ずっと聞こえていた。そのはずなのに、声に答えることは出来なかった。
意味を成さない叫びだけが、自分の口から出せる唯一の返事だった。
長い長い間、ずっと連れ添ってきた、大切な家族の声。
いつだって強気に先導してきた弟、いつだって身を案じ心配してくれた妹。
声はいつまでも自分を呼んでいた。見捨てるでも見放すでもなく、いつまでも自分を呼んでくれていた。
意思に反して体は動く。殺すべく、壊すべく。
乗っ取られたと、すぐに気付いた。
自らの存在、起源、象徴。
そういうモノに、この身は捕らわれた。
古くから伝わる、人の身を斬り裂き命を奪う悪霊、あるいはそれに連なる妖怪。
そういうモノに、なってしまっていた。
傷つけたくないものを傷つけ、見たくもない血を
堕ちた、染まった、反転した。
もう駄目だと悟った。手遅れだと理解した。
この手が何かを殺してしまう前に、殺してほしいと願った。殺せる相手を求めた。
願いは叫びに、求めは本能が代わりに応えた。
妹と弟には自分は殺せないから、違う誰かに。強い力を持つ誰かを探して、見つけた。
強い強い力を持つ者。身に人ならざる力を抱えた人間。
本能が疼く、喰らいたがって牙と刃を鳴らす。
彼しかもういなかった。既に意識はほとんど稀薄で、殺すことしか頭になかった。
この人間なら、殺してくれるかもしれない。そうでなければ困る。
だから襲った。限りなく薄い意識の中で、どうにか本能に指向性を込めて。
彼を反転した『鎌鼬』の対象として狙い定めた。
「…………………………」
甘い。
まろやかな、それでいて甘過ぎない。キャラメルを少し薄くしたような甘み。
大好きな、味。
食べ物ではない、菓子でもない。
それは『薬』だった。
全ての傷を癒し、治す。鎌鼬の『薬』。
弟の『薬』は、何故か苦い。自分の『薬』は、何故か苦い。
自分の大好きなその甘みを持つこの『薬』は、妹のものだ。
「………………」
口の中で溶けて消えたその甘みを求めて、舌が動く。
薄く開いた口に、何か棒のようなものが突っ込まれた。少しえづくが、その先端に求めた味があるのがわかり、それを舐め取る。
棒だと思っていたものは、思っていた以上に柔らかく、温かい。
指だと気付くまでには少しかかった。『薬』を掬い取った人差し指が、自分の口に差し込まれたのだ。
全身が重く、うまく動かない。
だが、
自らの意思で、動かせる。
閉じた瞼を、少しずつ開く。
「…………あぁ。…さ、や……」
「……っ…!」
大切な妹、
絞り出すように妹の名を呼び、精一杯笑顔を作ってみる。うまくいったかどうかは自分ではわからないが、紗薬は大粒の涙を溢しながら自分を見下ろしていた。
「ったく、手間掛けさせやがって、この馬鹿兄貴が」
「…は、っは。相変わらず、だね…
少し離れたところには、大事な弟の姿もあった。
認識できている。体も、今は重いが自由に動かせる。今の自分に、人間を殺す意思も障害となるものを斬り裂く殺意も無い。
自分で言うのもなんだが、正気だ。
本能に侵された『鎌鼬』ではなく、今ここで妹に膝枕をされている自分は、間違いなくこの二人の兄、『
殺されることを覚悟していたのに、戻ってきた。
戻ってこれた。
「…そっか…俺は、戻って……これたんだね…」
もう、兄としてはいられないと思っていた。
人に害成す鎌鼬として最期を迎えると思っていた。
妹と弟には、もう正気では会えないと思っていた。
「転止、兄さんっ…!」
「テメエはオレらの兄貴だろうが…泣いてんじゃ、ねえよ…っ」
知らず、涙が頬を伝っていた。紗薬は依然として自分の頭を抱いて泣き続け、目元を片手で覆っている夜刀も、きっと涙を堪えているんだろう。いや堪えきれてないな…。
「ああ、うん………そうだね」
鎌鼬三
もう、きっとこれから先も同じことにはならないだろう。
「…………ふん」
浅い鼻息を耳に留め、視線をそちらへ向ける。
そこには、全身を赤く染めた少年が一人、大きな瓦礫に上半身を預けてこちらを見ていた。
顔色は悪く、全身に酷い怪我を負っている。
すぐに自分がやったことだと気付き、慌てて起き上がろうとする。が、身体はやはり鉄の塊のように重く、うまいこと起き上がれなかった。
「転止、まだ動かないで…」
「紗薬…っ、俺はいい。はやく彼を、早く!」
体を支えてくれる妹へ告げる。
自分達を助けてくれた、自分を救ってくれた人間の彼。
死なせてはならない。
ずるりと、彼の体が横倒しになる。上体を預けていた瓦礫にはべっとりと彼の血が付着していた。
不味い。
紗薬が急いで彼のもとへ走り、代わりに夜刀が自分に肩を貸して起き上がらせてくれる。
ここからではよくわからないが、呼吸は止まっていない。まだ生きている。
生きているのなら、紗薬の『薬』で治せないわけはない。
きっと助かる。