Neetel Inside ニートノベル
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稲妻の嘘
第十一話  決着――『夢見るバラスト』

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 まさひろは、両親の顔を知らなかった。
 幼い頃に交通事故で亡くなったと聞かされている。
 だが、それも都合のいい嘘だったのかもしれない。
 まさひろを育ててくれた祖母の家には、仏壇も遺影も無かったから。
 真実がなんだったのか。
 なぜ誰も教えてくれなかったのか。
 いまはもうまさひろにも分からない。

 たったひとりの祖母はまさひろを愛してはくれなかった。
 ただ、猫だけを愛する人だった。
 薄汚い捨て猫を、祖母はいつもどこからか拾ってきては、屋敷の中に放し飼いにする。
 堆く積まれたゴミの山と小さな獣の臭いで、祖母の家はひどい悪臭に包まれていた。
 鼻から汚水を飲んだような気持ちになるような家で、まさひろは育った。
 祖母はまさひろに、いつでもどこでも何度でも、同じことを言い聞かせ続けた。
 なにもするな。
 なにもしてはいけない。
 わたしの物に触ってはいけない。
 何度も、何度も。
 まさひろがゴミの山にぶつかって、空き箱などを崩してしまうと、祖母はいつも鞭を取り出した。それは乗馬用の革鞭で、なぜ祖母がそんなものを持っていたのかまさひろは知らない。ひょっとしたら、どこか良家の息女だったことが祖母にはあるのかもしれない。あるいはただ、道端で拾ってきただけか。いずれにせよその鞭は、『何かをした』まさひろに決まって振り下ろされた。
 まさひろは黄色く膿んでいく自分の肉の狭間を何度も眺めた。
 そして、当然のように、何もしないことを覚えた。
 だが、それぐらいで誰かが許してくれるはずもない。
 学校へ入ると、有名なゴミ屋敷に住むまさひろは、殴られ蹴られた。物陰に連れ込まれ、口にハンカチを詰め込まれ上履きの雨が降った。
 おまえのせいで生まれたばかりの妹が泣き止まない。
 お母さんが家で泣いてる。
 そう言って同級生に殴られ、まさひろは階段から転げ落ち、左腕をへし折った。あきらかにおかしな方向に曲がっているまさひろの腕を見て、周囲にいた子供たちの誰もが無表情のままだった。誰一人として、救急車など呼んでくれなかった。
 痛い。
 痛い。
 まさひろは這うように家に帰った。
 そして、家で猫にエサを撒いている祖母の背中に、ありったけの力をこめて、叫んだ。
「……………たすけて…………………」
 祖母は振り向かなかった。
 そうかい、と言ったきりだった。
 その曲がった冷たい背中は、まさひろの方に振り向くことなく。
 屋敷中に敷き詰められたゴミの沼の奥へと隠れていった。
 まさひろの左腕が動くようになったのは、この〈アリューシャン・ゼロ〉に来てからだ。
 魔法の国の夢の船は、悪夢と引き換えに左腕を返してくれた。
 ズタズタにされた、動くだけの左腕を。
 ――まさひろには、分からない。
 祖母のあの暮らしは、血まみれで泣きながら帰ってきた自分よりも価値があるものだったのだろうか?
 積み上げられた空き箱の山。
 ずたずたになった洋服。
 埃でぬめる床。
 牙を剥く輝く眼をした猫の群れ。
「……ふふ」
 祖母は、猫にエサをやる時だけ、ほんのわずかに笑った。
 まさひろは、その笑顔が好きだった。
 その笑顔を、自分にも向けて欲しかった。
 たったひとりの孫息子に。
 獣にではなく。
 だが、祖母はそうしなかった。
 まさひろが床板を鳴らせば顔をしかめ、散らばった紙くずを束にしてまとめようものなら鞭が飛んだ。
 さわるな、さわるな、と絹を裂くような悲鳴を上げて祖母はまさひろを打った。まさひろにできたのは、身体を丸めて頭を守ることだけ。ただ、つらい時間が過ぎ去るのを待つことだけだった。
 どこかから聞こえてくる。
 誰かの妹の「くさい、くさい」という幼い泣き声。
 それを止めてやることが、まさひろにはできなかった。
 どうしても、できなかった。

