Neetel Inside 文芸新都
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肥溜め
祖母の死

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私の祖母は死ぬ一年ほど前からぼけ始めた。

私は、人間というものは年をとるにつれて食欲がなくなり、体力が減っていって、
病気をしたりしなかったりで亡くなるものだと思っていた。
しかし、祖母はぼけてから食べることへ執着を持ち出した。

朝食を食べて15分も経たない間に、「ご飯はまだか」と台所の母親にたずねる。
母親が「まだだから部屋で待っていなさい」と言うと部屋に戻るが、一時間もすると
また戻ってきて「飯はまだか」と問い詰める。
その状態が昼まで続き、昼飯を食べれば夜まで続く。

次第に症状は悪化して、「まだ」と言っても中々部屋に戻らない、
部屋に戻っても5分と経たずに催促に来る。
ぼけのせいで自分がさっき食事をしたことも覚えていないから、
「まだご飯をもらっていない」と怒り出すようになった。

こんなことが続くにつれ、元々悪かった母と祖母の関係はさらに悪くなり、
祖母が一日中飯を催促しては、母が一日中怒鳴り続けるという生活が始まった。


ある日の深夜、その頃ひきこもっていた私が自分の部屋から一階に降りると
祖母はなぜか風呂場を覗いていた。
私は祖母を無視して台所でジュースを飲んで、また自分の部屋に戻った。
一階で祖母が自分の部屋の戸を閉める音が聞こえた。

祖母はぼけてから理解できない行動をよくしていたが、
「風呂場を気にする」というのはこの日が初めてだった。
私は何となく悪い予感を覚え、布団に入りながら、祖母が死ぬということを考えていた。
別に悲しいとは思わなかった。
ただ、親戚と顔を合わせなくてはいけないことや葬式や法事が数日は続くことを思い
面倒くさいということだけを考えていた。
私は面倒という点で、祖母が死なないことを願っていた。


翌朝、目を覚ますと祖母は死んでいた。

祖母は私が部屋に戻った後、何度も風呂場へ行き、水の張った浴槽を覗いているうちに足をすべらせ浴槽に上半身が入り、
そこから体をあげることが出来ずに溺れ死んだのだ。

八十年ほどの人生の最後の数年を
一緒に暮らす家族から常に蔑まれながら生活し、
そして浴槽で溺れ、這い上がることが出来ずに死んでいった。

その最期の何分かの絶望はどんなものだろう?
自分の人生がこんな風に終わっていくこと、誰も助けに来ないこと、息苦しさ。
私は祖母の死にまったく悲しみを抱かないが、
その最期を想像すると、救いのない暗さに少しだけ背筋が凍る。


私が一階に下りるとすでに近くの親戚は集まっており、
祖母の顔は白い布で覆われていた。

私は前日の自分の悪い予感が当たったことを考えていた。
風呂場を気にする祖母を見て、浴槽で溺れる想像が働いていたのだ。
祖母が死なないように対策だって打てただろう。
しかし、罪悪感はなかった。
ただ、これから何日も続く面倒にうんざりしていただけだ。

姉は居間のソファに座りテレビをしばらく見ていた。
だが不謹慎だと気づいてテレビを消して立ち上がった。


翌日に葬式が行われたが、私はまったく涙を流さなかった。
そして、横に座る姉と、姉の横の母の涙について
冷めた気持ちで、しかしちょっと羨ましがりながら考えていた。

彼女らは私と同様に祖母を嫌っていた。
祖母が使ったコップは、洗ったあとでも使わなかったし、
祖母が使わないように自分用のコップを確保していた。

祖母が台所に入ってくれば台所から出て行き。
居間まで追ってくれば二階に上がった。(祖母は二階まで上ることが出来なかった)

しかし彼女らは、祖母の死の前で号泣できるのだ。
それも、他人の目があるからとか、他の人が泣いてるからとかではない。
心の底から泣いているのだ。

私は、心の底から泣くことができる彼女らを、羨ましく思う。

彼女らは散々泣いたあと、自分たちが祖母の死を願っていたことも忘れる。
毎日ぞんざいに扱っていたことも忘れる。
そして、良心の呵責なく、善人として毎日を生きていく。

葬式は生きる人のためにする、とよく言われる。
私も事実、その通りだと思う。
ただ意味も知らないお経を唱え、涙を流すだけで、
生前、故人に対して行った罪を償った気になって、
やましい気持ちを持たずに生きていける。

だからこそ、私は葬式が嫌いなのだ。
死んでしまった人間への罪を償う方法などないのだから、
葬式を行わないことで、その罪を償った気にならず、
自分が死ぬまで苦しみ抜くべきではないのか。
その苦しみだけが、「善人」へ至る道ではないのか。

しかし、私は泣かなかったが、苦しみも感じていなかった。
そしてただ、もっともらしいことを考えていただけだった。

       

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