Neetel Inside ニートノベル
表紙

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「目には目を、ってのはよく言ったモンだぜ。…鬼神に打ち勝つには、同様に神と同等の力をぶつけりゃいいって話か。クカッ」
「………」
 右腕が消失し、全身から白煙を立ち昇らせる大鬼酒呑童子が、瓦礫に上体をもたれさせたまま愉快そうに短く笑う。
 断魔の太刀を『神門』の力で大幅に強化させた直撃を受け、もう大鬼に立ち上がるだけの余裕は無いようだった。本当なら欠片も残さず消し飛ばすつもりだったのだが、結果的に大鬼の体は両断することも出来ず五体満足で生き残った。
 だが流石に二重の大結界で押さえつけた状態からの退魔の術法直撃は鬼神にとっても痛手であったらしい。見た目も中々に弱っているようだし、それ以上に内側へダメージが浸透しているようだ。
 何度か立ち上がろうとして失敗した酒呑童子が、諦めたようにぶはぁーと息を吐き出して立派な一本角の生えた頭を持ち上げる。
「正直負けるとは思わなかったぜ。『鬼殺し』」
「…ああ、俺も……勝てる気が、しなかったぜ」
 一応用心しながらも、瓦礫にもたれた大鬼の正面に立って俺もそう返す。右腕は先の一撃を放った反動でズタズタに引き裂かれた。ぶらぶらと揺れる右腕は機能を完全に放棄しだくだくと血を流し続ける。
 やはり、正当後継者でもない俺が『神門』の力を使うのは負担が大き過ぎた。妖精種としての人外強度というアドバンテージを最大限利用し、“倍加”で強化を上乗せした身体能力ですら『神門』の力を扱い切ることは出来なかった。
 もしあれ以上拮抗が続いていたら、押し負けて破壊されていたのは俺の方だっただろう。
 本来の姿である背中の羽は、俺の体力の消耗が限界に達したのと同時に空気に溶けて消えた。目の上端に見えていた生成色の毛先も、今は黒くなっている。きっと瞳の色も黒になっていると思う。
 長いこと本来の姿を封じていたせいか、力の解放と収束に連動して姿が変化するようになってしまったらしい。まあ、今となってはこの純日本人カラーの方がしっくりくるからいいけど。
 指一本すら動かせないのか、大鬼は口だけを億劫そうに動かして、
「そら、とっとと首取れよ。それとも先に角からヘシ折るか?鬼神の角ってんなら家宝で祀っても文句ねェくらいレアだぜ」
 口調こそ軽いものの、それに反して身じろぎの一つもしない大鬼はなんだか妙に不気味だった。まるで闘う意志だけは衰えることなく燃えているのに体がついてこなかっただけなんだと言っているようで。
 コイツは苦痛や疲労を感じない体質なんだろうか。
 とはいえ他でもないこの大鬼が、嘘を誰より嫌う酒呑童子自身が負けを認めたのだ。もう抵抗を続ける気はないと見ていい。
 であれば、俺のするべきことは決まっていた。俺も満身創痍の体だったが、もう少しで全て終わると肉体に言い聞かせて足を一歩前に踏み出す。
 その時、俺と酒呑童子が対面している側方十数メートル先で二つの影が降り立った。
「頭目!」
「頭領!」
「……お前らは」
 それぞれが筋骨隆々の人身に牛と馬の頭部を持つ人外。酒呑童子の側近である牛頭と馬頭が俺と酒呑童子へ視線を固定していた。その動物の顔が赤みがかっていたり青ざめていたりするのは、大将が負けたことに対するショックと怒りが混在している故か。
「テメェら引っ込め!!出る幕じゃねェだろうが!」
 少なくとも身動きが出来ないほどのダメージを負っているはずの大鬼が、そんな状態から信じられないほどの大声量で自らの配下の動きを縛り付ける。
「で、すが、頭目!」
「我らにとっては頭領が全て!その命守る為ならば、たとえ頭領自身に殺されることになろうとも本望!!」
 どうやら大鬼が倒されたのを遠方から確認して、俺が止めを刺すより先に割り込んできたらしい。俺と酒呑童子の一騎打ちに邪魔立てしないことをきつく厳命されたが、それを破ってでも自分達の首領を逃がす為に動いたと。
 鬼の総大将は随分と配下に慕われているようだ。決闘の勝敗を無視して首領の逆鱗に触れることになっても、命を捨てる覚悟で姿を現す程度には。
 …これじゃあ、どっちが悪者だかわからないな。
「もう人間に手出しするな、危害を加えるな、騒ぎを起こすな。この三点を厳守すること」
