「さあねえ」
 男は背中を大きく反らせ、間の抜けた声を上げた。古ぼけた木製のベンチがギシギシと鳴く。
「殺せるかもしれねえし、無理かもしれねえし。どうしてそんなことを訊く?」
 男が花見に顔を向けると、花見も男の方を見ていた。視線が薄く重なる。ガサガサガサ、と風に煽られた木が葉を揺らした。
「殺したい奴がいるんだ」
 花見は目線を揺らがせることなくはっきりとそう口にした。一拍置いて、たとえ何をしてでも、と付け加える。どんなことをしてでも、何を犠牲にしてでも。
 男はそれを笑い飛ばすようなことはなかったが、男もまた花見の目を真っ直ぐに見据え、へえ、と呟くだけに留まった。
「おじさん」花見は黒々としたその瞳を微塵も泳がせることなく続ける。「ごはん何日分で、やってくれる?」
 静寂。
 無限のような静寂が二人の間に流れた。お互いに決して目を逸らしはしなかった。それはまるで意地の張り合いでもしているかのように。輪郭を覆い隠すほどの長髪を垂らしたホームレスの男と、華奢な身体の小学生。一つのベンチを間に挟み、二人は視線を重ね合った。
 やがて、ごくりと喉仏を鳴らしたのはどちらの男だっただろうか。
「やめとけよ」
 男が言った。
「さすがにそこまではしねえよ。大の大人に手を出すってなりゃあ、こっちも相当のリスクを負わなきゃならん。もちろん、お前みたいなガキにはもっと無理だ。それに、万が一できたとしても……」
 俺みたいになるぞ、とは言わなかった。
「関係ない」
 花見が目線を逸らし顔を伏せる。絶対に、絶対に、と何度も繰り返し呟く。絶対に、その男だけは。
 はあ、と呆れたような溜息が男の口から漏れる。憐れむような目で花見の小さな体を見下ろす。
「一体何があった? そいつに何をされたんだ? お前は」
 男は花見の過去が気になりだしていた。一体、どんな酷い仕打ちを受ければそこまで歪むのだろうかと。自分の子供時代を思い返してみても、ここまでは歪んでいなかった。
 逡巡の後、花見はぽつらぽつらと呟くように語った。
 クラスメイトから受けた虐めについて。教師が自分の側に立ってくれなかったこと。親のこと。そして、唯一心を許すことのできた丸子という少女について。その丸子を死に追いやった、父の存在について。
「その男だけは、絶対に許せない」
 なるほどねえ、と男は小さく呟いた。
「顔は? どこに住んでるのか知ってるのか?」
 いや、とバツが悪そうに花見は口をくぐもらせた。
「顔も……名前も知らない。住んでるのは……たぶん、福岡だけど……」
 はっはっは、と男は体を「く」の形にして笑った。正気かよ、と花見の顔を下から見上げる。
「もうちょい利口な奴だと思ってたがなあ」
 花見の眉間に皺が寄った。不貞腐れたように口を噤む。
「……どうしても、やる気かい?」
 薄ら笑いを浮かべながら男は花見に確かめた。もちろん、どんな答えが返ってくるかということは容易に想像がついている。その予想と寸分違わず、花見はもちろんと即答した。
「……オーケー」
 両膝に肘をついたまま、男は緩んでいた口を真一文字に締め直した。そしてボロボロのコートの内ポケットからナイフを取り出し、花見の足元へと軽く放る。
「顔も知らない、名前も知らない。そんな人間を殺そうとする馬鹿に付き合う義理はもうねえな。もしも……もしもだ。もしそいつを見つけられたとしたって、今のお前じゃ大人の心臓に刃を立てるのは不可能だ。そのことを、特別に俺が教えてやる」
 花見は、男の言葉の真意を量りかねていた。一体何が言いたいのだろうかと。
 しかし足元に転がる鈍色にびいろのナイフが、少なくともこれが冗談の類ではないことを物語っていた。そして、自らの身に深刻なる危機が近付いているということを、肌で理解する。尋常ならざる男の雰囲気。それはこれまで陰から見守っていた、三人の被害者達へと向けられていたあの気性だった。
「来いよ。三途の川を見せてやる」
 男が少し冗談っぽく言ったのを見て、花見の喉仏が大袈裟に鳴った。