Neetel Inside ニートノベル
表紙

排熱鬼
排熱鬼

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 家族を解散することになった。
 友達に言ったら「えぇー? お前んち、イカれてんなあ」などと言われてしまったが、べつに俺は不思議でもなんでもなかった。
 うちは親父が冒険家という無茶もいいとこな職業に就いているということもあって、いろいろとメチャクチャなのだ。
 じゃあお袋はまともかというと、これがバリバリのキャリアウーマン、大企業で名門大学を出ただけのお坊ちゃま社員を顎でこき使って高笑いし、秒刻みのスケジュールで世界各地にあっちこっち飛び回っている。
 親父と出会ったのも出張先の南米で一緒にゲリラに襲われて恋が芽生えた、なんて話もある。
 俺と妹の小牧はそんな話を昔っから聞かされているわけで、いまさら両親が何を言いだそうとビックリしたりはしない。
 そんな弱音は一度親父に連れていってもらった海外旅行で吹っ飛んだ。
 まさか古代遺跡には本当に転がる鉄球が設置されているなんてな。
 今でも妹の小牧はテレビで探検モノの映画なんかがやっているとぷるぷる震えてチャンネルを変える。気持ちは分かる。
 そんな我が家――鷹藤家に最後の爆弾が落ちた。
 突然、親父が家族全員を集めて、傷だらけの顔でこう言ったからだ。

「家族、解散しま――――――す!!」

「ちょ、ちょっと待って、お父さんどういうこと!?」
 ……と食卓をぶっ叩いて立ち上がったのは、俺の妹の小牧。
 現在中学一年生、今年の春から二年生になる予定のJCだ。子供の頃はショタだったというワケわからんことを言ってるうちの親父の遺伝子を強く継ぎ、顔立ちは整っている。
 ちなみに俺は三角眼鏡がよく似合うお袋のきつーい目元を強く引いちゃった。
「いきなり解散って……そ、そんなこと言われても困るよ!」
「うん、気持ちは分かる」とイケメンフェイスを冒険でズタズタにした親父がうんうんと頷く。
「だがな小牧、父さんと母さんはよく考えたんだ」
「そうそう、小牧、だから分かって頂戴」とお袋は今日からうちは麦茶派からそば茶派になった、くらいの軽さで言う。小牧はがあーっと吼えた。
「あたしとお兄ちゃんは何も聞いてないよっ! ねぇ、お兄ちゃんからもなんとか言ってよ」
「よく考えたのか、史雄」
「ああ、もちろんだよ父さん」と親父は俺に言った。誰が父さんじゃボケ。
「ならば仕方ないな……」
「お、お兄ちゃーんっ!!」
 小牧に首根っこを掴まれてぶんぶん揺さぶられたが、こうなっちゃ仕方ない。親父は冒険家、お袋はキャリアウーマン。二人とも外で生きていくことを好んできた人間だ。俺には親父が家で新聞読んでる姿なんて想像できないし、お袋が味噌汁なんか作り始めたら気が動転してたぶっ倒れる。だから、これでいいんだ。
「ま、いいんじゃねーか。二人とも自由に生きたいんだろ? 俺は構わないぜ。ただ、明日から喰いっぱぐれる」
「そのことなら安心しとけ。お前たちの引き取り先はすでに決めてある。昔、俺が世話になった男がいるんだが、そいつ金持ちでな。お前らぐらいなら養ってくれるだろう」
「マジで? ラッキー。親父なかなかやるじゃん」
「まーな」と親父は照れながら傷だらけの顔を撫でる。
「そういうわけで、史明は春から高校生だし、ちょうどいいから向こうの学校へいけ。小牧、好きな人はいるか?」
「え、い、いないけど……」
「田舎の男の子は童顔が多くて可愛いぞ。掘り出し物の王子様フェイスが眠ってるかもしれん」
「え、ほんと?」とその気になる小牧。王子様、という単語に目をキラキラさせるあたりまだまだガキである。
「でもよ親父、俺、向こうの学校の試験なんか受けてねーよ」
「お前が合格した高校のテスト結果を向こうの学校に送っておいた。なーに、心配するな。俺が全部上手くやっておいたからよ! がっはっは」
 豪快に笑う親父。そしてキリッと真面目な顔になり、
「そういうわけで、解散!」
 こうして、鷹藤家は終わった。

