Neetel Inside ニートノベル
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 やけに寝苦しい夜だった。枕が変わったからかもしれない。俺は読み切っていない推理小説の続きが気になる少年のようにウンウン唸りながら何度も布団の中で身じろぎを繰り返した。目が覚めたのかそれとも夢で見たのか、小牧のぐっすりと気持ちよさげな顔がなんとなく記憶に残っている。子供の頃は猿みたいに泣きじゃくって「おにいぢゃ――――――ん!」と俺の後ろをついてまわってきた(そして俺はそれをいつも振り切っていた)小牧だが、ぷにっとした唇は少しずつ少女から女性のものになりつつある。唇というのはエロイ。キスなどという不埒な所業がいつ発明されたのか知らないが、口を吸おうとしたことが悪いのではなく、きっと吸いたくなるような口をしていた女が魔性だったのだろう。ああ畜生、誰でもいいから俺も唇を吸いたいなあ――って俺は妹の唇を見ながら何考えてんだ? つーか俺は起きているのかそれとも寝てるのか。駄目だ駄目だ、えっちな妄想はもう少し同居人との様子を見計らってから慎重に取り計らうって決めてるんだ俺は――だからぎゅっと瞼を瞑ってから開けてみたのだが、それでも俺の目の前にある唇は消えなかった。桜色の唇の端に、銀色の髪が一房かかっている。そのわずかにほぐれた毛先を見ながら、俺は思った。……銀色?
「……すまぬな」
 桜色の唇が言葉を零した。
「おぬしの生命、頂くぞ……」
「いいよ」
「どわあああああああああああああ!?」
 腹の上から圧迫感が無くなって、初めて俺は自分が誰かにのしかかられていたのだと気づいた。軽くなった腹をさすりながら身を起こし、寝ぼけ眼を瞬くと、十二畳の部屋の端に誰かがへたりこんでいるのが分かった。
 銀髪の女の子だった。歳は俺より少し下くらい、紫色の着物を着ていて、裾が分かれてふとももが覗いていた。こっちを見ながら「はっはっ」と息を荒らげているのは俺にマジでビビったかららしい。俺は金色の眼というのは、涙で滲むと水中から見える太陽光のような揺らぎ方をするのだと初めて知った。というか、金色の瞳をした人に出会ったことが今まで無かった。
「お、おぬし……起きていたのか!?」
「うん」ケツがかゆいからボリボリかく。
「いらんの?」
「は?」と銀髪の少女が口を丸く開けた。虫歯ねぇなコイツ。
「俺の生命、欲しいって言ってなかったっけ」
 なんでもいいから早く済ませて欲しい。どうせ夢なんだし。いきなり真夜中にこんな奇少女が自分の部屋を訪れて、生命だか血だか子種だから知らんが要求してくるなんざ、俺の妄想以外の何物でもない。そんなこたぁーこの鷹藤史明さんにはお見通しよ。
「…………」
 ふわ、とあくびする俺がそんな考えを持っていることに、銀髪の少女も感づいたらしい。綺麗に揃った柳眉を「ムッ」とひそめて、三白眼で睨んでくる。
「……おぬし、わしを夢だと思っておるな?」
「夢じゃなければなんだってんだ? 欲しけりゃ早くもっていけ」
 ツカツカツカ、と銀髪の少女は俺の寝床まで来ると、ぴしっとデコピンしてきた。
「痛っ! 何すんだ……って、あれ? 痛い……ということは、これは」
「さよう」と銀髪の少女が満足げに頷く。
「現実じゃ。おぬしはいまからわしに生命を吸われるのだ……すまぬとは思うがな」
「いいよ」
「はあ!?」
 銀髪の少女が素っ頓狂な声を出した。美人が台無しなマヌケな顔をしている。俺は耳に詰めていた指を外した。
「うっせーなー、妹が起きちゃうから静かにしてくれよ」
「き、き、貴様! まだわしが握りっ屁だと思っておるな!?」
「思ってないよ」夢とか幻をここまでひどい比喩で表現したヤツ初めて見たわ。
「まァお前が……」俺は指で銀髪の少女の胸元を示した。
「夢でも現実でもどっちでもいいや。なんだ、生命を吸うとかなんとか言ってたが、吸わないのか?」
「吸う!」銀髪の少女は怒ったように言った。
「わしは鬼だから、吸うのだ。吸わねば生きられん」
「そりゃ難儀だな」
「うむ。だから……おぬしには申し訳ないのだが、生命を吸わせてもらう。よいな?」
「よいって言ってるんですけど」
「…………」
 銀髪の少女はサンタさんに頼んでいた品物が自分のお願いにカスリもしていなかった幼女のような顔をしていたかと思うと、いきなり「わああああ!」と両腕を振り回して暴れ始めた。どうしたの?
「おい、落ち着けよ! なぜ殴る!」
「わかっとらん、わかっとらん!」
 俺をポカポカやりながら銀髪の鬼が喚く。
「生命を吸うんだぞ!? 寿命が縮まるんじゃぞ!? それなのに、それなのに、うっ、うわあああああああ!」
「じゅ、寿命が縮まる?」
