Neetel Inside ニートノベル
表紙

空を闊歩せよ
パーソナルスペース

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人、人、人。
駅のホームには、既に人だかりができていた。迎えられるのは本日の主役。
昔から人混みは苦手だったけど今日ばかりは特別だ、この集団が皆俺を祝うためのパレード。人気者は辛いとはこのことか。
パレードの人員が押し込むように俺を満員電車へと連れていく、流れに逆らうことは出来ない。
今日はいつもより一本早い電車に乗ったはずなのに窮屈さは変わらなかった、朝早くから俺のためにご苦労。
ただ俺を祝うつもりなら、もう少し人を絞って置いてほしかった。こうも人が多いと祝辞も述べられないだろう。
祝う気持ちがあるのなら、真っ先に主役の気持ちを考えるべきである。その気がないのだろうか。ないか。わかってはいた。

満員電車というものは乗車率が100%を超えているらしく、本来一人分のスペースに無理矢理二人乗ってるような状態なんだと聞いたことがある。
こうも人が多いと、あんまりに窮屈だ。人が多い。人が近い。身動きもとれない。何より暑い。

こんなに人が多いのに、ちっとも動けないせいで誰の顔も見れなかった。
同じように誰も俺を見ていない、すぐ傍まで人が埋まっているのに。
人混み。集団。満員電車。人。ゴミ。
誰もが俺のことを知らないんだ、あんまりに窮屈だ。
彼らにとっては満員電車で、俺のとってはパレードだ。
俺にとっては特別な日で、彼らにとってはただの平日なのか。
こんなにも暑いのに、俺だけすっと冷めてしまった気がする。

駅に着くと吐き出すように人達が出ていく、俺も押し出されるように外へと流される。
今日のパレードは終わりらしい、皆の衆ご苦労であった。
少々恥ずかしがり屋が多かったようで結局誰にも話しかけられなかった。
来年はもう少し人数を絞るといいぞ、それが何よりのプレゼントだ。

改札へ向かう人々をぼーっと眺める。
スーツのリーマンも制服の学生も我先にと駅から巣立っていく。
眺める俺を振り返る人はいない、彼らの熱ももう冷めてしまったのだろうか。
移り変わりの早い奴らめ。そんなに急いで何する人ぞ。
出勤か、俺もそうだったな。行きたくねぇ。


本日ハ晴天ナリ。
ホームから見上げる空は屋根のせいで面積がずいぶん小さい。
流れる雲も少しばかり、千切られたそれらはなんと無残な光景か。
味気ない空だったが、それでも鳥は飛ぶらしい。電線に引っかからんことを祈るばかりだ。

本日ハ平日ナリ。
俺もそろそろ会社に向かうか、なんのことはないいつもの道のりで。
空に道はなく、鳥は自由に飛んでるように見えるが、彼らが風に煽られて飛ぶことを俺は知っている。

いかに羽根を羽ばたかせようと、彼らもまた風様の奴隷なのだ。
冷めた感傷が身に染みる、それでも母の温もりだけが心に残っていた。

     

会社にも朝礼があると知ったときは、なんだか高校生の頃に戻ったようだと思った。
挨拶をして、本日の連絡事項を通達し、その他報告がないかを確認して業務を開始する。
他の会社がどうなっているかは知らないけれど、流れそのものは高校の頃とそう変わらない。
しかし実際には中身が全然違う、この朝礼の時間はあの頃とは違って重要なんだと気付いた時には社会の厳しさを垣間見たような気がした。

部長がそれぞれの進捗状況を確認する。確認とは言葉通りで、部長がわかっていることをそれぞれに確かめていく作業だ。
これがまた外れたことがなく、きっと部長の頭の中には全員の業務内容が入ってるのだろう。尊敬する、俺には無理だ。面倒だし。
そして進捗状況を確認した後に、状況に合わせて今日の業務をこれまた確認する。全部わかってんだな。なかなかやるじゃないか。
そうしている内に俺の番が回ってくる、だが俺は昨日のうちに言われていた業務を終わらせていた。進捗状況を確認するまでもないのだ。

