Neetel Inside ニートノベル
表紙

壁の中の賭博者
06.黒夢

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 それから僕は時々、悪夢を見るようになった。
 それは月野の代行者としてアキトとゲームをした時だったり、弐倉とガレージの中で青赤ゼロをやった時だったりした。
 いずれにせよ、その夢の中で負けるのはいつも僕だった。
 僕はいつも牌を切り間違え、あっという間に窮地に陥り、そして負け、あの灰色の手や紫色の目に取り憑かれ暗い暗い地の底へと引きずりこまれていく。
 誰も助けてはくれなかった。
 誰も。
 それでも、起きたら学校には行かなければならない。
 僕はほとんど眠っていない日もありながら、学校へと通った。
 月野は失踪、弐倉は退職という扱いになっていた。
 一度、朝礼で軽い説明が為されただけで、誰も二人がいなくなったことを気にしなかった。
 せいぜい月野の友達なんかが、最初の二週間くらいは心配して泣いたりしていたみたいだけど、それもすぐに無くなった。
 月野は最初からいなかったかのように忘れ去られた。
 後には誰も見もせぬ空席と、時折喋りかけてくる壁の中の顔と、そして耐え難い僕の睡魔だけが残された。
「樹畑」
「……」
「樹畑!」
「は、はい」
 僕はゴッと名簿の角で野球部顧問、数学の竹中に殴られた。
「寝てんじゃねえぞ。みんな眠いの我慢してんだ」
「……」
「おい、聞いてんのか?」
 僕は唇を噛んで、竹中を見た。
 カッコつけてんじゃねぇよ、ほんとはビビってるくせに、ガキ相手に。
 いきなりキレられて掴みかかられたらどうしようかって計算してんだろうが。
 目ぇ見りゃ分かるんだよ、屑。
 ……そう言ってやりたいが、言ったが最後、大問題だ。
 これ以上殴られるのもごめんこうむる。
 だから僕は不承不承頷いて、日常へと埋没する。ため息をつかれながら。
 どいつもこいつも、僕にため息ばかりつく。その数だけ不幸になりやがれ。

 一億も勝ったのに、僕の人生は少しも変わらなかった。
 弐倉が死んでも、嫌な教師の数は減らない。
 ただ日々だけが過ぎていく。
 みんなまとめて死んじまえばいいのになあ。
 そんな風に思っていたある日、転校生が僕の学年にやってきた。
 それも二人も。男女それぞれ一人ずつ。
 当然、少しクラスはざわついた。
 といっても昭和の昔じゃあるまいし、転校生ぐらいで大騒ぎなど今時誰もしたりはしない。
 せいぜい今あるグループにどんな影響があるか、誰が抜けて誰が入るのか、自分はおハジキにはされないぞ、そんな意気込みを再確認し合うぐらいのものだ。
 くだらない。
 最初から一人の僕には関係ないことだ。
「えー、それでは自己紹介してください。……あの、教室では帽子を脱ぎなさい」
 担任の鹿野がおそるおそる言うと、その転校生の少女はぷいっと顔を背けた。僕はそいつを見た。
 ……生意気そうなヤツだ。
 黒いツノつきの帽子をかぶり、制服は転校初日でだらっと着崩していて開いたブラウスから下着が見えそうだった。髪は染めているのか地毛なのかほとんど金色に近く、タバコのようなものをくわえている。……ハーブか? べつに人体に害はない、むしろ漢方に近い鎮静効果のあるハーブをスティックに入れて噛むと効果があるというのは、不眠サイトで調べたことがある。彼女も不眠なのだろうか。
 黒板には、鹿野がしぶしぶ書いた『綾峰美加也』という文字が早くも掠れている。
 ミカヤ、というらしい転校生はツカツカツカ、と静まり返った教室を横切って、僕の隣の空席に腰かけた。月野がいた席だ。
 チラっと僕を見て、
「よろしく」
 ……なんで僕にだけ言うんだ。
 周囲からの好奇と不審の目に耐えかねて寝たフリをしながら、僕はため息をついた。
 変なヤツの相手は、壁の中の悪霊だけで沢山だ。


 ミカヤは変わったヤツだった。
 休み時間になり、女子たちが質問攻めに向かったが、音楽プレーヤーを取り出して耳につけると全て片っ端から無視していた。
