排他的青少年(達)

 小学五年生の花見倫象は至って普通の子供である。
 ただし少しだけ内向的で、少しだけ歪んだ方向に好奇心旺盛で、少しだけ人より親が少なく、かつ少しだけ頭が良かった。そして花見の名誉の為に補足するのであれば、彼の通う札幌市立港北小学校は人間形成の場として必ずしも適切であるとは言い難かった。多種多様なイジメが横行し、それを知っていながら自らの保身に走る大人しかいないこの学校では、花見に限らずとも心に暗いものを抱える生徒は多い。
 ただし、それが花見にとって不幸かどうか、それは別の話である。花見は自身がイジメの対象とされている内に、陰湿で吐き気のするようなイジメを受け続けている内に、次第に快感を得るようになっていた。
 三年生の時、鞄が構内の池に沈められていたことがあった。池は暗く濁っている。手入れなどされていない池には苔や雑草の類が無限に蔓延はびこっており、線の細い女子などは近付くだけで気分を悪くしている。
「おい、花見、池の中を見てみろよ」
 放課後、鞄を探して校内を歩き回る花見にクラスメイトが言った。
 花見が池の前に来てみると、ツンとした臭いが鼻を突っついた。滅多なことでは動じない花見もこれにはさすがに涙腺を緩ませる。
 池に手を突っ込むと、池はむしろ「沼」の感覚に近かった。水はむしろ「泥」の間隔に近かった。沈めた瞬間にぬるっとした感覚が右手を覆い、どうにも「するり」とは池の中をき回せない。立派な重量感を湛えた水や雑草は押し返すように花見の右手を包み込み、柔らかい苔の感触が背筋に冷たいものを走らせた。
 しかし池の外周をぐるりと周ってみても、どうやら池の外から手の届く範囲には鞄はないらしい。ふう、と溜息をついて、花見は意を決して靴を脱いだ。恐る恐る、静かに右足を池の中へと沈める。さすがに脱くことができなかった靴下越しに、ぬるい感触が親指と人差し指の間をするりと抜ける。むに、と、何かを踏んだ。慌てて右足を持ちあげると、派手に跳ねた水飛沫が顔を襲った。水は黒く、臭く、汚い。
 結論から言うと、池の中に鞄は無かった。花見はクラスメイトに上手く担がれたのだった。
 遅ればせながら、花見の頭もそのことを理解する。だがしかし、花見は池を抜け出そうとはしなかった。次第に、快感になってきていたのだ。
 指を襲う苔の感触ではない。ふくらはぎを撫でる雑草の揺らぎでもない。悲惨な目に遭っている自分に、である。
「こんな悲惨な目に遭っているんだぞ、俺は」
 池の中を一歩進む度に、花見は強力な鎧を纏うかのような感覚になっていた。それは他ならぬ、情状酌量という名の武器。
 こんな酷い目に遭っているんだぞ、俺は。何度も何度も頭の中で反芻する。
 四年生の時、プール学習から戻ってくると着替えは大便器の中に沈んでいた。どんなイジメにも感情を爆発させることのない花見に対し、イジメっ子達も痺れを切らしたように次第に過激な行動へとエスカレートしていたのであった。
 ――怒りよりも、悲しみよりも、後から湧いてくる快感に身を委ねた。
 ある日の帰り際、外靴が濡れていた。仕方なく濡れた靴を履いて帰ると、しばらくしてから靴を濡らしたものの正体は尿であることに気が付いた。
 それでも最早、花見は胸に黒いものを抱えることはなかった。
 むしろ、胸のすく思いがした。
 いいさ、好きにしろ、なんでもやれ。
 ただし、俺も好きにさせて貰う。
