Neetel Inside ニートノベル
表紙

壁の中の賭博者
01.樹畑錬

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 ああ、いたんだ――
 どこにいてもだ。
 どこにいても、僕にかけられるのはそんな言葉ばかり。
 当然だと思う。
 僕には、美しい点というものが一つもない。
 かといって、見るに耐えない欠点というほどのものもない。
 どっちつかずの半端者――
 クラスで浮いているわけでも、かといって愛されているわけでもない。
 嫌いになるほど濃いキャラではないけれど、側に置いておくほどの価値もない。
 それが僕という人間の全てだ。

 十七年間も生きてきて、僕はその程度の人間にしかなれなかった。
 まだまだ人生、先は長い、そんな夢見事をほざく奴もいるだろうが、僕は信じない。
 今までもこれからも僕の人生はクソッタレであり、それは絶対に変わらないことだ。
 変わってたまるか。
 それでも、腹立たしいことに、クソッタレでも恋はする。
 一人前に恋をする。
 誰かに言えば笑われる。自由は素晴らしいと知ったような口を利くくせに、僕にだけはそれをくれずに、身の程を弁えろとあざ笑う。たいした気持ちじゃないけれど、大切な気持ちなのかもしれないのに。
 だから僕はこの気持ちを毎朝毎晩押し殺して、日々を生きている。
 誰に言うでもなく、ただ自分の胸にだけ恋心を秘めて、家と学校を延々と往復し続ける。
 ただあの子に会いたいがために学校へいく。
 話したことなんてほとんどなく、そしてこれから近づくこともないだろう、あの子のために。

 月野美影。
 つきのみかげ。
 それが、僕が好きになった女の子の名前。
 僕のような人間にはよくあることで、高嶺の花だ。
 本人が恋愛に対しては臆病らしくて(クラスの女子が大きな声でする噂話が、影の薄い男子にはよく聞こえてくるものだ)、いまだに誰とも付き合ったことがないらしい。
 恋愛話になると頬を染めて唇をすぼめ、ふるふると首を振る。
 自分にはそんな資格はないのだ、と言いたげ。
 そういう自尊心の低いところがまた、僕のような屑にとっては魅力的。
 お互いのことを理解できるんじゃないか。
 そんな気がする。屑は屑同士。傷の舐め合い。

 それでも毎日は凍りつき、なんの進展も起こらずに。
 月野は僕の名前を知ってるだろうか。
 樹畑錬。
 言いにくいだけ。嫌な名前。
 許されるなら、名前を呼んでほしい。月野に。
 親にも忘れられた、この名前。

 そんな僕に、それは訪れた。
 真実という侵略者。
 僕らは騙されている。
 所詮、この世は誰かの玩具――無為は無為、希望は偽物。
 天使がそう仕向けてる。あの顔だけの天使が。

 僕は勝たなければならない。

 ○

 嫌な一日だった。
 いつもそうだった。
 斎藤と肩がぶつかり、階段では足を滑らせ、英語の三浦に当てられ、やったはずの課題を忘れ、そして給食はひどかった。
 高校なのに、いまだに給食。牛乳ばかり飽きもせずに出す。おなかに適わない白濁液を無理やり流し込み、不快感。そしてトイレに駆け込む。
 毎日、毎日、毎日。
 お茶やジュースが給食で出ればいいのに。
 どうして世界は牛乳ばかり僕に出すのだろう。
 わからない。わからない。わからない。
 痛みは無為だ、と思った。

 トイレから戻って、月野の顔を盗み見る。そのためだけに生きている。
 月野は美術部。これから部活で、終わるのは五時。ときどき五時半。僕は知ってる。
 下校のタイミングを一緒にしたいけれど、今日はやめとく。おなかが痛い。ぶり返すかも。
 こんなことばかりを繰り返している。
 ほかのみんなは、幸せそうだ。青春、部活、恋愛、バイト。
 いろいろやって、人生経験。僕は無為な痛みの苦役。雲泥の差。
 放課後。
 校舎から出て行く生徒と逆方向に突っ走って、またトイレ。誰かが吸った煙草で汚染されたトイレの壁はいつも汚くねばついている。青空が見たい。
 何が違うんだろう。
 僕と彼らの、何が。
 トイレからよろよろ出て、もう帰ろうと思った。月野はきっと部室にいる。でも、僕はその扉を開ける資格は持ってない。部員じゃないから。友達じゃないから。
 だれかのなにかじゃないから。
 でも、その日は運がよかった。
 駅前に、月野がいたから。

 ○

 月野は家に帰る気がないみたいだった。家の方向と、歩いている方角が違ったから。
 でも友達はそばにいなかった。いつも一緒にいる木野や向田がいない。あいつらはいないほうがいい、と思った。ひとりぼっちのほうが、月野はきれいだ。
 空腹だった。とてもおなかが空いていた。それはつまり、血がめぐってないということだ。
 だから僕はなにも考えず、どんどん暗い街の奥へと歩いていく月野のあとを無意味に歩いてついていった。少しだけ距離がある、もう少し近づければ、月野がたまたま黙っているだけで実は僕の友達、そんな空想に浸れるけど、僕にそんな資格はない。どこかでそれを買いそびれたらしいのだ。それは時間で買えるチケットらしい。みんなといっしょに過ごした時間、という大金で。
 でも僕には、そもそも元手が無いのだ。