「…あ?」
「それさえ誓えばもういい。山でもどこでも、勝手に帰れ」
 単純な口約束だ。決闘に負けた者が、勝った者の言うことに従うという、簡単に破れてしまう約束。
 だから普通はこんなの馬鹿正直に信じたりはしない。どうせ今この場でだけは誓ったとしても、傷を癒したらまた人を襲い大騒ぎを引き起こす。
 普通ならそう考えるところだけど、この相手にだけはそれが通じない。
「鬼の大将に嘘偽りは無し、なんだろ。決闘による、勝者おれから敗者おまえへの命令だ。ちゃんと守れよ」
 一方的に言って数歩下がる。顎でしゃくって促してやると、牛頭馬頭は警戒しながらも酒呑童子へと近付き、牛頭が肩を貸して起き上がらせた。馬頭は鉄製の棍棒を構えたまま俺へ敵意の眼差しを向ける。
「…そんなんでいいのか、テメェ」
 拍子抜けしたのか、大鬼は唖然とした表情で俺を見ていた。ただ、拍子抜けだったのはこっちも同じで、
「思ったより落ち着いてんな。てっきり『オレの負けだ、殺せ!このまま生き恥を晒すくらいなら舌でも噛んで自害してやらァ!!』とか言って喚き散らすのかと思ってた」
「ハッ、確かに決闘持ちかけておいて、負けた挙句に生かされんのは屈辱だな。だがまァ、結局生きてることが第一、意地だの矜持だのは大体二の次だ。殺さねェってんなら気兼ねなくその言葉に甘えるぜ」
「そうかい」
 鼻で笑って返してやると、若干力なくみえる微笑で大鬼が問い掛けて来る。
「二つ、答えろ。テメェ、心臓をぶっ刺されたはずの致命傷からどうやって復帰した?いくら妖精だろうが退魔師だろうが、傷を無効化させる術はねェはずだ」
「ああ……」
 頷いて、俺はポケットから手品のネタを取り出す。片手に収まる程度の小瓶には、半透明のジェルのようなものが半分ほど残っている。
「ちょっと前に妖怪と知り合う機会があってな、そんときに貰ったもんだ。塗ってよし、舐めてよし。体内外を問わずあらゆる怪我を癒す特効薬にして万能薬さ」
「……なァるほど、テメェ鎌鼬かまいたちと交友があったか」
 同じ日本産の人外だからか、酒呑童子はこれだけの説明で薬の持ち主を看破した。
 三兄姉弟きょうだいの鎌鼬、その『薬』を担当している少女から貰った傷薬には致命傷をすら癒し塞ぐ強力な治癒効果がある。
「あと一つ、『鬼殺し』…名前なんつった?」
「神門守羽だ」
「守羽か。…あァ、あとも一個」
「二つじゃなかったのかよ」
「固ェこと言うんじゃねェ」
 牛頭に肩を貸してもらいながら、大鬼は思い出したように質問を重ねる。
「あのアルって野郎はテメェの仲間か?決闘前にオレへ挑んできた妖精崩れの悪魔だ」
 アルという名前は知らないが、決闘前に大鬼へ勝負を吹っ掛けた者といえば心当たりは一つある。
「俺の仲間じゃねえが、俺の父親の昔馴染みみたいな話は聞いた。それがどうした?」
「…クカカッ、そうか。やっぱ…面白ェな」
 意味深に頷いて呟くと、酒呑童子は牛頭にアイコンタクトで合図する。牛頭は馬頭が俺へ警戒を注いでいるのを確認すると、肩で大鬼の体を支えながら背中を向けて歩き出す。その背から、忠告のような大鬼の声が響く。
「神門守羽、テメェはいくさの申し子だ。今この時を乗り切ろうが、おそらくテメェの存在は次なる戦乱を呼ぶ。……ああ、楽しみだ……クハッ、クッ…カカカカッ!」
 いつまでも耳に残る笑い声を残して、鬼達は一陣の風と共に姿を消した。
 鬼の気配が完全に消え去るまで待って、俺は左手と両膝を地面につけて大きく息を吐く。
 弱みを見せて付け込まれないようにと気丈を振る舞っていたが、実際は俺も満身創痍だ。右手は骨がバキバキに折れてるし、心身共に限界が来ている。全ての力を全開放した反動は思っていたより大きい。鎌鼬の秘薬も、この手の疲弊や反動には効かない。
 ―――…………だと、いうのに。
「…なん、だってんだ。お前らはッ」
 跪いた状態から首だけ捻って振り返る。そこには、死装束のように真っ白な着物の老人が杖をつき、その隣には背丈は低いが横幅は大きい樽のような図体の中年が立っていた。
 直感で理解する事柄は二つ。一つはこの二人が妖精種の人外だということ。もう一つは、
「神門旭の子よ、我らと同行してもらおう。その存在、看過できるものではない故な」