 まァなんとなく予想はしていたけれども、ここまで暴れるということは、結構がっつり持っていかれてしまうのだろうか。十年とか、二十年とか……さすがに首根っこに噛みつかれてちゅうちゅうやられたらポックリ、というのは怖い。
「……どれぐらい、縮まるんだ?」
「二秒じゃ」
「ナメてる?」
 俺は銀髪の鬼の首を締め上げた。「ぐええ」と鬼が苦しむ。
「や、やめるのじゃ! わしを誰だと思うておる! 鬼津奈のイツミとはわしのことぞ! 地主じゃぞ地主!」
「うっせぇ自分で言うんじゃねーっ!」
 俺はイツミと名乗った鬼を手放した。
 はああああああ、っとため息が出てしまう。
 ……二秒て。
 一瞬じゃん。いや、もちろん、これから死にますよ~ってなった時には二秒も欲しくなるんだろうけども。しかしべつにその二秒で何か出来るわけでもなし、悪い病気に比べればそれこそ屁でもない。
「脅かしやがって。二秒なんかいらねーからとっとと吸えや」
 ほれほれと首筋を見せつけてやると、イツミは真っ赤になってぶんぶん拳を振った。
「ばっ、ばかもの! 生命は大事にしなさい!」
「お前が言うのかよ!」盗人猛々しいってこういうことじゃなくね。
 その時、「うっ」とイツミが胸を押さえてその場にぺたんと座りこんだ。……どうも顔が赤いのは俺の面白トークがウケてるからじゃないらしい。
「お前、鬼なんだっけ?」
「……そうじゃ」
「生命を吸わないとどうなるんだ?」
「物凄くおなかが減って大変なことになる」
「そうか」いや、たぶん本当に苦しんでいるんだろうけれども、胸を押さえながら「腹減った」というのはひょっとして自分の貧しい胸を自虐っているのかと勘ぐってしまう。まァ気のせいだよね。
「無理すんな。苦しいんだったら吸っていいぞ」
 生命がどういうものなのかガキの俺にはよく分からんけど、とりあえず一個は持ってるからな。
 イツミはどこか悔しそうに顔を背けた。
「……すまぬ」
「困った時はお互い様だ。あ、でもご褒美が欲しいな」
「ご褒美?」とイツミが首を傾げると、水で濡れた絹のような銀髪がさらりと流れ、彼女の首筋をかすめた。俺は片手を冗談交じりに振りながら、
「いや、キスのひとつでもしてもらおうかと――」
 と言った瞬間、唇が何か繭のようなもので塞がれた。
 身動きすら出来ない時間が数秒流れて、どこか果実のような匂いがする中――
 イツミは俺から身体を離し、キスすることをやめた。
「お、お前ホントにやるなんて――」
 あまりのことにビックリして、俺は膝から力が抜けて立ち上がれなかった。そんな俺をイツミは少し悲しそうに見つめていた。
「これが生命の吸うということじゃ。……おぬしが立ち上がれないのはわしのキスの破壊力のせいではない、生命を二秒ほど吸われたからじゃ」
「ま、マジか……結構疲れるもんだな」
「愚かな男じゃ」
 銀髪の鬼は俺の頬に手を当てて、顔を持ち上げさせてきた。その手は蝋のように白く、雨のように冷たく、そして小さかった。
「泣いて喚けば見逃してやれたかもしれぬのに……」
「え?」
「もうおぬしの味をわしの舌は覚えた。逃がさぬ、ではない。逃がせぬ、になった。……夢だと思いたければそれでもよい。だがわしはまた、おぬしの生命を盗みに来るぞ。残念じゃったな……」
「来れば?」
「…………」
 かくん、とイツミが軽くコケる。弾みでほつれた髪も直さず、わずかに開けた口もそのまま、呆れ返っていた。
「……奔放な男じゃな。クソ度胸というのはこういうことを言うのか。それともやはりまだ夢だと思っているのか……」
「うーん、ハーフハーフ?」
「ま、よかろ」スッとイツミが立ち上がった。暗闇の中で淡く映える紫色の着物の裾が割れ、白い太股が一瞬チラついた。かと思うとその生足がいきなり俺を蹴り倒した。
「痛ぇ! 何すんだ、もうちょっと強くお願いします」
「倒錯するな、このたわけっ!」イツミがぐりぐり俺の胸を踏みにじってくる。
「いいか、今宵のこと、余人に他言は無用ぞ。口を割った時は、おぬしの腹も裂けると知れ」
「マジで?」
「秘密を漏らした時は枕元に『漏らしました』と書いた紙を置いておくのだぞ」
「妹に顔向け出来なくなる誤解を招きそうなんだけど……」
「妹か」チラっとイツミが、俺の隣で寝ている小牧を見た。
「小牧の方は、見逃してやろう。可哀想だからな」
「あざっす」
 途端、急に眠気が襲ってきた。「お、お?」と思わず声が出る。これは……なんだ、脳みそが掃除機で後頭部から吸い出されているような……ガキの頃、遠足から帰った日の夜はこんな風に眠った気がする……そんな俺を銀髪の鬼は静かに見下ろしていた。
「忘れろ。わしはただの……」
「すかしっ屁?」
「違うわボケェ!!」
 イツミのローから掬い上げる形になった蹴り上げの爪先をモロに顎に喰らった俺はものの見事に意識を刈り取られて、布団に沈み込んだのだった。

