教育的指導者(仮)

 ――この世に。
「死にたい」は無い。
 あるのは「生きたくない」だけだ。
「生きたくない」の極まった先がたとえば自殺という結論であり、元々「死にたい」という欲求は存在しない。
 そのことに、十一歳の花見倫象はぼんやりと想いを寄せていた。
 年間、どれくらいの数になるのかは知らないが。自殺の数だけ絶望があったはずだ。死にたくなるほどの絶望の中で、救いを求めるようにして命を絶ったはずだ。
 ここのところを、花見はずっと考えていた。
 なんで、丸子が死ななくちゃならないんだ? 恨み辛みをぶち撒けるでもなく、むしろまるでイジメっ子達に遠慮でもするかのようにひっそりと命を絶たなくちゃいけないんだ?
 丸子の死は、誰が悪いんだ?
 丸子を虐待した父か? 虐めたクラスメイトか? あるいは、中出しした自分か。
「俺は悪くないだろ。俺は頼まれたからやっただけだ」
「そんな言い訳してどうなる。お前、ナチス・ドイツの銃殺刑は執行人に罪は無いと思ってるクチか?」
「無いだろ。逆らえばむしろ自分が殺されるんだぞ」
「ふうん。俺は、執行人も業を背負って然るべきだと思うけどな。どうあれ、お前に妊娠させられなきゃ丸子はまだ生きてたかもしれないんだぞ」
 目が覚めた。
 春の風に煽られたカーテンが大きく膨らんでいる。見慣れない壁、見慣れない窓からの景色、見慣れない黒板。六年生になったばかりの花見は、担任から隠れるようにしながら静かに頭を上げた。
 俺が悪かったのだろうか?
 丸子がいなくなってから、そう自問しない日はない。
「おい、花見」
 放課後、教室で名前を呼ばれて振り返ると野球ボールが飛んできた。
 ボールは花見の頬を直撃し、鈍い音を上げて下に落ちる。いてぇっ、と声が漏れる。
「おい花見、これ貸せよ」
 よろけた花見に二人の男子が駆け寄って、ランドセルを無理やり引き剥がした。おい、やめろよ、と花見のか細い反論はむなしく飲み込まれる。
「オーライ、オーライ」
 窓際の棚に足を掛けた別の男子は車を誘導するような動きで二人を扇動する。そして窓から身を伸ばし、下に誰も歩いていないことを確認する。ちょっとやめなよ男子、と、本気で止める気があるんだかないんだか、半笑いの女子達も事の顛末を楽しそうに眺めている。
「オーケー、オールグリーン。カモン!」
 棚に立った男子がそう言うと、二人の男子は全開の窓に向かってランドセルを放り投げた。勢いよく窓を飛び出たランドセルはしばらく宙を飛んで、そして落ちていく。ランドセルの蓋が開き、中身がばらばらと零れていくのも見えた。
 そして、喝采。
 クラス中の喝采の中心に立たされて花見は、自分が真に独りであることを痛感した。寂しい。辛い。苦しい。
 丸子に、会いたい。
「おう花見」ひときわ背の高い男子が花見の肩を組んだ。「駄目だろ、ランドセルはちゃんと閉めとかねえと。俺ら別に、そこまでやるつもりはなかったのによ」
 また、どっと笑い声。
 どんなに望んでも、もう丸子に会うことはできない。そう思うと、花見は思わず涙が溢れそうになった。ふるふると震える唇を噛み締める様を見て、クラスメイトは静かに高揚した。花見の涙は、花見を泣かせることは、イジメっ子達の悲願である。何をされても、いつもすましやがって。見下すような目で見やがって。決して感情を爆発させることのない花見を、一度くらいは泣かせてみたかった。
 また、花見もそのことを理解していた。だから、死ぬ気で堪えた。ここで泣いたら、本当に負ける。
 花見が涙を堪え切りそうになったのを見て、男達は追い打ちをかけんとした。