 いくら転校初日で粋がりたいにしたって、これはもうやりすぎだ。
 ミカヤは速攻でおハジキ決定にされ、ポツンと教室で孤立していた。
 窓の外ばかり飽きもせずに見ている。
 僕はその空気に耐え切れず、廊下に出た。
 僕のようなぼっちは周囲ももう慣れているが、ミカヤはまだ異物だ。
 誰も彼もが無視しながらも意識している。
 そういう過敏な空間にいると具合が悪くなりそうだった
 。廊下に出て、窓から顔を出し、深呼吸。
 三十人も同じ部屋に閉じ込めるなんてこの世界は気が狂っている。酸素の量が全然足りない。
 そんな僕の隣に、すっと近寄ってきたヤツがいた。
「……あーあ、ミカヤのヤツ、やりやがった。おとなしく普通にしてろって言ったのに」
 聞き覚えのある声だった。僕は隣を見た。
 ぞっとした。
 そこにいたのは、アキトだった。黒崎アキト。
 月野美影と天使戦にもつれこみ、そして代行者となった僕と〈ゼロ〉で対戦した相手。
「な、なんでここに……?」
「ん? いろいろあってさ」
 アキトはくすんだ茶髪をかきあげながら笑った。チラっと教室の方を向き、
「ミカヤとはもう話したか、樹畑」
「まだ何も……ていうかまだ知り合いじゃないし」
「そうか。ちょっとこっち来い」
 僕はアキトにトイレへ連行された。
 連れションというやつだ。
「あ~……気持ちいい」
「実況しなくていいから……」
 流れで一緒に用を足して一息つき、手を洗う。アキトのハンカチはなぜかボロボロだった。
「久しぶりだな、元気にしてたか?」
 僕は首を振った。そりゃ残念、と肩をすくめるアキト。
「噂は聞いてる。代行者を続けてるんだって?」
「もうやってない」
「……お金が必要なわけ?」と、女の子の声がした。
 僕とアキトはぎょっとした。振り返ると、ミカヤが男子トイレにずかずかと入ってきていた。それを見たアキトが泡を吹く。
「バ、バカヤローっ! なんで男子便所に入ってきてんだ、ミカヤぁ!」
「いいじゃん、他に誰もしないし。用も足し終わったんでしょ?」
「お前な……恥じらいってものをもう少し持てよ……」
 さすがにこれには僕とアキトは顔を赤らめざるを得なかった。なんて下品な女子なんだ……
 ミカヤはツンと澄ました顔で、ブレザーの下に着込んでいるパーカーのポケットに手を突っ込んでいる。ハーブをピコピコさせ、
「あなたがアキトが言ってた代行者だよね。……なんでさっき無視したの?」
「いきなり挨拶されるいわれはないから」僕は顔を背ける。
「おいおい樹畑、それはいくらなんでもひどくねーか?」
「うるさいな」
 僕はアキトを睨んだ。
「なんなんだよ、お前ら。僕に何か用でもあるわけ? ないんだったら、悪いけど、関わり合いになりたくないな」
『はっはっは』ぬっとトイレのドアの隙間から、月野の顔が出てきた。トイレではその顔はやめてほしい。
『錬は人間嫌いなんですよ、アキト、ミカヤ』
「出たなバケモノ」
 アキトは顔をしかめた。ミカヤはそっぽを向いている。
「くそっ、お前の声を聞いているとトイレの悪臭を嗅いでる以上に気分が悪くなるぜ」
『それは失礼、じゃあ美影の名誉のためにも顔と声を変えましょう』
 壁の中の天使は中性的な男の顔になった。
『で? アキト、ミカヤ。あなた方はなんのために錬の元へ来たのですか?』
「天使戦をするため……って言ったら?」
「拒否する」と僕は答えた。
「うんざりだ、あんな勝負はもう」
『ですが錬、本当にアキトが挑戦してきたら、あなたはそれを受けねばなりません』
「嫌だ。なんとかしろ」
『あっはっは、凄いなぁ』
 何が凄いのか言わずに天使は笑い続ける。アキトが言った。
「……ま、安心しろよ。お前と天使戦をするつもりはない」
「それはよかった。じゃ、何しに来たの?」
「勧誘しに来た」
「は?」
「あなた、もう結構有名人なんだよ」とミカヤがトン、と僕に近づいてきた。悪戯っぽい微笑みを浮かべている。