 白髪白鬚の老人の一言で、隣の樽のような中年が茶色の立派な顎鬚を片手でさすりながら前に出る。元々、俺が素直に従うことに期待していないようで、既に臨戦態勢に移行している。
「……く、そ」
 ガクガクと震える手足に精一杯力を込めて再度立ち上がる。反動が強く体に圧し掛かり、血管全てに鉛を流し込まれたように全身が重い。
「くそ、クソッ」
 悪態を吐き、力を引き上げる。
 “倍加”がうまく機能しない、妖精の力が安定しない、退魔の術が構築できない、…神へ至る門が、開けない。
 俺の中にある全ての力は大鬼戦でほとんど使い果たした。余力はもう残っていない。
「クッソがあああああああ!!」
 叫び、駆け出す。
 確定した敗北が、すぐ目の前で俺を嘲笑っていた。



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 神門という表札が付けられた家の居間で、一人の女性が顔を上げる。
「旭さん」
 呟き、立ち上がる。彼の気配が、命の光が急速に失われつつあるのを彼女は感じ取っていた。
 もうこれ以上は無理だ。じっとしているわけにはいかない。
 早足に玄関へ向かおうとした時、家の固定電話がシンプルて単調な音を鳴らす。取るつもりは無かったが、何故か固定電話はワンコールで鳴りやみ、代わりになんのボタンも押していないのに勝手に通話状態へ表示が移り変わる。さらに音量までひとりでに調整され、固定電話の受話器から部屋中に届く声が聞こえた。
『女王様、そこにいますか?いたら返事してください』
 彼女はその声に聞き覚えがあった。かつて妖精界に住んでいた同胞の一人。
「…レンだね。その呼び方はやめてほしいな、わたしは女王でもないし、もうその筆頭候補ですらない」
 彼女の声を拾って、『突貫同盟』所属のレンの声が返る。
『失礼しました。それじゃアルと同じく姐さんで通します。姐さん、最初に言っておきます。家から出ないでください。探知と気配を遮断する結界が張られたその家から外に出れば、たちまち妖精達に見つかります』
「でも…!」
 彼女は色素の薄い髪を揺らして固定電話へ向き直る。
「でもこのままじゃ旭さんが、それに守羽もっ」
『息子さんのとこには今、アルが向かってます。まあうまいことやると思うんで大丈夫かと。旦那さんは…覚悟の上でした』
 同盟の仲間達は、旭から同じ退魔師の同輩との戦いから戻ってこないかもしれない旨を伝えられていた。その時に頼まれた願いを受け取って、彼らはそれを了承したのだ。
『旦那さんから託されたのは家族のこと。息子と嫁をなんとしてでも守ってくれと頼まれました。姐さんも、旦那さんから何か言われたのでは?』
「……っ」
 その通りだった。旭は家を出る時彼女に言ったのだ、『全てを終えるまで絶対に家から一歩も出てはならない』と。その言葉を放った旭の雰囲気に、彼女は頷かざるを得なかった。
「じゃあ…じゃあ旭さんは」
『今のところは何とも。ですが俺達「突貫同盟」は大将である旦那さんの命令を、その意思を尊重して動いています。だから…』
 神門旭を助けに行く者は、誰もいない。
 彼の旧友であり仲間である同盟の者達も、彼の家族も、誰も彼を助けに行くことは出来ない。
 何かしらの『イレギュラー』でも発生しない限りは、絶対に。



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「……ねえ、レイス?」
「なんだ」
 猫耳をぺたりと頭に倒したシェリアが落ち着きなくレイスの隣でそわそわしている。その視線はレイスへ、正確にはレイスに担がれた人間へ注がれている。
 瀕死の状態で意識を失っている神門旭が、うなされるようにきつく両目を閉じて荒い息を吐いていた。
「だいじょうぶにゃの?ミカド……ミカドアキラ。すっごい苦しそうだよ…」
「体の傷には最低限の止血を施した、コイツの生命力ならそうすぐに死んだりすることはない」
 肩に担がれている旭は、レイスの歩調に合わせて上体と両手をぶらぶら揺らしていた。とてもじゃないが、重傷者の搬送の仕方としては雑過ぎる。
「ほんとにつれてくの?」
「無論だ。大罪人を王の前に突き出さずしてなんとする」
