Neetel Inside ニートノベル
表紙

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カナは一つ、大きな嘘をついていた。

『ああ、私の狙いだったな。簡単な話だが、私を守ってほしいのだ』
『もちろん、私とてただ殺されるのを受け入れるつもりはない』
『私はまだ死にたくはない』

嘘だった。
この命、既に惜しむものではなかった。殺されたとしてもおそらく受け入れた。
端的に言えば、死にたかった。
奏を死なせてしまったあの時から、カナは生きることに苦痛を感じていた。常に心臓が握り締められているような痛みを感じながら生きていた。
一緒に生きていきたかった。出来ることなら共に死にたかった。
たが奏は先に逝き、自分はまだ生きている。
正確には、ただ死ぬわけにはいかなかった。
命を賭して守ってくれた奏の為に、この命を無意味に費やすことだけはしてはならないと思ったから。
だから人面犬は意味を求めた、価値を求めた。
自分自身のこの命に。
使うなら、費やすのなら。
かつての主のような者の為に。
そう決めて、これまでを生きてきたのだから。
それに、これは『』との約束でもあったから。
会ってみてよくわかった。あの少年は奏と同じように、他者の為に命を尽くせる人間だと。
だからこそ、この命を使うに足る人物だと確信した。奏に守られた命なら、奏のような人間の為に使うことが、せめてもの贖罪であり唯一許される死に方だと思った。
完全にとはいかなかったが、『彼』との約束通り神門守羽に『切っ掛け』を与えることは叶った。
あとあるとすれば、神門守羽に『切っ掛け』を与える為に成り行き上でとはいえこの街に誘導してきて利用させてもらった口裂け女の一件。その後始末。
それで人面犬の思い残すことは何一つ無くなる。



「ギヒ、ハ、ハハッハ!ヒッヒヒヒ……」
街灯の光が届かない路地裏の奥の奥で、体から肉の焼ける嫌な臭いと煙を放つ口裂け女が途切れ途切れの笑みを溢しながら千切れかけの左腕を押さえる。
「……今なら、私にもその両腕を落とすくらいなら出来そうだな」
暗闇の中、小さな足音と共に渋い声色の柴犬が現れる。
「…ヒヒャハッ!」
「聞け口裂け女よ。逃走するだけの頭があるのなら、人の言葉を大凡おおよそにでも理解することは可能なのだろう?」
黒焦げの体でボロボロの凶器を取り出した口裂け女が、弱っている為かカナの言葉にぴくりと反応して武器を構えるだけでそれ以上踏み込むことをしない。
「今の貴様を相手にしても、やはり私は勝てないだろう。その状態からさらに重傷に追い込むのでやっとだ」
カナは自前の牙も爪も出さず、敵意すら引っ込めて続ける。
「貴様の第一目的は私だろう。何を考えているのかは知らんが、貴様は同胞たる都市伝説を喰らうことで力をつけている。であれば」
さらに歩み寄り、カナは警戒している口裂け女の数メートル手前まで来てから、言う。
「この身、くれてやる。喰らえばいい。ただしあの少年と少女には手を出すな。この街から早々に去ることを誓え」
「……アァ?」
「悪い取引ではなかろう。今ここで余計な深手を負うことなく目的を達することが出来れば、貴様としても願ったり叶ったりのはずだ」
さらに数歩進んだカナへ即座に手が伸び、乱雑に伸びた爪を食い込ませてカナの首を掴んだ口裂け女が目線の高さまで柴犬の体を持ち上げる。
「この街以外でなら、好きにしろ。どうだ?これで成立か」
首を絞められながらも動じることなく、カナは他人事のように自分の身を交渉材料に話を持ち掛ける。ただし、駄目なようならすぐにでも命懸けの戦闘を開始できるように身構えておいて。
だが口裂け女は持ち上げたカナに何かするでもなく、裂けた口を横に引き延ばしてニタァと嫌な笑みを浮かべた。
「…ふ、成立だな」
呟き、カナはだらりと全身の力を抜いて身を差し出す。
裂けた口はがぱりと音を立て、人間の子供くらいなら頭から丸呑みできるのではないかというくらいにまで大きく開かれる。
目を閉じて、ただの死よりも恐ろしい目に遭うことにも恐怖することなく、カナはただ思う。
(生きろ、君達は生きてくれ。守られてしまった、守れなかった奏の代わりに君達は私が必ず守ろう。せめて、この化物からくらいはな…)
路地裏の奥の奥で、耳を塞ぎたくなるような咀嚼音が静かに続いた。



