Neetel Inside 文芸新都
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「私は丸子乙(まるこ おつ)。あなたは?」
 仮にも生死の境にいる花見を見下ろしながら、丸子はさっさと自己紹介を済ませた。
 花見はすーっと腹に空気を溜めてから、腕に力を入れて一気に体を引き上げる。右足で手すりのへりを踏みつけて、その反動に任せて体を手すりの向こう側へと放り投げた。
 やるね、と顔色一つ変えずに丸子は言った。十点満点、とも。
「それにしても、まさかこんな原始的な方法で上がってくるとはね。あなた、頭は大丈夫?」
 クルクルと、こめかみの横で回した人差し指に長い髪を巻きつける。小馬鹿にしたように、わらう。切れ長な瞳は仰向けに転がる花見を捉えてはいるが、その実、果たしてどこに視点を置いていることやら、という感じだ。丸子はどこか掴み所のない女だった。
「そっちこそ、どうやってここに?」
 自己紹介を後回しにして、花見は訊いた。俺のやり方を原始的と嘲笑うなら、お前は、一体どうやって?
 すると丸子はロングスカートのポケットから一本の鍵を取り出して、そいつを花見の胸元へふわりと投げた。
「ここの合鍵。良いでしょ? 激レアよ」
 ええ? 卑怯くせえ、と花見は声を上げた。
 それは、率直な感想だった。軽蔑でも、憤慨でもなく。ただ純粋に、「俺はこんなに苦労したのに」という非難をぶつけてやりたくなった。それは見え透いた負け惜しみと、一握りの、尊敬。
「私、ここに来るのが日課なの。誰かにバレたことなんて無いよ。私だけの空間。私だけの時間。ここに他人が入ってくるなんて絶対に許せない。……そう思ってたけど、下からロープが飛んできた時はさすがに驚いた。その度胸に免じて、あなたなら許してあげる、特別に」
 どうしてお前の許可がいるのかと腑に落ちない部分も抱えつつ、反論の弁を呑みこんでひとまず花見は体を起こした。
「俺は花見。花見倫象」
 ぴんと背筋を伸ばして肩を並べてみても、どうやら丸子の方が少し背が高いようであった。すらりと細長い手足に、腰まで届きそうな長髪。ただしそれは手入れが施されているという感じではなく、ただひたすら伸ばしっぱなしというふうだ。それに、華奢な体つきは“スリム”というよりも病的に細い。
「そ、よろしくね。――ところで」
 急に言葉のトーンを変えた丸子が顔を近付けて話すものだから、花見は一歩たじろいだ。
「あなた、子猫殺してたでしょう?」
 ドキッとした。
 唐突な問いに花見はごくりと生唾を飲み込むばかりで、気の利いた反論を持ち合わせてはいなかった。
「私、ここに来るのが日課だって言ったでしょう? あなたの通学路、ちょうどビルの隙間から見えるのよ。ちょうど、あの空き地のあたりが」
 そうだったのか、と花見は思った。正直、あの場所が学校から見える角度にあるなんてことは気がついていなかった。己の迂闊さが恨めしく思えると共に、しかし、「殺してはいない」。そうなのだ、花見は子猫を殺してはいないのだ。ただ子猫とじゃれようとしていたら、不運にもトラックに轢かれてしまった。それだけの話だ。
「大丈夫、こんなことで責めるつもりはないよ。ただ、みみっちいなあ、と思って。あれだけ時間を掛けて、綿密に計画して、子猫一匹じゃね」
 むっ、と花見は眉間に皺を寄せた。
「シコシコ動物殺して、それで満足?」
 そう言って、またも丸子は薄く笑った。人を小馬鹿にした、口に張り付いたような笑みだ。爽やかさなんてまったく無い。無いが、吸いこまれそうな魅力があるにはあった。
「なめんなよ」
 花見はその瞳を真っ直ぐに捉えて言った。
「なんだって、殺せるよ」
 本当に? と試すように丸子は言う。
「お前でも」
 お前でも、殺せる。
 花見は本気だった。やれと言われれば、殺せる気がした。なんだってできる気がした。できないことなんて無いと思っていた。
「それは、凄いね」
 丸子は今度は優しく笑った。
「でも、それはしておこうよ」
 どっちかが死んじゃったら、自慢する相手がいなくなったら、つまらないでしょ? なんでも。
 意味深な言葉を残して、丸子はきびすを返した。
「じゃあね、帰りも“そちら”からどうぞ。そのつもりで上がって来たんでしょう?」
 にやにやと鼻につく笑みを浮かべたと思ったら、素早く扉を開き、自分一人だけを通し、閉めた。がちゃり、と施錠の音が重く響く。
 本当に、ぶっ殺すぞ。
 花見は小さく呟いた。

       

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