 悲惨なイジメを受ける度に、「これで俺は自由になれる」という感覚を花見は得ていたのだった。“好奇心旺盛”な花見は、やってみたいことが山ほどあった。あれも、これも。何がどうなっても知らないぞ、俺は、お前らのせいで性格が歪んだんだからな。
 そう考えるととても愉快な気持ちになって、花見は尿に浸したその靴でスキップを踏んだ。


 いつやろう、いつやろう、と近頃花見は息を潜めて待っていた。
 春の終わり頃から、花見のランドセルには常にロープが忍んでいた。ちょっとやそっとじゃ千切れないような頑丈なロープだ。どこまでも届くような尾の長いロープだ。そいつをランドセルの中に無理やり詰め込んで、その換わり、毎日教科書を持ち帰ることは諦めた。そしたら教科書への悪戯は爆発的に増加したが、それに対して逐一腹を立てたり悲しんでやるようなことはなかった。ただひたすら、息を潜めて待っていた。
「花見。今日ちょっと残ってくれるか?」
 ある日の放課後、花見は担任の間宮に雑用を頼まれた。
 最近は教師も大変らしい。気軽に生徒に雑用を頼もうものなら「どうしてウチの子にだけ?!」と、“教育熱心な”お母さんが怒鳴りこんで来ないとも限らないからだ。そこで、気弱で決して逆らったりせず、親も口うるさくない花見は間宮に重宝されていた。
「分かりました、先生」
 これに花見は胸を躍らせた。「今日だ」、と思った。
 間宮に頼まれた雑用を終わらせると、時計の針は四時半を回っていた。校内はすっかり静まり返っていて、まだ残っているような生徒はいない。間宮に真っ直ぐ帰るよう釘を刺された花見だったが、階段を上がり最上階の教室を目指した。
 誰もいない、誰もいない。
 最上階は真に閑散としていた。ぺたり、ぺたり、と歯切れの悪い足音が背中からついてくる。ごほん、と小さく咳込むと、音は廊下の端から端まで駆け抜けた。最上階の、一番端。
 いつもと違う教室は新鮮味があった。知らない内装、知らない空気、知らない名前。それらを抜けて、窓の鍵に手を掛ける。すっかり錆びついた鍵はガガガと音を立てながら鈍く回り、解錠された窓を引いて花見はベランダへと出た。久し振りに上がったベランダは思った以上に開放感があり、身を乗り出して下を覗くと思わず悪寒が背中を走った。高い所は決して得意ではない。
 しかし、それでも。花見の中で、好奇心に勝る感情はなかった。
 ランドセルを開くと花見はロープを取り出した。その端には玉結びで“重し”が作ってあり、その部分を右手に構える。ベランダから背中を投げ出すようにして天を仰ぎ、そのロープの玉を屋上へと向かって放り投げる。二度、三度、四度。五度目の投擲|《とうてき》で玉は上手く屋上の手すりへと引っ掛かり、花見が馬上の騎手のような動作で手繰り寄せると、玉はきちんと手元へと戻ってきた。手すりをくぐって来たロープの両端を掴み、しっかりと腰に巻きつける。全力で引っ張っても揺らしても屋上の手すりはビクともしないのを確認して、花見は大きく息をついた。
 次の瞬間、両足で強く地面を踏んだ。飛び上がった肢体を花見の細腕が必死で支える。ゆっくりと、漕ぐようにしてロープを昇ってゆく。引くたびに、ギシギシとロープが軋むのを感じる。
 花見の体は、完全に空へと放たれた。
 風が吹く度に、宙ぶらりんの体は大きく左右に振れた。なんてことをしてしまったんだと、後悔のようなものが頭をぎりもする。でも、だって。屋上に上がってみたかったんだ。固く施錠され、決して開くことのない禁断の園。それはいつだって生徒達にとっては憧れで、魅力的で。
 小学五年生の花見倫像は、してみたいことの全てをやった。
