Neetel Inside ニートノベル
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 繭化が始まったのは、今から三年前の冬だと言われている。
 正確な日付は分かっていない。どの人物を初めて繭化に罹ったのか、誰も定めることが出来なかったからだ。それくらい繭化というのは世界中で急速に広まり、瞬く間に世界を侵食していった。現時点で世界の七割は繭になっているらしく、武藤と明穂の育った街もほぼ全てが繭化してしまっている。

「僕は繭化が始まった頃から、望むと望まざるにかかわらず繭の調査をすることになりました」
「……それは義務というよりも、習慣のような感じなのかい?」
「ええ、言い得て妙ですね」
 シャッターの開けられた廃屋の中で、武藤は水を一口飲んで言う。
「親が小さな葬儀屋をやってまして、人員不足ということで良く駆り出されていたのです。金のかからない従業員というわけですね。だから死体を見ても特別驚きはしませんし、何よりも匂いには敏感になるんです」
「そうか……そういうことか」
 男は何かを理解したようで、溜め息とともに項垂れた。
 武藤はそれ以上追及せず、ペットボトルを元通り首から下げる。
 視界の端では明穂が原付に積んである荷物を弄っていた。外に放りっぱなしではいつ盗まれるか分からないので、男が招き入れてくれた廃屋(男はガレージと言った)に持ってきたのだ。
 見た目通り、ガレージの中はそれなりの広さがあった。二・三台車を入れても問題ないほどの広さがあり、天井の高さも申し分ない。ガレージというよりは外装のみ雑に作られた平屋といった印象で、備え付けとみられる階段の上には比較的綺麗な毛布が敷かれたベッドもある。二人分のそれを見て、武藤は改めて確信した。
「このシャッターは、ご自分で取り付けたんですか?」
「うん、そうだよ。自動車操業が趣味で、車を保管しておくためのガレージとして元々は使っていたんだ」
 男はぼさぼさで白髪交じりの短髪を掻きながら言う。それほど老けているようには見えず、精悍な体つきであるのにもかかわらず白髪の量も多く、肌にもかなり白みがあった。
「それで、繭化が始まって、ここに住まうようになったと」
「正確に言うと、繭化によって妻を失ってからかな。それからはずっとここに籠りっきりだ」
「ああ、やはり」
 武藤は、ばつが悪そうに眉根を寄せる。
「残った骨を、焼いたんですか」
「はは、その界隈の人には分かるものなんだね。うん、その通りだよ」
 苦笑いを浮かべる男。
 神妙な面持ちの武藤は、続けて尋ねる。
「もしかして肉体は、白い蛾になって飛んでいきましたか?」
 それを聞くと男はしばらく押し黙ったが、やがて観念したように口を開いた。
「……繭の調査というのは、本当なんだね。僕はてっきり虚構だと思っていたよ」
「見ず知らずの人に嘘をつく趣味はありません。暴力少女のおべっかを使う事はありますけど。ぐほぉ」
 背中に明穂の回し蹴りがクリーンヒットし、武藤はその場に膝から崩れ落ちる。
「デクノボー」
「『デリカシーの欠片もないクソで無能でボケナスな武藤』?」
「正解」
「こんなことを瞬時に思いつく人間にはなりたくないよ! ……すみません、話が逸れましたね」
 武藤は男の顔を見て笑う。
「話の続きですが、その口振りからして蛾になったのは間違いないですか?」
「ああ、君の言う通りだ」
 男はガレージの天井を見上げ、火の点いてないタバコをくわえる。
「妻が完全に繭になって、二日くらいした時のことかな。今思い出してもぞっとするよ」
 語らう男の口調は、鉛のように重い。
「妻を寝かせていた寝室の扉を開けた途端、おぞましい量の白い蛾が一斉に飛び出して来たんだ。まるで部屋から逃げるように、ものすごい勢いで空の彼方へ消えて行った。後に残っていたのは完全に肉が削げ落ちた成人女性の骨格標本だけだ。僕はとんでもない喪失感に襲われたよ」
「う…………」
 後ろで話を聞いていた明穂が、口を押さえる。
「明穂、君は聞かないほうが良い」
「そうみたいね……ちょっと横になりたい気分」
「すまない。上にお客さん用のベッドがあるから、そこで休むといい」
 ありがとうございます、と会釈しながら明穂は階段を上る。
 武藤は心配そうにそれを見つめていたが、やがて再び口を開く。
「それで、残った骨をガレージの外で焼いたと、そういうわけですね」
「ああ。それからもう三ヶ月は経っているかな」
「三ヶ月……」
 それにしてはやけに骨の匂いが残っているな、と武藤は言葉にせず心中で呟く。
 室内で焼いたのならまだしも、周囲に何もない屋外で焼いたとなると、そこまで匂いが染み付くとは思えない。しかし温厚に見える男がそんなくだらない嘘をついているとは思えず、武藤の頭の中で一つの仮説が浮かび上がる。
 第一、骨の匂いが一番強いのはこのガレージの中だ。
 やはり、そういうことなのだ。
「もう一つだけ、お聞きしたいことがあります」
 武藤は言う。
「もしかしてあなたは、目に見えるものが白く染まって見えていませんか?」
「僕も一つだけ、尋ねたい」
 男が目を丸くして、言う。
「君はエスパーか、もしくは未来からやって来た人間なのかい?」
「いいえ、僕は最期を看取ることを生業とする<葬儀師>です」
「いや、僕にとって君はまさしくそのような存在だ」
「なぜ」
「これ以上苦しまずに済むからだ」
 男がにこやかに笑う。