 前だけ見てずんずんと進んでいくレイスの声音は冷たい。こと神門関連において彼はスイッチを切り替えるように冷酷になれることをシェリアは知っていた。いたが、
「でも…、アキラは……ミカドシュウのお父さんだよ…?」
「…、それがどうした」
 一瞬だけ言い淀んだレイスも、すぐに素っ気なくそう返した。続けて言う。
「それに神門守羽も連れて行くのだから問題ない」
「……え…?」
 シェリアの足が止まり、旭を担いだレイスが半身だけ振り返る。
「シュウ、も?にゃにそれ、あたし聞いてにゃいよ!」
「言ってなかったからな。本当ならば彼女も捜して連れ戻したかったのだが、どうやっても居所を突き止めることは出来なかった。守羽は今頃ファルスフィス殿が捕らえに向かってくださっている」
 自分の知らぬところで進んでいた話を知り、シェリアは垂れた猫耳を今度は僅かに震わせながらピンと立たせる。まるで彼女の感情をそのまま体現しているかのようだった。
「シュウは関係にゃいでしょ?ううん、それ言ったらアキラだって!」
 顔を上げて、血だらけで四肢を投げ出して担がれている神門旭を見て、もう一度顔を伏せる。
「やっぱり、やっぱりおかしいよ!ミカドって、そんにゃに悪い人たち?ぜったい違う!!」
「お前は何も知らないからだ。いやそれとも、この短い期間で情が移ってしまったか?お前は人が良いから無理もないが…」
 レイスの諭すような言葉に、ふるふると首を振るうシェリアが数歩後ろへ下がる。
「ちがう…違う違う!そうじゃにゃいよ…皆、みんにゃおかしい!ミカドは悪者だって決めつけて!お話もしにゃいで乱暴に捕まえて!……違うよ、これじゃあ、悪者なのは……」
「…シェリア、落ち着け。らしくもない」
 純粋にただ混乱する仲間を労わるレイスが、優しく声を掛ける。その背後から新たな人影が現れた。
「あら?どうしました、レイス。…シェリア?」
「ラナか」
 路地の向こうから歩いてきたのは金髪と豊満な肢体が目を引く絶世の美女。妖精組織『イルダーナ』において情報収集を主な役割とするラナだ。
「一体、何があったんですか?」
 耳をくすぐるような美しい声色で、ラナはこの状況に説明を求める。それに対しレイスが口を開きかけた時、
「…ね、レイス、ラナ。アキラを許してあげよう?もう、こんにゃのやめよ?」
 猫耳少女のことをよく知る彼らにとっても見たことがない、元気を無くしたか細い声で提案するシェリアに様子にレイスとラナは不安と動揺を覚えた。
「…本当に、どうしたのですか?」
「神門旭と神門守羽を捕らえることに反対らしい。解放してやれと言ってきかない」
 僅かな戸惑いの表情を見せて言うレイスに、ラナは困ったように小首を傾げた。
「それは……難しいのでは?」
「不可能だ。これは我らの総意であると共に妖精界の民達の総意でもある。罪人を晒し上げて粛正することは妖精界の今後を考えても必要な通過儀礼」
 ぽたりと、足元に水滴が落ちて真夏のアスファルトに黒い滲みを生む。俯き伏せた両目から、大粒の涙が二滴、三滴と続けて零れ落ちていく。
 なんでわかってくれないのか。どうして罰しなければならないのか。もう終わった事を、何故こうして人の世に来てまで蒸し返さなければいけないのか。
 まだ年端もいかない、幼いシェリアには何もかもがわからなかった。仲間達の言葉が、思いが、考えが。まるで自分とすれ違って一向に噛み合わない。それが悔しくて、悲しかった。
 でもシェリアはレイス達の言い分が正しいとは思わなかった。幼くても、年上達の考えが絶対的に正しいものなのだと妄信するようなことはしなかった。
 だから少女は自らの考えに則って、行動する。
「…レイス。アキラをおろしてあげて」
「いい加減にしろ、シェリア。我儘が過ぎるぞ」
「レイスっ!!」
 ボゥッ!!と、細い路地全体を強い風が吹き抜ける。叩きつけるようにラナとレイスを通過した風が、シェリアの周囲で留まり渦巻く。
「おねがい、レイス……もう、やめようよ?」
「シェリア!?」
「本気か、お前…!」
 ラナが叫びレイスが目を見開く。
 シェリアの背には、集った風が塵と埃を巻き込んで視認可能となった大気の羽が具現されていた。
 それは妖精種の先天的特徴である『妖精の薄羽』。普段押し込めているそれを解放したということは、シェリアが冗談抜きで実力行使を敢行する気概でいるということに他ならない。