 祖母はもういない。
 老いが彼女を連れ去った。
 それからまさひろも、すぐに死んだ。それは夏の通り雨のような、ふいに訪れた静かな死にざまだった。優しい眩暈が、まさひろを永遠に続く昏倒に引きずりこんだ。
 いまでもあの家のなかで、まさひろの死体は腐り続けている。
 誰にも見つけてもらえないまま、餓えた猫に足をかじられながら。
 死ぬのは、嫌な気分だった。
 そして、それはずっと続いている。
 左腕と一緒に折れてしまった、
 それはまさひろの、悪い夢。



 そして、正念場。
 まさひろは、手の中にある黒塗りの牌を見つめた。
 いま引いてきたばかりの、最強の切り札。
 だが、いま、その牌はまさひろに剣の指で握手を求めている。
 リーチをかけたい。
 それには、手牌の中でもっとも強い牌を犠牲にしなければならない。
 ほかならぬ、六眼の悪魔を殺さなければならない。
 己自身の手で。
 誰のせいにもできないまま。

 慶、盤面。
〈四眼の黒豹〉表
〈四眼の悪魔〉裏
〈六眼の黒豹〉裏
〈六眼の溝鼠〉裏
〈五眼の飛竜〉裏

「…………」
 ギャンブルには戦術というものがある。
 どのようにして賭け、そして殖やすか?
 その終点まで続いている道はいくつにも枝分かれし、そしてそのほとんどが枝葉の途中で絶えている。
 まさひろはこれまで何度も、折れた枝の先端に爪先を乗せてきた。
 そして周囲を見渡して、まだ続いている枝の上を歩んでいく強者たちの背中を見送ってきた。
 ――真嶋慶のギャンブルを、まさひろはたった一度だけ間近で見たことがある。
 勝てない、と思った。
 理由など、分からない。
 天使の光輪のような黄銅色のライトの下、真嶋慶はまさひろには遠く輝いて見えた。
 慶のギャンブルは総力戦だ。残弾などいちいち数えない。そんなことはどうでもいい、少しでも、徹底的に相手を執拗に追いかけていく。
 破滅は放置する。
 たとえどれほど負けようが、カードが配られれば、それに新たな脂貨を乗せる。
 言葉など何も言わない。
 脅迫も挑発もしない。
 空虚な台詞は泥に塗れて、誰の目をも腐らせる。
 だから言わない。
 ただ、賭ける。
 それは誰もが憧れながら、目を切り顔を背ける傷に塗れた生き方。
 ――勝つために。
 そんな男の前に、いま、まさひろはいる。
 手の中にあるのは完全無欠の切り札。
 戦術的には、まさひろの行動はひとつだけだ。
 〈六眼の悪魔〉を河に出し、〈リーチ〉を保留にすること。
 ほかにない。
 慶の河。
 素直に念牌を見れば、攻撃点数十八点、防御点数二十五点。そしてその中にある牌で偽であると判明しているのは、〈六眼の溝鼠〉のみ。慶の河にどれほど〈まがいもの〉がいるのかは知らないが、何があろうと〈襲撃〉をしかけてこなかった以上、防御点数には絶対の自信があると見ていい。防御点数が足りないのなら、何もせずにまさひろに手番を返せばリーチが飛んでくる。何もせずにはいられないはずだ。だが、慶は牌を伏せたまま、構えている。
 もし、慶の防御点数が真実、二十五点なら、まさひろのリーチは成功しない。二十一点しかないからだ。
 だが、〈六眼の悪魔〉を置けば、すべてがひっくり返る。
 打点も充分になり、慶のカウンターリーチへの対策としても充分すぎるほどの壁ができる。
 事実上、まさひろが〈六眼の悪魔〉を置けば、慶はその牌を〈襲撃〉で討ち取らなければならない。
 それができなければ、たとえほかの牌を〈襲撃〉で減らしたところで、まさひろは次順に必ずリーチをかける。そしてそれはおそらく、通る――
 ゆえに。
 まさひろがこの牌を河に打つだけで、真嶋慶は次順に同じ悪魔牌を使って〈六眼の悪魔〉を討ち取らなければならず、そしてそれができないだけで――勝つことができない。
(……でも)
 この牌を置いて、慶に悪魔で討ち取らせる。そうすれば慶の河の打点も下がる。
 問題は何もない。
(……真嶋がなにも引かなければ、だ)
 ここでリーチをかけなければ、慶にはまだ、牌を一度引く権利がある。
 そしてその牌が六眼強打の強壁牌であり、すでに慶の河には〈悪魔〉がいるならば、慶は次順に伏せてあった悪魔で〈六眼の悪魔〉を討ち取り、さらに引いてきた強牌を河に加える。
 そしてその河の防御点数がまさひろの攻撃点数二十一点を超えていれば、まさひろには何もできない。
 手持ちの〈三眼の悪魔〉あたりで慶が置いた牌を殺しにいくこともできる。だが、それが六眼強打の牌ではなく、〈三眼〉を殺せるだけの屑牌だったしても、まさひろは代償として悪魔を相討ちで失う。
 そしてまた、慶には牌を引く権利が戻る。
 だから。
 六眼の悪魔を河に加えることは、この『いま』を捨てることだ。
 お互いに牌を引く回数が増えれば、当然〈引いてはいけない牌〉をどちらかがいつか必ず引く。
 それがまさひろであるかもしれない。
 慶であるかもしれない。
 それは分からない。
 いずれにせよそれは『いま』ではない。
 この『いま』は、今しかないのだ。
(くっ…………)
 それが、まさひろの心を惑わせる。
 やめろ、という声が聞こえる。
 冷静になれ、と。
 それはいつも聞こえていた、自分自身の声。
(……やめろ)
(お前にはできない)
(無理するな)
(相手は真嶋、本物の賭博師で、お前なんかとは器が違う)
(ここはおとなしく、冷静になれ)
(余計なことは)
(なにも)
(するな)





