「アキトと一戦して敗北。でも次の代行者戦で弐倉友和を地獄送り。元々天使戦は一戦してそれっきりがほとんどだから、二戦も経験していてしかも勝ち星がある樹畑くんはみんな気になる新人ってわけ」
「みんなって……天国行き候補者はそんなにいるのか?」
『この街だけでも187人ほどですかね、現在』
 それだけなのか、と思った僕にミザリルが言い加える。
『天国行き候補者は定期的に選別され、それが終了したらまた時間を置いてから別の選考が始まります。誰もがいずれは地獄か天国へ行くわけですが、全員片っ端から候補者にしていたら大混乱になってしまいますからね。まァ中には選考漏れで最初から地獄行きで終わってしまう人間もいますが』
「ふうん……それはわかった。で、勧誘ってなに? 浮いた金で壷でも買えって?」
 ミカヤは首を振った。
「違うよ。……私たちの仲間になって欲しいの」
「仲間?」
「詳しい話をすれば長くなるんだけど……」
 ミカヤがアキトを見た。アキトが頷く。
「薄々おかしいとは思ってんだろ? 一度お前に、つまり月野美影に勝って天国行きの切符を貰ってるはずの俺がなんでこんなことにまだ関わり合いを持ってるのか」
「……それは、まァ」
 そういえば、あの日の別れ際にも「お前とならいつでも大歓迎」などと、再戦や次戦を匂わせる発言をしていた。天国行きの資格は得たのだから、それで終わりならもう次などないはずなのに……
「どういうことなんだよ」
「それを説明しがてら、連れていきたいところがある」
 アキトは顎をしゃくった。
「ついてこい」


 そこは小さな孤児院だった。
 うら寂しい高台の一角に、木々に埋もれるようにして建てられている。
 公園に見えたほどだ。
 その柵の向こうで、五、六歳くらいの子供たちが汚れて穴が開きぶよぶよになったボールを蹴って遊んでいた。
 みんな、つまらなさそうにしている。
「俺とミカヤはここで育ったんだ」
 鉄の門にもたれかかって、アキトが言った。
「つばめ園……お前、聞いたことあるか?」
「ない」
「だろうな」
 アキトは寂しそうに笑った。
「この町に孤児院があるんだってことを、誰も知らない。まあ同級生に出身者でもいれば別なんだろうけど、な」
「ふーん」
 誰だって自分にかからない火の粉なんて気にしたりはしない。
「それで、この孤児院がなんだっていうんだ?」
「私とアキトは、あの子たちに『切符』を分け与えているの」
 ミカヤが言った。
「天国行きの切符をね。知ってた? あれは他人に譲渡することが出来るの」
「……本当か、ミザリル」
『本当ですよ』
 アスファルトをうねうねと動く月野の顔。
『理解しがたいことですが』
「なんで、そんなことをするんだ?」
「逆に聞くけど、なんで、あれを見てそうしたいと思わないの?」
「……はあ?」
 なんで僕が悪い、みたいな流れになってんだよ。
 ミカヤを睨むが、彼女はどこか余裕のある表情を崩さない。
 くそっ。
「この孤児院はもう長くは続かない。……運営資金がないの。国から補助金が出てるわけでもないから」
「へえ、それで?」
「あの子たちはそう遠くないうちに餓死する」
 ミカヤが言った。
「だからせめて……天国へ送ってあげたい。一人でも多く」
「なにそれ」
 僕は園内で遊んでいる子供たちを見た。少しでもミカヤとアキトが感じているような、そういう気持ちが湧き上がるかと思って。
 全然何も感じなかった。
「……よくわからないけど、それが君たちが天使戦を繰り返す理由?」
「そうだよ」
「馬鹿じゃないの? そんなリスキーなことしなくても、代行者戦で天使から金を稼げばいい。それで生きてる間はなんとかなるだろ」
「いないんだよ」
 アキトが青空を見上げた。腹が立つくらいにいい天気だ。
「お前は珍しいタイプなんだ、樹畑。普通、天国行き候補者は自分の運命を他人には委ねない。……当たり前の話かもしれないがな。もちろん、ゼロじゃない。恐怖に耐えかね自分では戦えない奴はいる。月野美影や、知野霧羽みたいな奴は。だが、俺たちはいつもそいつらを探しているが、見つけられない」
「やる気が足りないからじゃない?」