「それから君、昨日また書類を勝手に持って帰ったろう。確認するから後で持ってきなさい」

バレテイタノカ、ヌケメナイヤツメ。

そうこうして朝礼は無事に終了、俺以外で躓くことなく皆自分のデスクへと向かっていく。
人がはけたのを横目見て自分のカバンから書類をとって部長のもとへと馳せ参ず。まさかこの年になって呼び出しを食らうとは。
クスクス、と後ろで笑う声が聞こえた。どうせあの人だろうとわかっているから別に嫌味にも感じない。
そういう人だ、他人をよく見てるだけさ。
だってほら、他の人は誰もこっちを見ていない。みんな自分の業務に集中している。そういう空間なんだ。
ここが小学校だったなら、先生が今日はあの子の誕生日だからなんて言ってクラス中から祝ってもらったりするのだろうか。
考えても、意味ないか。それに小学校の頃なんてもう忘れちまったしな。
結局、この人たちみんな知らないんだよ。俺のこと何も。
変わらないんだ、ここも満員電車も。人が集まっていて、電車の中より会話はあるのに、みんな知らないんだ。
仕方のないことなんです、俺だってここに集まった人たちの誕生日を知ってるかと言われれば知らないんだから。
だから皆俺を見ちゃいないんだ、俺も皆を見れてないんだ。ここもちょっと窮屈だ。

変なことを考えていても、部長の口は止まらない。
言うことが的を得ているから、俺を串刺しにして止まらない。右から左には通り抜けない。
仮にもし部長が学校の校長なんてしたら阿鼻叫喚だろう、聞き逃せるくらいが丁度いい。

「君ね、うちはちゃんと残業代だって出るんだからさ。家で働かれたら給料出せないじゃないの。わかってる?」とは部長の言葉。
残業代は出してくれるし強制ではないからいつまでも拘束されることもない、環境としてはかなり良い方だと思っている。
でもほら、ここはちょっと、窮屈だからさ。
なんてこと言えるわけもなく、平謝りしてなんとか難を逃れる。思い返せば自業自得だ。しかも怒られてるというよりは半分心配すらされている。
社会人にもなって担任教師にされるようなお叱りを受けている情けない男が俺だった。


「お疲れ様、今日も朝から絞られてたねぇ。飽きないねぇ」
そう言いながら彼女はそっとお茶を出してくれる。
意地悪な笑みを浮かべながら話す彼女はもちろんさっきクスクスと笑っていた唯一の人だ。
彼女はいつもこうやって、ちょうどいいタイミングで皆にお茶を出す特技を持っている。名前はくみ子さんです。嘘だ。
彼女の出してくれたお茶を手に取る。部長に絞られて冷や汗をかいた俺にはちょうどいい。だが熱くて飲めん。
熱くて飲めないということは、冷めるまで私の話を聞きなさいという意味だ。
ちょっと恨めしく思って視線を投げかけるとやはり意地悪な笑みを張り付けていた。計画通りってか。このくみ子め。

「君さ、なんでわざわざ仕事持って帰ったの?昨日は結構すぐ帰っちゃったよね」
ここでも聞かれるのか、やっぱり変なんだろうか。
しかしなんでって聞かれても困ってしまう、自分でもよく分かっていないけど、会社があまり好きじゃなかった。

「なんと言いますか、その」
なんとか言葉を絞り出す。

「その?」
彼女が続きを待っている、待たないでくれ。

「布団がですね、俺を呼んでおりまして。仕方のないことなんです、あいつはうちのドンですから」
あぁ、言ってしまった。後悔するとわかっていても、言ってしまった。
呆れた顔の彼女がしっかりやりなさいね、なんて言いながら自分のデスクへと戻っていく。
彼女は怒ってしまっただろうか、後で謝っておいた方がいいだろうか。
謝罪をするのは簡単だけど、本当の事を伝えるのはちょっとばかし難しい。
自分でもよくわからなくて、言葉が詰まってしまって、あぁ、なんだか窮屈になってきた気がする。
こうなったらもう仕事に没頭してしまおうか、後のことは後に考えよう。仕方がない。


すっと目の前に集中して、周りの音を消し去って。
そうしていれば窮屈さもどこか薄れる気がするんだ。

     

昼休みとはいくつになっても待ち遠しいものだ、きっかり一時間自由に時間を使っていい。食事もしていい。
仮眠室がなくて本当に良かった、一時間どころじゃなくなってしまうところだった。
より有意義に時間を使うなら一人になれる場所を探しておくといいい、豆知識の一つだ。
思い出してみれば高校生の頃からなるべく一人になってたっけか、友人と過ごしていた気もする。両方だった気がするな。
一人になれる場所ってのがあの頃は難しくて、図書室で一人になった気分を味わっていたっけな。
外に出る気にもなれなくて、どうせどこも人がいるだろうし、今日はこうして屋上に陣取ってただ陽射しを浴びている。
食事をとらないとな、コンビニでも行こうか、また後でいいか。
なんだか今日はそういう気分じゃないんだ、今日は何の日だっけか。