 ○

「お兄ちゃん、あたしたち、どうなっちゃうのかな……」
「とりあえず降りろ」
 俺たちの荷物を詰め込んだスーツケースに座っている小牧、そしてそれを引く俺。駅から狼の通り道みたいなあぜ道をガタゴトガタゴト、まだ肌寒い三月とは言え、暑くて死ねる。
「いくら向こうに大きい荷物は送ったって言ってもな……小牧、お前のお兄ちゃんは貧血気味なんだぞ」
「だってあたし、こんな泥道歩いたらお嫁にいけなくなるし……」
「花嫁の資格はそんな物理的な汚れではないぞ」
 だいたい小牧は面食いなので、今まで何度かイイ話はあったみたいだが、全部ポシャったというのをお兄ちゃんは友達から聞いているのだ。俺の見込みではこの妹が婚期を逃すことは間違いない。
「それにしても、本当に田舎なんだね。ていうか、未開地?」
「ああ、なんか林業で喰ってる土地柄みてーだな」
 俺は周囲を取り巻く木々を見上げた。時々、なんか恐ろしげな鳥がカァカァ鳴いては飛び去っていく。
「このへんのは全部杉の木だな。これを切って加工して、家具とか木材とかにしてるらしい」
「へぇー、そうなんだ。お兄ちゃん詳しいんだね」
「さすがにちょっと調べたわ。……まったく親父め、なんの説明もしないで出て行きやがって」
 俺はポケットから紙切れを取り出した。向こうの住所が書いてあるメモなんだが……
「電信柱もねぇーから番地なんかわかんねーっての!」
「仕方ないじゃん。駅員さんはこっちだって言ってたし、大丈夫でしょ」
 田舎の支線の終着駅に、まさか若い女の駅員さんがいるとは思わなかった。見渡す限りの野原を前にして呆然とする俺と小牧の兄妹に、雑に縛ったポニーテールが凛々しい駅員さんは「あっちだよ」と鬼津奈家への道を示してくれたが、今の俺には『二人仲良く樹海で死にな』と遠まわしに処刑されたようにしか思えない。俺たちは新しい家にちゃんと辿り着くことが出来るのだろうか。
「小牧、お兄ちゃんとここに骨を埋めよう」
「えぇー……なんかみんなに誤解されそうでヤダ」
「わりとシンプルな嫌悪感にお兄ちゃんは今、とても傷ついた」
「警戒しておかなきゃ」と小牧はぺたぺたスマホをいじり始め、中学の友達に何かメールを打ち始めた。何かあったら俺が犯人にされちゃう工作か。ひどいよ。
「まったくよぉ~お兄ちゃんはこんなに頑張ってお前を引っ張ってやってるというのに」
「それぐらいしてよ。あたし、電車酔いでグロッキーなんだから」
「グロッキーっていつから自己申告制になったの?」
 そもそも電車の窓からおもっくそ吐いたらスゲェスッキリしてたじゃん。
「大丈夫だよ、どんなにかかっても徒歩で一時間もかからないでしょ」
「お前は田舎を分かってない気がするな~……」
「……ん? あれじゃない?」
 小牧が指差した方向を見ると、木の切れ間に、錆びた門が見えた。俺はゴロゴロと小牧の乗ったスーツケースを引っ張ってそっちにいくと、そこが鬼津奈の家なのだった。鉄門の奥に、立派な武家屋敷が建っている。桐の表札にかすれた文字で「鬼津…」と書いてあるので分かった。俺はぶはあーっとため息をついた。
「やれやれ、本当にずいぶんヘンピなところにある家だなあ」
「あ、そうでもないよ」ぴょこん、とスーツケースから降りた小牧が、屋敷の裏を覗き込んだ。そこから先は階段になっていて、それを降りると水田と民家がぽつぽつと点在していた。詩羽根村だ。農家のおっさんがタバコ吸いながら牛を歩かせているのを見て、俺はいよいよのんきな田舎暮らしに自分が首を突っ込むのだと実感した。
「……上手くやっていけるかなあ」
 小牧は農家のおっさんがハナクソをほじっている姿を心配そうに見下ろしている。俺はポン、と妹の頭に手を置いた。
「心配するな、お兄ちゃんがついてるぞ、メイ」
「メイじゃねぇし」めっちゃ睨んでくる妹。冗談が通じねぇ。
「それよりさっさと家に上がらせてもらおうぜ。もう日が暮れそうだ、お兄ちゃんは腹が減っちまったよ」
「ご飯、作っててくれてるかな?」
「わかんねーけど、親父が引越しの日時まで話を通してくれてたみたいだし、心配いらないだろ。俺は今なら生のジャガイモだって喰うぞ」
「もぉ~ちゃんと芽を取ってからかじるんだよ、お兄ちゃん」
「お前、俺より田舎暮らし向いてそうだね」
 返しがリアルでビックリしたよ。
 とかなんとかじゃれあいつつ、俺たち二人は新しい家のご厄介になることにそこはかとない不安を感じていたのだった。果たして上手くやっていけるんだろうか……
 俺たちは屋敷の右端にある玄関の前に、スーツケース片手に立った。
「ぽちっとな」俺はインタフォンを押した。
 しーん……
 案の定というか、誰も出てこない。俺と小牧は顔を見合わせた。
「留守かな?」
「どうだろ。とりあえず入っちゃおうぜ」
「怒られないかなあ……」
「心配するな、家族になるんだから」
 俺はガラガラガラ、と引き戸を開けた。うわあ、懐かしい。磯野さんちでこの戸見たことある~などと余裕ぶっこいていたら、目の前に飛び込んできたものを見てギクリと動けなくなった。
 土間から上がったタタキのところに、割烹着を着た少女が立っていた。艶のある黒髪は暗い屋内でもキラキラと光を反射し、色白の肌が周囲の温度を吸っているように思える。……とんでもない美少女で、俺はすっかり見とれてしまった。小牧にエルボーを喰らわなかったら、いつまでもそうしていたかもしれない。
 割烹着の少女は、ぺこりとお辞儀をした。俺たちも慌てて返す。
「ようこそお出で下さいました。鷹藤史明さん、それから小牧さんですね?」
「は、はい、そうです」小牧も小牧で、この和風人形みたいな少女にドギマギしているらしかった。
 割烹着の少女はどことなく青っぽい目で俺たちを引っ張り、
「こちらへ」
 と、屋敷の中へ入っていった。
「……綺麗な人だね」玄関で靴を脱いで揃えながら小牧が言う。
「家政婦さん、なのかな?」
「そうらしいな。……すげぇなぁ、やっぱりいるもんなんだなあ、お金持ちって。地主なのかな?」
「お父さん、ほとんど何も教えてくれなかったからわかんないね……」
 割烹着の少女についていきながら、小牧がしょんぼりと項垂れる。俺は肩をすくめてみせた。
「仕方ねーだろ。メモ書き一枚残してサヨウナラだったからな。今頃どこで何をしているのやら」
「……エクスペンダブルズの新作に出るって、本当かな?」
「いや嘘だろ」
 そんなスケールでかくねぇよウチの親父は。
「夕飯はご用意してあります。荷物はすでにお二人の部屋に運び入れておりますので、先にお食事を召し上がってください」
 割烹着の少女は三角巾を取りながら、俺たちに言った。彼女の向こうには十五、六畳はありそうな座敷と、水没したらイカダになりそうなくらいデカイテーブル、それからヨダレが出そうな山菜をふんだんに使った料理が並んでいた。
「凄い……なんか、旅館みたい」と小牧が素直な感想を漏らす。
「ああ、本当だな。いや、なんかすいませんね色々と」
「……お兄ちゃん、ジジくさい」
「なんだとぉ」
 まだまだお子ちゃまな妹に代わって、お兄ちゃんが先方にご挨拶したのじゃないか。
 家政婦さんはべつに嬉しそうでもなくコクンと頷き、
「どうぞ、好きなところへ」
 と言って、自分もちゃっかり膳の前に座った。
「あ、一緒に食べるんスか」
 俺が言うと家政婦さんはちょっとムッとした風だった。おお、クールな表情もいいが、怒った顔もあどけなさが見えて素敵だ……
「いけませんか?」
「いやいや、滅相もない。でも、なんか、こういう古いお屋敷って使用人はべつのところで食べるとか聞いたことあって」