「気持ちわりいんだよ、お前よ。いっつもジメジメしやがって。何考えて生きてんだ?」
 別の男が後に続く。
「ガリッガリでよ」
「病気みたいな顔で」
「目つき悪くて」
「ほんと、“あの親にしてこの子あり”ってカンジだよな」
 ああ、もう、いいか。
 こいつら別に、全員死んだって。
 花見は思った。
 別に、死んだって、いいや。
 真にそう思うことが、人生でどれだけあるだろう。口ではいくら恨み辛みを語ってみても、他人の死を心から願い、享受することは、そう簡単ではないはずである。
 花見はこの時、本気でクラスの全員を殺してやろうと思った。
 自分以外の全員が死んでも、ひとかけらも悲しんだりしない自信があった。
 夜、ベッドで目をつむって思い返せば思わず顔がほころぶような、そんな思い出だって無いわけではない。二年生の時、運動会で手を差し伸べてくれたスポーツマン。三年生の時、学芸会で肩を並べて木琴を叩いたメンバー。そんな感傷的な思い出に流されるほど、花見の黒い感情は柔なものではなかった。
『イジメられた人間は、何をしても許される』
 怒っても。暴れても。人を、殺しても。
 考えうる限りの、何をしても。
 そう心から信じ、己の指針とする花見にとって、できないことなど何もなかった。
『じゃあやりなよ。今すぐ。ほら』
 そうは言っても、だ。そうは言っても、花見は今すぐ自分の手を汚そうというつもりもなかった。イジメっ子には死んで欲しい。殺してやりたい。でもできる限りリスクは避けたい。イジメられっ子である自分は何をしても許されるべきだが、馬鹿な大人や分からずやの警察は自分を悪者に仕立て上げるだろう。全員を殺した後でなら、まあそれも良い。だが、もし、たった一人や二人殺しただけで捕まったら? 自分は消え、クズ共はのうのうと生き延びる。それは絶対に許せない。腹立たしい。想像しただけで、悔しさに、胸が灼ける。
 給食の時間、六人一組の各班はいつものように机をくっつけあって歓談を楽しみつつ昼食を摂っていた。六つの机をぴたりと合わせるとまるで一つの大きなテーブルに六人が身を寄せているようで、皆楽しそうに笑みを浮かべている。だが例によって、花見を擁する第五班の形成する大テーブルは歪だ。それも、かなり露骨にである。花見を除く五人はきっちりと机を合わせているのに、花見の机だけが一歩外側へと外れているのである。くっきりと溝でもあるかのように綺麗に空けられた空間は、六人の関係性を端的に表している。その谷より深い溝を越えて言葉が交わされるようなことは決してなく、花見は、三十分間、ひたすら一人きりである。
 ふいに花見が、舐めるような視線を対角線の女へと飛ばした。
 やだ、こっち見てる、と、女は隣の男へと身を寄せた。きゃーきゃーと、黄色い悲鳴を上げている。
「お前も、殺してやる」
 花見は口の中で呟いた。
 独りきりの時間の中で、花見は給食のパンをランドセルの中のビニール袋へと放り込んだ。その動作は机の下で俊敏に行われ、気付いた者は誰もいない。花見はランドセルにパンを秘めたまま午後を過ごし、そして、放課後を迎えた。
 この日花見は、ちょっと遠回りをして通学路の外を歩いた。
 寄り道なんてしたことなかった、いつもと違う景色を眺めながら帰路を辿る。初めて見る居酒屋、見慣れない家並み、“例の道”の無い帰路。
 三キロほど歩いたところで、花見は足を止めた。河川敷である。
 地域で最も太い川が走り、整備もしっかりなされているこの河川敷には、バーベキューやアウトドアスポーツ目的で利用されるのはもちろんのこと、“別の目的”で利用する者も少なくなかった。
 傾斜のある階段を一段ずつゆっくりと降りる。