「ぼーっと空なんか眺めて何してるの?日光浴?いい趣味してるねぇ」
もしくは光合成だったりして、植物にしては随分血色がいいねぇ、なんて言いながら後ろから人が近づいてくる。
見なくても声だけで誰が来たのか、それどころか表情までわかってしまう。
振り返るとそこにはやっぱり彼女がいて、予想通りの意地悪な笑みを浮かべていた。
いつもの表情、何故か嫌味に感じない。すんなりと受け入れていたそれが今日は何故か引っ掛かった。
どうして嫌味じゃないんだろう、そういう特技だろうか。いいタイミングでお茶を出し、意地悪な笑みを受け入れさせる能力者。没。

「本日はどうされましたか、お腹でも壊されましたか」と、彼女が尋ねる。からかっているのは見て取れる。
本気で言ってないのは分かった、でもやっぱりどこかおかしいんだろうか。
今日はいつもの平日で、いつも通りの朝食をとり、いつもの道で会社に着き、いつも通りに仕事をしていた。
満員電車もいつものことだし、部長に心配されるのもいつものこと。ついでに言えばこうして彼女と昼休みに話すのもいつものことだ。
今日はいつもと違う日だっけな、今日は何の日だっけか。これってさっきも考えていた気がする。

「今日が特別ってわけではないんですか」
なんとか言葉をひねり出す。でも今朝とは少し違う。ちゃんと、考えて。

「なんだかこう、窮屈なんです」
こうして言葉にすると、頭の中のモヤモヤが少しだけ整理されたような気がする。
今朝も普段通りの満員電車が、普段以上に窮屈な気がした。仕事中はなるべく周りを意識しないように集中していたか。
こうして少し寒くなってきたのに屋上に来た理由も一人になりたかったからだ。
でもやっぱりモヤモヤは解消されない、どうしてこんなに窮屈なのか。

「ふーん、そっか」と、興味あるのかないのかわからない態度で彼女が返す。
やっぱり今の一言じゃ伝わらなかっただろうか、こんな変なことを言ってどう思ったろう。
不安になって彼女の顔を見ると、ふと彼女と目が合った。
そこから急に真面目な顔をして、彼女はまた尋ねたのだ。

「昨日さ、どうして仕事を持ち帰ったの?」
今度は真面目に答えてね、とご丁寧に釘まで刺してくれる。
こう言われてしまったのなら、正直に答えるしかない。まだ答えは出てないけれど、よくわかっていないけど。

「やっぱり、こう、窮屈なんです。人が近いんですよ。満員電車もそうなんですけど、今日は会社の中まで、密集してるわけでもないのに、会話もあるのに、どうしても窮屈に思えてしまって」
矢継ぎ早に言葉が出てくる、たくさんの言葉を並べても、不快感の説明にはどうしても足りない気がしてしまった。
それに結局、答えが出ていないのだ。俺にもわからないのだ。どうして窮屈なんだろう、何が窮屈なんだろう。
思考が堂々巡りしていた、さっきの答えと結局変わっていなかった。自分の感覚がよくわからなかった。

だというのに彼女はどこか納得いったような表情をして、そこからまた意地悪な笑みを浮かべたのだ。
嫌味のない、意地悪な笑み。彼女が一番よく見せてくれる表情。俺のお気に入り。

「なるほどね、うんうん。君は未だにシシュンキなんだね」
そういうと突然に立ち上がって俺の目の前に彼女が立った。見上げると大好きなあの表情。
どこか俺をからかっているように見えるその笑顔で、彼女は俺を釘付けにする。

「パーソナルスペースってわかる?」
はぁ、と生返事を返す俺に彼女が説明を続ける。

「パーソナルエリアとも言うらしいんだけどね、要はそこから先は不快に感じる物理的な距離って感じかな。人にはそれぞれの距離感があるけれど、親しくない人にその空間に入られるとどうしても不快感を覚えるんだって。相手によっても変わるんだけど、苦手だと思ってる人はちょっと遠くても気になっちゃうらしいの」

「柔らかく表現したけれど、苦手じゃなくて敵視って言ってもいいかもね。君の場合はどう?」
粗方の説明は終わったといわんばかりに最後に性格の悪い質問を投げかけられる。
少し考えてみたけれど、敵視なんてしてるわけない。そこまで人を見れてない。
表情も相まってやっぱり意地悪な人だ、わかってて聞いてるんだろうな。