「お兄ちゃん、失礼でしょっ!」
 俺は小牧に尻を蹴られてその場に蹲った。なんか凄い音したんだけど。
「……す、すみません家政婦さん。お兄ちゃん、お父さんに似て口の利き方がなってなくて……」
 小牧が少女にぺこりと頭を下げた。
「……家政婦さん?」
「はい。……えと、違うんですか?」
「……鷹藤さんから何か聞いていないんですか?」
「いえ、何も。お父さん、昔っから秘密主義で……」
「そうですか」
 割烹着の少女が裾を払って姿勢を正し、三つ指を突いて頭を軽く下げた。
「申し遅れました。私、鬼津奈六露(きづな ろくろ)と申します。……この家の当主です」
「……とうしゅ?」
「はい」
 俺は見えないボールを投げるフリをした。少女――六露は首を振った。
「それは投手」
「お兄ちゃん、今のはいくらなんでもひどいネタだよ」小牧は本気で青ざめている。
「うるせー! お前のフォローが足りないんだよ」
「え、私のせい!?」
「うん」
 当たり前だろ。妹は兄にご奉仕するものだって最近のラノベにはちゃんと書いてあるんだ。小牧は憮然として「こいつ頭おかしい」みたいな顔を俺に向けつつ、べたーっと六露にひれ伏した。
「すいません、六露さん! あたしたち何も知らなくって……家政婦さんとか使用人とか好き放題言っちゃって……」
「構いません。実際に、この家を管理しているのは私ですから。食事も掃除も私が行っています。そういう意味では、使用人みたいなものですね」
「うわあああああ、ごめんなさい、ごめんなさい、あったかいうちにご飯いただいてもいいですかーっ!?」
「小牧、そう謝るなよ」
「半分以上はお兄ちゃんのせいだよっ!」
 俺は小牧に蹴り倒された。いたい。会ったばかりの六露に助けを求める視線を送ってみたが、あの青みがかった冷たい目で見返されてしまうだけだった。ふう、と六露はため息をつき、
「どうぞ、冷める前に召し上がってください。気にしていませんし、鷹藤さんの性格を忘れていたこちらの落ち度もあります。……あの人は自由人でしたね」
「親父のことを知ってんの?」と俺はタメ口を利いてみた。小牧が「お兄ちゃんっ!」と叱声を浴びせてきたが、俺はにらみ返す。いーじゃん、どうせ俺と同い年くらいだろうし。
「はい。といっても、子供の頃に会ったことがあるだけですが。鷹藤さんは私の父の親友だったそうです。なんでも、若い頃は共に冒険の旅に出ていたとか」
「へぇー……そうなんだ」
「お二人のことは、小牧さん、ウジ虫、とお呼びしてもよろしいですか?」
「怒ってる?」
 俺への評価、さっそくひどい。
 六露は俺には答えず、パクパクと夕飯に手をつけ始めた。俺たちもそれに習う。
「……おいしい!」
 小牧がびっくりしたように口に手を当てている。それを見た六露が、ふ……と口元をわずかにくつろげたように見えたが、瞬き一瞬した後にはもう、鉄面皮に戻っていた。うーん、笑った顔の方がカワイイと思うけどな。
「それはこのあたりで取れる山菜を秘伝のつゆで煮込んだものです。あ、それは鹿の肉」
「えっ、鹿っ!?」
 小牧はびっくりしているが、さすがに吐き出すようなことはしない。俺は小牧の肩を叩いた。
「大丈夫、鹿さんはお前の血となり肉となり、いつかお前を乗っ取るであろう」
「慰める気ある?」
「ウジ虫は冗談がお好きなのですね。好印象です」
「絶対嘘だよね六露サン」
 女王様気質なのかな。俺、ムチは嫌なんだけど……
「このあたりは昔、飢饉に襲われたことがあり、そういう時に村人は農民から狩人へクラスチェンジしたといいます」
「六露さん、ひょっとしてゲームとか好き?」クラスチェンジて。
 俺の質問に六露は黙って部屋の奥を指差した。うわぁー置いてあったわPS4。
「鬼津奈がこの土地の名士になったのも、そういう飢饉の時、山へ入って手際よく獣を狩ったからなのだとか。その技が今でもこの家には伝承されていて、私もたまに山へ入ります」
「そういうのって、密猟になったりしないの?」
「このあたりの山は全て、鬼津奈の所有物ですから。伐採も狩猟も私の自由にできます。……機会があれば、山をご案内しますよ、セミ」
「ちょっとウジ虫って言い続けることに罪悪感を覚えたんだね? 好きです」
「お兄ちゃん、前向きすぎて気持ち悪いよ」
 小牧が味噌汁の中の何かよくわからぬ足の生えたものをかじりながら言う。気づいてないと思うけど、お前が食べてるものの方がグロテスクだからね。あぶねぇー俺は残そう。
 俺たちはパクパクと六露の作ってくれた夕飯(で食べられそうなもの)に舌鼓を打った。
「……そういえば、ほかのご家族は? 出かけてんの?」
「いません」と六露は味噌汁をすすりながら答えた。
「母は私が幼い時に、父は昨年、亡くなりました」
「……そうなんだ」
「それも、鷹藤さんはお二人にお伝えしていなかったのですか? ……変わりませんね、あの人は」
 どうも六露はかなりウチの親父に詳しいらしい。というか、俺らがガキの頃の親父って、ほとんど家に戻ってこなかったから、ひょっとするとだが六露の方が親父と長く一緒にいたりして……いやいやまさかね。
 それから俺たち兄妹と六露は、共通の話題であるウチの親父のことをしばらく喋った。変なオッサンだが、メチャクチャなことばっかりやるから話題には事欠かない。南米の秘法を手に入れたら裏社会のボスに命を狙われて、最終的に熱燗渡して友達になった話題のところでは流石に六露もくすくす笑っていた。俺もアハハハハなんて笑いながら、この子とこれから暮らすのかあ、となんか妙な感慨に耽った。……うーん。
「お兄ちゃん?」
「なんスか」
 カツアゲされるのかな? と思いたくなるような凄まじい形相で小牧が俺を見ていた。
「……手ぇ出したら本気で蹴るよ」
 お茶を汲みにいった六露の方を視線でチラチラ見やる小牧。
「しないしない」と俺は手を振った。
「それよりどうだ、小牧。六露と上手くやれそうか?」
「さりげに呼び捨てだし。もうちょっと距離感を考えなよ」
「小牧さん、六露と上手くやれそうですか?」
「あたしにじゃねぇ――――よっ! アホかっ!」
 ウチの妹がこんなにノリがいいわけがない。ぶはあ、と潜水してたようなため息をつき、
「もういいよ、でも、変なことしないでよね。……妹としてとても気まずいので」
「分かってるって」
「まあお兄ちゃん、セミとか言われてたし大丈夫か」
 妹として兄貴が虫扱いなのはスルーでいいのかい。
 小牧とくだらないことをくっちゃべっていると、六露が戻ってきた。
「小牧さん、申し訳ないのですが、少し台所を手伝ってくれませんか?」
「えっ、あっ、はい!」小牧は顔を赤くして立ち上がった。
「ごめんなさい、気が利かなくて……」
「いえ、お気になさらず。本当は客人に手伝ってもらうのは本意ではないのですが、私も家を空けることがありますし、小牧さんにもこの家のことに慣れておいて欲しいのです」
「わかりました、頑張ります! 必ずやご期待に応える所存……」
「……そんなに重く頑張らなくて結構です。大抵のことは私がやりますから。そうそう、史明さん」
 六露が何かを自分にかけるような仕草を俺にしてみせた。俺はとんでもなくエッチなことを連想してしまったのだが、すぐに理性を働かせて、それが「お風呂が沸いている」という意味なのだと悟った。六露が廊下の奥を指差す。その方向が、きっと浴室なのだろう。俺は片手拝みに礼をして、先に風呂に入らせてもらうことにした。なんだかんだ言って朝っぱらから日暮れまでかかった長旅だったから、芯からちょっと疲れている。ゆっくりさせてもらおう。