 大きな橋の下、影の深いポイントに立つ一つのビニールテントを見つけると、花見は単調な歩調で歩み寄った。
「おじさん」
 遠慮なしに、ビニールテントの切れ目を開く。
「このパン一つで、何してくれる?」
 驚きと、敵意。訝しげな視線を向けるホームレスに対し、花見は一切物怖じすることなく言った。
「なんだ、お前?」
 悪臭を身に纏ったビニールテントの住人は、長髪の切れ間から花見をちろりと睨んでいた。
 いや、悪臭だけではない。何年手入れされていないのか想像もつかない長髪に、無精髭と呼ぶにはあまりにも御立派な顎髭。黒ずんだ肌、汚れた服、伸びきった爪とそれに挟まったカス。男は、世の「最悪」の全てを放っているように花見には思われた。少し身体を揺らすだけで、異臭が香る。埃が立つ。その視線をちょいとやるだけで、大抵の人間は道を退けるだろう。こけた頬はまるで生気を感じさせず、今にも息を引き取りそうでもある。
「今すぐ、パンを置いて出ていけよ」
 男は、とっくに花見から目線を切っていた。
 気だるそうに目を瞑り、横たわった腹の上で両手を組んでいる。
「……そう言わずに。話だけでも聞いてよ」
 食い下がる花見に対し、男は何の反応も示さなかった。飼い主に構ってもらえない子猫のように、花見は男の傍らに両膝をつく。
「おじさん、やれって言われたら、人、殺せる?」
 まだ反応はない。
「嫌な奴らがいるんだ。学校に。ご飯あげるから、おじさん、やっちゃってよ」
 遠慮は、いらないよ。
 ストレス発散も兼ねて、どうかな。
 独り言のように呟いて、そのまま三分ほど待った。
「わかった。他をあたるよ」
 溜息をついて花見は立ち上がった。
「こっちだって、どうせならもっと体格の良い人に頼みたいし。それじゃ」
「待てよ」
 ビニールテントに手をかけた花見の背中に、男はしゃがれた声をぶつけた。
「……お前、ここら一帯のホームレスに声を掛けて回るつもりか? そんな話、引き受けてくれる奴がいるとでも? その前に、通報されて終わりだ」
 振り返った花見は、薄く笑っていた。
「お前らの話なんて、誰が信じる?」
 男は、胸の奥でカッと火が灯るのを感じていた。久方ぶりに身に灯った、感情の昂りである。憤怒の炎の灯である。
「第一、公衆電話代すら馬鹿にならない生活してんじゃないのかよ、おっさん」
 ――男には、今この場で花見を殺す選択肢があった。
 ともすれば、今日中にでも両手が後ろに回るかもしれない背景を持つ男。花見が火を灯した感情の導火線は、ダイナマイトへと繋がっていた。
「一週間分だな」
 男は少し考えてから言った。
「一週間、持ち帰れるだけ給食を持ち帰って来い。それと、オメーの小遣いで目一杯買えるだけの食糧。それを持って来い」
 花見は身を翻した。
「これは契約だ。一週間につき、一人。人生を終わらせてやる」
 どろりと前に垂れた長髪が、男の顔を覆い隠す。その状態で物を語る男の姿はまさに鬼気を纏ったものがあり、男の言っていることが決して大言ではないという説得力があった。
「本当?!」
 花見は再び身を男に寄せた。黒目は爛々と輝き、高揚しているのが口角で分かる。
「殺すって意味じゃねえぞ。半殺しにするだけだ」
「良いよ。そっちの方が辛いってこと、あるもんね」
 花見は小さく微笑みながら即座に言葉を返した。その様子に、男もまた、小さく笑みを零した。
 ――これは、眉唾物な話である。
 百の玉が入った福引がある。“当たり”の赤玉は一つだけで、残りの九十九玉はハズレである。
 あなたは、この福引をどれだけ回そうと自由である。ノーリスクで、ノーコストで、何回でも回すことができる。当たりの赤玉が出るまで回して構わない。