 いくつもの、高さの違うクリーム色のマンション、その根っこはコンクリートで出来たジャングル。どんどん暗くなって青空が切り取られていく入り組んだ路地を、月野は進んでいった。僕は何も考えずについていった。
 やがて、一台も自転車が停まっていない、不思議な駐輪場に月野は入っていった。がしゃん、とフェンスゲートが閉じる音。僕は柱の影に身をよせて、向かいのマンションでほとんど陽が差さない薄い闇を窺った。月野は誰かと一緒にいる。相手は、男性だった。カラーシャツを着た、僕らと同じくらいの年頃の少年。少年? そう、僕らは少年だった。未来も無いまま、子供じゃなくなろうとしている少年だった。僕は頭を振った。空腹で空腹で、現実感が漏れている。僕はざるだった。
 ざるのまま、覗いてた。
「いやです」
 月野の声がした。
「やりたくない、です……」
「――――」
 少し赤茶けた髪をした少年が、何かボソボソと呟いている。よく聞き取れなかった。僕は耳が悪いのだ。
 やりたくないって、なにをだろう。
 なおもぐずる月野に、少年の声がやや強くなって、僕の耳にも届いた。
「俺たちは選ばれたんだ、そうだろ?」
 選ばれた。
 何に?
「そんなの、関係ない、です。そんなの、関係ない、です。わ、私は好きで選ばれたんじゃ……」
「でも、選ばれた。それはもう、決まったこと。俺とお前は、やるしかない。いまからここで」
 そんな、と月野がいやいやと首を振る。
 月野が困っている。月野が困らされている。
 恋が僕を動かした。フェンスゲートが音を立てて開き、僕はその、一台も自転車の停まっていない駐輪場に足を踏み入れていた。二人が振り返る、突然の空気の変動に驚いて。
「……樹畑、くん?」
 月野が僕を見ていた。真珠みたいに輝く眼をわずかに潤ませて、いつも見ていた、あの月野が僕を見ていた。
 それだけで僕は満足だった。
「――誰?」
 少年が言った。怪訝そうに僕を見ている。ちらっと月野を見たのは、彼女が僕を密かにつれてきたのか、と思ったからだろう。僕はこういうことにはよく気がつく。
「そっちこそ、誰」
 掠れた声で僕は問い返した。
 少年はちょっと考えてから、こう言った。
「その子の敵、かな」
「じゃあ、お前は僕の敵だ」
 死ね。

 ○

 樹畑くん、と月野が僕の制服の袖を引いていた。
「あの……あの……どうして、ここに?」
「たまたま」と僕は答えた。
「じゃあ……ミザリルのことは……」
「ミザリル」
 だれそれ、と思った。月野は壁を指差した。
 最初は、染みだと思った。天井の木目が壁に見えるとか、そういうの。
 それは確かに顔に見えたし、表情があった。そいつは僕を見ていた。石で出来た目玉がぎょろり、と液状化して動いた時にやっと僕は、それが異形だと気づいた。
 やあ、とそれは言った。
「はじめまして、樹畑錬。――あなたはここへ来ない運命のはずでしたが、アテが外れたようです」
「なにきみ」
「わたしは、天使――」と壁の中の顔は微笑んだ。
「号はミザリル。あなたの親愛なる友好者です」
「そう」
 僕はぐりぐりと動き続ける壁の中の顔を見ていた。
「生きてる」
「お願い、何も聞かないで」
 月野が、いまや僕にすがりついていた。
 天使の言葉が脳でリフレインする。運命――こんな運命のはずじゃなかった、と。
 なら僕は、きっといい運命を引いたに違いない。
 月野がこんなに、そばにいる。
「樹畑くん」
「なに」
「あの席に、座って」
「席?」
 いつの間にか、駐輪場のアスファルトの上に一卓のテーブルが置かれていた。二脚、椅子がある。いまのところ三人目の分はないようだ。僕はどうして、こんな二人のど真ん中の空間にあるテーブルに気づかなかったのだろう。そんな疑問も、月野が押し当てて来る彼女の身体の気配で死んだ。蘇ることはない。
「樹畑くん、席に」
 繰り返す月野に、赤毛の少年が笑う。
「正気かよ――巻き込むのか、そいつを? そんなに酷いことを、お前、よく出来るな」
「黙っててください、秋都さん」
 ミザリル、と月野は壁の中の天使に呼びかけた。それが本当に天使だとしたら。
「構わないでしょう? その――〈代役〉を立てても?」
「わたしは構いませんよ。それもあなたの選択肢の一つ。ですが、あまりオススメはしません」
「どうして?」
 ふわあ、と顔の中の壁はあくびをした。
「かれは弱い」
 ごっ、と拳に痛みが走った。
 僕は壁を殴っていた。視界は赤くなっていた。息が細く震える。
 弱い。
 僕が。
 弱い。
 僕が。
 天使は僕の拳をすり抜けていた。僕の怒りは無駄だった。
「――樹畑くんは弱くなんてない」
「月野」
「私は、知ってるもの。あなたの、いいところを――」
 月野は顔を僕とは違った理由から赤くして、ふいっと顔を背けた。
「――交渉成立ってところかな。樹畑、とか言ったっけ。やるなら早く席につきなよ。俺はおまえでも、月野でも、どっちでもいいんだ――ゲームの相手は」
「ゲーム」
 ゲーム機は見当たらない。
「ゲームって?」
「なあに、簡単です」
 天国へいくためのゲームですよ、と壁の中の顔が答えた。
 天国。

       

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