     


 素っ裸で浴室に入ると、思わず「おお~」と声が出てしまった。優しい色の木材が張り巡らされている。ヒノキ風呂ってやつだ。
「すげぇ~温泉みてぇ」
 さすがに旅館ほど大きくはないが、それでも八人くらいは同時に入れそうだ。中央の浴槽はこぽこぽと泡を立てている。俺はもうなんか嬉しくなっちゃって、倍速で身体を洗って湯船に飛び込んだ。壁際の棚に置いてあった入浴剤とかも入れちゃう。緑色にしちゃう。
「ひゃっほーう!」顔をごしごし擦って、畳んだタオルを頭に乗っけた。
「最高だな……」
 湯煙が目に染みるぜ。慣れない長旅、これからの生活への不安、そういったものが全身から湯水に溶けていく気がする。
「ふんふんふーん♪」
 もうね、泳いじゃう。ケツだけ浮かしてぷかぷかしちゃう。
「六露もこの風呂に毎日入ってるんだよな……」
 目を閉じれば、瞼の裏に黒髪美少女の顔が浮かぶ。なぜか三角巾と割烹着ではなく、体操着姿が見えた。すらっと伸びた手足、肉づきは薄いが健康的な色白の肌、思い返してもロマンティックがノンストップ急行線。やべぇ~あるのかな、一緒に暮らしてるんだし、ラッキースケベ? いやいやそんな……いけませんよお大尽様……
 とかなんとか思って鼻の下を伸ばしていたら、
 ごそ……
 と、脱衣所に誰かが入ってくる気配がした。えっ、嘘、マジで? そういうこと? ひょっとして俺、種馬? 田舎はやっぱり素晴らしいな。
 がらり、と曇り戸が開かれて、タオルを前に垂らして入ってきたのは……
「お、お兄ちゃんっ!?」
「なんだ小牧か」
「なんでいんの!?」
「風呂」
「見れば分かるよっ! ろ、六露さん何も言ってなかったのに……あわわわ」
 小牧はその場に突っ立って中に戻ろうか、いやでも寒いし、みたいな二律背反に陥ってぐるぐると回転していた。
「なにやってんだ、早く入れよ」
「ええええええええっ!? ちょ、お兄ちゃん……いくらなんでもそれは……」
「なに赤くなってんだボケ。寒いから戸を閉めろ戸を。……あーもう」
 俺は面倒くさくなって湯船から上がって自分で戸を閉めた。
「ギャーッ!!」
「うるせーな、なんだよ!」
 小牧が両手で顔を覆って、指の隙間から俺の股間をガン見している。
「ま、前隠しなよお兄ちゃん!」
「めんどくせーなー。隠すから恥ずかしいんだよ。それにどうせ兄妹じゃねーか」
 俺は湯船に戻ってあったかいお湯に浸かり直し、ぷはーと息をついた。最高だねぇ。
「お前も早く身体洗って入れよ、風邪引くぞ」
「う、うん……」
 小牧はチラチラ俺を横目で盗み見ながら、かけ湯を始めた。執拗に身体をタオルで隠していたが、いつまでもそうしているわけにはいかず、「ええい!」……と最後にはタオルを取ってガシガシ身体を洗い始めた。確かに俺と小牧が一緒に風呂に入っていたのは俺が小四、妹が小二の時が最後なので、六年ぶりに妹の裸体を見たわけだが、べつに何も感じない。おっぱいがそこそこお椀型に膨らんでて「へぇー」とは思ったけど。なんかマサイ族の女の人を見てるような気分。
「……お兄ちゃん、平気なんだ?」
「お前こそ正気か。お前は妹だぞ」
「う、うん」なぜか気圧されたっぽい小牧。しどろもどろになりながら真っ白な泡を桶で流していく。
「……よその兄妹はどうなんだろ。お兄ちゃんみたいに平気なのかな?」
「当然だろ。あーくそ、六露ちゃんが入ってきてくれたのかと思って期待したのによぉー小牧かよー」
 俺が天を仰いで嘆息すると小牧が犯罪者を見るような目を向けてきた。
「ヘンタイ」
「健康と言え」
「それが健康なら身体にいいお茶は全部発禁処分だよっ!」
 湿ったタオルを握り締めながら、小牧がぎゅーっと力説してきた。めちゃくちゃ言ってんな。
「……やっぱりお兄ちゃんのことはあたしが見張っておかなくちゃならないようだね」
「これがクレイジーサイコレズか」
「クレイジーでもレズでもないよ!」
 サイコではあるの?
「小牧、俺が言うのもなんだがな、これから一緒に暮らしていくんだからもっと気楽にした方がいいぜ。腹壊すぞ」
「それはお兄ちゃんでしょ……まあでもそうだね、六露さんとも仲良くしないとね」
「上手くやれそうか?」
「まだわかんない」
 おっ? ……と俺は思った。さっきのやり取りを見ている限りじゃ本当の姉妹みたいに仲睦ましげだったが。まァ女子は表面上の気の遣い方ってのが男子よりも分かってるからな。俺はぱしゃぱしゃと湯の水で顔を洗ってから、改めてタオルを頭の上に乗せ直した。
 ちゃぽん、と白っぽい湯に妹の足が差し込まれた。ざぶーん、と小牧が身体を沈めると波飛沫が立つ。お前もうちょっと静かに入れや。
「なんだそのジト目は」
「お兄ちゃんはいいね、誰ともすぐ仲良くなれて」
「親父に似たんだろう」
「じゃ、あたしはお母さん似だね。……なんか六露さん、いい人そうだけど、なんか……怖くない?」
「だってよ、六露」
「ちょっ!?」
 ざばあっ、と水を跳ね上げて小牧が立ち上がり、拳銃を突きつけられた犯人のようにあわあわと両手を掲げた。
「ち、違うんです六露さん六露さんはいい人です全然そんな……って、あれ、誰もいない」
「うっそぴょーん」
「死ねこのバカ兄貴っ!」
 ひゅん、と実にキレのいいスナップを利かせた右の平行蹴りが俺の顔面に直撃しムチウチにした。ぶくぶくぶくと俺は沈む。一瞬マジで気絶した。なんてことしやがる……
「ぷはあっ! て、てめぇ小牧……殺す気かっ!」
「殺す気だよ!」目を涙でいっぱいにしながら小牧が叫ぶ。
「ひ、人が真剣に悩んでるのに茶化して! お兄ちゃんなんか大嫌い!」
「悪かった悪かった」俺はおっぱいどころか下半身まで丸出しでキレまくってる妹を両手で制した。
「でもなあ小牧、陰口はよくないと思うぞ?」
「そ、それはそうだけど……ていうか陰口じゃないし! 感想だしっ!」
「それでも言っていいことと悪いことがあってだな……」
「急にまじめにならないでよ! バカッ! もういい知らない!」
 じゃぶん、と小牧は口元まで湯に浸かり、
「早く出てって! 凍えちゃえ!」
「マジかよ~キンタマ縮んじゃうよ」
「お父さんと同じ下ネタ言わないでよっ! もう最低!!」
「…………」
 親父と同じネタを使うようになってしまったのかと思うと、俺はたぶん小牧が想像している以上の百万倍くらい落ち込んだ。うっそーん……
 俺はとぼとぼと妹に湯船から追い出された。小牧は「死ねっ、死ねっ!」と水鉄砲でひたすらに俺のケツを狙ってくる。開発されたらどうすんだボケ。
 カラッと戸を開けて身体を拭いていると、廊下から六露の声がした。
「お楽しみいただけましたか?」
 こやつ。