バリボリと、骨肉の一片も残さず喰らい尽くした化物が、血を吸い赤黒く染まったコートをはためかせてゆっくりと顔を上げる。
「…………………………ひ」
口角が吊り上がり、口裂け女は空を仰ぐ。
「ヒ、ヒッヒ……ヒャハハハハハハハハハハハハハハハハ!!!ギャはハハッハハハハハハはっはハハッはははハハはハハはハハッハは!!!」
狂ったように大笑いして、口裂け女は次いで叫ぶ。
「アハハハハハ!なるほど、こうなるか!!ありがとうよクソ犬ッ!!ギャハハはは!!!」
口裂け女としての代名詞と、あとは叫ぶか唸るか程度しかできなかった口裂け女がきちんとした言葉でたった今喰らったばかりの都市伝説に声高らかに礼を述べる。
犬の体を持ちながら、人の顔と言葉を扱う奇怪な存在が人面犬と呼ばれるモノだ。
それを喰らい、取り込んだ口裂け女が獲得した性質もまた、それに由来するものとなる。
今、口裂け女は人間の言葉を解し、人語を話す力を得た。
ひとしきり笑ったあと、口裂け女はコートの内側に手を突っ込んで一気に引き抜く。その右手には先の激戦でヒビが入り刀身の所々が欠けた大太刀が握られている。
「…さァて、ひとまずはあのクソガキ共をブチコロして気分を晴らすとすっか。ケケッ、悪ィなクソ犬。ハナっからテメェの交渉に乗ってやる意味なンざねえモンでよォ」
肉体のダメージはかなり大きいが、一人は戦力にならず、もう一人も様子はおかしかったが仕切り直せば殺せる算段はある。
ブンと一振りした大太刀を持って、口裂け女は人面犬との取引を破りあの少年少女を殺す為に路地裏を出ようとする。
その瞬間、右手が意思に反して動く。
「なン…だとォ!?」
手首を返して、手に持つ大太刀の刃を自らの首へ向けて片手の力で目一杯振る。
「あ、ァあああ!!」
目を見開き右手の主導権を取り返そうと意識する。すんでのところで刃は首筋で止まり、ギチギチと刀身が震えていた。
意思に反して動く右手と全力で押し留める口裂け女の意思が拮抗し、右手は主導権を振り回されて痙攣を続ける。
「………チッ!」
すぐに理解した口裂け女は、大きく舌打ちして胸の内に渦巻く殺意を意識して消す。
途端に、右手の主導権は戻ってきた。
「…なるほど、こうなるか。あのクソ犬、最後っ屁でやってくれやがったな…!」
忌々し気に、口裂け女は取り込んだ人面犬に対し怨嗟の声を漏らす。
あの人間二人への殺意に対し、この身は自傷行為を発動するようになったらしい。無抵抗で取り込まれた人面犬の意志が内部で働いているのだろう。
おまけに肌に感じる嫌悪感。この街全体からそれを感じる。まるですぐにここから去れと言われているかのようだ。
本能に引き摺られるように、両足はこの街から離れようと一歩踏み出される。
長居はできない。もちろん、あの人間達を害することも出来ない。
「クソが、犬コロの分際で。……まあ、いいか。あのガキはただの人間のガキじゃねェようだし、下手に手出すのもダリィ。喜べよクソ犬、テメェの思い通りにさっさと移動してやンよ」
歩き始めて、口裂け女はすんと鼻を鳴らす。
それはあの人面犬がよくやっていた動作。単なる臭い以外にも、人外や異能の力をも嗅ぎ分けられる特殊な嗅覚。
「…あァ、そっちか。クカカ、この鼻は便利だなァクソ犬。おかげでシラミ潰しに探す手間が省けて助かるぜ」
次の標的を定めた口裂け女が、迷いなくその方角へと足を向け直す。
「ヒャハは、待ってろよクソ共。都市伝説はアタシだ、アタシだけだ。他は余計なンだよ、邪魔なンだよ。全部喰らい尽くしてアタシが唯一になる。ヒッ、ヒハッハハハ……」
全身傷だらけの焼け焦げた体を引き摺って、口裂け女は全身を駆け巡る激痛をものともせず確かな一歩を刻んで行く。

「ヒャハ、ヒャハハ。ギギャハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハッッッ!!!」

聞く者全てに恐怖を植え付ける狂気の笑い声が、しばらくの間夜の街を包み込んでいた。

       

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