 未だ目の端から頬を伝う涙が、風に優しく拭われるように散っていく。
 思いがけず発生した仲間割れの中で、さらに事態はこじれを見せる。

「シェリア……?」

 それは一人の少年の出現。
 少しだけ逆立った癖毛は肌に滲んだ汗に張り付いていて、少年が急いでここまで来たことがわかる。いつも快活な表情を見せるその少年は、今現在この状況を前にしてきょとんと目を丸くしていた。
 しかしそれも数秒の間。
「あ、…シノ」
 強風を身に纏うシェリアが振り返る。
「っ!オイ、テメエら…」
 見たところ、どうやら対面の二人とシェリアは何か対立しているようだった。その内の一人は知った顔だ。
 おそらく妖精同士、同じ組織の仲間なのだとは思うが、何があったのかは今来たばかりの少年・東雲由音には知る由も無い。
 だが問題はそこではない。
 由音は肩を怒らせながらずいと進み出て、湧き上がった感情を言葉に変換する。
「なんでシェリアが泣いてんだ。テメエら仲間じゃねえのか、なんでこの子を泣かせてんだテメエらはッ!!」
 風を纏うシェリアの隣に並び、その頭にとすんと片手を乗せる。猫耳ごと髪が押し潰されるが、嫌だとは思わなかった。その手の感触はとても優しく、そして心地よかったから。
 背の小さいシェリアは由音を見上げて、名を呼ぶ。
「シノ」
「おう、何があったシェリア!?アイツらがいじめたのか?」
 涙の痕が残る少女の弱々しい表情は、由音にとっては耐え難いものだった。たとえまだ短い付き合いでしかなかったとしても、命懸けの共闘をした相手のことを由音は特別視していた。
「シノぉ…」
 またしても瞳が潤み、どうしようもなくなってシェリアは由音の脇腹に顔を押し付ける。ぐしゅりと鼻をすするシェリアの頭を乱暴に撫でながら、由音は少しでも状況を掴もうと視線を巡らせた。
 そうして、レイスが抱えている一人の人間の姿を見つけた。酷い怪我なのが遠目からでもわかる。
「あきら、ミカドアキラだよ、シノ」
「誰だよ!…いや、ミカド?神門……あっ?じゃ、あの人って」
「シュウのお父さん」
「んっだと…!?」
 途端に由音の額に青筋が立つ。
「どういうことだレイス!シェリア泣かしたり守羽の親父さんにひでぇことしたり!何考えてんだ!!」
「フン。…ラナ、神門旭を頼む」
 肩から降ろした旭を背後のラナに託して、レイスは空いた両手を下げて一歩前に出る。
「どうするんです?…あら、少しお歳は召してますがいいお顔立ちですこと」
 抱えた旭の顔を近くで眺めながら頬を染める金髪美女に、レイスは顔だけ向けて返す。
「シェリアを説き伏せるにも、今はあの男が邪魔だ。おとなしくさせる。お前は神門旭を運んで合流地点へ向かえ、そこでティト殿が待っているはずだ」
「わかりました」
 頷き、即座に旭を抱えたラナが細路地の奥へ駆けていく。
「あっ、待てコラ!」
 泣き止んだシェリアを身から離して追いかけようとした由音を、水の鞭が地面を叩き妨害する。
「待つのは貴様だ、東雲由音」
「チッ、まずテメエからか!でっけえ気配がしたから、守羽の決着見届けて急いで来てみれば!一体全体なんだってんだこりゃ!!」
 由音の全身を邪気の奔流が覆い、その両目が黒く淀んだ色に満たされる。
「シノ!あの…あのねっ」
 風を四散させて解除したシェリアが、着ているワンピースの胸元を両手でぎゅっと掴んで由音を呼び止める。
「下がってろシェリア、仲間とドンパチやりたくねえんだろ!?よくわかんねえけど、どうせ悪いのはレイスだ、殺しはしねえから安心しろって!」
「う、うん!」
「余裕だな、人間」
 余所見をしていた由音の胴体に、太い水鞭すいべんが曲線軌道で鋭い一撃を打つ。普通の人間ならこれだけで肋骨が折れてしまいそうな威力だが、生憎と由音にこの程度のダメージはダメージとして通らない。
 裂けた皮膚と折れた骨を即座に“再生”で治し、片手の一振りで水鞭を打ち貫き霧散させる。
「まずテメエはシェリアに謝れ。そんで守羽の親父さん返せ!!」
 体を沈み込ませ、“憑依”によって常人を遥かに超えた瞬発力をもって由音はレイスの水の猛攻に素手で挑む。

       

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Neetsha