いつやろう、いつやろう、と近頃花見は息を潜めて待っていた。
 春の終わり頃から、花見のランドセルには常にロープが忍んでいた。ちょっとやそっとじゃ千切れないような頑丈なロープだ。どこまでも届くような尾の長いロープだ。そいつをランドセルの中に無理やり詰め込んで、その換わり、毎日教科書を持ち帰ることは諦めた。そしたら教科書への悪戯は爆発的に増加したが、それに対して逐一腹を立てたり悲しんでやるようなことはなかった。ただひたすら、息を潜めて待っていた。
「花見。今日ちょっと残ってくれるか?」
 ある日の放課後、花見は担任の間宮に雑用を頼まれた。
 最近は教師も大変らしい。気軽に生徒に雑用を頼もうものなら「どうしてウチの子にだけ?!」と、“教育熱心な”お母さんが怒鳴りこんで来ないとも限らないからだ。そこで、気弱で決して逆らったりせず、親も口うるさくない花見は間宮に重宝されていた。
「分かりました、先生」
 これに花見は胸を躍らせた。「今日だ」、と思った。
 間宮に頼まれた雑用を終わらせると、時計の針は四時半を回っていた。校内はすっかり静まり返っていて、まだ残っているような生徒はいない。間宮に真っ直ぐ帰るよう釘を刺された花見だったが、階段を上がり最上階の教室を目指した。
 誰もいない、誰もいない。
 最上階は真に閑散としていた。ぺたり、ぺたり、と歯切れの悪い足音が背中からついてくる。ごほん、と小さく咳込むと、音は廊下の端から端まで駆け抜けた。最上階の、一番端。
 いつもと違う教室は新鮮味があった。知らない内装、知らない空気、知らない名前。それらを抜けて、窓の鍵に手を掛ける。すっかり錆びついた鍵はガガガと音を立てながら鈍く回り、解錠された窓を引いて花見はベランダへと出た。久し振りに上がったベランダは思った以上に開放感があり、身を乗り出して下を覗くと思わず悪寒が背中を走った。高い所は決して得意ではない。
 しかし、それでも。花見の中で、好奇心に勝る感情はなかった。
 ランドセルを開くと花見はロープを取り出した。その端には玉結びで“重し”が作ってあり、その部分を右手に構える。ベランダから背中を投げ出すようにして天を仰ぎ、そのロープの玉を屋上へと向かって放り投げる。二度、三度、四度。五度目の投擲|《とうてき》で玉は上手く屋上の手すりへと引っ掛かり、花見が馬上の騎手のような動作で手繰り寄せると、玉はきちんと手元へと戻ってきた。手すりをくぐって来たロープの両端を掴み、しっかりと腰に巻きつける。全力で引っ張っても揺らしても屋上の手すりはビクともしないのを確認して、花見は大きく息をついた。
 次の瞬間、両足で強く地面を踏んだ。飛び上がった肢体を花見の細腕が必死で支える。ゆっくりと、漕ぐようにしてロープを昇ってゆく。引くたびに、ギシギシとロープが軋むのを感じる。
 花見の体は、完全に空へと放たれた。
 風が吹く度に、宙ぶらりんの体は大きく左右に振れた。なんてことをしてしまったんだと、後悔のようなものが頭をぎりもする。でも、だって。屋上に上がってみたかったんだ。固く施錠され、決して開くことのない禁断の園。それはいつだって生徒達にとっては憧れで、魅力的で。
 小学五年生の花見倫像は、してみたいことの全てをやった。
 誰にも遠慮しない。失敗した時のことなど知らない。悲惨な人生だからこそ、身軽になれることがある。いつ死んだって構いやしないのに、何を恐れることがあるのだろう。
 掌は裂け、鮮血がロープを赤く滲ませた。軍手を用意すれば良かったと思った。腕は震え、肩も、背中も。今にも手を離してしまいそうだった。そうなれば、このロープがきちんと命綱の役目を果たしてくれる保証などない。でも、もう少し。
 まずは右手が手すりを掴んだ。次いで、左手。しっかりと校舎に根を張ったそれに身を委ねることが出来たことで、ひとまず大きく息をついた。後ろを振り返ると、自分がとんでもないことをしていたという実感が湧いてくる。その時。
「いやいやいや、普通、分かるでしょ?」
 何故か、その声は上から飛んできた。誰もいないはずの、入れるはずのない屋上から。
「扉に鍵がしてあるのは何故だと思う? 入っちゃ駄目だからだよ。『ロープをよじ登ってくるなら立ち入り可』だなんて、本気で思った?」
 花見が見上げると、そこには女の子が立っていた。手すりに両肘を立てて、面白そうに花見のことを見降ろしている。
 ロープを掴んだり、手を引こうとしてくれる気配が全く感じられないことから、こいつはロクな奴じゃないな、と花見は思った。