Neetel Inside 文芸新都
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シュレディンガーの猫

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シュレディンガーの猫

「箱の中の猫は、はたして生きているのだろうか」

女はねとりと、こちらに流し目を使った。

「さあ、とっくの昔に逃げ出しているだろうさ。なにせ何十年も前の話だ」

私は、さらりと興味のない答えを返す。


なぜこんな問答をしているのか。
それは久々に再開した同級生と、二人で懐かしい話に花を咲かせていたところ、
「昔、野良猫を木箱に入れて内緒で飼ってたよね」
――そんな話が飛び出したから。

「たしかに、神社の下に隠して飼ってたね」
「ゴミ捨て場の新聞を持ってきて箱に敷いたり、割り勘で缶詰買ったりしたよね。
 そして、台風が来る前日に、猫が雨で凍えないように箱に蓋をしたね」
「そうだったっかな?」
「そうだよ。簡単には外れない重い蓋をした」
からんと、グラスの氷が音を鳴らす。
色のついた液体を女は呷って、続けた。
「箱の中の猫は、はたして生きているのだろうか」


  * * * * * *


「台風が過ぎ去ってから、神社付近には河の氾濫で近づけなかった。
 後日行ったら猫ごと木箱は無くなっていた。
 もしかすると河に流されたのかもしれないが、それなら何かの拍子に蓋も外れただろう」
「だから逃げ出した」
「まあ何十年も前の話だから、逃げ出していたとして、もう死んでいるだろうが」
「確認したの?」
友人は、じっとこちらを見つめてきた。
つりがちな大きな眼が、睫毛を濡らして私を凝視する。
私も、彼女を見つめ返す。
眼鏡に付着した細かな埃が、視界を曇らせていた。
「確認はしていない。しようがないだろう、どこに行ったのかもわからないのに」
「そうだね。その通りだ」
……何が言いたいのか。
正直、私は猫の生死になど興味はなかった。
彼女がこの話題を出すまで、猫のことなどまったく覚えてすらいなかったのだ。
「でも死んでいると確認するまでは、生きているかもしれないよ?」
「それは無いだろう。猫の寿命を考えたら生きてはいない。あれからもう20年は過ぎている」
「猫又という妖怪は、20年生きた猫がなるそうだよ?」
「妖怪?そんなものはフィクションだろう。まあ、仮に20年の間猫が生きるとしてもだ。
 それは家猫だろう?野良はそんなに長くは生きられない」
そうだ、野で暮らす生き物は長生きすることができない。
だから、仔を沢山残すし、生き残る強い遺伝子を求めるのだ。
「一体君は何が言いたいんだ?ただの世間話にしては、豪くこだわるじゃないか」
「……別に、ただの世間話だよ」
空いたグラスにウイスキーを注ぎつつ、口を尖らせる。
そういう仕草が不意に出るところが、彼女が年の割に若く見える所以かもしれない。
「でも、見ていない、確認していないものは確定されていないって考えは、どう思う?」
「それは、目で直接見ていない限りは確定されはしないってことかい?」
女は頷く。
はらりと髪の毛が揺れ、甘い匂いがふわりとした。
「どうだろうね。人は目で見たもの耳で聴いたもの、触ったもの味わったものだけでなく、
 言葉や文字の情報でも判断できる。
 見ていないからといって正誤が判らないというのは、無理があるだろう」
私はそう答えたが、彼女は何も返してこなかった。
ただただグラスの液体を静かに眺め、沈黙していた。


「――私、結婚したんだ」


不意に、そう呟いた。
「……そうなんだ」
「信じる?」
「え?」
「私の言ったことを、信じる?」
また、じっと私を見つめてきた。
昔からそうだった。
幼稚園で一緒だった頃も、私をじっと見つめていた。
小学校の頃も、じっと見つめてきた。
中学高校と、見つめられた。
何かを話す時には、いつも私のことを。
じいっと。
「――疑う理由がないだろう?」
「ほんとうに?」
「本当だよ。疑う理由はない。
 そうか、結婚したのか。おめでとう」
「そんなあっさり信じるんだ。
 私の花嫁姿も、結婚式も、旦那の姿も見てないのに、簡単に信じるんだ」
「なんだよ、そこまで言うなら見せてくれよ。携帯に旦那の写真くらいはあるだろ?」
「嫌」
その一言には、威圧と明確な拒絶があった。
それはなぜなのか。私にはわからなかった。
でも、きっと、私を見ていなかったから、そう感じたのだろう。
「……そろそろお開きにしよう」
「もう?」
「お開きだ。君はどうか知らないが、私は明日も仕事があるんだよ」
そういって、席を立つ。
彼女の分の伝票も持って、会計を済ませた。
「ちょっと!」
「気にするな。あれだ、結婚祝いだ」
バーの扉を開けると、夜風が吹いていた。
酒で熱くなった顔が、冷風に晒され気持ちがいい。
「寒いね」
「そろそろ秋も終わるからな。送っていくよ」
そう言って、私たちは歩き出した。
お互いに無言だった。
人通りも減り、周りの店も殆どなくなってきた頃。
不意に女は言った。

「ねえ、ちょっと休憩していかない?」


  * * * * * *


女は言った。

わたし、こどもができたの。

でもね、直接確認してないの。

びょういんにもいってない。

けんさやくと、つわりで判断した。

でも、見てないなら、確定されていない。

だから。

いいでしょ?


  * * * * * *


今思えば、何がいいのかさっぱりわからない。
なぜあんな事を言い出したのか。
なぜ、私は抑えられなかったのか。
冷静に考えなくても、あの女が言ったことは意味不明だ。
だが、それで抱いてしまった私のほうがもっと意味不明だ。
それ以前に、彼女は結婚したと私に告げていたではないか。
――あれから、彼女の音信はぷつりと途絶えた。
元より、あの日すら偶然出会ったのだ。
連絡先も交換しなかった。
それとなく知り合いに彼女のことを尋ねたものの、誰も知らないらしい。

彼女のお腹に、赤ちゃんは居たのだろうか。
それとも居なかったのだろうか。
確認する術はない。
彼女は本当に結婚していたのだろうか。
それともしていなかったのだろうか。
確認する術はない。
不安になる。
人は、言葉の情報で正誤を判断できる生き物のはずなのに。
私は彼女の言葉のせいで、正誤を判断できなくなった。

あの日から、眠りにつくといつも同じ夢を見る。
緩やかなキューブ状の肉の塊。
その中に、寝ている子供がいる。
赤々として、福々と太った赤子が。
死んだようにピクリとも動かず眠っている。
寝息も立てずに丸まって、静かに寝ている。
そんな夢を、毎晩見る。

       

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Neetsha