「君は、終わらせ方を知っているんだろう?」

 眼球に白いノイズが走る。
 微細な白に拠る絞首刑が侵食する。
 男の角膜へ白く線を引くように、細い繭糸が張り巡らされていく。繭糸は加速度的に男から色素を奪っていく。目に見えない蜘蛛が獲物を捕らえるように、男の軆を、白い糸が、糸が包み込んでいく。男の体の造形はそのままに、表皮に象牙の色をした糸が絡みついていく。木乃伊を完成形とするように、漸進的に。
 こうなってしまえばもう手遅れだと、武藤は知っていた。
 骨の焼けるような匂いを発していたのは、男そのものだったのだ。
 それには武藤だけが気付いていた。
 繭化の最期は驚くほど急激で、残酷であることを武藤は知っている。
「何か、この世界に言い残す言葉は」
「言葉……」
 武藤の問いかけに、男はひび割れた口を動かして答える。
「世界はこの三年で、驚くほど豹変してしまった。世界は瞬く間に陥落した。全ては繭が変えてしまった。ざわめく街の気配も、かすかな木々の囁きももうここにはない。驚くほど価値の無い世界に成り下がってしまった。僕の望んでいた世界はもういない。だから残すような言葉も見当たらないよ」
「そうですか」
 武藤の言葉は、どこか冷ややかで。
「ならば僕の口から言います。貴方はこの世界を必要としていなくて、世界も貴方を必要としていない」
 男の体に、急激に亀裂が増える。
 男の動きが止まる。

「貴方が生きている理由はもう――――この世界にはありません」

 直後、ガラスを割る勢いで男の全身が真っ白な蛾に変貌し、シャッターの開いたガレージから飛び出した。
 残されたのは、立ち尽くす武藤と、毛布の中で耳をふさぐ明穂だけ。
 男の亡骸など、どこにも残ってはいない。
「貴方は間違っている。常に変わり続けるということは、つまりは何も変わらないということ。三年という時間が人間にとって残酷に長いものだとしても、世界の生涯においてはほんの数秒にも満たないんだ」
 武藤は寂しげに言う。
「繭化が自然の淘汰であるといっても、何らおかしい話ではない」
 吹き荒ぶ風に、武藤はわずかに身体を震わせる。

       

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