また春が来て桜が咲く。
「桜が、好きなんだね。」
うん。だってすごく綺麗だもん。
ぼくの家も桜でいっぱいになればいいんだよ。
花びらがぱあってさ。
そしたら父さんも幸せになれると思うんだ。
「優しいんだね。君は本当に優しい。」
彼女の手がそっと小さな身体を抱きしめる。
どうして泣いているの?
「君が、愛しいからだよ。」
花弁が散る、散る、散る。
柔らかい感触。
あの人はいるんだ。
たとえ夢であったとしても。
この人だけはもう二度と離さない。
この世界が永遠に続けば良いのに。
言えなかった言葉を伝えるために、彼女の腕を掴んだ。
「柔らかい…。」
掴んだ、はずだった。
「何が柔らかい!ですか!!寝ぼけてる場合じゃないですよ!!」
「ん…。桜さん…?おれ、俺…。」
「桜さんではありません、直子です。」
「なーこ…?」
「な、お、こ!」
なおこなおこなおこ…。
「もう、いつまで寝ぼけてるんだか…。目、覚めましたか?おーい。」
おーい、おーいと数十回ほど女は俺の肩をゆすぶった。
「てめぇ、らんぼうな起こし方すんじゃねへよ。」
「ふぅ。寝てる時は可愛い顔してたのになあ。」
「なんだとぅ~。」
俺は安眠を邪魔されることは大嫌いなのだ。
意識が朦朧として頭が回らない。
変な話し方になってしまった。
よりにもよって田村直子の前で。
「あと、そのえと。非常に申上げにくいことですが、その、私の胸から手を離してもらえますか?」
「は?」
「だから、あなたの手が私の胸に当たってるんですよー!!」
「あ、ああ。すまない。」
しまった。
どうやら寝ぼけて女の胸を何かと勘違いしてしまったようだ…。
くそ、どうせならもっと触っておけば良かったぜ…。
こいつから風呂敷包みを受け取ってしまったのも、思うにこの大きな胸の魔力によるのかもしれない。
「そういえばあなた、何故あんな場所で寝ていたのですか?」
いきなり可笑しなことを言うもんだ。
「あんな場所?」
「そうです。ここまで運ぶの、大変だったんですから。大家さんにも手伝ってもらって…。」
「ごめん。全く記憶にないんだが。」
昨日の行動の記憶を辿ってみる。
「お酒でも飲んでたんですか?二度目はないですからね…。」
「俺、どこで寝てたの?」
「私の部屋のドアの前です。体育座りでグテーっと。」
おかしいな、部屋で寝たはずだったのだが。
「どうしたんですか、そんな真面目な顔をして。」
「本当に記憶にないんだ。だから眠りにつくまでの行動を思い出している。」
「やっぱりお酒を飲んで酔っ払ってたんじゃないんですか?」
「そうなのかな…。」
「きっとそうですよ。ふふ。」
何が可笑しい。
「いえ、あなたがお酒を飲んでいる様子があまり想像できなかったもので。次にお酒飲む時には気を付けてくださいね。」
「ああ、心得ておく。今日は迷惑をかけてすまなかった。」
「いえいえ、あ。渡した物、全部食べてもらえたみたいで嬉しかったです。」
俺の記憶では二段までしか食べなかったはずだが…。
「全部?」
「ええ、全部。せっかく腕によりをかけたのに、もしかして覚えていないんですか?」
すまん、完全に忘れているようだ。
「ああ、そうらしい…。すまない。」
「そう何度も謝らないでくださいな。また作ります。」
おいおい、またかよというツッコミはひとまずやめておこう。
どうやらこの部屋まで運んでもらった恩もあるようだし。
「あのさ、美味かったよ。」
「はい。これ、持って帰ってまた詰めてきますね。」
「ありがとう。」
「では、私は失礼します。」
女の髪がさらりと靡く。
シャンプーの香り。
「ちょっと待って。今日の日付だけ教えて。」
「今日ですか?今日は4月7日です。私、明日から大学始まるんですよ。」
4月7日。
「そうなんだ、頑張って。」
はい、と女はまた笑った。
今日だけで何度彼女の笑みを見たことか。
4月7日。
何かが、おかしい。