Neetel Inside 文芸新都
表紙

反実仮想
相良にて

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 人を殺した、と思う。
 思う、と文末に付けたが、ほぼ確実に自分は人を殺したのである。間違いなく自分は人を殺したのだ。しかし、いや、もしかしたら、と万が一にも満たない確率に縋って自分が殺したわけではないと思い込もうとしている自分もいる。そしてそれは無意味であるとわかっている自分もいる。けれども、やはり積極的には自分が人を殺したということを認められなかった。自分は、人を殺した、と思う。
 車の免許を取得したときに父に買ってもらった、白い軽自動車のエンジンをかけた。明らかに型落ちした自動車のそれは、大きな音と振動を自分に与えた。免許を取得したのは30年程前、つまり、30年もの間、この車に乗っている。自分の家はそれほど裕福でなかったから、おそらく買った当時も型落ちした軽自動車であったのだろう。それを30年間も乗り続けている。何か不具合が見つかれば乗り換えようと思っていた。しかし、致命的な不具合は今までに見つかっていない。もし、不具合が見つかっていたとしても、自分は修理を繰り返しながらこれに乗り続けただろう。修理屋に、ああ、もうこれはスクラップに出すしかないですわ、と言われるまで。
 自分でもこの行動は酔狂であるな、と思う。周りがエコだ節約だなんだと、水素自動車を買い、ソーラー車を買い、サトウキビ車を買っている中で、自分だけはこの燃費の悪いオンボロ車に、信じられないほど高くそして少なくなったガソリンを無理やり食わせ、ああ、またガソリン代が上がった、こいつさえ無ければなあ、と愚痴をこぼしながらも、それを使っている。ガソリンエンジンを水素エンジンに換えることもせずに。
 これに特別なおもいれがある訳ではない。リニアモーターカーが全国に開通した今、そもそも自動車なんて非合理的なものを使うことすらナンセンスなのだ。これをくれた父にでさえ、おまえ、まだあれを使っているのか。と驚きを交えながら笑われたくらいだ。自分は別に、この車を捨てて、新しい車を買っても良かった。寧ろそうすべきである。しかし、未だしていない。でもいつかは、と先延ばしにしている内に30年経ってしまった。
 道路に車はほとんど無い。朝3時である。深夜3時といってもいい。信号は一定の間隔で赤と青のライトを光らせる。赤になった。もちろん車はこない。しかし、自分は止まった。信号が赤だから。仮にも警官であった自分が、社会のルールを守らないわけにはいかないのだ。
 ルールを守れなかった人間を、社会は犯罪者と呼ぶ。そして、彼らはときに社会に殺される。以前、自分はその社会の先端の仕事をしていた。つまり、死刑執行人である。
 死刑執行はいたって淡白だ。目隠しをされた死刑囚が、首にロープをつけて大きな窓の付いた部屋に入ってくる。そして、2~3人の警官がロープの先端に付いている器具を、天井の器具に取り付ける。ちょうどその器具の下は、両開の落とし穴になっている。その落とし穴にいつ死刑囚を落とすか。そのタイミングを窓から死刑囚の様子を眺めながら三人の警官が、同時に三つのボタンを押して決める。三つのうち一つが当たりで、その当たりのボタンが押された瞬間に死刑囚は落ちる。そして死刑執行される。
 勿論、ボタンを押す三人の警官の内誰かが実際に死刑囚を殺すボタンを押したのかわからない。ボタンを押すのが同時であれば。
 自分は何度かその三人の警官に選ばれた。最初は、気持ち悪く、訳の分からないままにボタンを押していた。気が付いたら死刑は執行されていた。しかし、回を重ねるごとに、自分の五感と脳の感覚は鮮明になっていった。ところが、脳の感覚が鮮明になり、自分が人を殺しているかもしれないと、はっきりと自覚しているのにも関わらず自分は迷い無くボタンを押せた。そして余裕も生まれた。ある日の執行で、ちょっとした、本当にちょっとした出来心で、他の二人のボタンを押すタイミングと自分のタイミングをずらしてみようと思った。マンネリ化しつつあった自分の職務にちょっとした刺激が欲しかったのかもしれない。しかし、これが駄目だった。人生で一番後悔している。
 二人がボタンを押した。自分はまだ押していない。シンとした二つの部屋、誰も言葉を発しない。今に落ちるだろう、と思っていた。まだ、こちらの部屋からの電子命令がまだ、そちらの部屋に届いていないだけだ。あと少しで、あと少しで落ちる。しかし落ちなかった。
 ハッと気付いた。ああ、今日は俺のボタンが当たりなんだ。と。このボタンを押せば人が一人死ぬのだ。と。
 しかし恐ろしかったのはその後の自分の行動であった。結論から言えば、自分はそう気付いた直後に迷わずボタンを押せたのだ。人を積極的に殺したのだ。と思う。
 そしてその直後に目隠しをされた人間は死んだ。 
 自分でもこの行動は意外だった。正義感からなった警官が、人間を一人、あっさりと、何の感慨も無く殺せてしまった。
 自分は人の死というものに、慣れてしまった。鈍感になってしまった。新米警官だった頃の自分だったならば、当たりのボタンなど押せなかっただろう。ああ、いやしかし、今の自分でも押せないと思い込んでいたのに押せてしまったのだから、結局のところどうするのかわからないのだ。ああ、なんてことをしてしまった。いやいや、もしかしたらあの死刑執行にはもともと時間差があるもので、自分は本当は殺していないのかもしれない。自分と同じような考えをして実行するものはいるだろう、そのために、わざと、当たりのボタンを押したとしても、その直後に死刑囚が落ちるのではなく、その数秒後にずれて死刑囚は落ちる仕組みになっているはずだ。もしそうならば、私のボタンを押した直後に死刑囚は落ちたわけだから、私が彼を殺したわけではないのだ。ああ、いや、でも、今まで時間差なんてあっただろうか、いや、なかった。いや、あの時だけは仕様が変わって、そうなっていたのだ。そうに決まっている。
 そう考えていくうちに、何故死刑執行を人間がやらねばならないのだ、と考え始めた。両開の床に感重板などを取り付けておいて、その十秒後に落とすとかすればいい。何故、三人の警官が人を殺さなければならない。人殺しの責任、罪悪感は全て機械に投げ出してしまえばいい。結局のところ、倫理やら、道徳を三人に押し付け、社会の秩序を守ったつもりでいるのだろう。死刑囚が人を何人殺そうが、人間は人間であり、死刑囚を殺すこともまた殺人だ。その精神的な罪を俺に、被らせた。いや、違う、俺は殺していない。違うのだ。ああ。

