枯れ果ててるっての」
 見上げた先にいたのは、白。
 いや、白という色そのものと錯覚してしまいそうなほど色素に乏しい、長い髪を持った男だった。
 ワイシャツとジーンズのようなものを身に着けているが、カラーはどこまでも白一色。地面につきそうなほど長い白髪は、雨の中にもかかわらず湿らずに乾いている。指も、顔も、瞳に至るまで全てが白かった。唯一虹彩だけが黒く輝いていて、辺りを見渡した後に、それは武藤の方を向いた。
「これは失礼。ということは先刻、街中で慟哭が聞こえたのは君だったんだね」
「それがどうかしたのか。アンタには関係ないだろ」
「あるね。大いに関係ある」
 そもそも何者なんだよアンタ、と武藤が詰問する前に男が口を開いた。
「僕が行く先には君がいて、そしてこうしてまた邂逅した。これを運命と言わずに何と言う?」
「偶然」
「つくづく冷たいね君は。降りしきる雨のようだ」
「どうでもいいけど、誰なんだよアンタ。もうほっといてくれよ」
 今は誰とも話す気分じゃない。たとえその相手が父親でも仏様でも、神様でも。
「ああ、そういえばまだ名乗っていなかったね。失礼失礼」
 そんな武藤に対して、おどけた調子で男は言う。
「ハロー、少年。僕は神様です」

       

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