 誰にも遠慮しない。失敗した時のことなど知らない。悲惨な人生だからこそ、身軽になれることがある。いつ死んだって構いやしないのに、何を恐れることがあるのだろう。
 掌は裂け、鮮血がロープを赤く滲ませた。軍手を用意すれば良かったと思った。腕は震え、肩も、背中も。今にも手を離してしまいそうだった。そうなれば、このロープがきちんと命綱の役目を果たしてくれる保証などない。でも、もう少し。
 まずは右手が手すりを掴んだ。次いで、左手。しっかりと校舎に根を張ったそれに身を委ねることが出来たことで、ひとまず大きく息をついた。後ろを振り返ると、自分がとんでもないことをしていたという実感が湧いてくる。その時。
「いやいやいや、普通、分かるでしょ?」
 何故か、その声は上から飛んできた。誰もいないはずの、入れるはずのない屋上から。
「扉に鍵がしてあるのは何故だと思う? 入っちゃ駄目だからだよ。『ロープをよじ登ってくるなら立ち入り可』だなんて、本気で思った?」
 花見が見上げると、そこには女の子が立っていた。手すりに両肘を立てて、面白そうに花見のことを見降ろしている。
 ロープを掴んだり、手を引こうとしてくれる気配が全く感じられないことから、こいつはロクな奴じゃないな、と花見は思った。
「私は丸子乙(まるこ おつ)。あなたは?」
 仮にも生死の境にいる花見を見下ろしながら、丸子はさっさと自己紹介を済ませた。
 花見はすーっと腹に空気を溜めてから、腕に力を入れて一気に体を引き上げる。右足で手すりのへりを踏みつけて、その反動に任せて体を手すりの向こう側へと放り投げた。
 やるね、と顔色一つ変えずに丸子は言った。十点満点、とも。
「それにしても、まさかこんな原始的な方法で上がってくるとはね。あなた、頭は大丈夫?」
 クルクルと、こめかみの横で回した人差し指に長い髪を巻きつける。小馬鹿にしたように、わらう。切れ長な瞳は仰向けに転がる花見を捉えてはいるが、その実、果たしてどこに視点を置いていることやら、という感じだ。丸子はどこか掴み所のない女だった。
「そっちこそ、どうやってここに?」
 自己紹介を後回しにして、花見は訊いた。俺のやり方を原始的と嘲笑うなら、お前は、一体どうやって?
 すると丸子はロングスカートのポケットから一本の鍵を取り出して、そいつを花見の胸元へふわりと投げた。
「ここの合鍵。良いでしょ? 激レアよ」
 ええ? 卑怯くせえ、と花見は声を上げた。
 それは、率直な感想だった。軽蔑でも、憤慨でもなく。ただ純粋に、「俺はこんなに苦労したのに」という非難をぶつけてやりたくなった。それは見え透いた負け惜しみと、一握りの、尊敬。
「私、ここに来るのが日課なの。誰かにバレたことなんて無いよ。私だけの空間。私だけの時間。ここに他人が入ってくるなんて絶対に許せない。……そう思ってたけど、下からロープが飛んできた時はさすがに驚いた。その度胸に免じて、あなたなら許してあげる、特別に」
 どうしてお前の許可がいるのかと腑に落ちない部分も抱えつつ、反論の弁を呑みこんでひとまず花見は体を起こした。
「俺は花見。花見倫象」
 ぴんと背筋を伸ばして肩を並べてみても、どうやら丸子の方が少し背が高いようであった。すらりと細長い手足に、腰まで届きそうな長髪。ただしそれは手入れが施されているという感じではなく、ただひたすら伸ばしっぱなしというふうだ。それに、華奢な体つきは“スリム”というよりも病的に細い。
「そ、よろしくね。――ところで」