 僕はアキトの努力を嘲った。アキトは答える。
「やる気はあったさ。知野の情報は得ていた。……その前にお前が代行者になってしまったけど」
「……僕のせいってわけ?」
「いいや? 仕方ない、お前にも事情があったんだろ」
 ふう、とアキトはため息をついた。
「それに代行者戦で勝っても、二十万や三十万。……あれだけの子供たちを養っていけるほどの額じゃない」
「二十……?」
 アキトは何を言っているのだろう。二十万? 少なすぎる……そこで僕は天使をチラっと見た。
 笑っている。
 そうか、と僕は思った。
 詳しいことは問い質さなければならないが、ひょっとしてこいつら、……代行者が求める額を渡してないのか? 僕も三億円くらい欲しかったのに一億ぽっちだったし。
 くそっ、あくどい天使どもめ。
 だがまァ、これで事情は分かった。代行者戦で金を稼げないアキトたちは、孤児院で暮らす可哀想な子供たち、義理人情の兄弟姉妹のために天使戦を繰り返し天国行きの切符を荒稼ぎしている。
 そういう事情らしい。
「で、その切符稼ぎに僕も一枚噛め、と?」
「ああ、そうだ」
 アキトが僕を見た。まっすぐな目で。
 頼む、とアキトは言った。
「お前の力が必要なんだ。手を貸してくれ、樹畑」
「嫌だ」
「……どうして?」
 すがるような目で見てくるアキトに、なぜか苛立った。
「逆に聞きたい。なんで僕? まさかこの僕がお人好しに見えたってわけじゃないよね」
「言ったろ、お前は珍種なんだ。普通、候補者でもないのに天使のことを知ったりはしない。俺たちには、天国とは無関係に動いてくれる人間が必要なんだ」
『私の気持ち一つで彼を本当に候補者にすることは出来ますけどね』
 水を差したミザリルをアキトは殺しそうな目で見た。
「黙ってろ、天使」
『おお、恐い恐い。まァ、成り行きを見て決めますよ』
「くそったれが……」
 そして僕に視線を戻すアキトからは、険がすっかり取れていた。
「お願いだ、樹畑。俺たちと一緒にあの子たちを救ってやってくれ。『ゼロ』は俺がやってきた天使戦のゲームの中でも一番センスが問われる遊戯だ、それを潜り抜けてきたお前なら……」
「そんな義理はないね」
「樹畑……!」
「誰かを助けるのには理由が必要だ。あの子たちが僕に何をしてくれる?」
「そんな……」
「それにあの子たちを助けるってことは、切符と破滅を賭けて天使戦をするってことだろ。代行者としてではなく、候補者として……負けたら地獄送り、勝っても名前も顔もロクに知らないどこかの子供が助かるだけ。そんなリスキーゲーム、僕はゴメンだ」
「このままだと、あの子たちは……死ぬ」
「切符を与えても死ぬだろ。君たちはあの子たちがこの世界で生きていくのは無理だから、せめて死後は極楽へ案内したいって思ってるんだろ? あの子たちはどうせ死ぬんだ。助かりはしないんだ。ああ、そうか、僕を仲間にしてこの間の代行者戦の金の無心でもするつもり? 悪いけど、全部生活費で溶けるから」
 僕はそこまで言って、深呼吸した。
「君たちはいいよね」
 ミカヤとアキトは顔を見合わせた。
「いいって、何が……」
「闘うための格好いい理由があって」
 僕は腕組みしながら、その爪を深く深く肉に埋め込ませた。なぜそんなことをしたのか分からない、だがこうして立って喋るためには、痛みが必要だと思った。
 そんな気分がする話題だった。
「僕は君たちとは違う。孤児院で育ったみたいに誰からも哀れんでもらえる生まれじゃないし、小さな子供のためだからって無償で助けたいなんて思えない。いいんじゃない? そのまま頑張りなよ。ただし、無関係な僕を巻き込むな。手伝わないからって悪者にするな。それは君たちの身勝手だ。エゴを振り回して正義面して、それを抑えてる奴を間違ってるみたいな顔するな!」
 アキトは黙っている。ミカヤはそっぽを向いている。
「……樹畑」
「まさかだろ、僕が君たちを手伝う? ありえないね……それに、一ついい?」
 僕は足元にいる天使を指差した。
「天国天国っていうけど、こいつらが本当のことを喋ってる保証がどこにある?」