 

     

 そうやって、人を殺したことを積極的に認められず、反省することも出来ず、かといって、中途半端な正義感から無視することも開き直りきることも出来ず、ただ精神の重心だけがずっしりと重く沈んでいきながら、浮気性な脳の電気信号はあちらこちらへとせわしなく動き回っていた。
 
 空がだんだんと白くなっていった。だらだらとラジオの音楽を聞き流しながら、一定の速度で車を走らせる。ふいに、道路に何かが落ちているのに気が付いた。ゴミだろうか、それにしてもやけに大きいゴミだ。何故こんなところに。道路に捨てたやつの気が知れな・・・あ。
 それはゴミでは無かった。猫の死骸だった。それに気付いたのは、それを轢く寸前で、急いでハンドルをきって、それを避けた。急いでサイドミラーを確認する。それはあった。それのあった位置と、自分の車が走っていた軌道から、自分がそれを再度轢いたということは無いだろう。車は自分の他に来ていない様だったから、自分はとりあえず車を脇に止めて、車を降りた。
 猫の死骸の損傷は、その死に方を容易に想像させた。胴体にタイヤのラインがくっきりと残っている。きっと猫は道路を横切ろうとして、車に轢かれたのだ。そして、頭も潰れていることから、猫は死んだ後か、もしくは死ぬ間際にもう一度轢かれている。血も周りにその跡を残している。
 猫は恐らく自分がこうなることを予測していなかっただろう。自分は猫を気の毒に思った。それと同時に、猫を二度目に轢いた車のドライバーに憤りを感じた。突発的な事故、それは防げない。猫を轢いたドライバーは、まさか猫が自分の車に突っ込んで来るなど予想もしなかっただろう。しかし、猫の死骸を轢くことはそれとは訳が違う。猫の死骸が自分の車の軌道上にあることを知りつつも、それを避ける努力さえしなかったのだろう。死体は死体だと、割り切って轢いたのかもしれないし、もしかしたら、遊び半分に轢いたのかもしれない。命を何だと思っているんだ。猫の死は突発的な仕方の無いことだっただろうが、その死体に対する仕打ちは紛れも無く、それを行ったものの悪意によるものだ。酷い人間もいるものだ、と更に憤慨したところで、はっと正気づいた。自分の行った行為。自分の、これから死に逝く事を知っている者への行為。それはなんだったのか。ただ、遊び半分に死と向き合い、自分の快楽、好奇心のために、ボタンを押すのをわざと遅らせた。それは、紛れも無い、自身の悪意によるものではなかったか。
 結局のところ、自分のせいで死刑囚が死んだか、死ななかったか、など関係なかった。自分は死を侮辱し、生命を軽んじ、死に逝く者への何の感慨も持たなかったことには変わりない。人として、いや、生まれては死ぬ、を繰り返す運命を必ず担っている生物として、それは最も恥ずべき禁忌だ。そして自分はそれを知っていた。それどころか、死への感慨を持たぬ者に対する憤りも感じることが出来た。自分はその者達とは違うと思っていた。自分は生と死に敬意を払っていると思い込んでいた。しかし実際は違った。自分もまた、生死を侮っていた。見下していた、憤慨を感じていた者と、自分は何ら変わりなかった。
 そう自覚した瞬間、突如強い悲しみに襲われ、しばらく立ち尽くしていた。もう自分が人を殺したかどうかなんてどうでも良かった。それも死んだ死刑囚に失礼だとは思うのだが、そのときはとにかく、自分自身に失望し、また、どうしようもない精神の回路に絶望していた。
 ドロドロと粘度の高い暗闇には不釣合いな間抜けなクラクションが鳴り響いた。呆けた顔を上げると目の前に車があった。一瞬何故ここに車があるのかと考えたが、ここが道路であることにすぐに気付き、すぐそこから引いた。ドライバーは迷惑そうな顔をしたが、自分は謝罪の会釈もせず、ただ呆けた顔で猫の死骸を視界に入れていた。