     


 風呂から上がった俺たちは、六露に部屋へと案内された。十二畳くらいの和室で、もう部屋の片隅に先に送っておいた俺たちの荷物がずらずらと積まれていた。布団も敷いてあって準備万端。あとはもう寝るだけだ。
「ろ、六露さん! これはいったいどういうことですか!」
 小牧が川からどんぶらこと流れてきた桃みたいな顔になって、敷かれた布団を指差した。六露は柳眉一つ動かさず、
「並べてみました」
「夫婦じゃないんで! 離します! もう中学生なんだからお兄ちゃんと一緒になんて寝ません!」
 ぷりぷり怒った小牧がずずっと自分の布団を引っ張って、畳を出現させた。
「ていうか、あたしたち、一緒の部屋なんですか……?」
「いえ、屋敷で空いている部屋は全てご自由に使っていただいて結構です」と六露は初めて見るかのように周囲を見回した。
「荷物が一緒だったので、とりあえず一部屋にまとめました。お兄さんのことが嫌いだ、一緒にパンツを洗いたくない、そういった事情はこっそり私に耳打ちして頂ければ対処します」
「べ、べつにパンツは気にしませんけれども!」と小牧はチラチラ俺を見ながら言う。べつに気を遣わんでも。いいですよお兄ちゃんは手洗いでも。
「……それはともかく、史明さん。何をやってるんです?」
「え、俺?」
 何って、俺は自分の枕を我が子のように抱き締めているだけだけれども。何かおかしなことをしているのだろうか。
「こんな上等な枕で寝るのは初めてなんだ」
「……そうですか。気に入っていただけて何よりです」
「貰っていい?」
「あなたのです」
 それもそうだ。
「触ってみろよ小牧、幼女の肌みたいだぞ」
「最低」
 ごめん。
「それでは私はこれで。何か入用でしたら、台所からなんでも好きなものを持っていって構いません」
 六露が黒い髪を振って背中を向けた。一歩踏み出したところでわずかに振り返り、
「基本的に夜の外出はなさらないでください。まだこのあたりには獣が残っていますから。それと」
 指を一本立てて、
「枕投げは消灯後、三十分までです」
「……マジで?」
「マジです」
 俺はごくりと生唾を飲み込んだ。
「破ったらどうなる?」
「その時は……」
 六露は親指をおっ立てて、首をぎぃぃぃぃっと切る真似をした。
「……それではおやすみなさい、小牧さん、それと芋虫」
「いつか華麗なちょうちょになると信じてくれてるんだね? 嬉しい」
「ふっ」
 軽く鼻で笑って、六露は出て行った。何かお香でも炊きつけてあるのか、六露はいなくなる瞬間にだけ「ふわっ」といいにおいを残していく。あれが大和撫子のたしなみってやつか。それにしても……
「どうする小牧、枕投げ、三十分限定だってよ」
「もう子供じゃないんだから枕投げなんてしないよっ!」
「そんなに怒るなよぅ」
 生意気な中学一年……いや四月からは中学二年か。
 俺は背中から布団に飛び込んだ。ぽすっ、と俺を受け止めてくれる羽毛の感触。
「俺ももうすぐ高校生かあ」
「そうだよ、お兄ちゃん。ちゃんと自分で準備しておかないと。もうお母さんはいないんだから……」
 小牧はもうダンボールを開けて自分の私物を取り出し始めている。俺はそれを腹の上で手を組んでぼんやり眺めていた。
「……ぐすっ」
 俺に後ろ姿を見せている小牧が、掌で目元を拭った。
「小牧……? どうした」
「ん、なんでもない。ただ、もうお母さんいないんだなって……」
「さっきからあの人、俺のLINEを既読無視してるんだけど今どこにいるんだっけ」
「ロンドン」
「なんだ、すぐに会えるじゃん。イギリスのメシはクソまずいから平均して二週間で一回は戻ってくるぞ」
「うん……」
 小牧の返事は浮かない。ま、そういうことじゃないって俺も分かってるけどね。
「大丈夫だ小牧。兄ちゃんがついてる」
「だから不安だし心配だしイラつくし不愉快なんだけど」
「俺とお前の間に何があった?」
 そんなに俺にちんけなおっぱいを見られたくなかったのか。べつに覚えちゃいねぇーよ。
 その時、どこかから野犬の遠吠えが聞こえてきた。小牧が閉じられた障子に向かって顔を上げた。
「本当にいるんだね。怖いなあ。噛まれたりしたらどうしよう」
「そう思って殺虫剤を持ってきた。いつでもカバンに忍ばせておけ」
「……ありがとう……」
 俺のゴキジェットを釈然としない顔で受け取る小牧。なんでだよ、絶対効くって。……効くよね?
「それを俺だと思って大事にしろ」
「捨てるときめんどうくさいなあ……」
「大喜理かよ」
 上手い返しなんて期待してなかったわ。俺はため息をついて布団にもぐりこんだ。
「疲れただろ小牧。もう寝ようぜ」
「うん……あ、もう廊下の電気消されてる……」
 上半身から先だけを廊下に突っ込んでいた小牧はしばらくそうしていたが、やがて「ねぇお兄ちゃん」と呟いてきた。俺は腕を枕にしながら返した。
「なんだ?」
「……一緒に歯磨きしにいこ」
 俺と小牧は二人揃って流しにいき、歯を磨いてトイレいって部屋に戻って、それから思い出したように一日の旅の疲れが出てぐっすり眠ってしまった。
 その夜、俺はふと目が覚めた。

     



