Neetel Inside ニートノベル
表紙

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もう随分と前の話になる。
私は人面犬として、それらしい行動に励んでいた。
主に高速道路を縄張りとして、深夜に通る車を狙い脅かした。殆ど走行している車両がないのをいいことに速度を出して走っていた車に並走し、この犬の身と人の顔の混合した身を見せて驚かせた。それによりドライバーはハンドルを誤り、事故を起こして高確率で死んでいく。
そういったことを繰り返していた。
そんな折、一人の人間が私の前に現れた。

「人面犬、か。知名度補正はだいぶ高そうだが、まぁ、勝てない相手じゃねえな」
「…その臭い、ただの人間ではない。何者か名乗り、私を訪ねた目的を話しなさい」
「ヒナタ。ただの退魔師だよ、目的はーーーテメェの抹殺だ、害悪」
「なるほど。では死因は事故死ではなく噛殺ごうさつとなるな」

激闘、と言えた。
結果として私は敗北し、致命的な傷を負ってその場から這う這うの体で逃げ出した。
ヒナタとはおそらく退魔の家系の者の名だったのだろう。奴は不可思議な術を使い私の力の半分ほどを削ぎ落とした。
だがそのおかげかもしれない。人外の気配を掴むらしい奴から力を半分失くした私はどうにか逃げ切れた。
しかし傷は深く、それ以上は一歩たりとも動けなかった。倒れ、薄れゆく意識の中でも、私が思うことは何もなかった。ただ、人を脅かすだけの化物としての人生だったと、他人事のように笑った。
目を覚ました時、私はどこかの建物の中にいた。

「あ。目、さめた?おとーさーん、わんちゃん起きたよー!」

幼い人間の少女が私を間近で見て、誰か(おそらく父親だろう)を呼びに行ったのを寝起きの頭でどうにか理解した。
少しして、ここが動物病院であることがわかった。同時に、あの少女の父親が獣医であることも。

「よかったねーわんちゃんっ。おとーさんはもうだめだってゆってだけど、やっぱりだいじょーぶなんだって!げんきになるまでここにいていいからね」

獣医の父親はとりあえずの治療はしたものの、あまりの傷の深さに半ば匙を投げていたらしい。が、予想を上回る治癒速度を前に掌を返した。
ただの人間の獣医ならば、最初の判断で正しかっただろう。だが私は人間の常識を超えた身。かろうじて命は繋がった。

「わんちゃーん、ごはんだよー!だいじょーぶ?いたくない?あーんしてあげよっか?あたしいっつもおかーさんにしてもらってるの!」

幼い少女は毎日毎日甲斐甲斐しく私の面倒を見た。
倒れた私を運んできたのもこの子であるらしい。服を私の血で汚しながら、必死で家まで引っ張ってきたという話をこの子の父親と母親がしているのを聞いた。
力が削ぎ落とされたせいで私の象徴でもある人間の面という部分も失せてしまい、普通の柴犬のような外見になっていたのが幸いだったと見える。人間の顔を持つ犬であれば少女も助けようなどとは思わなかったはずだ。
両親共に、ひとまずは傷が治るまではここに置いておくことを許可してくれたようだ。
少女は両親からかなでと呼ばれていた。
奏は朝起きるとずっと私の隣で背中を撫でたり毛をいじったりしていた。学校から帰ってくると今日あったことを楽し気に話し、頭を撫で、そして私にじゃれた。
どちらが犬かわからなかった。
やがて私の傷は着々と癒え、完治に近づいた。
しかし私は少女から離れようとは思わなかった。
興味が湧いたのだ。人間というものに。
これまでは自らの存在を刻み付け存在を維持させる為の手段の一環、その道具としてしか見ていなかった人間に、興味が湧いた。
血に濡れ死にかけていた犬を必至に引き摺ってまで助けようとした少女に興味が湧いた。
この時から、私はもう人間をきちんと『人間』として見初めていたのだろう。
傷が完治したその日、私は奏の必死の嘆願もあり、両親にも認められ晴れて奏のペットとなった。
従者ペット、という呼ばれ方には少し思うところもあったが、私の方がこの子よりよっぽど長生きなのだ、その程度の些事には目を瞑ろう。この危なっかしい少女は、すぐ私の前で転んで泣いてしまうのだから傍にいなければなるまい。
私が利口な犬だと判断した両親が、奏のお目付け役として私をペットにすることを認めたのかもしれないと勘ぐるほど、奏は良く動きよく転ぶ子だった。

「わんちゃんはなまえがないもんねー…。うんっ、あたしのなまえをわけてあげるね!」

奏が、私にカナという名を与えてくれた日でもあった。
それからの数年は満たされた日々だった。
毎日学校から帰るとすぐさま奏は私を散歩に連れ出し、私は先導して道の安全を確かめながら首のリードを引っ張って歩く。
本人は私がはしゃいで先を歩いていると思っていたようだが、それは違う。君の為だ。小さな石ころ一つでも、君は器用に躓いてしまうから。そうなったらすぐに私が地面と奏の間に割り込みクッションとなる。
その都度、奏はえへへーと笑って私に抱き着いてきた。ふわりと香るその匂いが、私は好きだった。
最初こそ、数年ほど経てばそのまま姿を消すつもりだった。そもそも人と人外とでは寿命が違う。既に私は奏の十倍以上は生きているのだ。まだまだ奏が大人になっても私は天寿を全うするには余りあるだろう。
明らかに犬の寿命を超えていることは、いずれ必ず疑問に挙がる。その前に姿をくらませようと考えていた。
だが、この時にはもうそんなこともどうでもよくなっていた。
あまりにも心地良過ぎた。この少女との日々は、心安らぐ安穏の日常は。
この子が望んでくれるなら、私のことを必要としてくれるのなら。
私はこの先誰かに気味悪がられようと、この姿で何年何十年でも君の為に生きよう。
そう、本気で思った。
奴等が来るまでは。