 急に言葉のトーンを変えた丸子が顔を近付けて話すものだから、花見は一歩たじろいだ。
「あなた、子猫殺してたでしょう?」
 ドキッとした。
 唐突な問いに花見はごくりと生唾を飲み込むばかりで、気の利いた反論を持ち合わせてはいなかった。
「私、ここに来るのが日課だって言ったでしょう? あなたの通学路、ちょうどビルの隙間から見えるのよ。ちょうど、あの空き地のあたりが」
 そうだったのか、と花見は思った。正直、あの場所が学校から見える角度にあるなんてことは気がついていなかった。己の迂闊さが恨めしく思えると共に、しかし、「殺してはいない」。そうなのだ、花見は子猫を殺してはいないのだ。ただ子猫とじゃれようとしていたら、不運にもトラックに轢かれてしまった。それだけの話だ。
「大丈夫、こんなことで責めるつもりはないよ。ただ、みみっちいなあ、と思って。あれだけ時間を掛けて、綿密に計画して、子猫一匹じゃね」
 むっ、と花見は眉間に皺を寄せた。
「シコシコ動物殺して、それで満足?」
 そう言って、またも丸子は薄く笑った。人を小馬鹿にした、口に張り付いたような笑みだ。爽やかさなんてまったく無い。無いが、吸いこまれそうな魅力があるにはあった。
「なめんなよ」
 花見はその瞳を真っ直ぐに捉えて言った。
「なんだって、殺せるよ」
 本当に? と試すように丸子は言う。
「お前でも」
 お前でも、殺せる。
 花見は本気だった。やれと言われれば、殺せる気がした。なんだってできる気がした。できないことなんて無いと思っていた。
「それは、凄いね」
 丸子は今度は優しく笑った。
「でも、それはしておこうよ」
 どっちかが死んじゃったら、自慢する相手がいなくなったら、つまらないでしょ? なんでも。
 意味深な言葉を残して、丸子はきびすを返した。
「じゃあね、帰りも“そちら”からどうぞ。そのつもりで上がって来たんでしょう?」
 にやにやと鼻につく笑みを浮かべたと思ったら、素早く扉を開き、自分一人だけを通し、閉めた。がちゃり、と施錠の音が重く響く。
 本当に、ぶっ殺すぞ。
 花見は小さく呟いた。

 ○

 それから一週間経った日の放課後、花見は半信半疑ながら屋上の扉を叩いた。するとすぐに鍵が開けられる音がして、少し不服気味な丸子が顔を出した。
「遅かったじゃない。あれから、毎日待ってたのに」
 こうして、花見と丸子の奇妙な関係は始まった。
 とある日は、丸子が犬の死骸を持ってきた。子猫を引き合いに出して、犬を殺すのがどれだけ大変かということを説いた。猫よりも力が強いから、一撃で仕留めるのが望ましいこと。筋肉の付き方、今際いまわの際ののたうち回り方。そんなことを丸子は鼻高々に語り、花見は目を輝かせて聞き入った。
 またとある日は、花見が子猫の死骸を二匹分持ってきた。二匹というのは凄いだろうと花見が言ったら、一匹ずつ殺すだけなら誰にでもできると丸子にね退けられた。
 丸子と出会った日から、花見は出来うる限りの時間を屋上で過ごした。夏が過ぎ、秋が来て、冬になり。そのほとんどの時間を、丸子と共に屋上で過ごした。丸子と一緒にいるのは楽しかった。人生で初めてと言っても過言ではない、一つの時間を共有できる相手。一つ年上の丸子は一年分花見の先を行っていて、花見にとっては師であり、良き理解者であり、また、友だった。
「あんたは、どうしてイジメられっ子になったの?」
 不意に丸子が訊いた。花見は咄嗟に目線を外したが、それを見て丸子が鼻を鳴らす。
「馬鹿ねえ。イジメられっ子でもなきゃ、こんなことする訳ないじゃない」