 やけに寝苦しい夜だった。枕が変わったからかもしれない。俺は読み切っていない推理小説の続きが気になる少年のようにウンウン唸りながら何度も布団の中で身じろぎを繰り返した。目が覚めたのかそれとも夢で見たのか、小牧のぐっすりと気持ちよさげな顔がなんとなく記憶に残っている。子供の頃は猿みたいに泣きじゃくって「おにいぢゃ――――――ん!」と俺の後ろをついてまわってきた(そして俺はそれをいつも振り切っていた)小牧だが、ぷにっとした唇は少しずつ少女から女性のものになりつつある。唇というのはエロイ。キスなどという不埒な所業がいつ発明されたのか知らないが、口を吸おうとしたことが悪いのではなく、きっと吸いたくなるような口をしていた女が魔性だったのだろう。ああ畜生、誰でもいいから俺も唇を吸いたいなあ――って俺は妹の唇を見ながら何考えてんだ? つーか俺は起きているのかそれとも寝てるのか。駄目だ駄目だ、えっちな妄想はもう少し同居人との様子を見計らってから慎重に取り計らうって決めてるんだ俺は――だからぎゅっと瞼を瞑ってから開けてみたのだが、それでも俺の目の前にある唇は消えなかった。桜色の唇の端に、銀色の髪が一房かかっている。そのわずかにほぐれた毛先を見ながら、俺は思った。……銀色?
「……すまぬな」
 桜色の唇が言葉を零した。
「おぬしの生命、頂くぞ……」
「いいよ」
「どわあああああああああああああ!?」
 腹の上から圧迫感が無くなって、初めて俺は自分が誰かにのしかかられていたのだと気づいた。軽くなった腹をさすりながら身を起こし、寝ぼけ眼を瞬くと、十二畳の部屋の端に誰かがへたりこんでいるのが分かった。
 銀髪の女の子だった。歳は俺より少し下くらい、紫色の着物を着ていて、裾が分かれてふとももが覗いていた。こっちを見ながら「はっはっ」と息を荒らげているのは俺にマジでビビったかららしい。俺は金色の眼というのは、涙で滲むと水中から見える太陽光のような揺らぎ方をするのだと初めて知った。というか、金色の瞳をした人に出会ったことが今まで無かった。
「お、おぬし……起きていたのか!?」
「うん」ケツがかゆいからボリボリかく。
「いらんの?」
「は?」と銀髪の少女が口を丸く開けた。虫歯ねぇなコイツ。
「俺の生命、欲しいって言ってなかったっけ」
 なんでもいいから早く済ませて欲しい。どうせ夢なんだし。いきなり真夜中にこんな奇少女が自分の部屋を訪れて、生命だか血だか子種だから知らんが要求してくるなんざ、俺の妄想以外の何物でもない。そんなこたぁーこの鷹藤史明さんにはお見通しよ。
「…………」
 ふわ、とあくびする俺がそんな考えを持っていることに、銀髪の少女も感づいたらしい。綺麗に揃った柳眉を「ムッ」とひそめて、三白眼で睨んでくる。
「……おぬし、わしを夢だと思っておるな?」
「夢じゃなければなんだってんだ? 欲しけりゃ早くもっていけ」
 ツカツカツカ、と銀髪の少女は俺の寝床まで来ると、ぴしっとデコピンしてきた。
「痛っ! 何すんだ……って、あれ? 痛い……ということは、これは」
「さよう」と銀髪の少女が満足げに頷く。
「現実じゃ。おぬしはいまからわしに生命を吸われるのだ……すまぬとは思うがな」
「いいよ」
「はあ!?」
 銀髪の少女が素っ頓狂な声を出した。美人が台無しなマヌケな顔をしている。俺は耳に詰めていた指を外した。
「うっせーなー、妹が起きちゃうから静かにしてくれよ」
「き、き、貴様! まだわしが握りっ屁だと思っておるな!?」
「思ってないよ」夢とか幻をここまでひどい比喩で表現したヤツ初めて見たわ。
「まァお前が……」俺は指で銀髪の少女の胸元を示した。
「夢でも現実でもどっちでもいいや。なんだ、生命を吸うとかなんとか言ってたが、吸わないのか?」
「吸う!」銀髪の少女は怒ったように言った。
「わしは鬼だから、吸うのだ。吸わねば生きられん」
「そりゃ難儀だな」
「うむ。だから……おぬしには申し訳ないのだが、生命を吸わせてもらう。よいな?」
「よいって言ってるんですけど」
「…………」
 銀髪の少女はサンタさんに頼んでいた品物が自分のお願いにカスリもしていなかった幼女のような顔をしていたかと思うと、いきなり「わああああ!」と両腕を振り回して暴れ始めた。どうしたの?
「おい、落ち着けよ! なぜ殴る!」
「わかっとらん、わかっとらん!」
 俺をポカポカやりながら銀髪の鬼が喚く。
「生命を吸うんだぞ!? 寿命が縮まるんじゃぞ!? それなのに、それなのに、うっ、うわあああああああ!」
「じゅ、寿命が縮まる?」
 まァなんとなく予想はしていたけれども、ここまで暴れるということは、結構がっつり持っていかれてしまうのだろうか。十年とか、二十年とか……さすがに首根っこに噛みつかれてちゅうちゅうやられたらポックリ、というのは怖い。
「……どれぐらい、縮まるんだ?」
「二秒じゃ」
「ナメてる?」
 俺は銀髪の鬼の首を締め上げた。「ぐええ」と鬼が苦しむ。
「や、やめるのじゃ! わしを誰だと思うておる! 鬼津奈のイツミとはわしのことぞ! 地主じゃぞ地主!」
「うっせぇ自分で言うんじゃねーっ!」
 俺はイツミと名乗った鬼を手放した。
 はああああああ、っとため息が出てしまう。
 ……二秒て。
 一瞬じゃん。いや、もちろん、これから死にますよ~ってなった時には二秒も欲しくなるんだろうけども。しかしべつにその二秒で何か出来るわけでもなし、悪い病気に比べればそれこそ屁でもない。
「脅かしやがって。二秒なんかいらねーからとっとと吸えや」
 ほれほれと首筋を見せつけてやると、イツミは真っ赤になってぶんぶん拳を振った。
「ばっ、ばかもの! 生命は大事にしなさい!」
「お前が言うのかよ!」盗人猛々しいってこういうことじゃなくね。
 その時、「うっ」とイツミが胸を押さえてその場にぺたんと座りこんだ。……どうも顔が赤いのは俺の面白トークがウケてるからじゃないらしい。
「お前、鬼なんだっけ?」
「……そうじゃ」
「生命を吸わないとどうなるんだ?」
「物凄くおなかが減って大変なことになる」
「そうか」いや、たぶん本当に苦しんでいるんだろうけれども、胸を押さえながら「腹減った」というのはひょっとして自分の貧しい胸を自虐っているのかと勘ぐってしまう。まァ気のせいだよね。
「無理すんな。苦しいんだったら吸っていいぞ」
 生命がどういうものなのかガキの俺にはよく分からんけど、とりあえず一個は持ってるからな。
 イツミはどこか悔しそうに顔を背けた。
「……すまぬ」
「困った時はお互い様だ。あ、でもご褒美が欲しいな」
「ご褒美?」とイツミが首を傾げると、水で濡れた絹のような銀髪がさらりと流れ、彼女の首筋をかすめた。俺は片手を冗談交じりに振りながら、
「いや、キスのひとつでもしてもらおうかと――」
 と言った瞬間、唇が何か繭のようなもので塞がれた。
 身動きすら出来ない時間が数秒流れて、どこか果実のような匂いがする中――
 イツミは俺から身体を離し、キスすることをやめた。
「お、お前ホントにやるなんて――」
 あまりのことにビックリして、俺は膝から力が抜けて立ち上がれなかった。そんな俺をイツミは少し悲しそうに見つめていた。
「これが生命の吸うということじゃ。……おぬしが立ち上がれないのはわしのキスの破壊力のせいではない、生命を二秒ほど吸われたからじゃ」
「ま、マジか……結構疲れるもんだな」
「愚かな男じゃ」
 銀髪の鬼は俺の頬に手を当てて、顔を持ち上げさせてきた。その手は蝋のように白く、雨のように冷たく、そして小さかった。
「泣いて喚けば見逃してやれたかもしれぬのに……」
「え?」
「もうおぬしの味をわしの舌は覚えた。逃がさぬ、ではない。逃がせぬ、になった。……夢だと思いたければそれでもよい。だがわしはまた、おぬしの生命を盗みに来るぞ。残念じゃったな……」
「来れば?」
「…………」
 かくん、とイツミが軽くコケる。弾みでほつれた髪も直さず、わずかに開けた口もそのまま、呆れ返っていた。
「……奔放な男じゃな。クソ度胸というのはこういうことを言うのか。それともやはりまだ夢だと思っているのか……」
「うーん、ハーフハーフ?」
「ま、よかろ」スッとイツミが立ち上がった。暗闇の中で淡く映える紫色の着物の裾が割れ、白い太股が一瞬チラついた。かと思うとその生足がいきなり俺を蹴り倒した。
「痛ぇ! 何すんだ、もうちょっと強くお願いします」
「倒錯するな、このたわけっ!」イツミがぐりぐり俺の胸を踏みにじってくる。
「いいか、今宵のこと、余人に他言は無用ぞ。口を割った時は、おぬしの腹も裂けると知れ」
「マジで?」
「秘密を漏らした時は枕元に『漏らしました』と書いた紙を置いておくのだぞ」
「妹に顔向け出来なくなる誤解を招きそうなんだけど……」
「妹か」チラっとイツミが、俺の隣で寝ている小牧を見た。
「小牧の方は、見逃してやろう。可哀想だからな」
「あざっす」
 途端、急に眠気が襲ってきた。「お、お?」と思わず声が出る。これは……なんだ、脳みそが掃除機で後頭部から吸い出されているような……ガキの頃、遠足から帰った日の夜はこんな風に眠った気がする……そんな俺を銀髪の鬼は静かに見下ろしていた。
「忘れろ。わしはただの……」
「すかしっ屁?」
「違うわボケェ!!」
 イツミのローから掬い上げる形になった蹴り上げの爪先をモロに顎に喰らった俺はものの見事に意識を刈り取られて、布団に沈み込んだのだった。