「夜な夜な口を利く犬が出没するって噂を辿って来てみれば、ドンピシャか。元気そうで忌々しいぜ、害悪」
「……全く、かつての悪事が巡り巡ってここに来たか。私には相応の罰かもしれないな」

ヒナタとの再会。しかも見知らぬ顔がもう一人。
接近は臭いで知っていた。あの子を巻き込むわけにはいかない。負け戦を覚悟して、私は退魔師と対峙した。
本来の半分の力しか出せない私には、初めから勝ち目など微塵もなかった。

「…止めだ。これ以上は意味がない」
「あ?なにをほざいてんだテメェは」
「……?」

手負いの私の前に、見知らぬもう一人が割り込んできた。
おそらくは同じヒナタの血族であろうその者は、仲間となにやら諍いを起こし始めた。

「死者は出てない、たいして大きな騒ぎにもなっていない。これじゃ退治する条件には合わない。彼は人間に対して無害だ。殺す意味がない」
「今は、だろ。前は殺してた、騒ぎにもなってた。だからオレが出張ったんだろが。殺しそびれてたから、今こうして殺し直してんだ。意味はあんだろ」
「…相変わらず、お前とは話が噛み合わないな」

軽く溜息を吐いたヒナタの一人は、私を見て視線で逃走を促した。見逃してくれるらしい。
無言で私は逃げ出した。ヒナタを前にしての二度目の逃走は、何故か同じヒナタが手助けをしてくれた。
しかしそんなことはどうでもいい。
帰ろう。あの家に。あの子の元に。
怪我をしてしまった。また奏が泣いてしまう。どうしたらいいだろう。またあの父親に手間を掛けさせてしまう。また怪我が治るまで奏が面倒を見てくれるのだろうか。ああ、それも悪くはない。今度はもっと甘えよう。あの時には出来なかったことを沢山しよう。私の方が長生きだが、私の飼い主はあの子だ。たまには私が犬らしくべったりしても文句は言われまい。きっとあの子は笑って私に構ってくれる。学校に行く時間になっても私を撫でて、きっと母親に怒られて慌てて出て行くのだろう。帰ってくる時も大急ぎで。私に抱き着きながらただいまと言うんだ。そうしてまた夕飯までの間、私を抱き枕のように扱ったり毛を梳いて遊んだりするのだ。
そんなことばかり考えていたから、私は気付かなかった。
いつの間にか私は夜の道路の真ん中を歩いていて。
その夜中の道路を一台の車がかなりの速度を出して走行していて。
それはちょうどあの子のことを考えていた私の前まで迫っていて。
そしてあの子が、車のライトに照らされて私を抱えていて。

「……ぅ。カナ、ぁ……」

返事をしたかった。言葉を出したかった。
喉が干上がっていた。何も言えなかった。いつもあの子の前で出す犬としての鳴き声すら、口から出なかった。
なんで、ここに。
夜中にいなくなった私を、探しに来たのか?事故に遭いそうな私を見つけて、飛び込んできたのか?
わからない、解らない、判らない。
わかることはといえば、一つの命が消え掛けているということだけだった。
車が追突してきたくらいじゃ、私は死なない。いくら傷を負っていたって、その程度じゃ私は死ななかったのに。
それを知らなかった奏は、私を庇った。その命を懸けて。
そうだった。今更ながらに思い出した。
人間はこうなのだ。自分の為のみならず、他者の為にも平然と命を賭す。
昔の私であれば絶対に出来なかったことで、今の私であればきっと出来たであろうこと。
君の為であれば、きっと出来たはずだ。君の為なら、私は自分の命など投げ捨てて尽くせたはずなのに。
なのに、どうして君が私の為に命を落とす?

「カナ……だい、じょうぶ?…いたく、ない?」

消え掛けている自らの命のことなど構いもせず、奏は私へ手を伸ばす。血塗れの手で、私の頭に手を乗せる。
あの時とは逆だな。血塗れなのは君で、見ているのは私。
あの時、君はこんな気持ちだったのか。こんな、心臓が締め上げられるような気持ちだったのか。
何がなんでも助けたいと、そう思っていたのか。
私は、私が死に掛けていた場面を目撃した奏がその時どんな気分で何を思っていたのかを、同じ立場になって初めて知った。
知らなければよかったのに、知ってしまった。

「えへへ…よかっ、…た…」

最期に、奏は満面の笑みを浮かべて、私の頭を力なく撫で、その手を地面に落とした。
自分が死ぬことの恐ろしさより、奏は私が無事だったことの喜びを優先させた。
そんなこと、ありえるのか。
自らの死を受け入れて、他者の生を喜べるのか。
ああ、ありえるんだろう。
今の私になら、それがわかる。私が奏の立場だったら、やはり私も同様の反応を示すだろうから。
失われていく奏の体温がこれ以上逃げていかないように、私は奏の体に寄り添って温めた。
全く意味がないことだと知っていながら、いつまでもそうして奏の体に密着して肌に触れ続けていた。
そうして、私は初めて失いたくないと思えたものを、初めて失くした。

       

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