「敵視なんてしてるわけないですよ、皆さん大切な同僚です」と、答えた俺の少し疲れた表情に彼女は満足げだった。
意地悪な表情。嫌味には感じない。近い距離にいるのに、まるで不快感がない。
今の話を自分でしておきながらこんなに近づいてくるなんて、なんだか敵わないなぁと思ってしまう。

パーソナルスペース。心の中のテリトリー。
俺のそれは多分人よりちょっと広いんだ。広げた分だけ狭くなる。矛盾した空間。今、彼女がいる空間。

「しかし、なんでまた今日はこんなに窮屈なんだか」
思わず口をついて出てきてしまった疑問に、彼女がきょとんと首をかしげる。
別に答えが欲しかったわけじゃないけれど、そんなに変なことを言っただろうか。

「それは、今日が特別な日だからでしょ」と、彼女が不思議そうに言う。

「特別な日?」
はて、今日は何かあったろうか。今日は何の日だっけか。またこれか。


「だから、今日はあなたの誕生日でしょう?物理的な距離が近くなったんじゃなくて、心理的な距離が遠くなったのよ」
何を当たり前のことを、というおまけまで付けて彼女が教えてくれる。
そっか、そうだった。ずっと気にしていたのに何故だか忘れてしまっていた。

やっと自分の疑問に全て決着がついたような気がした。そっか、今日は俺の誕生日だ。
誕生日なのに誰も俺を見ていなくて、見ていないのに傍にいて、いつもと変わらないはずなのに遠く感じられて、それでとっても窮屈だったんだ。
じゃあなんだ、今日が特別窮屈なのは拗ねていたようなものか。これじゃ思春期だって言われても仕方がない。

でも、そうか、彼女も俺の誕生日を覚えていてくれたのか。
だったらこんなに拗ねる必要もなかったかな。彼女と、そして母さんが覚えていてくれたのなら十分だ。

俺、満足。こうなるともう無敵である。誰にも俺を止めることは出来ないだろう。午後の業務は別だ。
モヤモヤが解消されて気分がいいしな、いっそコンビニでケーキでも買ってきてやろうか。
誕生日パーティ(しかもオフィス貸切)の幕開けだ。参加者暫定一名。独り占めってやつだな。

「勝手にすっきりしてるところ悪いけど、解決策は教えてないよ?」
満足げに午後の予定を考えているところに、彼女が恐ろしいことを言ってのけた。表情の描写は割愛する。
折角人が肩の荷を下ろしたというのにも関わらずマイペースに事を進める彼女。
しかもそれが事実だから悲しいものだ。そうか、結局昨日も書類を持って帰っているんだからな。
例え理由がわかったとしても、避けられないのなら意味がない。どうしたものか。
悩む俺にいつもの表情で口を開く。いつの間にやら顔が近い。
何をするつもりかはわからないが、彼女のすることならば、不安はなかった。


「いきなり職場の全員との距離感を調節しなさい、ってのも無理がある話だと思うからさ。とりあえず一つ指標になるものが必要だと思うのよね」

そう言って聞かせる彼女の笑みは、どこか柔らかいものに変わっていて。

「だからこれは、不器用なあなたに送るとっておきのプレゼント。この距離を忘れちゃダメだよ」


その言葉と共に、唇に届いた素敵な感触。それをゆっくりと感じながら、あぁ、敵わないなぁ、なんて。
この日何度目になるかもうわからなくなってしまった感傷を抱きながら、幸福を味わっていた。

     

夢のようなひと時というのはいつか終わるものだ。夢はいずれ覚める。しかしこれは現実である。
覚めない夢を起きて見続けるのも思春期の特権なのでこの時間をずっと続けようかとも思ったが、そこは社会人としての矜持がそれを許してくれない。
というか彼女の方から離れて行ってしまった。名残惜しさのせいで彼女の掌の上にいる感覚になる。

「うん。これでこの距離は私のものだから、ここにさえ誰も入れなければ大丈夫よ。私が許します」
その言葉を幕切れにして二人の距離は元に戻っていた。すぐ隣に彼女がまた腰かける。
彼女のおかげでひとまず大切な距離感だけは覚えられた気はするが、それにしてもやり方ってもんがあるだろう。

「やることもセリフもキザすぎだぞ、このお茶くみくみ子め」と思わず言ってしまった。少し後悔。
しかしこうも掌で転がされては、自分の余裕を見せつけておくというのも必要なのだ。これも仕方のないことである。