「……え?」
「天国へ本当に行った奴を見たことあるのか? そもそも、そんなところ本当にあるのか?」
『なんてこと言うんです?』天使が喚いた。
『なんて不敬な。流石にそれは聞き逃せませんよ、錬。天国は実在します』
「急に喋るようになったな?」
『天国が無いのならなぜ私たちがいるんです? こんな回りくどいゲームをする意味は?』
「それを見て悦に浸る、ってところだろ。よくある設定」
『ふざけないでください、あなたたちは娯楽にすらならない!』
 言ってから、天使は口を澱ませた。その場の空気を察したのだろう。
 それは本当に、ひどいセリフだったから。
『……ええと、とにかく、天国へは行けます。勝てば私が招天使の名と座において絶対に招きます。そこは思考せずともよろしい』
「何を考えて何を無視するか、お前に決められる筋合いはないよ」
『錬……!!』
「……ってわけだ」
 僕は肩をすくめた。
「わりとガチで、君たちの努力や結果の全てが無駄なんじゃないかってのも僕は疑ってる。だから、天国行きの候補者へ志願しないんだよ」
「どうしてもか」アキトは言った。
「どうしても、俺たちの手伝いをしてくれないのか? ……今の話を聞いて、確かに俺たちも思うところがないわけじゃない。それでも、俺たちはもう何人も倒して切符を手にしてきた。それをいまさら全部無駄だったとは思いたくない」
「このままやる、ってわけか」
「ああ」
「勝手にすれば。僕はやらない」
「樹畑……!」
『天国はありますって!』天使の喚き声。
 僕は言った。
「天国があっても、僕はやらない。君たちは最後に、自分の切符を確保して、天寿をまっとうしようと思ってるんだろ? 僕はね、違うんだ」
 そう、僕は違う。
 天使を見る。
「神様なんて信用できない。きっと君たちの切符は受理されても、僕のだけは弾かれるんだ。最後の最後に神様はいつも僕を裏切る。ずっと今までそうされてきた」
 走馬灯のように駆け巡る人生の記憶。
 ちっぽけな十七年間。
 透明人間の青春。
「だから僕は天使を信じない。君たちのことも見たくない」
 これでいいかな、と僕はアキトを見た。ミカヤを見た。
「これが僕の答えだ」
「やっぱりね」
 ミカヤが肩をすくめた。だいぶ前からミカヤはヘッドフォンを耳にかけて半分ほど自分の世界に入っていた。
「この人は手を貸すタイプじゃないと思ってた。ね、アキト?」
「……俺は諦めないぜ」
 拳を握りながら、アキトは言った。熱いなあ、と僕は思う。
 なんでそんな風になれるの?
 なんでそんな風に感じられるの?
 僕にはまったく分からない。理解できない。
 したくても、できない。
 アキトは言った。
「樹畑、お前は必ずあの子たちのために天使戦をしてくれる。俺はそう信じる」
「何を根拠に?」
「……カンだ」
「馬鹿かよ」うんざりする。
「一生そうやって夢見てろ。君はもう、天国にいるのと同じようなもんだな、そのお気楽ぶりはさ」
「樹畑……」
「バイバイ」
 僕は二人に別れを告げた。孤児院を振り返りもせずに、坂を下っていく。一歩一歩踏み出すたびに、嫌な気分がせり上げてきた。僕はやらない。やらないんだ。くそっ、正義漢ぶりやがって。ヒーローみたいなこと言いやがって。何が子供たちのためだ。結局、天使戦をするってことは、
 誰か殺すってことだろうが。


 そうして僕は日常へと舞い戻った。
 なんの音沙汰もない、平凡な毎日……
 課題をこなし、座席に収まり、余計なことを言ったりやったりしない。
 そうすれば少なくともそこに存在することは認めてもらえる。
 そんな毎日。
 変わったことといえば、相変わらず天使が僕の周りに付きまとっていること、月野と弐倉がもう戻ってこないこと。
 ああ、あと知野霧羽が学校へ復帰してきたりもあったっけ。
 知野は天国へ行けることが確定してこのくそったれな人生を余暇として過ごすことにでもしたのか、以前より笑顔を増量させて戻ってきた。
 ただし、僕とは目が合っても挨拶一つしてこない。
 信じられるか?