 あなたは福引のハンドルに手をかける。
 さて、一発で赤玉を引く確率は何パーセントだろうか。
 一パーセントと答える人が多数派かもしれない。
 もしかしたら、その計算は合っているのかもしれない。

 あなたは、一発で赤玉を引いた。

 しかし、なんの感動も興奮もない。
 なぜなら、『当たるまで引ける』から。
 眉唾物どころか、酒場の与太話にも足らないかもしれない。けれど、誰でも胸に心当たりはあるはずだ。“傾向”として、そういうものなのだ。
『当たるまで繰り返して良い時、一発で引いてもおかしくない』
 “だから”、花見が一人目にこの男を引いたのは、奇跡でも御都合の良い話でもなく、ごく自然な話なのである。

 ○

 少年は、わりになんでもできた。
 後藤輝幸十一歳、市立港北小学校六年生。少年は、同年代の子と比べて少し頭の回転が速かった。少し、運動神経に優れていた。顔が良かった。己の自信と自負に支えられ、社交性に富んでいた。クラスメイト達と円滑な人間関係を成し、理想的な小学校生活を送っていた。
 別に、乗り気ではなかった。
 周囲が勝手に、標的を花見にしたのだ。少年は乗り気ではなかったが、空気の読めない奴だとは思われたくなかったので花見イジメに加担した。加担したと言っても、直接なにか手を下すようなことはなかった。花見の首に腕を回す友人達の様子を一歩引いたところから眺め、笑っていただけである。だから、他の奴らよりは自分はマシだと思っていた。花見にも、そこまで嫌われている気はしなかった。
 助けることもできないけど、酷いこともしないから。だから良いだろ? 花見。
 少年は、胸の奥で己を慰めた。仕方がない。花見をかばったら、俺が輪から弾かれるんだ。だから、仕方がないんだ。
 ごめん、花見。
 己を納得させるために心の底でそんな風に謝ってみても、相手には決して届きやしないというところの理解が、少年は少し足りていなかった。
「輝幸ってさ、花見に何もしないよね」
 帰り道、クラスのガキ大将がぽつりと言った。たしかにー、と周囲も同意する。
「嫌なの? 花見イジメ」
 ガキ大将は、試すような視線で少年に問うた。
「お前、裏切んのかよー」
 冗談半分、本気半分。そんな調子で周りは野次を飛ばしてくる。
「何言ってんだよ、そんな訳ないだろ」
「別に、嫌なら止めないよ。無理強いすることじゃないでしょ、こんなの」
 あくまで物腰柔らかい口調でガキ大将は後に続ける。
「でも、僕らはこれでも一応仲間意識持ってやってるからさ。輝幸も、少しくらい参加してくれても良いんじゃない? 大丈夫、そんなヤバイことなんか頼まないからさ」
 少しくらいなら……、と少年は思った。
「……たとえば?」
 そうだなあ、と、ガキ大将は考えるフリをしてみせた。

「おい、花見、池の中を見てみろよ」

 翌日少年は、花見にそう言付けした。
 少年が直接花見イジメに参加したのは、後にも先にも、ただのこれだけだった。本当に。

 ●四月二十五日(土曜日)
 少年は、地獄を見た。
 なんでこんなことに? と、何度も何度も心の中で唱えた。意味が分からなかった。己の運命の呪った。
 血飛沫しぶきが舞う。
 鼻の骨が折れた。
 骨ばった右拳が少年の肢体を抉る度に、世の末のような痛みが少年を襲った。
 なんだ、このホームレスは。ガリガリのくせして、すごい力だ。
 薄れゆく意識の中で後藤輝幸は思う。
 俺は、このまま死ぬんだろうか。どうしてこんなことになったんだろう。俺、なんにも悪いこと、してないのになあ……。