 その時だった。ああっ!と、自分の感情が大きく跳ね上がった。猫の死骸の上を、車のタイヤが通ったのだ。猫の体が少し上に跳ねる。猫は三度轢かれた。死んだとき、死んでから、そして、今。何と思えばいいのだろう。何と感じればいいのだろう。何と感じれば、何と思えば、猫の死に敬意を払えるのか。そうぐるぐると困惑していた。
 そして、
 あ。また。轢かれた。猫の体はもはや道路にぴったりとくっついて、何も動かなかった。轢いた車は速度も変えず走り去った。
 自分は道路に飛び出た。車がもう一台こちらに向かっているのが見えたがお構いなしだった。クラクションが響く。構わず、猫の、もはや死骸とすら呼べないものを両手で掬い上げて、歩道に戻る。二回のクラクションを聞きつけて近くの民家から人が出てきた。両手に血と肉と毛、とを持つ自分を怪訝な目で見たが、やはり自分はそれすらもお構いなしに、歩いていった。白い車に戻る。一度両手に持ったそれを、地面に置く。車のドアを開ける。使っていないゴミ袋があった。自分はそれにそれらを入れて、白いドアに、そしてハンドルが赤茶色に汚れることも厭わず、車に乗ってエンジンをかけて、アクセルを踏んだ。
 もう、訳がわからなかった。酷く混乱していた。自分の今まで悩み、自己嫌悪していたことはなんだったのだろうか。生死への感慨の無さ。それは人間として普通だったのだろうか。自分が悩みすぎていたのだろうか。自分は人間、社会的に、人間として異常なのか。みんながやっているからいい。そんなはずは無いのだろうが、猫の死骸を轢いた者が三人、ああ三人も。社会とは、人間が作るもので、秩序は、道徳は、人間のための道徳は、それに準ずるのか。社会とはなんだ。いいことも、悪いこともなんだ。私が行った行為。それは紛れも無い悪であったが、社会的には受容されるのか。そんな、甘えた考えで自分を許して良いのか。
 ただ車をただただ走らせる。「目的地周辺に来ました。」ああ。目的地。そうだ。俺は、警察…いや、警察とは名ばかりの殺人代行を辞めて、車を走らせて、海へ行くつもりだった。特に何をしようというものでもなかった。美しいものが見たかった。自分は罪を犯したであろう人間で、美しさを見て、自分を浄化したかった。しかし、今のこんな気分では、美しい海を見たところで、逆に、その対比で、その美しさが俺を刺して笑うだろう。見下すだろう。俺はどう思うだろうか。もしかしたら…そのまま…。いや、それでもいいかもしれない。俺は今、俺に失望している。社会に失望している。海へ飛び込んで、自殺してもいいだろう。そうだ。それがいい。そうしよう。俺は、海で死ぬ。
 防波堤の近くに車を停めた。浜辺にでる。右手にはゴミ袋を持っていた。適当な場所を探して、深めに穴を掘る。そして、ゴミ袋の中身…猫の遺体を穴に埋葬した。海のすぐそばだから、すぐに腐敗してしまうだろう。摂理が死骸にもたらす影響はいいものだと思う。死骸は、分解されて、また、誰かを作り出す。死は生を創り、生は死に捧げる。俺も、誰かの死骸…死から出来たものだろう。単純な食物連鎖としての死ではなく、俺は多くの死と関わってしまった。たくさんの死の上に立つ俺は生なのか。いや、俺は、何も、死に捧げられない。捧げられなかった。だから俺は生じゃない。生きている資格も意味も無い。
 遠浅の海だが、ただずっとまっすぐ歩いていけば、死ねる。せめて食物連鎖としての死を俺に与えてくれ。肉体を魚に、海に、地球に。
 ああ。綺麗な海だ。それに比べて俺は………。
 ふらふらと、一歩を踏み出した。これ以上色々考えてしまうと、理由をつけて自分を何だかんだで生かしてしまいそうになりそうだから、もう、これ以上何も考えないことにする。