「やっと調子が出てきたねぇ、でも会社では敬語で話しなさいって言ってたでしょ?焦ってるからってそれはダメだよ」
それに自分より仕事が早い人にそれ言って悔しくないの?なんて追撃まで付けて優しく返してくれる。誰が焦っているか。
思うところはあったが俺は器の大きい男なので許してやることにする。百の反論を今押し込んだ。

「まぁ、その。なんと言いますか、少しすっきりしましたので。助かりました」と、一応言っておく。
モヤモヤが解消されたのは確かだ。それどころかドキドキしている。こういうところも思春期か。

「それだけ?もっとこう、大変感謝いたします。お礼に何でもして差し上げます~みたいなさ、そういうのが必要だと思うね」

「うるさい口だな、調子に乗りやがって。塞いでやろうか」
そう思って、口を口で塞ぐなんてロマンチック極まりない破廉恥な行為に出たところひょいと避けられてしまう。
何故なのか。もう一回くらいしてもいいのに、と少年じみた考えをしていると

「私お昼がまだだからさ、今日のところはこれでお預けです」
そういって彼女はすっと立ち上がってしまう。態勢が変わっただけで距離が少し離れてしまったような気分。
隣にはまだ彼女のぬくもりが残っているだろうか。バレないように手を置いてやろう。ぐへへ。

「それと部長が誕生日だからプレゼントを買ってあるって、冷蔵庫にあるから絶対忘れずに持って帰るようにってさ。愛されてるねぇ」
部長からの伝言を告げた彼女はそのまま階段へと向かってしまう。さっきのが別れの言葉のつもりなのだろうか。
折角今日はキザなことを言ってばかりだったんだから、もう少し綺麗な言葉で去ればいいのに。

しかし、そうか。部長も俺の誕生日を覚えていてくれたのか。本当に部下のことをよく見てくれる上司だ。
頭が上がらないとはこのことか。俺の方が背も高いしな。
誕生日プレゼントってなんだろうか、そう言えば今日ちゃんとした物を貰うのはこれが初めてになるのか。

彼女の誕生日のお祝いは、さらっと終わってしまったけれど、その分すとんと胸に落ちた。
おかげで胸のつっかえも取れて、幾ばくかは職場でも過ごしやすくなるだろう。
部長のプレゼントは一体何だろうか、冷蔵庫の中と言っていたからもしかしたらケーキかもしれないな。会社でケーキってどうなんだ。
母のメールを思い返す。親を何だと思っているか、もちろん大切な人達だ。
モヤモヤはもうなくなっていて、代わりに暖かさが胸を占めている。心地いい。


空を見上げてみれば、そこには無残にもちぎられた雲が流れていた。
あんな小さな雲でも太陽を覆うことができるらしい、なかなかやるじゃないか。
しばらく見上げていても鳥は飛んでいない。彼らがここまで高くを飛ぶことはそうない。
屋上はやっぱり風が強くて、彼らはきっと風に乗るだろうけれど、それは流されているのと変わりない。

鳥は自由に空を飛び、道なき道を行く。なんてのはただの馬鹿げた幻想だ。
彼らも重力には逆らえず、落ちたくないから風に乗るしかない。彼らは風の奴隷。

俺はそうはなりたくないと思った、今ならそうはならないと思った。
どこにも根拠はないけれど、身軽になった今ならば、あの大空も歩けると思ったんだ。
俺ならきっとどこまでも続くあの空を、自分で決めた道を空に描いて、大股で歩いてやれるんだ。

もちろん身軽になったなんて錯覚で、実際には今日も残業してしまいそうな仕事が残っているんだが。



しばらく空を眺めていると思ったより時間が過ぎていて、仕方がなくオフィスに戻る。
オフィスには既にほとんどの人が戻ってきていて、仕事を始めている人までいた。
自分もデスクに座って目の前の資料を手に取る。ふと横に視線を向けると、すぐ傍には同僚がいる。
普通の光景だ、普通の距離だ。今朝ならこの距離も気にかかったのかもしれないけれど、今なら大丈夫。
大切な距離には、ちゃんと大切な人しかいない。
今も心の中に彼女がいて、あの感触が唇に残っている。
この感覚が残っている限りは、窮屈さを感じることもきっとないだろう。

そう思って、やっと仕事に取り掛かった。今朝とは違って自然と集中できる気がする。
しかし俺の集中を阻害するものが傍にいた。何たる伏兵か。そういや飯食ってねぇ。
最後の敵は自分自身とはこのことか、急いでコンビニに向かうとしよう。これも仕方のないことだ。

       

表紙

オレセン 先生に励ましのお便りを送ろう!!

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Neetsha