 下腹部を強烈に蹴り上げられて、霞のかかった頭が白く晴れる。朝食に食べた残り物のカレーラスが、面影を捨てた嘔吐物となって地面の砂利を塗り上げる。
 逃げたい。
 己の嘔吐物の上にうつぶせになった後藤輝幸は、それだけを幾度も幾度も唱えた。だが、身体が動かない。起き上がろうと腕を地面に突っ張ろうにも、あるいは泳ぐように両腕で地面を這おうにも、身体が微塵も動かない。全身に走る骨折の痛みは後藤輝幸の選択肢を極限まで狭めていた。
 誰か、助けてくれ。誰でも良い。頼む。
 全体重を掛けた男が飛ぶようにして後藤輝幸の右脚を踏みつけると、また骨の折れる音が響き渡った。そこは既に、一度折れていた箇所だった。
 ああ……、もう、サッカーできないのかなあ……。
 激痛以外の感覚を持たなくなった後藤輝幸はその場で叫び声を上げた気になっていた。もっともそれは口を塞ぐガムテープに掻き消され、あるいはもしガムテープが無かったとしても、身体の芯に走る激痛の所為で声などほとんど上げられなかっただろう。声にならない絶叫を上げ、後藤輝幸はここにきてようやく、すぐ傍までやってきた「死」を現実のものとして捉え始めていた。
 もういっそ、殺してくれ。
 光が飛ぶ。真っ白に、世界がきらめく。電子音のようなものが大音量で鳴り続けている。意識が消える。俺が、霧散する。後藤輝幸が、弾け飛ぶ。
 ああ、死ぬ、死ぬ。今、死ぬ。今死ぬぞ、今。
「賭けを、しようか」
 後藤輝幸の背中に足を置き、男は言った。
 ――不覚にも、その言葉を口にする男の姿は、あの時の丸子と重なっていた。
「心配しなくても、殺しはしねえよ。だが、これから俺はお前の背骨を折る」
 地面にうつ伏せたままの後藤輝幸は、何も反応しなかった。
「下半身不随になるか、否か。それは俺の預かり知らんところだ。“依頼人”が言うから最善を尽くすが、これ以上は死なれても困るんでな。自分の運に賭けてみろ。賭けに勝てば、いつかはまた元気な身体に戻れるさ」
 後藤輝幸が男の言葉をどこまで理解していたか、それは定かではない。
 しかし反応があろうとなかろうと、いずれにしろ男のすることは変わらない。男は後藤輝幸の腰の少し上あたりに照準を定め、ゆっくりと脚を振り上げた。
 何度目かの後に骨の折れる音がして、男は後藤輝幸を放置し闇の中へと消えて行った。
 後藤輝幸の意識もまたゆっくりと薄らいでいき、やがて、闇へと溶ける。
 一部始終を草葉の陰から眺めていた花見は、精液にまみれたトランクスをどうするべきか考えていた。
 いつもの自慰や性交とはまた一味違う、格別の射精だった。
 五月二日(土曜日)、河川敷で倒れている男子児童が発見される。被害者は全身を骨折するなど意識不明の重体で、家族の捜索願いにより私立港北小学校の生徒と判明。近辺では先週土曜日にも同校の児童が襲われる事件があり、警察は同一人物による犯行の可能性もあるとして捜査を――。
 五月九日(土曜日)、またも同様の事件が発生する。被害者はまたも意識不明の重体で、未だ予断を許さない状態が続く。三週続けて同様の事件が発生したことで警察は同一人物による犯行の可能性が極めて高いとするも、一方で、事件を未然に防ぐことができなかった学校側や警察の警備体制に疑問が上がっている。

 少年は、一人、また一人と倒れてゆくクラスメイト達に想いを馳せながら、大学病院の前に立っていた。風に煽られて前髪がなびく。長袖から覗く華奢な指先。同年代の男子と比べても頭一つ低い小柄な身体。少年は、いわゆる“ガキ大将”の地位に立つ人間だった。
