漫画評論とは何か(批評行為の意図について考えてみた。)

さて、今回は批評行為とは何なのか。
何のために必要なのか、それについて自説を述べよう。

1 私とあなたの世界

かなり古い映画で恐縮だが、あなたは映画、タクシードライバーを見たことが
あるだろうか。
あの有名なマーティンスコセッシ監督の名作映画のことである。

あの映画の中で、鬱屈した心を抱えた主人公、トラビスが鏡に映った自分に向かって、悪態をつく有名なシーンがあると思う。客観的に見たら、最終的に虚無感しか残らない無意味な行為な訳だが、やってる本人は、その瞬間だけ高揚感が得られる。

もちろん、このような行為による高揚感は持続しないわけで、トラビスは、最終的に大量殺人者に変貌していく。

ぼくは、これを「わたしとあなたの世界」と呼んでいる。トラビスの場合、「私」から見た「あなた」とは鏡に映った「私」のことである。

トラビスの例を見ればわかるように、「わたしとあなたの世界」の住人は、きわめて不安定な世界に生きている。この世界の住人は、「私」の承認を「あなた = 鏡に映った私」に全面的に委ねており、「あなた= 鏡に映った私」にいつなんどき「私」の存在の根拠を取り消されるかわからない。

「あなた = 鏡に映った私」が、もし「私」のことに絶望し、見下ろし、断罪、嫌悪すれば、それが、事実上、あなたに対する評価になる。「あなた = 鏡に映った私」から、そのような評価を受けた「私」は、当然、「あなた = 鏡に映った私」のこともそのように評価するだろう。

何を言っているかわからないという方は、2CHの世界、新都社で言えばマロンの世界を想像してもらえばよい。

2 マロンは「私とあなたの世界」である。

掲示板に文字列を打ち込む行為は、実は、鏡に映った自分に対して語り掛ける行為と同じである。掲示板に関しては、一応、笑いが他者性(あなたのことではない。この場合の他者性とは神の視点のことである。あなたとは、あくまでも、鏡に映った私のことである。)の担保になっているのであるが、それでも危うさを秘めている。

掲示板上における、「わたしとあなたの世界」の住人が、「他者性=神の視点」を失うとどうなるか?

秋葉原の加藤死刑囚は、まさに掲示板上で他者性を喪失してしまった例である。あれは、閉じた「わたしとあなたの世界」が暴走した結果引き起こされた事件である。

加藤死刑囚は、「掲示板の住人=実は、鏡に映った自分自身」に対して、延々と悪態をつき続けた結果、大量殺人犯に変貌してしまった。

3 批評行為とは、「他者性=神の視点」を、読者に気付かせることである。

もちろん、批評家が神と言っているのでない。批評家は、正しいことを言うとは限らないし、多くの場合は、納得する回答を読者にも作者にも与えないだろう。

それでいいのである。

実は、創作物というのは、自立して、多くの人に共有される水準に達している場合には、既に「他者性=神の視点」を持っている。神の視点を持っていない創作物は、読者には、独りよがりの見てられないものになっているだろう。

神の視点を持っている創作物は、作者ですら所有できず自立している。
簡単な言い方をすると、作者でも創作物を自由に作り出せない。作者は生みの苦しみを味わう。

この状態における「わたしとあなたの世界」は、どこに存在しているだろうか?
それは、「生身の作者と読者と読者の間」である。

「作者と読者と読者」は、作品の所有権をめぐって、闘争している。これは、まさにマロンで繰り広げられている状態である。

このような状況における批評とは、創作物は、作者にも読者にも帰属せず、まさに神の領域に存在することを宣言する行為である。

この場合、批評内容の正しさは、たぶん問題ではない。

4 批評行為は、何を意図しているのか

「わたしとあなたの世界」で、罵りあっていた「わたしとあなた」は、創作物が神の領域に存在していることを宣言されると無限に豊かな言葉を誘発されるだろう。ちゃんとした言葉で語りたくなってくるはずである。批評の目的は、言葉の誘発である。

宗教なんてのもたぶん、同じことをやっている。