 僕は実質、彼女の命の恩人って奴なのに。
 人間ってのは誰もがどこか壊れてる。
 普通は神よ主よと崇め奉ったっていいじゃないか。
 僕が打たなきゃ彼女は死んでた。
 信頼するべき大人の一人の教師によって、くだらないゲームで殺されていたところだったんだ。
 それを救ったのは僕なのに。
 感謝の一言もなく、後に残ったのは冷たい生活だけ。
 僕は勝ったはずだ。
 一瞬の勝負で一億稼いだ。
 そんなこと、他の高校生に出来るかよ。
 それなのに……

 どんっ、と誰かが僕にぶつかる。
「ははっ、やべ、ぶつかっちった!」
「おい気をつけろよ遠藤ぉ」
 クラスメイトの男子どもが走り去っていく。
 そんなに急いでお前らにどこか行かなきゃならない場所でもあるのか? というか、まず謝れよ、僕に。
 接触したところを入念に手で払いながら、僕は唇を噛んだ。
 何もかもが、くそったれだった。
「……大丈夫かい?」
「え?」
 急に声をかけられ、僕は振り返った。そこにはどこかで見たことがある顔があった。
 小麦色の健康そうな肌、ベタで塗ったような綺麗な黒髪。
 前髪を留めたピンは翼をデフォルメしたものだった。それがよく似合っている。
 誰だっけ、と考えて、思い出す。
 そうだ、生徒会長。
 三年生の雪滝凍理(ゆきたきいてり)だ。
「……大丈夫です。ちょっと当たっただけだから」
「可哀想に」
「え?」
「心が傷ついても文句一つ言うことが出来ないなんて」
「あの……」
 巧妙に煽られてるのかと思ったが、雪滝先輩は本当に僕を案じているようだった。すっと僕の身体の中から不快感が消えていく。本当に哀れんでくれているのか。
 悪い気持ちはしなかった。
 むしろ、心地いい。
 僕は笑った。
 自然に出来たと思う。
「いいんです、慣れてるから」
「慣れていたって、辛いものは辛い」
 パンパン、と男子がぶつかっていったところを手で優しく叩いてくれる雪滝先輩。
「君の名前は?」
「えっと……樹畑です。樹畑錬」
「そうか、私は雪滝凍理。凍理と呼んでくれていい」
「凍理、先輩」
 やけに言いやすかった。
 まるで何年も、彼女とは先輩後輩の間柄だったかのように。
 凍理先輩はふわりと微笑んだ。
「君のことは知っている」
「え?」
「全校朝礼のたびに、つまらそうにしていただろ?」
「あ……はい」
 見られていたのか。
 うちの学校では校長の代わりに生徒会長が朝礼の挨拶をする習慣になっている。
 そこで先輩の目に留まった僕は、さては何か変なことをしていたのだろうか。
 恥ずかしい。
「済まないね、私の話が退屈なんだろうかと、ずっと申し訳なく思っていたんだ」
「そ、そんなことはないです!」
 まったく彼女がどんな話をしていたのか思い出せないが、そうフォローする以外に無い。
「先輩は頑張ってると思います」
「……そうかな?」
 くすり、と微笑む。
 僕が無理なフォローをしたのは理解しつつも、そう言ってくれる気持ちが嬉しい、と態度で示してくれる。
 僕は驚いた。
 世界には、こんな人がいるのか。
 こんなに、理解しやすい人が。
「それじゃ、私はこれで。生徒会の仕事があるから」
「あ、はい」
「何か悩み事があったらいつでも相談するんだよ。いいね?」
「分かりました」
 では、と手を振って、凍理先輩は校舎の奥へと消えていった。
 僕はその背中をいつまでも見送っていた。
 あんな人がいるなら頑張れる。
 このくそったれな毎日にもようやく花が咲いた。
 そして僕は振り返り、思い知ることになる。
 世の中にはほとんどの場合、馬鹿しかいないことに。
 そこに立っていたのは、三年生の男子が数人。
 上履きの色で分かった。
 彼らは誰もが透明な目をしていて、僕を見て、拳をボキボキと鳴らしていた。
 噂には聞いたことがあった。
 雪滝凍理は誰からも好かれる人気者で、生徒の間でファンクラブが出来てしまったほどだという。
 まさか、こんなに狂信的な集団だとは思わなかったけど。
「死ねっ!」
 二時間近く、僕は殴られ続けた。途中で、髪をツインテールにした女子が一人混じっていることに気がついた。その子の蹴りと暴言が一番響いた。
「お姉さまに近づくんじゃねぇぞ、この蛆虫!」