 ただし、通常イメージされるそれとは一線を画している。他人の頭を抑えつけるような暴力を備えているわけではない。前に立ち衆目を一身に浴びるわけでもない。人の森に隠れながらひっそりと毒針を首筋に討つ、そんな人間だった。花見イジメに対しても、少年が主犯格だと考えている人間は誰一人としていない。イジメっ子達といる間はありとあらゆるイジメの手法を提案し、その場にいない花見を面白おかしくなじってみせる。しかし、決して自分では手を下さない。いや、正確には、“返り血を浴びるような行為はしない”と言った方が適切か。少年が加担するのは、たとえば靴を隠したり、机を壊したり、体操服を和式便器の中へ沈めたりと、足のつかないイジメに限った。決して花見の首筋に腕を回したりはしない。冗談半分に脇腹を小突きもしない。そもそも、直接関わりを持った記憶すら花見にはないだろう。そうして自身は陰に潜み、後藤輝幸のようにイジメに消極的な者を“直接的なイジメ”に加担させる。たった一言「池の中を見てみろよ」と言付けさせただけだったが、思惑通り、花見の怨恨は少年ではなく後藤輝幸を想って燃えた。
 良く言えば周到、悪く言えば姑息で狡猾。だが現にこうして少年が花見の復讐の炎を避け続けているのは、その徹底したリスク管理の賜物たまものと言えた。
 ――エレベーターで階を上がり、教わった病室を目指す。廊下の端の四〇五号室は、他ならぬ後藤輝幸が横たわる部屋だった。
「具合はどうだ、輝幸」
 少年が声を発する前から、後藤輝幸は来訪者の存在に気が付いていた。しかし全身は固定され、寝返りはおろか、窓の外に向けられたままの首を反転させることすら自力ではままならぬようだった。
「やめろ、無理するな」
 ゆっくりと首を捻ろうとする後藤輝幸を制し、回り込むようにして少年は視線の先に腰を下ろした。
「どうだ? 身体は」
「見れば、分かる、だろう?」
 ゆっくりと、いちいち深く呼吸をつきながら、命を絞るようにして言葉がつむがれる。すまん、と少年はバツが悪そうに目線を逸らした。
 全身を拘束する大仰な器具が、刻まれたくさびの深さを明確に物語る。少年も「まさか」とは思っていたが、やはり、少なくとも花見が実行犯というわけではなさそうだ。たとえ両手に金属バットを握ったって、奴ではここまでは出来ないはずだ、と後藤輝幸の全身を見ながら値踏みする。
「……真一がやられたよ。正太郎も」
 少し静寂の続いた病室で、少年は重厚な間をたっぷりと湛えながらそのことを伝えた。はっきりとしたリアクションを起こすことはなかったが、後藤輝幸の瞳にはたっぷりの同情と、そして一握りの憤怒の炎が灯ったように見えた。
 
「犯人の顔は見たのか?」
 棚の上の大仰な花に視線を向けたまま少年は言った。波一つない水面みなもに葉がたった一枚落ちるように。風が柳を撫でてゆくように。それは“さりげなさ”の極致にあった。後藤輝幸はこの質問をただの世間話の延長ぐらいのものと捉え、少なくとも、その先にある少年の考えなどには到底及びもついてはいない。
「そりゃあ……ぼんやりとは見たけどなあ。でも、その時は落ち着いて顔なんて見てられる状態じゃなかったし。そもそも、マスクをしてたみたいだったから」
 そうか、と少年は大して興味もないといったふうに相槌を打った。
「どんな奴だった? たとえば、服装とか」
 んん、と深い唸りが声が閉じた口から小さく漏れる。
 そういえば、ただの世間話の割にはやけに食いつく。もしかしたら何か理由があってのことなのかと、後藤輝幸の頭に考えが過ぎる。
「別に、覚えてなけりゃ良いけどさ」