 ○

 翌朝、起きるともうそこには誰もいなかった。小牧すらいない。妹が寝ていた布団は綺麗に畳まれて部屋の隅に積み重ねられている。俺もそれをマネしてから、あくび混じりに一階に下りた。ちなみに鬼津奈邸は二階建てで、俺と小牧は上の階に寝かせてもらっている。家主の六露は一階の当主の間で寝起きしているそうだ。
 居間に入ると、もう食事の用意が出来ていた。ふわっとしたごはんの匂いと腹を鳴らす味噌汁の香りに俺はその場でくらりと倒れそうになる。
「どうしたのお兄ちゃん」おそらく食い気に負けたのであろう、兄貴を待つことなくモリモリと銀シャリを喰っている妹に俺は涙を見せず拭き取った。
「なあに、朝起きたらメシが出来てるってのに感動してな……」
「小牧から聞きました」とお茶を点てている六露がついでとばかりに俺を軽く見上げてきた。
「いつもはお炊事はあなたがやっているそうですね。見直しました」
「……あたしもちょっとはやりますケドね」と小牧は不満そう。お前こないだ電子レンジでタマゴ爆発させたの反省しとけよ。
「ま、両親が忙しいから仕方なく、な」
「立派なことです。私も似たようなものですから」
「……あはははは」
 ビミョーな笑いで誤魔化す我ら鷹藤兄妹。六露さん、返し辛いです、それ。悪気も邪気もないんだろーけどさ……
「昨夜は眠れましたか?」
 どうぞ、と湯気の立っている緑茶を俺に差し出しながら六露が尋ねてきた。俺は頷きながら茶を啜り、
「ん、まーな。でもなんか変な夢を見たんだよなあ」
「夢?」
 六露が食卓を布巾で拭く手を止めて俺をじっと見つめてきた。
「それは、どんな?」
「いや、忘れた。大した夢じゃなかったし。ああでも、なんか……」
 俺は六露を見た。日本人形のように整った顔、艶やかな黒髪、蝋のように白い肌、雨のように冷ややかな雰囲気、布巾を持つ小さな白い手……俺は身を乗り出して、六露のにおいを嗅いでみた。
「くんくん」
「……っ!」
「違うなあ」
「お、お兄ちゃ――――――――ん!! やめて、追い出されちゃう、あたしたちこの家から追い出されちゃうよぉぉぉぉぉぉっ!!」
「どわあっ? い、いや違うんだよ小牧、昨夜見た夢でな……」
 小牧に腕を引っ張られてひっくり返った俺を、飛びあがってなぜか割烹着の胸元を握り締めている六露がわなわなと震えながら見下ろしていた。やっべぇー完全に痴漢を見る目だよ。
「ふ、ふ、ふ」
「ふ?」
「不埒者っ!!」
 どっかぁっ! ……っと、鈍く重い音を俺の顎から弾き出したその蹴りは、俺の記憶をさらに数時間分消し飛ばした。

 ……いやあ、起きたら木に縛りつけられてるとか、親にもされたことなかったよ。
 へんなの。

       

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