 ○

 翌朝、起きるともうそこには誰もいなかった。小牧すらいない。妹が寝ていた布団は綺麗に畳まれて部屋の隅に積み重ねられている。俺もそれをマネしてから、あくび混じりに一階に下りた。ちなみに鬼津奈邸は二階建てで、俺と小牧は上の階に寝かせてもらっている。家主の六露は一階の当主の間で寝起きしているそうだ。
 居間に入ると、もう食事の用意が出来ていた。ふわっとしたごはんの匂いと腹を鳴らす味噌汁の香りに俺はその場でくらりと倒れそうになる。
「どうしたのお兄ちゃん」おそらく食い気に負けたのであろう、兄貴を待つことなくモリモリと銀シャリを喰っている妹に俺は涙を見せず拭き取った。
「なあに、朝起きたらメシが出来てるってのに感動してな……」
「小牧から聞きました」とお茶を点てている六露がついでとばかりに俺を軽く見上げてきた。
「いつもはお炊事はあなたがやっているそうですね。見直しました」
「……あたしもちょっとはやりますケドね」と小牧は不満そう。お前こないだ電子レンジでタマゴ爆発させたの反省しとけよ。
「ま、両親が忙しいから仕方なく、な」
「立派なことです。私も似たようなものですから」
「……あはははは」
 ビミョーな笑いで誤魔化す我ら鷹藤兄妹。六露さん、返し辛いです、それ。悪気も邪気もないんだろーけどさ……
「昨夜は眠れましたか?」
 どうぞ、と湯気の立っている緑茶を俺に差し出しながら六露が尋ねてきた。俺は頷きながら茶を啜り、
「ん、まーな。でもなんか変な夢を見たんだよなあ」
「夢?」
 六露が食卓を布巾で拭く手を止めて俺をじっと見つめてきた。
「それは、どんな?」
「いや、忘れた。大した夢じゃなかったし。ああでも、なんか……」
 俺は六露を見た。日本人形のように整った顔、艶やかな黒髪、蝋のように白い肌、雨のように冷ややかな雰囲気、布巾を持つ小さな白い手……俺は身を乗り出して、六露のにおいを嗅いでみた。
「くんくん」
「……っ!」
「違うなあ」
「お、お兄ちゃ――――――――ん!! やめて、追い出されちゃう、あたしたちこの家から追い出されちゃうよぉぉぉぉぉぉっ!!」
「どわあっ? い、いや違うんだよ小牧、昨夜見た夢でな……」
 小牧に腕を引っ張られてひっくり返った俺を、飛びあがってなぜか割烹着の胸元を握り締めている六露がわなわなと震えながら見下ろしていた。やっべぇー完全に痴漢を見る目だよ。
「ふ、ふ、ふ」
「ふ?」
「不埒者っ!!」
 どっかぁっ! ……っと、鈍く重い音を俺の顎から弾き出したその蹴りは、俺の記憶をさらに数時間分消し飛ばした。

 ……いやあ、起きたら木に縛りつけられてるとか、親にもされたことなかったよ。
 へんなの。

     