 少年は優しく微笑んでみせた。その微笑は、なんとか質問に応えてやりたいと、後藤輝幸にそう思わせるに充分なものだった。温かみのあるその微笑。これまでの数年間、常に頼もしい存在であった少年のその微笑。だがその一方で、今にも崩れてしまいそうな脆さをもその微笑は内包していた。もし自分が役に立てなければ、興味を失われれば、その顔には今すぐ氷のような無表情が張り付くのではないかと。今まで花見に向いていたあの凍てつく瞳が、今度は自分に向くのではないかと。後藤輝幸の背筋に厭な緊張が走る。
 もう一度、深く唸った。
「ううん、そうだなあ。暗くてはっきりとは見えなったけど、汚らしい格好だったよ。最初に声かけられた時は浮浪者かと思った」
 浮浪者か、と少年は口の中で小さく呟いた。
 ――花見がホームレスと関係を持つことがあるだろうか。もしあるとすれば、それは一体どんな場合だろう。
 たとえば、街で落し物を拾う……、これはホームレスの性質上考えにくい。アウトドアを好まない、いや、そもそも友達のいない花見だ、公園等で関わりを持つ機会も限られるだろう。
 たとえば、イジメられた帰りに腫らした瞳で黄昏る。そこにホームレスがいて……、これはありそうだ。だとすれば、人目のある場所は選ばないだろう。公衆トイレ、使われていない野球場のベンチ、川……、河川敷……。
 と、ここまで思考を巡らせたところで少年は苦笑した。イジメられっ子の気持ちなんか知るか、と胸の内で笑い飛ばす。
「悪いな、辛いことを思い出させて」
 再び、少年の顔には温かい微笑が張り付いていた。
「何でも言ってよ。欲しいものがあれば、何でも持ってくるから」
 その言葉は、傷心の中にあった後藤輝幸の心臓を素手でそっと撫でた。
「ありがとう。もし良かったら、ぜひまた来て欲しいな」
「もちろん。輝幸と話すのは楽しいからね」
 そう言って少年は立ち上がり、肩掛けの鞄を拾い上げた。
 またね、と言って歩き出す。その刹那、扉のところで足を止めると少年は輝幸の方を振り返った。
「絶対、またサッカーできるよ。何でもするから、輝幸も諦めちゃ駄目だよ」
 少し照れ臭そうに、もう一度またねと言って今度こそ病室を後にする。
 一人きりになった病室で、後藤輝幸はその言葉を何度も何度も噛み締めながら、頬を伝う涙を拭うこともなく少年の存在に心から感謝した。

 ○

「……さすがに、警察の目も厳しくなってきやがった」
 男がまるで他人事のように笑う。
「そろそろ潮時かもしれねえな、坊主」
 さすがに、いつものビニールテントではない。男の寝床からは大分距離をとった公園のベンチ。三つあるベンチのそれぞれ端に二人は腰を下ろし、まるで赤の他人のような振舞いを演じながら言葉だけを酌み交わしていた。
「もうちょっと、いけない?」
 花見は即答した。
 まだ、やめられない。たったこれしきのことで満足する訳にはいかない。
「貪欲だねえ」
 男は笑った。
「そんなに酷い仕打ちを受けたのか? そいつらに」
 煽るような視線で花見に問う。
 しかしそこに決して厭なニュアンスは含まれず、まるで兄が年の離れた妹をからかうような、そんな様子であった。
 それに対して花見は一片の感情も返すことはなかった。ただじっ、と正面を見つめ黙りこむ。深く深く、その黒目は濁りを増してゆく。呆れたように溜息をつく男。やがて少ししてから、その静寂を破ったのは花見だった。
「そういえばさ。おじさん、その気になれば大人でも殺せる?」
 花見が問うた。
「さあねえ」
 男は背中を大きく反らせ、間の抜けた声を上げた。古ぼけた木製のベンチがギシギシと鳴く。
「殺せるかもしれねえし、無理かもしれねえし。どうしてそんなことを訊く?」
 男が花見に顔を向けると、花見も男の方を見ていた。視線が薄く重なる。ガサガサガサ、と風に煽られた木が葉を揺らした。
「殺したい奴がいるんだ」