(………………………………………………………………余計なこと?)




 まさひろは考える。
 手の中でぐっしょりと濡れた、まさひろの脂が巻かれた牌を見る。
 小さな墓石のようなその玩具を。
 こんな小さなものひとつを、思い通りにできない。
(…………)
 死ぬのは嫌な気分だ。
 そして、それは、いまもずっと続いている。
(そうだ)
 この牌を残してまで。
 繋ぐべきだと考えられる〈希望〉とやらが。
 まさひろをそんな気分にさせている。
 ――こんな気分に……

(真嶋、だけじゃない)
(俺にも欲しいものがある)
(それは、生命でもなければ、脂貨でもなく――)





 この、

『いま』だ。





「…………リーチィッ!!」





 牌を叩きつける。砕ければいいとさえ思う。
 こんな小さなものひとつ、思い通りにできないはずがない。
 やられるならやられればいい。
 こんなものに、縛られて、
 なにもかも、思い通りにできない方が、
 俺は嫌だ。

 まさひろは、河をひっくり返した。
 五枚全ての真牌の配列。

〈六眼の闘牛〉
〈三眼の悪魔〉
〈三眼の飛竜〉
〈単眼の飛竜〉
〈五眼の黒豹〉

 開け放たれたまさひろの手牌を、慶はじっと見ていた。
 そして、ぽつりと言った。
「いい河だな」
「…………で?」
「褒めてんだぞ、よろこべよ」
「勝てなきゃ、意味がねぇ」
「……ああ、そうか。そうだよな、お前だって負けられないよな。でもな……」
 慶は、己の河に手を伸ばそうとした。その指先が黒牌に触れかけた時、
 さあっ、と牌が、砕け散った。
 バラストグールは何も掴めない。
 その拳を、軽く握り締めて、静かに引く。
 冷たく青い瞳で、死者は若者を見た。
「きついぞ、お前のやろうとしてることは」
「…………」
「止めないけどな、オレは」
 慶は席を立った。
 脂貨は、卓に置かれて輝くままに。
 最後に慶は、河を見た。
 まさひろが倒した五枚の牌を。
 迷ったはずだ。
 悩んだはずだ。
 そう、河に刻まれている。
 だから、忘れるわけがない。
 ――同じ世界を見ているやつは。
「強ぇよ、お前」


 誰もが。
 誰もがまさひろに、落ち着け、と言った。
 冷静になれ、と。
 だから、彼らには掴めない。
 こんな静かな、小さな言葉を――
 まさひろのようには。








《最終結果 シャットアイズ》


 まさひろ

〈六眼の闘牛〉2/6 真
〈三眼の悪魔〉6/3 真
〈三眼の飛竜〉5/3 真
〈単眼の飛竜〉5/1 真
〈五眼の黒豹〉3/5 真

 リーチ宣言牌:〈六眼の悪魔〉6/6 真
 打点:二十一


  VS



 真嶋慶

〈四眼の黒豹〉3/4 偽
〈四眼の飛竜〉5/4 偽
〈六眼の黒豹〉3/6 真
〈五眼の闘牛〉2/5 偽
〈単眼の悪魔〉6/1 偽

 眼点:二十

       

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