Neetel Inside ニートノベル
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「おい、犬ころ」
「なんだ、『鬼殺し』」
俺の呼び掛けに、犬は不愉快極まる呼ばれ方で返す。
「…その呼び方やめろっつっただろ」
「では名を」
人外なんかに名乗りたくはなかったが、あんな呼ばれ方をされるのも癪だ。
仕方なく答える。
「神門守羽」
「そうか。私はカナだ」
「……お前、名前あったのかよ」
「名付けてくれた人がいたのだよ、私にもな」
「そうかい」
犬と雑談に花を咲かせるつもりはない。早々に会話を打ち切り、固定させたままの視線の先の姿を見据える。
最後に、一つだけ訊ねる。
「で、覚悟は出来たのか」
「はて、覚悟とは。口裂け女と対峙する覚悟のことかな」
「おとなしく身を差し出して殺される覚悟だ」
俺は人面犬の首を鷲掴みにして、掴み上げる。
やれやれと、人面犬は冷静に首を左右に振るう。どこまでも人間臭い仕草だ。
「私はまだ死にたくはない」
「ああ、俺もだ。だからお前は死ね」
目の前で俺達を狂気じみた眼光でただ見つめる口裂け女からは、まるでそうあるのが当たり前であるかのように濃密な殺意が放出されている。それは逃亡を許さぬ、蛙を竦ませる蛇の眼。
逃げるには何か別の要素が必要だ。
人面犬に言った通り、俺はまだ死にたくない。だから、この犬にはその要素になってもらうしかない。
怨まれても構わん。俺だってとっくの前から人外に敵意を抱いてる。お互い様だ。
犬を掴む手を持ち上げ、投擲のモーションに入る。
狙いは口裂け女の顔面。
ヤツの第一目標はこの犬。ならコイツに意識が向いている間に逃げ切るくらいは可能なはずだ。
俺は生きる。必ず逃げ延びる。
その時だった。

「…あ」

吐息のような小さな呟きが、俺のよく知る先輩の声色で、俺の耳朶を強く打った。
すでに半ばまで投擲の流れに乗った状態で、横目でかろうじて視界に入ったその人を見る。
夕焼けの中で、静音さんが俺と口裂け女を交互に見ていた。
そして彼女を見ていたのは俺だけではなかった。
「…………ニィ」
「ーーー!」
耳元まで裂けた口を思いっきり半月を描いた笑みに変え、口裂け女は静音さんに視線を移していた。
殺意の奔流が、急速にその方向を変えていくのを感じた。
俺や人面犬から、何も知らない無垢な少女へと。
人間の女の子へと、死の気配が牙を剥ける。
瞬間、俺の中で組み上げて完成していた思考が全て壊れた。代わりとばかりに新しい思考がすぐさま組み上がる。
逃走から、対立へ。
「おーーーらぁっ!!」
「むぉっ!?」
中途半端だったモーションを完成させ、俺は人面犬を当初の予定通り口裂け女の顔面目掛けてぶん投げる。
と同時に俺も駆ける。
口裂け女の懐へ。
「キシャァ!!」
赤くくすんだコートの内側から取り出した出刃包丁を、口裂け女は人面犬の首へ突き立てる。
「ぬぅ!」
空中で体勢を立て直した人面犬は、滞空したまま口裂け女へ前足を振り上げる。逆立った毛がまるで針のように鋭く硬化し包丁を弾く。
あの犬にまともな戦闘能力があるとは思っていなかったが、おかげで予想より大きく隙が出来た。
二体の都市伝説が衝突した瞬間を狙って、低い姿勢から懐に入り込む。
(三十倍…!)
“倍加”によって強化された右手を突き出す。
「ヒヒャハッ!」
弾かれた包丁をそのまま俺の攻撃への防御に回すが、三十倍強化の拳は出刃包丁を容易くヘシ折り胴体を打つ。
足を踏ん張り、拳を振り抜く。
「キ、クヒッ。ヒヒヒャハハハハッ、クキャキャカカハハハッッ!!」
数メートルは体が飛んだはずなのに、口裂け女は狂ったように笑うだけでまるでダメージを受けていないように見える。
歯噛みする俺の横で、難なく人面犬が着地する。
「まったく、年寄りは労わりなさい」
「うるせえクソ爺。…静音さん!俺が見える範囲で下がっててください、コイツは危ない!」
状況を呑み込みきれていない静音さんは、それでも軽く頷いて俺と犬から少し離れた後ろの方に回ってくれた。さすがに人外騒ぎにはもう慣れっこか。
「それで、無事に心変わりはしてくれたようかな?神門守羽」
「さぞ愉快だろうなクソ犬。満足したならさっさと失せろ」
静音さんを連れたままじゃ逃げ切るのは難しい。たとえこの人面犬を生贄に差し出したとしてもだ。
戦うしかない。
人面犬は、全身の毛をさざめかせ俺の隣に並んだ。
「…いや、そうもいかんよ。さっきも言ったが、すまないとは思っている。これは紛う事無き本心よ」
「すまないと思ってんならこの状況をどうにかしろ」
「応とも。奴を退ける力添えくらいはしよう。出来るかどうかは置いておいて、な」
グルルと唸る柴犬だが、見た目に迫力がないせいでまるで頼りにできない。
「ヒヒヒハ、ネエ、ワタシ」
折れた包丁を投げ捨て、コートの内側から手斧を二つ出して両手に構えた口裂け女がいよいよ構えをとった。
「来るぞ神門、気を抜くなよ」
「犬にそんなこと言われる日が来るとはな。テメエこそ遠慮なく気を抜いて喰われてくれていいぞ」
「ふふ、そうか」
皮肉を受けて落ち着いた声で笑いを溢す柴犬がどこまでも忌々しい。
「キレイ?ワタシキレイ?」
口裂け女の代名詞とも呼べるべきその問いを繰り返すヤツに向けて、放ってやる言葉は決まっていた。
「黙れ不細工、少しは口臭を気にしろブスが」
「まったく、いつ見ても見るに堪えない容貌だ。その口、縫い合わせた方が君の為だと思うがね?」
俺と犬の正直な言葉を受けて、口裂け女はさらに笑みを深める。

「くヒヒ、コロス」

       

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