 唾を吐きかけられて、狂信者たちが立ち去った後、僕はゴミ捨て場に放置された。あまりにも突然で僕も面食らってるよ。
 血の味を感じながら、曇天を見上げているとポツポツと雨が降り出して来た。
 まるでタイミングを見計らっていたかのよう。
 この世界は壮大な猿芝居だ。
 くだらない、何もかも。
 ぶるる、と携帯が震えた。
 僕はそれを無意識にポケットから取り出した。
 雨で画面がタッチしにくい。
 なぜかそれが無性に面白くてクスクス笑いながら、僕はメール画面を開いた。
 そこには見知らぬアドレスからこういうメールが届いていた。
『アキトが死んだ』
 知ったことかよ、と思った。



 指定されたファミレスに行くと、ミカヤが「よっ」と手を挙げてきた。ツノ付き帽子をかぶったまま、耳にかかった髪をかき上げてシェイクをストローで飲んでいる。僕は彼女の対面に座った。皿に盛られたポテトを手に取ろうとしたらすっと皿を引かれた。
「何するんだ」
「これはあたしの」
 美味しそうにジャンクフードに舌鼓を打つミカヤ。口の端についたケチャップを指ですくってちゅっ、と舐めた。
「うーん、いつ食べても粗雑なご飯ほど美味しいものはないね」
「舌がどうかしてる」
「食べ物に恵まれずに育ったんですぅ」
 ぶう、と口をすぼめるミカヤ。そして何か思い出したようにくすくす笑い、
「あなたも何か食べれば?」
「いい」
「つれないなぁ」
 ミカヤはそう言って、テーブルに乗せてあるスニーカーに話しかけた。
「アキトもそう思うでしょ?」
 スニーカーは答えない。ただ疲れたように泥をテーブルの上に零し続けるだけだ。ウェイトレスがやってきて、お客様、と申し訳なさそうに言ってくるがミカヤは殺人的な眼光でそれを跳ね除けた。ウェイトレスは逆らわずに去っていった。ミカヤが僕を見る。
 泣き腫らした目元が真っ赤になっていた。
「アキトが殺された」
「メールは見た。……天使戦?」
「ほかにないでしょ。交通事故の方がマシだったな」
 ぐすっとしゃくりあげ、
「でも、ダメか。切符がなければ地獄行きは免れないもんね」
「……自分たちの分はストックしておかなかったのか?」
「天使戦は、切符を持ったままだと出来ないの。誰かに委譲して初めて再び候補者になれる……だからこのゲームでセーフティリードは作れない」
「それじゃあ……」
 それじゃあ、なおさら馬鹿じゃないか。
 そんなに身を危険に晒してまで、子供たちとやらを助けようとしたのかよ。
 僕はテーブルの上のスニーカーを見つめた。
 アキトが履いていたものだった。
 アキトは、天使戦に負けた。
 月野と同じ暗闇に行ったんだ。
「ついてなかった。アキトは、ゼロみたいな知能ゲームは苦手だったんだ。他のゲームなら勝てたかも。サバイバルゲームとか、チャンバラごっことか」
「そんなのものあるのか」
「天使たちの思いつく限りね」
「アキトは……ゼロで負けたんだね」
「そうだよ」
 ミカヤはストローの包み紙をくしゃくしゃにしては、広げていた。僕などいないかのように呟く。
「手伝ってくれるよね、復讐」
 ミカヤが身を乗り出してくる。
「ねぇ、あたしの目の前でアキトは殺された。あたしはカタキを討ちに行く。絶対にこのままにしてはおけない。あたしの……お義兄ちゃんを殺したあの女を、許してはおかない」
「……僕には関係ない」
「なんであたしがあなたを誘ったと思う?」
 ミカヤは綺麗に微笑んだ。死者のような微笑だった。
「最後にね、あの地獄に引きずりこまれる瞬間、アキトが言ったの。あなたに助けを請え、……って。正直言って、あたしにはあなたのどこをアキトが信頼していたのか分からない」
「…………」
「でも」ミカヤは続けた。
「アキトは決して、勝負強い方じゃなかった。結構ピンチな時も多かったし。それでも、人を見る目はあった。死ぬ間際に適当なことを言って終わるような奴じゃなかった」
「だから?」
「あたしはあなたに賭ける」
 断固とした口調、揺るがぬ決意を滲ませて、ミカヤは言った。
「次の天使戦は二人ペアでやる。向こうにも仲間がいる。勝てば一気に切符が二枚、それ両方とも、あなたにあげるよ」
「いらない」
「いらなければ売ればいい」