 丸子独自の理論はさておいても、花見にとっては図星である。顔を耳まで真っ赤にして俯くほかにない。
「お、お前は? そう言うお前はどうなんだよ?」
 花見がそう言うと、丸子はじっ、と花見の目を見つめた。切れ長の瞳の中心に花見を据えて、じっ、と。そのまま、数秒か、十数秒か。流れる緊張感に耐えきれなくなった花見が顔を逸らしたのと同時に、丸子は着ていたTシャツを捲り上げた。
「えっ?!」
 大きな声が上がった。
 捲り上げたTシャツ一枚の下は素肌である。小学六年生とは言え、五年生にとっては大の大人だ。「女」だ。「女性」だ。白い肌が露わになった。ちょうど、乳首が見えるか見えないかというところでTシャツは止められていたが、いずれにしろ、花見にはそれを直視することなど到底叶わない。
「どうしたの? ちゃんと見てよ」
 顔を逸らす花見の視線の先に回り込んで、上目遣いで花見を煽る。
「な、なんで……」
 諦めたように、一度だけ、下心に負けて花見は丸子に視線を向ける。
 ――瞬間、薄暗いものが花見の脳内を支配した。
 痩せこけた腹部には肋骨が浮かび、女体のなめまかしさとは程遠い。だがそれ以上に、妖しく光る無数のあざ。それは体を覆い尽くすほどに刻まれていて、「ほら」と丸子が振り返ると、背中にまで及んでいるのが分かった。
「虐待、されてるんだよねえ」
 Tシャツが元に戻された。
「とうさんにさ。ずーっと。もちろんそんなの誰にも知られたくないから隠してたんだけど、ある時、クラスメイトに見られちゃって。それからは、もうさ。キモイキモイって、妖怪扱い。普通、分かるでしょー……、“そういう子”をからかっちゃ駄目だってことぐらい」
 そう言うと、丸子はにやりと笑って見せた。
「これって、私悪くないじゃん? だって、子供は親を選べないんだもん。私の体に痣があるのは『仕方のないこと』で、『どうしようもないこと』じゃん」
 丸子は極めて淡々と続けた。
「でもさ。良く考えたら、世界には生まれつきの肌の色や、生まれ持った障害のせいでいわれのない迫害を受けている人がたくさんいるんだよね。私も、それと同じなんだなって。そう考えた瞬間、もう、諦めた。全部。どうでもいいんだ、全部」
 花見は、何も言うことができなかった。
 言ってやることができなかった。
 悲惨な現実を目の当たりにしたからか、あるいは己の不甲斐なさに。俯き黙り込むほかなかった。そんな様子の花見をまるで他人事のように眺めながら、やはり丸子は薄く微笑むだけだった。

「来週の水曜日、屋上で待ってる」
 花見は初めて“学校で”丸子に声を掛けられた。
 廊下ですれ違う際、少し頭を屈めて耳打ちされた。屋上以外で声を掛けるのはルール違反だと、なんとなくそう理解していたから意外だった。振り返ると、花見は何事もなかったかのように前を向いて歩いている。その背中を眺めながら、花見は胸に一抹の不安を落とした。
「もうすぐ、卒業かあ」
 約束の日、屋上に上がると丸子は既に待っていた。なんとなく手持ち無沙汰な感じがして、ガシガシと髪を揉んで視線を落とす。もう、あっという間だ、と噛み締めるように言った。
「卒業式、出るの?」
「なんで?」
 丸子は一拍置いて訊き返した。
「だって、俺なら出たくない」
 そりゃそうだ、と丸子は微笑した。
「出ないよ」
 僅かな逡巡の後、丸子はきっぱりと言った。冬の風に煽られ髪が舞う。顔の前に来た長髪を右手でかき上げ、凛とした目つきで後に続ける。
「卒業までは、生きないつもり」
 え?
