Neetel Inside 文芸新都
表紙

シグルイ・アナトミア
The quick brown fox jumps over the lazy dog.

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 イシキはトーチカ帰りなのだとぼやいた。トーチカと言えば真っ先に思い浮かぶのは戦場に鎮座する特火点だ。しかしこの街におけるトーチカとはそんな物騒なものでなければ、生温い旧世代兵器でもない。イシキはウイスキーで漬けたクランベリーを合間合間で食みながら、咳をするように言葉を連ねる。
 あそこはひでえところだ。期待していたおれが馬鹿だった。今日はもう自棄になるしかない。
 言っていることは大体そういう事だ。だから僕はもう彼の言葉にはほとんど耳を貸さない。この時間に酒場にいる時点で彼の素行は窺い知れる。彼は引くカードを間違えてしまったのだ。彼の訪れたトーチカはマトモじゃなかったということだ。この理論の欠点を挙げるならば、僕もこうして昼間から酒場に入り浸ってしまっているために説得力に欠けているという点だろう。否定はしない。僕も間違えることはあるが、だからと言って間違った道を歩む事はない。僕は彼とは違うのだ。彼と同じ過ちを僕が犯すことは、決してない。
 イシキを遠ざけ、店を出る。鉄のにおいが混じった風が吹き付ける。この風はたわわな果実のような膨らみを持っていて僕はよく友人にそれを力説するのだが、信じてくれた人はまだいない。もぎ取った実の新鮮な果肉を思わせる生温い風が僕を誘惑する。甘い匂いがするのではない。感触が果実なのだ。
 外が騒がしいと認識した瞬間、警笛の音が耳を打った。
 正体は知れないが、おそらくは警吏がまた何かを追い回しているのだ。アレルギーである蕁麻疹がそのサインになっている。面倒事には巻き込まれたくないから、僕は足早に店の前を去った。
 警笛が背中の皮膚をねめあげる。蕁麻疹が増える。
 さて、どうしよう。僕はひとりごちた。
 警笛、聞こえてきたのはブプレノ区画の方からだ。確かあの辺りには艶めかしい銀色を呈するビルディングがひしめきあっていて、それを四角にくりぬいたような形状の広場がある。真ん中には直径二〇メートルはくだらない噴水があったはずで、待ち合わせだので人通りは多い。ムジカが悪事を企むにはもってこいの場所だ。警吏もいい加減理解しても良いと思うが、仕方ない。この街の警吏は整備が遅れていて旧世代の粗末なCPUしか載っていない。
 問題はない。街自体が旧世代だから。
 ブプレノに背を向け、区画サンブレアを少し歩けば滞在中のホテルが見える。出来が粗末なのはもう当たり前なのだがここは他と違って通信状態が良く、世界情勢のニュースも、数十年続く深夜ラジオも平等に享受できる。設備は下の中とも呼ぶべきぞんざいな物ばかりだったが、ルポライターである僕にとっては都合が良い。
「いらしたんですね、ハガクレさん」
 フロントのマスターが言う。マスターは昔の事故で腰から下を失くしていて、背の高い車椅子に座って接客をする。
「ムジカの面倒事は出来るだけ避けたいからね」と僕は答える。
「その取材がルポライターとしての意義では?」とマスターは言う。
 僕は肯く。間違いではない。僕の仕事とはそういう物だ。だがその言葉はもう聞き飽きた。プログラムの改善がされないので仕方がない。
「変わりましたよ、この街も」
「変わりましたねえ。昔は何という名前でしたっけ? 市俄古? 紐育?」
「さあ。僕もよく知りません」
 適当にあしらっておかなければ、こうして何度も同じ会話をすることになる。
 マスターの右耳の上にあるのは『ダリア』の印章だ。
 運よく死を免れた者の証明であり、人体実験を施された異形の象徴でもある。死に瀕した人間と言うのは彼らにとって無償提供される開発材料だ。成功作は世に広められ多大な賞賛を得られるが、失敗作はこうして廃棄物の烙印を押され、粗雑な扱いを受ける。マスターの黒の印章がそれだ。彼は雑に組まれたプログラムをこなしながら永久に変化のない日々を過ごす。しかし彼自身がそれを理解する瞬間は永遠に訪れない。考えただけでも寒気が走る。
 自室に戻って、割れた窓から遠くを見る。
 整然と建造物の群れが碁盤目に前ならえしている中に、もうもうと煙が立ち昇っているのが見える。小火の規模ではない。それは火事でもなさそうで、煙の色は象牙に似た濁った白を孕んでいる。
 間違いなくムジカの仕業だ。
 空きっ放しの缶コーヒーに口をつける。苦みが味覚を覆う。
 ムジカとは俗に言う『感覚異性体』の事だ。
 専門用語を使うと、他人とは異なるクオリアを持った知的生命体という説明になる。少し前の時代に一世を風靡した「色彩を音楽に変える天才ピアニスト・メアリー=ケリー」は記憶に新しい。絵画を見て即興で音楽を作り上げる彼女の創作を世間は手厚く評価した。だが、数年も経てば彼女の事など誰も覚えていなかった。日本の故事に無常観というものがあるがまさにそれだ。世の中移り変わらない物はなく、最も変わりやすいのは世の中そのものなのだ。そう説いていた学者の話を、僕は少しずつ思い出していた。
 そしてさらに数年が経った頃、メアリーの名は再び世を席巻した。
 ダリアという聞き慣れない機関と共に。
 その出現がもたらした物こそが、ムジカなのだ。

 かつて街は世界と繋がっていた。
 ある時街は世界と断たれた。
 誰も正体を知らないダリアという機関に。
 新政府の名乗りを上げたダリアという機関に。
 来る者拒まず去る者生かさず、世界の中で産声を上げた異質な街。
 付けられた名前は『シグルイ・アナトミア』。
 僕はこの街で、今も観測を続けている。

       

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