 不思議そうにミカヤは言う、その口調のどこかに僕の愚鈍を嘲る響き。
「分からない? 天使の存在さえ知っていれば、候補者相手に切符を売ることは出来る。そうやって天使戦を繰り返して荒稼ぎしている奴もいるんだよ。生きてる間の安寧を求めて……」
「僕にもそうなれと? リスキーすぎる、負けたら地獄行きだぞ?」
「血の池地獄がそんなに恐い?」
「……何?」
「賽の河原がそんなに嫌?」
 上目遣いにミカヤは僕に問うてくる。
「どんなに地獄が嫌なところでも……それはこの世界と大した差はない。そうじゃない? それとも、何もかもがくそったれだっていう持論を曲げるわけ? 樹畑錬クン」
「…………」
「くそったれだよ、この世界は。何もかもが腹立たしい。だったら、何を迷うことがあるの? 恐れるものなんて何もない、違う?」
 僕は顔を背けた。
「それは……」
 確かに僕は矛盾していた。矛盾している気がする。この世界が地獄ならどこへだって行けるはず。それは一つの真実だった。
「……」
「最後にアキトはあなたの名前を呼んだよ、樹畑くん」
 ミカヤは言った。
「そう、あなたは正しい。つばめ園のみんなに天国行きの切符を配るなんて、馬鹿げてるとあたしだって思わなかったわけじゃない。……自分たちの分だけ確保して二人で抜けたい、何度もそう思った。でも、アキトはそれを拒否した。最後までやるって、絶対に自分は正しいんだって」
 パタパタと薄汚れたスニーカーを動かして、
「馬鹿だよね。でもね、その馬鹿が死んじゃった。もうどこにもいないの。会いたくても会えないの。ねぇ、残されたあたしに出来ることって、何?」
「…………」
「あたしは一人でも行く。それでも、もし、あなたが本物なら、こんな人生くそったれだと思うなら、……今夜九時、学校に来て。そこにあたしとあいつらがいる。あいつが、そう、アキトを殺した、あいつの名前は――……」

 ○

 僕は結局、ミカヤの頼みを断った。
 ミカヤも、それでいいと言った。
 気が変わったら来てね、とだけ言い残して。
 最後の抵抗か、レストランで食べた自分の勘定を払わずに出て行ったことだけが業腹だ。
 ……アキトが死んだ?
 だからどうした。
 僕にはなんの関係もない。
 所詮は他人だ。それどころか月野が死んだのはあいつのせいでもある。
 可哀想だなんてちっとも思わなかった。
 誰にもそんなこと思ったことないけれど。

 僕は家に帰った。
 玄関を閉じるとホッとした。
 自分でも気づかないうちに緊張していたらしい。
 今日はいろいろありすぎた。
 本当にいろいろと、めまぐるしくてついていけない。
 そんな現実はノーサンキュー。
 僕はラクラク人生がお好みだ。
 頑張るとか努力とか真剣勝負なんてお呼びじゃない。
 どこぞの誰かが勝手にやっていればいい。
 僕は嫌だ。
「ただいま」
 ダイニングに入ると、電気が落ちていた。
 帰りにちょっと寄り道したりしたから、もう陽は暮れかけていて、家の中は暗かった。
 いつもなら母さんが帰ってくる頃のはずだったが、いなかった。
 僕は食卓の上に置いてあるものを見た。カップ麺と、一枚のメモ紙。それを手に取り、書いてあることを読む。
『お父さんと旅行にいってきます。一週間くらいかな? お金、持っていきます。その間、何か適当に食べていてね 母より』
「ははっ」
 僕は笑ってメモ紙を床に落とした。
「金ないんじゃなかったのかよ」
 僕の稼いだ金を馬鹿にしておいて、使うのか。
 あったら使っちゃうのか。
 天使が呆れる理由も分かる。
 僕は冷蔵庫を開けた。カップ麺が七個ほど入っていた。ドライフードをどうして冷蔵庫に入れるんだろう。この世界は狂っている。
「面白いや」
 メモ紙をビリビリに引き裂いて、冷蔵庫を引きずり倒し、無理やりぶち抜かれて火花を散らすコンセントを見ながら、僕は後ずさりした。
 畜生。
 僕は考えている。
 考えまい考えまいとしていたのに、考えてしまっている。右手が伸びて、左腕に巻いた腕時計を掴む、それをぎりぎりぎりと持ち上げて、見る。
 午後八時四十分。ああ、畜生、
 ――間に合う。

       

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