 はっきりと聞き取れたはずの花見が、え? と間の抜けた顔で訊き返した。人差し指と中指で右の耳たぶを挟む。
「引っ越すんだってさ、私んち」丸子は他人事のように言った。「福岡。一体、次はなんの仕事するのか知らないけどさ……。まあ、“キリ”も良いかなって」
 唐突な丸子の告白だったが、それが決して冗談の類ではないことは花見はすぐに理解していた。
「どうせ死ぬなら、今だもん。私をイジメてた奴らに、少しでも嫌な気分になって欲しいもん。忘れられた頃にひっそりと死んで、皆は平然と生きるなんて、そんなの、腹立たしいじゃない?」
 所詮、あてつけだけどさ、と予防線を張るように後に続ける。
「――何も言わないの?」
 口をつぐんだままの花見に対し、痺れを切らしたかのような丸子が顔を上げて言う。
「自殺、止めたくないの? てっきり、私に惚れてるもんだと踏んでたんだけどな」
「……好きじゃ、ないけど」歯切れの悪い答えになる。「そりゃ、死んで欲しくはないけど」
「それとも、あなたがやる? 初めて会った日、言ったよね。私のこと殺せるって」
 花見はぎくりとした。
 そう言えばそんなことも言ったかも、と半年前のことに思いを馳せる。
 でも、だって。思わなかったんだ。まさか、こんなに良い奴だなんて。
「それともやっぱり、あなたには小動物が限界なのかな」
 だらりと垂れた前髪の隙間から花見を覗く。その口角は上がっている。
 花見の顔が歪んだ。こいつ、本当に、本気だ。
「チャンスをあげようか」
 丸子は天を見上げて言った。
「チャンス?」
 花見の立場としては、ひとまず復唱してみるほかない。顎を上げたままの丸子の次の言葉を、じっと待った。
「先月、お赤飯を食べたんだ」
 再び視線を花見へと戻した。言葉を待つ花見をじらすように、試すように、たっぷりと間を溜める。
「その意味が、あなたに分かる?」
 強い風が吹き続けていた。花見の喉がごくりと鳴る。
「セックス、しましょうか。それも、中で出すヤツ」
 一体全体、何を言っているんだこいつは、と花見は思った。
「何だかんだ言ったって、私も死ぬのは怖いもの。一歩、踏み出す勇気が欲しいの」まるで夢を謳うアーティストかのようなことを言ってみせる。「小学生で、妊娠。自殺するには充分な後押しだと思わない?」
 言葉を失ったままの花見の様子を眺めて、丸子はくすりと笑った。
「怖気づいても遅いわよ。もしあなたが逃げるなら、もう、ここから飛び降りるから。今日、このあと。私のことを生かしたいなら、あなたの精液の薄さに賭けてみるしかない。どう? 悪い話じゃないでしょ? 私とセックスできて、自殺も止められるかもしれない。そうなれば、一石二鳥だと思わない? それとも――」
 Tシャツの裾を捲り上げた。
「こんな痣だらけの体じゃ、そんな気分にもならないのかな」
 ここまで言われて、さすがにただ黙っているわけにはいかなかった。
 堪忍袋の緒が切れたというか、胸の中で、カッと熱い感情が爆発するのを感じた。怒っているのか、悲しんでいるのか、花見自身にも分からない。ただ、これまでの人生で得たことのないような感情のたかぶりを味わっていた。
「精通くらいは、終わってる」
 花見がズボンを下ろした。
「お前も、脱げよ」
 カサカサに乾いた唇で花見が言った。
「女の子は、下脱がなくてもできるもの」
 丸子が自慢気にスカートの裾を両手で広げる。なんだよそれ、ずるいな、と花見が言った。
「そういえば、珍しいもんな、スカート。もしかして、このため?」
 丸子が小さく頷く。花見はもう一度、ずるいと言った。
 ぎこちない手つきで、チェック柄のトランクスが下ろされる。花見の、まだ充分に火照っているとは言い難い陰茎が露わになった。