 

























   









  

     

ああ……





              ああ…





まぶしい…




「…まぶし…」
どこだ。ここは。
「ああ、良かった。目が覚めましたね…。そろそろ点滴をかえようと思っていたので、起こそうとしていたところなんですよ。」
「・・・・・・ああ・・・。」
なるほど…生きているのか。死ねなかったのか…。
「じゃあ点滴かえますね~。でも今日のお夕飯はしっかり食べましょうね~。」
ああ…………。



「実はね、もう少しで危険なところだったんだよ。あなた、元おまわりさんでしょう。警察のお世話になっちゃいけないよねー。ははは、まあ世間にはもっとひどい理由で警察のお世話になる人もいるけどねぇーははは。それにしても良かったね。堤防に停めたあなたの車が、邪魔でね、そこを通ろうとしていた、ああ、釣りに来ていたんだけど、そのおじいさんがねー運転手を探して、海に入ってるあなたをみつけてねぇ…飛び込んで助けてくれたんだよ。後でお礼言ってねー。命の恩人。電話番号教えるからさ。それにしても、泳ぎって一度覚えたら、おじいさんになっても忘れないんだね。…え?何?あ、そうなの。水泳趣味でやってたのね…。そうなのね…。」



「ああ、もうこれはスクラップに出すしかないですわ。海の近くを走った…ねぇ…。まあ自動車に対して塩害というもんがあるかはわからんけども、まぁ、こんなオンボロ…おっと失礼。…う~んと…まあ、とにかく廃車しますわ。手続きしましょか。」




…俺は、きっと車を買い直さないだろう。移り行く世界の中で、世界と同じように変わることも、…抵抗することも、俺は満足に出来なかった。


…いや、あれは…抵抗ではなかったか。
あれは…



「あんた、猫、埋めたでしょぉ。いやあ、今時の若いもんにも、仁義の心っつーの?…少し違うか。まあ、そういうもんあるんだなあって思って、おれ感動しちまったよ。あ、お礼なんていいって!まあ、普段からおれ、泳いでるしよ、高校の時は、インターハイにもでたからな!…でももうあんなことすんなよ。辛いこととかいやなんこともあると思うがな、……すまん何と言っていいか分からんけどもな・・・。おれも浮気しちまったことあるんだけどな…それが、かあちゃんにばれちまって…そんでも…かあちゃん怒らなかったんだよな…それが…それが…すごく…おれがしたことの重大さがよ…本当に申し訳なくなっちまって…それが………すまねぇ…。うっぐ…。」


罪に対する罰が、必ず下されるわけではない。
時代によって、時によって、または、何かの気まぐれによって、免除されることもある。
そもそも、何が罪なのか、悪なのか、など、各個人で判断するしかないのだ。


俺のあれは、自分に対する罰ではなく、逃避であった。




人は、十字架を背負いながらでないと、生きていられないのだ。




(終)

       

表紙

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Neetsha