 あなたの家には魔物が棲んでいる――いきなりこんなことを言われて俺はむかっ腹が立っちゃって、そんな不届きなことを言ってきた女子に面と向かって言ってやった。
「ふざけんな、あの家のトイレに神様なんていねぇ!」
「いる」
 あてがわれた新しい俺の座席の前で、なにやら古文書のようなものを胸に大事そうに抱えた女子は三白眼で俺を睨んできた。
「あなたの家には、それはもう、大量に魔物がいる。そう、苔むした石を取り除いた時に出てくる虫ケラたちのように――ね」
「あんた意外とヤンチャだな」
「…………」
 その女子、確か名前は――と俺は上履きを見た。苔原志瑞(こけはらしみず)、と書いてある。上履きの縁が青色だったので、まだ中学三年生のようだ。俺の隣で泡を喰っていた小牧が、ようやく我に返った。
「い、いきなり何を言うんですか! あたしたちの家にお化けなんていません!」
「いる」
「ちょ、ちょっとちょっと! 顔が近い、顔が! いやあ~……」
 苔原に頭突きを喰らいそうなまでに近づかれた小牧が悲鳴をあげた。小牧はチビの方ではないが、一つ年上のはずの苔原は小牧の喉元ほどの背しかない。鎖帷子みたいに編みこんで流している黒髪がとても防御力高そうな感じだった。
 ところで、俺たちの住むことになった村には、学校が一つしかない。それも小中高一貫で、クラスも小学生はべつだが、中高生は一緒にされている。なので俺は妹とクラスメイトになるというあだち充が好きそうな設定をひっさげて、この傍立止草(やみぐさ)分校に入学したのだった。……高校なのに分校って、大丈夫なのだろうか、いろいろと。
 そうして入学式早々、妹を購買という名の無人野菜販売所に使いパシリに送り出そうとした矢先、俺と小牧はこのあやしげなクラスメイトに絡まれてしまったのだった。
 ちなみに、噂の家の主である六露は先生に呼ばれてどこかへいってしまっていた。なので小牧は勇敢にも、この女子制服を着た不審者の対応をがんばっている。将来はコールセンターで働けるようになるはずだ。
「お兄ちゃん、ぼさっとしてないでお兄ちゃんからもなんとか言ってよ!」
「仕方ねぇな――」
 俺は座席を立ち上がる際に思い切り膝をぶつけ、その場に跪いた。前の座席に座っていた、俺と同い年の男子が「大丈夫か」と覗き込んできた。上履きには「吉田」とある。吉田いいやつだ。俺は親指を立ててみせた。
「保健室にいきたい」
「わかった、連れてってやる」
「ありがとう」
「こら、逃げるなバカ兄貴!!」
 妹に制服を引っ張られ、俺は苔原の前に盾のように押し出された。俺の背中からぴょこんと小牧が顔を出して唾を飛ばす。
「こ、苔原先輩! あんまりへんなこと言ってると、うちのお兄ちゃんがぶっ飛ばしますから!」
「……そうなの?」と苔原が首をかしげて俺を見上げてきた。俺はふう、とため息をつく。
「ぶっ飛ばすなんてそんな野蛮なこと、僕には出来ない」
「カマトトぶってんじゃねぇ!」
 えぇー妹にそんなセリフを吐かれるなんてお兄ちゃん予想だにしてない。俺はその場に跪いてしくしく泣き出したい気持ちをこらえながら、苔原と向かい合った。どうでもいいが、こいつおっぱいまるで無ぇ。
「えーと、こほん。苔原くん。入学早々、人ん家に喧嘩売るとはどういうことかね。聞けば六露――俺と小牧が世話になってる鬼津奈家というのは、地元でも名のある家だそうじゃないか。そういう家に難癖をつけるのは、そのー、毎日を笑顔で過ごすにはあまりよろしくないことだと思わんかね?」
「わるものかっ!」
 妹にハリセンでぶっ叩かれた。おい、どこのどいつだうちの妹に凶器を渡したやからは。お兄ちゃん許さんぞ。地味に痛ぇ。
「もっとカッコよく啖呵の一つでも切ってよ! これじゃあたしまでカッコ悪いじゃん!」
「わがままなやつ」
「はあーっ!? どこがぁーっ!?」
 真っ赤になってはーはー言ってる妹をなだめていると、ぼそりと苔原が呪文を唱えるように静かに言った。
「……この土地は呪われている。いますぐ出て行った方がいい。その方が身のためよ……高梨くん」
「あ、鷹藤です」
「鷹藤くん。まだ春だから鬼の気は弱い……けれど夏になったら、どうなるか分からないわよ。それまでに荷物をまとめて田舎に帰るのね……もし何かあったら、相談に乗ってあげるわ。……それじゃ、私は実家の田植えがあるから」
 そう言って、編みこんだ黒髪をたなびかせ、苔原は去っていった。俺と小牧は顔を見合わせる。
「……なんだったんだ、ありゃあ」
「さあ……」
「ふっふっふ」
 いきなり俺と妹の間に割り込んできたのは、さっきの吉田だった。よく見ると茶髪でじゃらじゃらアクセサリーをつけており、結構チャラい。でもポケットから溢れてるスマホにくくりつけられているらしいストラップはすべて時代遅れの骨董品であることから、都会人への道はかなり険しそうだ。
「聞いて驚け、あれこそ我が分校始まって以来の変人、苔原志瑞。実家は米農家、裏に山を三つ持っていて幼女の頃はイノシシどもをまとめる長として尾根伝いに君臨していた土民だ」
「最後のまとめ方がひでぇ」
「……そんなイノシシ乗ってた人が、なんであんなオカルトチックに?」と小牧が早く帰りたそうな顔で言った。
「電車もロクに通ってない、一本終わるまで同じ景色が続くこの集落に住み続けていると、どうしても都会とwifiへの憧れからおかしくなるやつが出てくる……この俺のようにな」
 吉田は皮肉げに、シャツ出しして腰パンしている自分の格好を手を広げて示してみせた。ちょっとハリキリすぎてるって分かってるんだ……チェーンつけすぎて腰パンていうか見せパンになってるしな。
「中学一年になった頃、苔原はアマゾンでライトノベルを大量に買い始めた。あと、俺んちの兄貴が大学へいくから、持ってたラノベやマンガを全部苔原に奪わ……いや、寄付した。それからだ……あいつが闇夜の月に己が詩を捧げ始めたのは」
「お前も毒されてない?」
「そんなことはねぇっ! 俺はナウでヤングな、その、あれだ。高校生だ。断じて前世で苔原と宿命の仇敵だったことなどないっ!」
「わかったわかった。で、なんで苔原は鬼津奈の家に魔物がいるなんて言い出したんだ?」
「単純に古くてでっかいからだ」
「な、なんて幼い結末!」と小牧がチーズケーキだと思ってたものがレゴブロックだったときのような顔で叫んだ。
「そんなめちゃめちゃな人に目をつけられるなんて……うう……あたしの中学二年の生活はどうなっちゃうの……」
「そうだな、お兄ちゃんの高校一年の生活もどうなっちゃうんだろうな」
「お兄ちゃんのはべつにいいじゃん」
「なんで?」
 妹よ、俺も一人の人間だぞよ。
「……なにかあったのですか?」
 苔原の奇行など慣れっこのように和気藹々としている中高一貫クラスに、手をハンカチで拭きふきしながら六露が戻ってきた。おトイレいってきたの? ねぇねぇ。
「バカ兄っ!」
「ぐはあっ」
 ごちん、と妹にジャンプされながらブッ叩かれ、俺はその場に長く這った。その俺の頭をぐりぐりと踏みつけながら、小牧が「オホホホホホ」と口に手を当てて笑う。
「すみませーん六露さん。うちの兄、なーんにも考えてないんです。ほんと、なーんにも」
「……? はあ」
 六露はよく分かっていないらしい。ふい、と吉田を見て、
「何があったのか説明なさい、吉田」
「御意」
「おまえこの娘のなんなの?」
 跪いて苔原が喧嘩売ってきた経緯を説明する同級生を見下ろしながら、俺は地方社会の上下関係の厳しさを痛感していた。吉田、すんごい幸せそう。
「……ということがあったんです、お嬢」
「はあ、またですか」
 ため息をつき目を伏せ首を振る六露。
「なになに、前にもあったの、こーゆーこと」
「苔原さんは鬼津奈の家が嫌いのようです。以前から、なにかにつけて私を魔女だとか、悪魔の使いだとか、言ってきてくるのです。迷惑しているのですが、改めてくれる様子もなく……」
「おまえも大変だなあ」
「いえ。……苔原家と鬼津奈家は、少し遺恨があるのです。もう五十年も前のことですが……」
 六露は珍しく口を濁して、「そんなことより」と俺を見上げてきた。
「史明さん。実は手伝って欲しいことがあるのです」
「はいはい、なんでも。で、何をすれば?」
「草むしりです」
 日本人形みたいな美少女が言うと、なんか素敵なことに聞こえたが、そんな夢は一瞬で覚めた。小牧を見ると、持っていたハリセンを紙飛行機にして窓から飛ばしていた。アンニュイな雰囲気を出したって逃げられんぞ、草むしりからは。

       

表紙

顎男 先生に励ましのお便りを送ろう!!

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Neetsha