「25点」
 小馬鹿にしたように丸子が笑った。
 何点満点中? と花見に訊き返されると、苦笑いをして諸手を挙げた。
「さあね。どう思う?」
「……、25満点」
「聞いたことないよ、そんなの」
 丸子が苦笑する。
「始めましょう」
 その宣言は、あまりにも無機質に、事務的に放たれた。貫くような、凛とした目つきは花見の陰茎へと向けられていた。


 ――初めてのセックスは、思っていたほど気持ち良くはなかった。
 だが思っていた以上に、悪い気分じゃない。
 感動するような快感が陰茎を包み込みはしないが、花見の感情は昂り続ける。眼下で微かに悶える丸子の表情が、華奢ながらも女性の身体へと成長しつつある肉体が、花見を恍惚の園へと運ぼうとする。しゃぶるような舌使いで丸子に首筋を舐められると、花見はもう頭がおかしくなりそうだった。うあっ、とか、おほっ、とか、声にならない嗚咽が絶えず漏れる。
 着実に高まりを見せる射精への欲望を、丸子は全てお見通しでいるようだった。「そろそろかな」と花見が思った頃、不意に「出す?」と丸子が訊いた。幾ばくかの羞恥心を堪え、花見は顔を逸らすように頷いた。それを見て、「わかった」、と丸子が呟く。
 初めての中出しは、まさに感動するほどの快感だった。
 遠慮なしに、花見は欲望の全てを丸子の膣内へとぶつけてやった。過去に得たことのない充足感と、征服感が花見を包む。思わず、うわあっ、と情けない声が出た。陰茎を抜いた拍子に、飛ぶような寝返りを打つ。
 深く息を吸う。深く吐く。荒れた呼吸が少しずつ収束へ向かうにつれ、心地の良い疲労感がやってきていた。
「ちょっと、どうなのさ。気持ち良かったの?」
 あ、ああ、と花見は慌てて顔を起こした。めちゃくちゃ凄かった、と言い繕う。そう? と訊き返した丸子の表情は相変わらず物を語らなかったが、少し誇らしげではあった。
「……もし、これで妊娠したら、ほんとに人を殺せるね」
 暫しの静寂を丸子が破った。え? と花見が丸子の顔を見る。
「だって、そうでしょう。トラックの通り道へと子猫を誘導したように、あなたの“殺し”は、こういうことでしょう? これで私が妊娠して、自殺したら――。あなたは私を殺してない。けれど、あなたは私を殺した。そういうことでしょう?」
「ええ、そうなるかなあ。だって、俺が中出ししてやんなきゃ、確実に自殺してたんだろう? さっきも言ったけど、お前を助ける気持ちでやってるんだけどなあ、俺は」
 丸子は毅然とした笑みを浮かべていた。
「いいえ。私が死んだら、あなたに殺されたの。念願の“人”デビューよ」
「いやあ……、せいぜい、自殺幇助ほうじょでしょ」
「じゃあやっぱり、人殺しじゃん」
「……そうなるのかな」
「少し休憩したら、第二回戦よ」
 立ち上がり、パンパンとスカートを叩きながら丸子が言った。
「え? 一回で終わりじゃないの?」
「馬鹿。妊娠の確率なんて二割そこそこだもの。中出し一回じゃ、私にとって随分不利な賭けだと思わない? そうね、三回はしましょうよ」
「……そんなにつかなあ」
 ――花見は、知らなかった。
 ニュースが語る、婦女“暴行”の意味を。
 丸子が“とうさん”と呼ぶ義父から、想像を超える仕打ちを受けているということ。
 花見の肉棒に貫かれても丸子が出血しないという、その深刻な事態について――。

 ○

 途方もないような時間が、過ぎた気がした。
 実際には小一時間ほどしか経っていないその流れの中で、花見は、人生の全てを経験しているかのような気分になっていた。
 少なくとも、己の人生にこれ以上の経験は訪れないだろうと思っている。
