「犯人の顔は見たのか?」
 棚の上の大仰な花に視線を向けたまま少年は言った。波一つない水面みなもに葉がたった一枚落ちるように。風が柳を撫でてゆくように。それは“さりげなさ”の極致にあった。後藤輝幸はこの質問をただの世間話の延長ぐらいのものと捉え、少なくとも、その先にある少年の考えなどには到底及びもついてはいない。
「そりゃあ……ぼんやりとは見たけどなあ。でも、その時は落ち着いて顔なんて見てられる状態じゃなかったし。そもそも、マスクをしてたみたいだったから」
 そうか、と少年は大して興味もないといったふうに相槌を打った。
「どんな奴だった? たとえば、服装とか」
 んん、と深い唸りが声が閉じた口から小さく漏れる。
 そういえば、ただの世間話の割にはやけに食いつく。もしかしたら何か理由があってのことなのかと、後藤輝幸の頭に考えが過ぎる。
「別に、覚えてなけりゃ良いけどさ」
 少年は優しく微笑んでみせた。その微笑は、なんとか質問に応えてやりたいと、後藤輝幸にそう思わせるに充分なものだった。温かみのあるその微笑。これまでの数年間、常に頼もしい存在であった少年のその微笑。だがその一方で、今にも崩れてしまいそうな脆さをもその微笑は内包していた。もし自分が役に立てなければ、興味を失われれば、その顔には今すぐ氷のような無表情が張り付くのではないかと。今まで花見に向いていたあの凍てつく瞳が、今度は自分に向くのではないかと。後藤輝幸の背筋に厭な緊張が走る。
 もう一度、深く唸った。
「ううん、そうだなあ。暗くてはっきりとは見えなったけど、汚らしい格好だったよ。最初に声かけられた時は浮浪者かと思った」
 浮浪者か、と少年は口の中で小さく呟いた。
 ――花見がホームレスと関係を持つことがあるだろうか。もしあるとすれば、それは一体どんな場合だろう。
 たとえば、街で落し物を拾う……、これはホームレスの性質上考えにくい。アウトドアを好まない、いや、そもそも友達のいない花見だ、公園等で関わりを持つ機会も限られるだろう。
 たとえば、イジメられた帰りに腫らした瞳で黄昏る。そこにホームレスがいて……、これはありそうだ。だとすれば、人目のある場所は選ばないだろう。公衆トイレ、使われていない野球場のベンチ、川……、河川敷……。
 と、ここまで思考を巡らせたところで少年は苦笑した。イジメられっ子の気持ちなんか知るか、と胸の内で笑い飛ばす。
「悪いな、辛いことを思い出させて」
 再び、少年の顔には温かい微笑が張り付いていた。
「何でも言ってよ。欲しいものがあれば、何でも持ってくるから」
 その言葉は、傷心の中にあった後藤輝幸の心臓を素手でそっと撫でた。
「ありがとう。もし良かったら、ぜひまた来て欲しいな」
「もちろん。輝幸と話すのは楽しいからね」
 そう言って少年は立ち上がり、肩掛けの鞄を拾い上げた。
 またね、と言って歩き出す。その刹那、扉のところで足を止めると少年は輝幸の方を振り返った。
「絶対、またサッカーできるよ。何でもするから、輝幸も諦めちゃ駄目だよ」
 少し照れ臭そうに、もう一度またねと言って今度こそ病室を後にする。
 一人きりになった病室で、後藤輝幸はその言葉を何度も何度も噛み締めながら、頬を伝う涙を拭うこともなく少年の存在に心から感謝した。

 ○

「……さすがに、警察の目も厳しくなってきやがった」
 男がまるで他人事のように笑う。
「そろそろ潮時かもしれねえな、坊主」
 さすがに、いつものビニールテントではない。男の寝床からは大分距離をとった公園のベンチ。三つあるベンチのそれぞれ端に二人は腰を下ろし、まるで赤の他人のような振舞いを演じながら言葉だけを酌み交わしていた。
「もうちょっと、いけない?」
 花見は即答した。
 まだ、やめられない。たったこれしきのことで満足する訳にはいかない。
「貪欲だねえ」
 男は笑った。
「そんなに酷い仕打ちを受けたのか? そいつらに」
 煽るような視線で花見に問う。
 しかしそこに決して厭なニュアンスは含まれず、まるで兄が年の離れた妹をからかうような、そんな様子であった。
 それに対して花見は一片の感情も返すことはなかった。ただじっ、と正面を見つめ黙りこむ。深く深く、その黒目は濁りを増してゆく。呆れたように溜息をつく男。やがて少ししてから、その静寂を破ったのは花見だった。
「そういえばさ。おじさん、その気になれば大人でも殺せる?」
 花見が問うた。