Neetel Inside 文芸新都
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いつかノクチルカが

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――水面に青い光が泡立つみたいに広がっていく光景は、圧巻そのものだった。
 
 彼はとても嬉しそうにそう語って、それから君は見たことがあるかい、と尋ねた。いいえ、と私は首を横に振る。彼はそれを見てとても残念だと寂しそうに答え、でも構うことはないよと付け足すように言ったのだった。
 屋上の隅で柵に寄りかかりながら、濃紺に塗りこまれた夜空に、煙を二筋浮かべるようになったのは、ほんの数日前からだった。
 出会いもあまり良いものでは無かったけれど、不思議と私と彼の相性は悪くなかったみたいで、今ではこうして煙草を片手に談笑できている。
 彼の話は珍妙で、お伽話のような、地に足の付いていないファンタジックな話が多く、どこかロマンティシズムなところがある人だった。
「夜光虫の光がね、水面を青く輝かせるんだ」
「とても、綺麗なんでしょうね」私が言うと、彼は嬉しそうに頷く。
 彼は、夜光虫の話題になると夢中になる。水面に浮かぶ青く光る現象を彼はこよなく愛していた。海辺を見つけてはその光を何日も待ち続けるのだという。
「そうまでして見たいものなの?」私は一度彼にそう問いかけた事があった。彼は不思議そうに私を覗きこんでから、首を振って言った。「見たいとか、そういうのでは無いんだ」
「じゃあ何?」
「なんていうか、見ることが僕の義務なんだ」
「義務」私が繰り返すと、彼は頷く。「そう、義務」
「それで、夜光虫の光を義務的に見て、一体何があるのかしら?」
 我ながらキツい物言いだったろうか、とも思ったが、彼は別段気にする様子も無く、困ったようにはにかむと腕を組んだ。答えに近い言葉を選んでいるらしかった。
「なんだろう。僕にもうまく言えないんだ。ただ、あの青い光を見ることで、外れかけた歯車がうまくハマり直すような、そんな気がするんだ」
「メンテナンス、ってこと?」私の言葉に彼は頷いた。「メンテナンス。いい言葉だね」
 私の例えを気に入ったらしい彼は、満足そうに煙草を一喫みして、煙を吐き出す。彼が喫煙すると、普段は猫背気味の背筋がぴんとまっすぐになる。そうなった時、私より頭一つ分大きくなって、丁度胸元辺りに私の顔が来る。背の高い人が好きだから、個人的に彼の身長は好みだ。煙草を吸っている間だけ、と限定的ではあるのだけれども。
「夜光虫って、見たいと思った時、見られるのかしら」
 私は胸元から目を逸らす。彼はそうだな、と腕を組んだまま右手を口許にやって深く呼吸するみたいに煙を吸い込み、吐き出した。
「日によるね。昼間に目星を付けることも出来ないことはないよ。赤潮って言う、水面が赤くなっている場所を探せばいい。ただ、僕はあまり探さないようにしているけれど」
「どうして?」
「予め光ることを知っているより、いつどこで光るかをその時探すほうが、楽しいからさ」
 ふうん、と答えると、彼は肩を竦めたきり口を閉ざした。思ったより良い反応を返してこなかった事に拗ねているのかもしれない。
 口を閉ざしたまま、互いの白煙だけが夜の中立ち上る。
 夜空は晴天なのに、星は一つも見えない。私の目が悪くなっただけだろうかと考えてみたが、多分それだけでは無いかもしれない。
 単純に、星が照らす必要が無くなっただけなのかもしれない。
 削り取られたみたいに鋭く尖った月に照らされた街は、今もなお光り輝いていて、少し早いイルミネイションみたいに綺麗で、でもそれが当たり前になるとこの街の輝きにも有り難みを感じなくなってしまう。
「そのうち、月もいなくなってしまうかもね」
 彼の言葉に、私がどうして、と尋ねると、彼は肩を竦める。
「だって、僕達の方が空を見なくなってしまったからね」
「空を見なくなると、月がいなくなるの?」
「そう、いなくなる」彼は言った。「そうして、やっと僕達は孤独になったと気がつくのさ」
「月がいなくなると、私達は本当に孤独になる」私の言葉に彼は頷いた。
 私は吸い殻を手すりに擦り付け、身を震わせた。流石に空気が冷たくなってきた。春と夏が役目を終えて、代わりに秋や冬の冷たく澄んだ空気が流れ込んできている。そうしてまた、息も白くなるような時期がやってくる。
 自分達がまだ、辛うじて温かみのある生き物であることを知れる季節が。
「上着を着るといい」
「いいの、もう少ししたら戻るつもりだったから」
 カーディガンを差し出す彼を私は拒む。彼は微笑むともう一本煙草を取り出して私の口に咥えさせ、ジッポライターを取り出す。フリントをハンマーが叩く音がして、煌煌とした火が鼻先に点いた。着火したライターの灯火を眺めていると、なんだか心地良い。目の前に広がる街の明かりよりも優しくて、落ち着いていて、何より寒くないから。
「それで、決まった?」
 私の咥えた煙草に明かりが灯ったのを確認すると彼はそう尋ねた。彼の覗き込むような瞳は、多分私の返答を知っている気がした。
 私はそっぽを向いて口をすぼめて煙を吐き出すと、首を横に振る。
「まだ、ハッキリと結論は出ていないの」
「なるべく早めに決めなよ。僕が君の傍にいられるのは、そう長くはないからね」
「ここに住んでいるのに?」
「一体どれだけの屋上に寝泊まりしてきたと思っているんだい? その時がきたら、僕はいなくなってしまうよ」
「それは、いつ?」
 私が尋ねると、彼は腕組みをして唸る。思案に耽る彼の横顔を、少しいいなと思ってしまっているのは、多分、シチュエーションのせいだけではないのだろう。
 彼は寄りかかっていた手すりから身を離し、くるりと体を反転させると両手を後ろ手に組んだままぺたり、ぺたりとスリッパ特有の跳ねているような足音を従えて、向かいの自分の「住処」へと歩き始める。
「そうだな、いつか、この辺りで夜光虫を見た時、かな」
「夜光虫を見た時」彼は顔だけこちらに向けて頷くと、にっこりと笑みを浮かべた。
「そうしたら、僕らはお別れだ」
 それっきり彼は二度と振り返らず、自分の住処に姿を消した。屋上に通じる戸の、すぐ側に立てられた簡素な物置小屋へ。
 彼の消えていった小屋を眺めながら、私は吸いかけの煙草を再び喫む。
 私の部屋を半分にしたくらいのみすぼらしい場所で、彼は生活を続けている。三階建てアパートの屋上に住み着き、家賃は私と同額を支払っているらしい。
 彼が何をしている人なのか、私は知らない。聞いても教えてはくれなかった。
 ただ、少なくとも私達の考える「日常」から少なくとも彼は足を踏み外している人だった。
 その証拠に、私の懐には、依然として彼に渡された「非日常」が入っている。彼が語らずとも、口を持たないそれが彼について語っているような気がするのだ。
 懐から、その「非日常」を引っ張り出す。黒い鉄の塊が、確かな重量感と共に私の目の前に現れた。
 名前は、彼から教えてもらった。

――ベレッタM84

 それは、人を殺傷するに足る力を持った暴力の塊。
「期限は、彼が夜光虫を見るまで」
 自分に言い聞かせるように、私は呟いた。

 私は彼から、選択を迫られている。

 この引き金を、引くか否かという選択を。

       

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