 小学六年生の膣はこれでもかと花見の陰茎を締め付け、大量の精液を搾り取ろうとする。初めはそれほどとは思わなかった情事だが、回を重ねるごとに花見の快感は増していった。どこをどうすれば丸子がどんな嬌声を上げるのか、色々試す余裕も出てきた。
 舐めてみたり、つまんでみたり、穿ほじくってみたり。
 そして新しい世界が開けるたび、同時に、丸子に対する愛しさが募る。もっと、一緒にいたい。もっと、ずっとだ。同じ中学に通い、一つの時間を共有し、別に高校になんて通わなくても構わない、二人で寄り添って生きてみたい。どこかしがらみの無い優しい土地で、協力しながら暮らしてみたい。それは口で言うほど楽な道ではないだろう、だが、この人となら。どんな困難も苦にはならない気がした。根拠のない全能感に身を委ね、妄想で頭を満たすのはたとえようもなく心地が良かった。妄想の中で、花見と丸子は、どこか美しい草原で仰向けになっていた。太陽の光を身一杯に感じ、陽が落ちるまで何時間でも語っている。二人とも、満面の笑みを浮かべている。
 ――たまらなく、愛しい。
 花見は両手をついて体を起こすと、丸子の顔を眼下に置いて、言った。
「死ぬなよ」
 自分でも意外なくらい、その言葉はスムーズに、力強く発せられた。
「自殺なんて、するなよ。せっかく……せっかく、楽しくなってきたんじゃないか。お前がいないと、俺、いやだ。父さんなら、俺がぜったい殺すから」
 丸子は何も言わなかった。
「賭けはやめだ。もし赤ちゃんができたって、そんなの墜ろして、二人で生きよう」
「いまさら何を言うの? それって、きっと、口で言うほど簡単じゃないよ。この年で子供墜ろす手術受けるなんて、一体周りに何を言われるか。それを想像しただけでも、自殺したくなってくるし」
「そんなの、気にするなよ」花見は撥ね退けた。「それに子供墜ろせば、お前だって念願の“人”デビューできるじゃん」
「私は別に、念願じゃないんだけどな」丸子はくすりと笑った。「それにその理屈でいくと、妊娠したまま自殺するのも人殺しになるんじゃない?」
 花見は少し間を置いた。
「それは、無理心中とか、集団自殺とか……」
「無理心中は人殺しだよ」
 花見は言葉を詰まらせ、小さく「そっか」と呟いた。
「でも……、そうね」
 花見の顔の向こう側に夕焼けを据えて、丸子はぽつりと口を開いた。
「あなたとなら、そんな人生も楽しそうだったなあ」
「過去形は、やめろ」
 花見が少し強い語調で言葉を切る。
「ほら、ちゃんと腰を動かして。約束の三回目よ。それとも、今ここから飛び降りる?」
 逡巡ののち。言われるがまま、花見は腰を振った。
 陰茎に多少の痛みを覚えつつも、やがて、この日三度目の射精は滞りなく膣内で行われた。


 ――それから、数ヶ月が経った。
 宣言通り、卒業式を待たずして丸子は学校から消えた。
 花見の説得にも最後まで首を縦に振ることはなく、あっけなく、いなくなった。たった一言の、別れの挨拶もなく。
 本人の意向で彼女の行き先はクラスにも知られなかったらしいが、いずれにしろ、そこに興味を示すようなクラスメイトも丸子にはいないだろう。
 丸子が学校からいなくなった日の朝、花見の下駄箱にはコンビニのビニール袋が入れられていた。
 中には、妊娠検査薬の空き箱。
 そして更にその中に、鍵。
「私がいなくなって、屋上に入れなくなったら困るでしょ?」
 どこか得意気にそんなことを言う丸子の顔が、花見には容易に想像できた。
 花見は屋上に上がると、ぼんやり福岡の方角を見上げた。
 向こうの空に丸子を浮かべて、花見は、泣いた。
 人生で初めて味わう、惜しまれる別れ。
sage