 花見は目線を揺らがせることなくはっきりとそう口にした。一拍置いて、たとえ何をしてでも、と付け加える。どんなことをしてでも、何を犠牲にしてでも。
 男はそれを笑い飛ばすようなことはなかったが、男もまた花見の目を真っ直ぐに見据え、へえ、と呟くだけに留まった。
「おじさん」花見は黒々としたその瞳を微塵も泳がせることなく続ける。「ごはん何日分で、やってくれる?」
 静寂。
 無限のような静寂が二人の間に流れた。お互いに決して目を逸らしはしなかった。それはまるで意地の張り合いでもしているかのように。輪郭を覆い隠すほどの長髪を垂らしたホームレスの男と、華奢な身体の小学生。一つのベンチを間に挟み、二人は視線を重ね合った。
 やがて、ごくりと喉仏を鳴らしたのはどちらの男だっただろうか。
「やめとけよ」
 男が言った。
「さすがにそこまではしねえよ。大の大人に手を出すってなりゃあ、こっちも相当のリスクを負わなきゃならん。もちろん、お前みたいなガキにはもっと無理だ。それに、万が一できたとしても……」
 俺みたいになるぞ、とは言わなかった。
「関係ない」
 花見が目線を逸らし顔を伏せる。絶対に、絶対に、と何度も繰り返し呟く。絶対に、その男だけは。
 はあ、と呆れたような溜息が男の口から漏れる。憐れむような目で花見の小さな体を見下ろす。
「一体何があった? そいつに何をされたんだ? お前は」
 男は花見の過去が気になりだしていた。一体、どんな酷い仕打ちを受ければそこまで歪むのだろうかと。自分の子供時代を思い返してみても、ここまでは歪んでいなかった。
 逡巡の後、花見はぽつらぽつらと呟くように語った。
 クラスメイトから受けた虐めについて。教師が自分の側に立ってくれなかったこと。親のこと。そして、唯一心を許すことのできた丸子という少女について。その丸子を死に追いやった、父の存在について。
「その男だけは、絶対に許せない」
 なるほどねえ、と男は小さく呟いた。
「顔は? どこに住んでるのか知ってるのか?」
 いや、とバツが悪そうに花見は口をくぐもらせた。
「顔も……名前も知らない。住んでるのは……たぶん、福岡だけど……」
 はっはっは、と男は体を「く」の形にして笑った。正気かよ、と花見の顔を下から見上げる。
「もうちょい利口な奴だと思ってたがなあ」
 花見の眉間に皺が寄った。不貞腐れたように口を噤む。
「……どうしても、やる気かい?」
 薄ら笑いを浮かべながら男は花見に確かめた。もちろん、どんな答えが返ってくるかということは容易に想像がついている。その予想と寸分違わず、花見はもちろんと即答した。
「……オーケー」
 両膝に肘をついたまま、男は緩んでいた口を真一文字に締め直した。そしてボロボロのコートの内ポケットからナイフを取り出し、花見の足元へと軽く放る。
「顔も知らない、名前も知らない。そんな人間を殺そうとする馬鹿に付き合う義理はもうねえな。もしも……もしもだ。もしそいつを見つけられたとしたって、今のお前じゃ大人の心臓に刃を立てるのは不可能だ。そのことを、特別に俺が教えてやる」
 花見は、男の言葉の真意を量りかねていた。一体何が言いたいのだろうかと。
 しかし足元に転がる鈍色にびいろのナイフが、少なくともこれが冗談の類ではないことを物語っていた。そして、自らの身に深刻なる危機が近付いているということを、肌で理解する。尋常ならざる男の雰囲気。それはこれまで陰から見守っていた、三人の被害者達へと向けられていたあの気性だった。
「来いよ。三途の川を見せてやる」
 男が少し冗談っぽく言ったのを見て、花見の喉仏が大袈裟に鳴った。
sage